世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

今日は2013年の大晦日!

2013年12月31日 | Weblog

2013年も今日で終わり。長いやら短いやらで感慨深い。明暗長短、いろいろ有ったが大過なく過ごせた。全てに感謝したい。振り返ってみると、私的にも公的にも、いろいろな事があったが、こうしてブログも書ける事自体が幸せであり感謝したい。来年も今年の反省のうえに、より充実した生活を送りたい。年末に当たり反省が主となったが希望の光を力強く灯して来年を迎えたい。さらば2013年よ!さらば、さらば!愛おしかった2013年!充実した1年だった!・・・

年末は暗いニュースで締めくくりがち!

2013年12月30日 | Weblog

今年もあと2日となった。明るいニュースも有ったが暗いニュースの方が例年の様に多かった。どんなに探しても明るい話題やニュースは探しにくい。暗い方が、もう年末の定番となった。しかし、明るいニュースでは東京オリンピック開催が唯一の救いとなった。明るい兆しが感じられた。7年後ではあるが希望の持てる前兆である。それに向かっての取り組みが<希望の光>を齎す。他方、殺人や事件・事故が紙面を埋めテレビ報道でも連日、流された。日本人の特性が廃れた感がした。でも望みはある。「お・も・て・な・し」の心を今こそ、生活の中で実践していく事であり時期(とき)である。きっと日本人の美風が復活する事を信じて取り組んでいきたい。その心構えで来年を迎えたいと思う。

辺野古承認は県民への裏切り!

2013年12月29日 | Weblog

あれ程、<県外>を声高に叫んでいた沖縄県仲井真知事が政府に屈した。情けない結末である。民意は今も変わらず「県外」移設である。にも拘らず辺野古埋め立てを<承認>した。県民はガッカリしている。大の虫には勝てないのか、何時か来た道を又もや辿ろうとしている。真の政治家がこの沖縄には皆無となった。最後の防波堤が脆くも崩れ去った。もう立ち上がる気力さえない。諦観が沖縄中を覆っている。端的に言えばアメとムチの使い分けを巧みにした政府に押し切られた事になる。一縷の望みは来る名護市長選である。現職の稲嶺氏を勝たさなければ沖縄は政府の言いなりになり僕になる。基地の縮小とカネというエサに釣られて埋め立ての「承認」をした仲井真知事は後世に禍根を残した。これまでの実績が皆無となった。・・・



靖国参拝のネックは何処にあるか!

2013年12月28日 | Weblog

知ってか知らずか、金科玉条の如く靖国参拝の理由を滔々と述べている。ウンザリである。・・・“国の為に戦火に散った英霊に哀悼の念を捧げるのは、どの国もやっている事だし当然である”・・・と、この様に集約され一律に述べている。民間人だったら、当然であるが・・・。役職にある総理や閣僚は一国を代表する国の立場にある人である。そういう人が、私費をだして<私人としての参拝である>、と、幾ら弁解・弁明しても他国には通用しない。ましてや中国や韓国は反発するだけである。 私人ではなく<国の意思>と見なすからである。 特に先の大戦での「A級戦犯の合祀」が最大のネックである。そこを別の施設に移設したなら「靖国参拝」に反発はしない。至って単純な事であるが・・・

※付記:・・・
1.「東京裁判」の<是非>は問わない。歴史に、もし、は禁句である。
2.憲法違反である「政教分離」の<是非>も問わない。
4.国の施設、宗教法人、云々も問わない


安倍首相の靖国神社参拝の波紋!

2013年12月27日 | Weblog

私人、公人の別、との認識で、“私人”として参拝した?!・・・妙な論理である・・・内外が認める日本国の総理大臣である。その人が“私人”として参拝した、と公表しても世界の常識からは乖離している。日本の常識は世界の非常識である。長い歴史の上に培われたその国独自の伝統文化や風習、風俗の違いで認識の仕方が違う。・・・周囲海に囲まれた島国「日本」<他国と接触が無い>と他国と接触して絶えず<国境紛争>の絶えない欧米とは、認識の捉え方に大きな違いがある・・・だから容易には理解しない。その事も踏まえての今回の「靖国神社」参拝だったのか、あまりにも一国の総理としては認識不足の軽率な行動である。幾ら整合性を繕っても「言葉の重み」を弁えて行動すべきだった。早速、韓国や中国からは強烈な批判が殺到した。同盟国である米国からも<失望>との声明が出された。正に「四面楚歌」である。安部総理は“話せばわかる”とコメントしているが修復は困難を極める。国内外では参拝の是非に関し賛否両論があるが、賛成派は元々、安倍総理のシンパである。バイアスが掛かった賛成派である。むしろ反対している方々が、日本の現状を端的に認識し代弁している。欧米からは安倍首相の本音がいよいよ現れたか、とみている。つまり保守回帰のナショナリストの再来である、と捉えている。今後を見極めたい。・・・


靖国神社の名称と歴史の変遷!

2013年12月26日 | Weblog

安倍首相が又もや内外に波紋を巻き起こした。靖国神社を参拝したからである。その事の是非は次回に譲るとして、「靖国神社」の変遷を紐解いてみよう。・・・

―「靖国神社」と<千鳥ヶ淵戦没者墓苑>との対比でみる―
■組織・形態
・靖国神社・・・・・・・・・・・・・宗教法人
・千鳥ヶ淵戦没者墓苑・・・国立施設

■宗教
・靖国神社・・・・・・・・・・・・・神道
・千鳥ヶ淵戦没者墓苑・・・無宗教

■慰霊対象
・靖国神社・・・・・・・・・・・・・第2次大戦のA級戦犯を含む軍人、軍属らを合祀
・千鳥ヶ淵戦没者墓苑・・・第2次大戦中に海外で戦没した身元不明者の遺骨
を納める

■祭神・遺骨
・靖国神社・・・・・・・・・・・・・約246万6000柱
・千鳥ヶ淵戦没者墓苑・・・・・・・35万260柱



日本国憲法の断層を俯瞰!(下)

2013年12月25日 | Weblog

●憲法改正の流れ
1.国会や内閣が「憲法改正案」を国会に提案する
2.国会は「衆議院・参議院それぞれで議員数の<3分の2以上>の賛成で
3.国民投票の過半数を得て改正が成立する
◎天皇による「憲法改正」の公布

●9条と自衛隊と合憲派・違憲派
○合憲派・・・
1.9条1項にある「戦争」は“侵略戦争のみを指す”(限定放棄説)
2.9条2項にある「戦力」は“侵略のための戦力を指す
3.よって自衛隊は“戦力とはいえない”従って「合憲」である。

○違憲派・・・
1.9条1項の「戦争」は“自衛戦争も含むすべての戦争を指す”(全面放棄説)
2.9条2項にある「戦力」は“すべての戦力を指す”
3.よって自衛隊は“戦力である”従って「違憲」である。

●個別的自衛権と集団的自衛権
○個別的自衛権・・・自国が攻撃されたときに自衛のために戦う権利。政府見解は、これは日本も持っているので憲法が放棄している「戦争」には含まれない。

○集団的自衛権・・・自国が攻撃を受けているのではないが、同盟(米国)関係にある他国が攻撃を受けた場合、その敵に共同して反撃する権利。具体的には“日米安全保障条約により、日本が他国に攻撃された場合、米国は<集団的自衛権>を行使して、日本と共同して戦う事になる。但し、日本は、第9条との関係で「自衛権の一種としてもってはいるが、行使することはできない」というのが、<政府見解>である。従って同盟国の米国が攻撃されても「日本は米国と共同して戦うことはないし、戦うこともできない」ことになっている。




日本国憲法の断層を俯瞰!(中)

2013年12月24日 | Weblog

日本国憲法の断層を俯瞰!(中)
●天皇主権から国民主権へ
○天皇主権(「天皇ハ国の元首ニシテ・・・」(第4条)
○国民主権(「天皇は、日本国の象徴であり・・・」(第1条)

●基本的人権
○自由権・・・国家からの自由
・精神的自由権
・経済的自由権など
○社会権・・・国家が守る自由
・生存権
・教育を受ける権利
・労働基本権など
○その他の権利
・参政権
・刑事補償請求権
・環境権
・プライバシー権など

●労働三権
○団結権・・・労働者が組合を組織して団結する権利
○団体交渉権・・・労働者が使用者と交渉を行う権利
○争議権・・・労働者がストライキなどの争議を行う権利

●衆議院と参議院の比較
○衆議院・・・
・議員数・・・480人(小選挙区300、比例代表180)
・任期・・・・・4年
・解散・・・・あり
・資格・・・・25歳以上

○参議院・・・
・議員数・・・242人(選挙区146、比例代表96)
・任期・・・・・6年(3年ごとに半数改選)
・解散・・・・・なし
・資格・・・・・30歳以上
※付記:次回に続く




日本国憲法の断層を俯瞰!(上)

2013年12月23日 | Weblog

●日本国憲法の構成
第1章 天皇(第1条~第8条)
第2章 戦争の放棄(第9条)
第3章 国民の権利及び義務(第10条~第40条)
第4章 国会(第41条~第64条)
第5章 内閣(第65条~第75条)
第6章 司法(第76条~第82条)
第7条 財政(第83条~第91条)
第8条 地方自治(第92条~第95条)
第9条 改正(第96条)
第10条 最高法規(第97条~第99条)
第11条 補則(第100条~第103条)

※付記:『「憲法9条」・・・
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』

●3つの基本理念
○国民主権主義(前文、1条)
○人権尊重主義(10条~40条)
○平和主義(前文、9条)

●日本国憲法ができるまで
①1945年8月・・・ポツダム宣言受諾
 ・軍国主義の除去
 ・基本的人権の尊重
 ・戦争犯罪人の処罰
②1945年10月・・・憲法問題調査委員会設置(松本委員会)
③1946年2月・・・・・GHQが独自に草案作成
 ・「マッカーサー草案」を日本政府に提示(2月13日)
④1946年3月・・・・「憲法改正案」発表(3月6日)
⑤1946年10月・・・帝国議会で可決(10月6日)
⑥1946年11月・・「日本国憲法」公布(11月3日)
⑦1947年5月・・・「日本国憲法」施行(5月3日)

※付記:次回に続く




東国原氏辞表の真意は都知事選への布石か!

2013年12月22日 | Weblog

維新の会では目立たない存在。何をしているかも分からない存在。党役職も日の目を見ない存在、等々、エトセトラ。・・・かつての宮崎県知事の頃の人気ぶりは何処へやら!。・・・時々、テレビに出演して売名?!を残すのみか? 今となっては、かつての全盛期の活躍ぶりは微塵も見られない。感度の良さでは抜群の政治感覚の持ち主である。東京都知事猪瀬氏の5000万円の追及で真相が五里霧中になった経過を観て、近々、辞意を表明する事は間違いないと確信した。そこで離党届を提出して受理された。さて、2月の都知事選に立候補するか、否か、自民党の立候補者の顔ぶれも取り沙汰されているが、消費税増税や次期選挙に影響が有るとみて慎重論が浮上している。民主党も人選に動いているが確たる候補者は擁立できないでいる。2月の都知事選に注目したい。・・・

「道徳」の“教科化”に関する意見(5)

2013年12月21日 | Weblog

●「教科化」反対論
いじめの原因は道徳授業がなされていないからではなく、道徳を教科にする前にやるべきことがある。
・教師の仕事軽減
・保護者の経済格差の是正
・学校だけでなく家庭や地域で取り組むべき事など
・評価になじまない
・子どもの心は評価・評定できない
※:道徳を「教科」にするということは当然、評価・評定がついてくる

○修身復活反対
道徳は修身の延長線上にあるもので、“教科化”するということは<修身科>を復活させることになる

○「道徳」は教えられない
・道徳を「教科」にするということは、<道徳を教える>ということになる
・インドクトリネーション(注入主義)につながり危険
・徳目そのものに反対

●「教科化」賛成論
○歴史的必然
戦後、GHQの指令で修身・日本史・地理の授業が停止された。しかし、日本固有の「道徳教育」を復活させたいという動きが底流として存在し、天野貞祐文部大臣が積極的にこれを進めたことに端を発した。昭和25年、教育課程審議会の同意が得られず<道徳の特設>は見送られたが、“道徳教育の手引き書”は全国に配布された。そして昭和33年の学習指導要領から「道徳の特設」が認められ現在に至っている。



「道徳」の“教科化”に関する意見(4)

2013年12月20日 | Weblog

「道徳教育の充実に関する懇談会」(座長、鳥居泰彦)が、正式教科ではない「道徳」を教科に格上げする報告案をまとめた。「特別の教科・道徳」(仮称)数値や段階では成績を付けない。記述式の評価にする。文科省は中央教育審議会の議論を経て2015年度にも“教科化”し、将来的には「検定教科書」も導入する考えだが、“特定の価値観の押しつけになりかねない”との批判も出そうである。報告案では「私立学校は(引き続き、)<宗教教育>を“道徳”として代替可能」とした。これは逆に公立学校において、どのように「道徳教育」を行うかという難題を浮き彫りにしている。私立学校には“建学の理念”となる「宗教」や「創立者の思想」が明確に存在するため、これを「道徳」の教育に替える事は十分、可能である。しかし、公立学校では“宗教”や“創立者”の<理念>といったものは存在しない。その為、「地域のため」とか、「国のため」になってしまわないか、危惧される。又、「いじめ事件」が起きるたびに「道徳教育」の重要性が叫ばれてきた。その対策としては、検定教科書で教え込まれた<善悪の判断>よりも“実体験の積み重ね”こそが“生きて働く”実効指標になるのではなかろうか!・・・



「道徳」の“教科化”に関する意見(3)

2013年12月19日 | Weblog

徳育の“教科化”について
1.「道徳の時間」の課題は何か?
○現在の「道徳の時間」については、熱心に取り組まない教員がいる
○教材が不十分であるとの問題も指摘されている
○「教育基本法」の改正、「学校教育法」の改正案を踏まえ、徳育の充実に取り組むことが課題

2.教科にすることの意義(「道徳の時間」との違い)は何か?
○教科にすることにより、指導内容を体系的、系統的に編成し、全ての学校・教員が、授業時数を確保し、年間を通じて組織的、計画的に指導することができる。また「学習指導要領」に示す指導内容に即した教材を使用して指導を行うこともできる

3.従来の「教科」との違いはあるか?
○従来の教科は、原則として、
・数値による評価を行うこと、
・検定教科書を使用すること、
・中学校以上の担当教員については、教科ごとの、<免許>を設けること、という扱いがなされている

○徳育の“教科化”に当たっては、以下のような取扱いとし、従来の教科とは異なる新しい「教科」とする
・数値による評価は行わない。記述式など他の評価の在り方を検討する
・検定教科書を作成するか、しない場合、「学習指導要領」の指導内容に沿った教材を使用する。(各教育委員会で作成されている<郷土の教材>など)
・中学校においても、小学校同様、徳育の担当教員は設けず、「学級担任」が指導することとする
・中学校については名称を“徳育”ではなく、「人間科」にすることなども検討




「道徳」の“教科化”に関する意見(2)

2013年12月18日 | Weblog

何故、今、再び“教科化”なのか。何をどうやって教えるのか・・・(以下は、質問に対する「文科相」の答弁)

●いじめ問題も背景
 「道徳」の“教科化”について「国が定めた道徳観を押しつける」との批判がある。それはイメージで言っているのだと思う。今の「学習指導要領」では、例として・「法やきまりの意義を理解し、遵守すること」・「公徳心をもってよりよい社会の実現に努めること」とある。これが果たして批判者が言うような国家の特定な価値観を国民に押しつけ、心の内面まで入り込むものかどうか。これは国境、民族、歴史を超えて人が人として知っておくべき規範意識や社会のルールではないか

●なぜ「教科」にする必要があるのか
・いじめ問題が一つの背景にある。道徳の「学習指導要領」に書いてある内容をきちんと学ぶことによって、相手に対する思いやりや、人と人との関係をもっと大切にすることなどを身に着ける。いじめはゼロにならないかもしれないが、少しでもなくしていくことに資するものだということを考える中で、“教科化”することにより、しっかり授業を行ってほしいという思いがある

●国民から支持されると思うか
・教える内容は決して押しつけでなく「この程度ならちゃんと教えてよ」と子供を持つ親なら、みんなそう思ってくれるのではないか。個人的な意見だが、道徳というより「人間学」だと思っている。子供の発達段階と学問レベルによって、例えば、小学生が習うべき「人間学」はルールや規範意識だが、大学生なら“人が人としてどう生きるか”、<哲学的な幸福論>のようなものを学ぶ。そうしたことを突き詰めて考える学問分野として、今後は位置づけるくらい大切なことではないか

●教材はどうするのか
・まず「心のノート」を全面改定し、それを来年4月からすべての小中学校で教材として使えるように準備を始めている。今の「心のノート」も「学習指導要領」にのっとって作られているが、本人が感想を書く<記述式>のものだから教材としては十分ではないと考える




「道徳」の“教科化”に関する意見(1)

2013年12月17日 | Weblog

「道徳」の“教科化”が検討されている(文科省の有識者会議)。小、中学校の道徳の授業を「特別の教科」とする案である。道徳の“教科化”は、これまでも提言されたが途中で頓挫した。「道徳」が<教科>でないため学校や教師によって別の授業に流用される等、問題化したからである。そこで「教科」として明確に位置づけ教師の指導力の向上や教材の工夫に資する事を目指した。ところが戦前の一億総国民が戦争に駆り出され尊い人命を失った事などの反省から日教組などが「道徳」の“教科化”に反対した。それで見送られた。「教科」には(1)点数評価(2)専門の教員免許(3)検定教科書の3つの条件が必要とされる。中央教育審議会や文科省は教科書づくりや点数評価は困難と決めつけ、議論を深めなかった。「国が価値観を押しつける」などの批判を恐れたからである。・・・「道徳教育に関する改善の方針は出尽くし活性化のためには枠組みを変えるしかない」などと見直しを求める意見が多く出た。「特別の教科」とする案は、国語や算数・数学のような「教科」とは別に新設する、と。<評価>について児童生徒の意欲や可能性を引き出すような<記述式>にする案も出た。また指導を学級担任が行うことを原則に大学の教員養成課程の教育の見直しも求めている。―・・・“教科化”で、授業研究や教科書会社がつくる教科書や教材の工夫が進むことが期待される。何よりも教える教師の指導力向上が鍵を握る―・・・ 一方、叱ることができず、ほめることも苦手な親の家庭での教育力低下が心配されるなか、学校が家庭と連携し、道徳教育を充実させる意義は大きい、との意見も出た。「悪いものは悪い」と教え、思いやりや勇気を育む教育は、決して押しつけなどではない、と。ネット空間をさまざまな情報が飛び交う社会の中で、価値判断に迷う場面は増えている。先生が指導力を高め、子供たちと一緒に考える授業は大切である、との意見も出た。