世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

子供の観た史跡名所「宝口樋川」 

2005年12月29日 | Weblog

儀保(ぎぼ=地名)の環状二号線沿いに在る小さな道を左に曲がった処に在ります。樋川(ひがわ)とは、湧き水を集めて樋(とい)から落ちる様にしたものです。宝口樋川(たからぐちひーじゃー)は「あいかた積み」という沖縄独特の積み方で造られ樋の前は石が敷き詰められています。ここは、飲料水や洗濯用水などの為、当蔵(とうのくら=地名)町の住民が造ったものだそうです。昭和51年9月25日に市の史跡に指定されています。 (6年 Y子)

昭和の初め頃に飲み水と洗濯用に分けられたとの事です。宝口というのは、ここの地名から採ったものです。その由来も石碑に刻まれていましたが、去る沖縄戦で無くなったそうです。又、大修理したのは、赤平(あかひら=地名)の人たちだったそうです。 (母 Y子)

 <学習の手引き>・・・この近くに最近(30年程前)、製紙造りを始めた方がおられます。ここと水との関係を聴いてみる事を勧めます。

{参考資料}:1807年に寄付を集めて建設された共同井戸。背後の建造は、ここでしか見られない沖縄独特の「あいかた積み」の石垣で、樋川の前は石畳になっている。6つに分かれた水槽は、飲料用と洗濯用に分かれていたという。現在は全く使用されていないが、かつては干ばつでも枯れることのない豊かな樋川だったのだ。 (出典:那覇市教育委員会)

「付則」:和紙の産地・沖縄県 琉球紙(りゅうきゅうし)那覇市首里儀保町の宝口樋川には良質の水が湧き、琉球王府の紙漉御殿が建てられていた。 王府がなくなったのちも、土佐紙の技術者を招いて、改良式の製紙工場が建てられていたが、 第二次世界大戦の戦火で消滅し、絶えていた。 民芸運動に参加していた出雲の安部榮四郎は琉球紙の再興を願っていたが、 弟子の勝公彦が昭和52年12月に宝口樋川に移住し、 地元の芭蕉や青雁皮などを原料とした琉球紙の復元を試み成功した。 月桃和紙(げっとうわし)月桃はしょうが科の多年性常緑草木。沖縄ではサンニンと呼ばれ古来から痰切り、健胃整腸、 消化不良、吐き気などに効果があるとされ、実を乾燥させたものを煎じて服用されていました。 和紙は、機械漉きと手漉き和紙があります。用途は、壁紙、障子紙、はがき、賞状用紙、しおりなどで紙質は、厚手になっています。 

琉球紙:蕉紙菴・安慶名 清:芭蕉紙