世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

我が親族の想い出(1の4)

2014年09月30日 | Weblog

1.(母)・・・付記:次第に衰え行く「認知症」の母!
昨日も行った。毎週1.2回、訪れている母の居る施設に・・・。丁度、昼飯の時間であった。ここ2,3カ月は眼を閉じて静かに車いすに座った限である。今までは自分の手で食事を摂っていたが最近は施設の介護士の厄介になっている。次第に衰えいく母の容態に、人間の空しさを感じる。健常の頃のあの活発な母の姿は、もうどこにも無い。寂寥がふつふつと胸を打つ。施設を訪れる度に人間の生涯の在り方を考えさせられる。並み居る方々も似たり寄ったりで、とんきょうな声を発する方も居られる。“先生よー、先生よー”とホールいっぱいに喚き叫ぶ方、様々な異形の声を発して人間の集団とは似ても似つかずの様相を呈する。訪れる度に“人間の尊厳”をまじまじと考えさせられる。母は心の中で何を考え思っているのか、考えを巡らす時に遭遇する。・・・もうそういう事にも慣れてきたが、永遠?に、“人間の尊厳”、“人の在り方”を問う連続の日々が続くであろう事を実感する。でも母よ!何時までも長生きして“自分の人生を全うしてください“と祈らずにはいられない。貴女の子の切実な願いである。

我が親族の想い出(1の3)

2014年09月29日 | Weblog
1.(母)・・・わが母の人生行路!(1の3)
母は労働者を賄う炊事の仕事から化粧品売りの仕事に転じた。那覇の平和通りのど真ん中に3㎡くらいの場所を執り(借りて)、ウテナ化粧品(当時は良く売れていた)を売っていた。売れる日と売れない日があり起伏に満ちた商売だった。その時は、私は高校生であった。無類の映画好きで来る日も来る日も映画館浸りだった。どうにか母にせびって映画賃を工面した。売れない日があるにもかかわらず母は笑顔で私の要求に応えた。今から思えば、母の心情に痛く胸が打たれる。親不孝者だったのである。親の苦労知らずの私だったのである。今は3人の子と5人の孫に恵まれている おじー(祖父)であるが、母の苦労と当時の心情を察すると胸が痛くなる。施設に預けている母の見舞いに足蹴く通うが、それでも過去の劣悪な親不幸は償えない、そう思っている。でも、慚愧の念に駆られてはいるが、母が分かろうが分かるまいが、せめてもの、せっせと施設(特養老人施設)に通っている(現在、「認知症」で施設の厄介になっていて私が誰であるか分からないのだが・・・)。親が健在で意識が健全である内に親孝行はしておくべきである。儒教思想(紆余曲折があり幾多の変遷があり宗派が多義にわたるが詳細は割愛する。平たく言って、目上を重んじ、親を大事に尊敬する思想)を持ち出すつもりはないが、古びた古色な思想と揶揄されても、時代を超えて、“親を大事にする事は不変である”、と私は固く信じている。今年98歳になる母であり日増しに衰えていくのが手に取るように分かる。母の人生は?・・・と考えると胸が痛くなる。ありふれた文言だが“何時までも長生きして天寿を全うしてください”、と、今では、そう思い念じている。





我が親族の想い出(1の2)

2014年09月28日 | Weblog

1.(母)・・・わが母の人生行路!(その2)
私は中学1年まで伊平屋島で過ごしたが、母は私を連れて沖縄本島の石川へ移転した。そこでは“飴玉作り”と“ハチャグミ”(沖縄方言・・・小麦に強烈な圧力をかけて膨らまして黒糖で練って小さなボール球くらいにした沖縄お菓子)作りで生計を立てた。毎日、飴玉をむさぼり、ハチャグミを食べて登校した。とても美味かった。友達に飴玉とハチャグミをあげて得意になった日々であった。元気者の母は疲れも知らず毎日お菓子作りに勤しんだものである。50代の頃である。まさか、そういう母が認知症になるとは夢にも思わなかった。石川では数十年、過ごし、私が高校生になるのを見込んで中学3年の2学期には那覇へ転校させた。石川中学に3年の1学期まで在籍した。城岳中学校(私達が3期生で廃校になった)から受験し那覇高校へ合格した。その頃は天下の優秀校で沖縄では第一級の進学校でもあった。那覇高校生というと他高校生が羨ましがった位、羨望の的の高校であった。私たち那覇高校生は意気揚々と闊歩したものである。それから3年生になり大学受験を控え朝夕・夜中まで受験勉強に明け暮れた。そのあおりで、私は肺結核を罹ってしまった。闘病生活2か年。無事、退院し日々の日常に戻った。卒業は2期下の1年生(1年生が3年生になり)と共に卒業した。・・・(それから私の波乱に満ちた人生が始まるが、母の人生行路がメインだから割愛する)・・・那覇では10名くらいを賄う炊事の仕事をして生計を立てた。母の手、一つで私を育ててくれた。今、認知症の母を思うと独りでに涙が出てきてやるせない思いがする。

我が親族の想い出(1の1)

2014年09月27日 | Weblog

1.(母)・・・わが母の人生行路!(その1)
北緯27度、東経127度に位置する沖縄諸島、最北端の島「伊平屋島」に私の母は生を受けた。大正10年12月10日である。伊平屋島の北端、“田名”が母の故郷である。伊平屋島は南北に細長いエンピツ状の山地の多い緑豊かな島である。現在も自然の原風景が見られる山紫水明の島国である。そういう処に生まれた母が羨ましい。・・・さて、現在は「認知症」で施設の世話になっているが、若かりし頃は男勝りの女傑であった。この回想は長男である私が有りのままの母の追憶を辿りながら認めることにする。・・・運動は幼少から得意ではなかったが水泳だけは、上手かったと自慢していた。貧しい農家に生まれた母は、沖縄本島の某所に身売りされた(詳細は省略する)。そこで、ある男(鹿児島県の人)と知り合いになり僕が誕生したことになる。これからが波乱に満ちた母の人生が始まる。・・・

「六諭衍義」は寺小屋の“教科書”になった!

2014年09月26日 | Weblog

「六諭衍義」(りくゆえんぎ<18世紀~>)は寺小屋の“教科書”になった。中国(明の時代)の時の皇帝が民衆に与えた「6つの教え」について書かれた“解説書”である。その“6つの教え”とは?・・・
・1つ目の教え・・・孝順父母(父母に感謝し、親孝行しなさい)
・2つ目の教え・・・尊敬長上(目上の人を尊敬し、礼儀正しくしなさい)
・3つ目の教え・・・和睦郷里(ふるさとを愛し、助け合って生きなさい)
・4つ目の教え・・・教訓子孫(子供に愛情を注ぎ、教え導きなさい)
・5つ目の教え・・・各安生理(自分の境遇を受け入れ、努力しなさい)
・6つ目の教え・・・母作非為(悪い行いをせず、よい行いをしなさい)
という教訓である。程順則(ていじゅんそく)は当時の<琉球国=沖縄>の学者、教育者で“久米村”(くめむら)の出身であった。彼は中国へ渡り研鑽を重ねるうちに、この「六諭衍義」に巡り合い感銘を受けた。是非、自国 琉球国でもこの素晴らしい書を広めたいと思い持ち帰った。そして当時の学校「明倫堂」で中国語の教科書として使用した。この本は薩摩藩(現在の鹿児島県)を通して日本にも知れ渡った。時の将軍 徳川吉宗は、この本が民衆を教育するのに最適だと感じ、漢文で書かれたものを日本語に直して寺小屋の教科書(道徳)にして全国に広めた。・・・
※付記:「程順則」は久米村(現在の那覇市久米)の出身である。久米村は中国から帰化した人々の集落であった。主に通訳、文書作成、船の操縦等々を琉球の高官や人達に教えていた。帰化した人々は「36姓」と呼ばれた。

「秋分の日」に考えた事:高齢者の悲哀・哀歓!

2014年09月25日 | Weblog

一昨日23日は「秋分の日」だった。祖先を敬い偲ぶ日である。昼夜の長さが同じになり、いよいよ冬を迎える。何だか侘しい思いがするし祖先の逝った人達を忍ばずにはおれない。・・・ところが昨日ある酒場で、というよりも行きつけの常連客の仲間がいる件(くだん)の場所でだが私の拙い”ブログ”を観ているとの事。いろいろ批判や批評はあるが感銘する記事もあるとの事。筆者である私にしてみれば読者層が厚いなあ、と思った次第である。だが内心、複雑だった(読者にしてみれば複眼で見つめ批判の眼で凝視するし不特定多数の私心のない公平な批評家なのだから)。現状を省みれば新たに認識させられた、という事か・・・。毎日となると文章も雑になり、いい加減になる。読者にしてみれば批判の眼で起承転結は勿論、内容も、あら捜しに邁進?する。知人・友人となれば、それこそ気心が知れているだけに恰好の餌食の対象となる(言いたい放題の話題の格好の好庫である)。自省の場が憂さ晴らしの酒場ということになる。・・・友とは忌憚のない公平平等の評論家?・批評家?・批判家?なのか・・・。新たに認識し有難く思った次第である。益々書く意欲が湧いてきた。毎日「書く」というモチベーションが堅持できた事が何よりの収穫だった。私のブログは身辺雑記を主とし社会事象、時事問題、政治、経済、教育、学術等に至るまで万遍なく忌憚のない意見・見解を開陳した雑文だと思っている。先達・諸氏の批判を仰ぎながら相互に交流できれば、と願い、毎日せっせと書き綴っている。・・・ところが、この話題とは直接には結びつかないが、”生きがい探し”が高齢者の昨今の定番・話題になっている。しかし、と、立止って考えると、自己をみつめ「他力・自力」で歩む人生だから、そういうスタンスには私は相容れないし組しない。話題が、そういう事に収斂すると何か変だし何処かが狂っているとしか思えない。ボタンの掛け違いをしているとしか思えない(二重の話題になっているが・・・)。 ・・・貴殿は、どう思いますか・・・


「アベノミクス」 から <アベノ“リスク”>へ!

2014年09月24日 | Weblog

近況は6年ぶりの円高から円安へと移行している。一部大企業は静観しているが中小企業は輸入原料の高騰で青色吐息である。特に燃料の値上がりは運送業者を直撃している。家庭の台所でも物価の上昇で節約志向が高まっている。地域経済や農業も例外ではない。オーストラリアや米国の大農家、大農場でのコスト安の農業とは、とても太刀打ちできない。・・・デフレで物が売れない、賃金は横ばい状態で上がらない、市場は活気がない・・・。アベノミクスの負の側面が じわりじわりと忍び寄っている。デフレ脱却から経済再生を掲げたはずの“アベノミクス”がここにきて停滞した。日本経済の危機的状況に追い込まれた“アベノリスク”が頭を擡(もた)げてきたのだ。・・・スタグフレーションの台頭だ・・・。TPP(環太平洋経済連携協定)の危うさを、もろにかぶる農業も直撃されている。東北の被災地も同じで今だ、成果が出ていない。“安倍さん!どうしれくれます?!” 地域や農家の悲鳴が聴こえないのか!、地域創生を掲げ推進する様だが、果たして成果が出るかどうかが今後が問われる。・・・


認知症の母の近況!

2014年09月23日 | Weblog

あと2か年で“100歳”になる。百歳長寿の仲間入り寸前である。あの若かりし頃の面影は今はもう微塵(みじん)もない。目は、つぶったままであるし応答も出来ない。全て上下(かみしも)介助を必要としている。施設(特養老人施設)を訪れる度に「人間の“尊厳”とは?!」と、考えずにはおれない。頭の中で自問自答の繰り返しである。トンキョウな甲高(かんだか)い声で喚き散らす方(かた)も居られる。あゝ!“人間とはどういう存在”なのか、と再三再度、考えずにはおれない。この母にしても同様である。私の非を咎め欠点?を得々と諭(さと)し、お説教するのが日常茶飯事だった(あの頃)・・・。その母が今は自分の子さえ判別がつかず他人と思っているのか、否、その事さえ分かっていないのだが・・・。認知症の“要介護5”だから当然である。でも子としては、あの健常な頃の逞しい母の姿がどうしても忘れられない。寸時でよいから、あの頃と同じように“お説教、叱ってほしい”・・・と、望み果てない見果てぬ夢を求めている。この親の子として、そう願わずにはいられない心境である。施設にお世話になって居られる方達の御家族も同様な気持ちだろう。人間、幾つになっても自分のことは自分で始末できる様にならなければいけなあ、と、つくづくそう思う昨今である。

台風16号:沖縄本島を避け北上!

2014年09月22日 | Weblog

先島諸島は強風・大雨・高波になり注意するよう気象庁は呼びかけている。沖縄本島を避けて中国大陸沿岸に進路を変え朝鮮半島南部から九州北部に接近している。25日夜から26日午前に北海道、東北に接近する見通しである。先島は18メートル、宮古は16メートル、最大瞬間風速は30メートルに達し高波は6メートルの大しけになるもようである。気象台は注意を呼び掛けている。過去の事例に学び先手先手で万全の対策を執るべきである。痛々しい犠牲者が、出ることを避けるべきである。“備えあれば憂いなし”である。・・・

最近 よく見る故郷の夢!

2014年09月21日 | Weblog

忘れかけた幼い頃の夢をよく見る。どうしてなのか分からない。精神分析ではどう説明されるのか、と考えたりする。・・・祝いの座に招待された公民館では、諸先輩たちが上座に多数、陣取って、いろいろと雑談に余念がない。私の事もいろいろと取り沙汰しているみたい。老けているとか、いや、年にしてはまだ若いとか、と、評価を楽しんでいる様である。挨拶や余興が終わり帰り際になると、二次会に誘われる。祝宴が終わって帰ろうと靴を探すと、きまって靴がない。どこを探しても見当たらない。とうとう裸足で帰る羽目になる。そういう事が度々続く。私だけかと知人に尋ねると、どうもそうらしい。ツイテないなあ、と自嘲する。今後は靴の置き場を明確にして、そういう会合には臨もうと自戒した。・・・幼少の頃の記憶だが“内容は大人の場面”である。それも摩訶不思議であるが・・・。幼き日の遠き追憶の彼方からの夢物語である。・・・

ハルペリン氏:辺野古移設見直は可能と言明!

2014年09月20日 | Weblog

1960年代後半に沖縄返還に関する米政府の交渉担当官だったハルペリン氏(元米国安全保障会議スタッフ)が講演で“辺野古移設の見直しは可能だ!”と言明した。即ち、・・・「海兵隊の必要性を問い直すことで県民の望む形での解決策が見つかるはずだ」・・・と指摘した。しかも日本政府の対応に対し「政治的に困難だということを米側にしっかりと説明すべきだ」とも指摘した。
基地問題の解決策として氏の主張は以下の通りである。・・・
1.沖縄が抱える政治問題を日米両政府がきちんと考慮し協議する事
2.海兵隊の「抑止力」の意味を問い直すこと
等を挙げた。「民主主義国の日米両国が真摯に取り組めば両国の国内政治や必要とする安全保障に沿った形で問題は解決できる」と指摘した。
ハルペリン氏が主張する「抑止力」の内実はこうだ。米国内で真摯に議論の対象になっている問題は「防衛費の削減」である。沖縄に滞在する“海兵隊”だってその必要性は綿密に議論されて然るべきである。だのに日本政府は及び腰で米国に沖縄の民意・実情を説明していない、へっぴり腰である。<沖縄に新たに米軍基地(辺野古基地)>を新設する事は困難である、と米国に訴えるべきである。即ち、“何故海兵隊が必要なのか、どんな機能を担っているのか、辺野古以外の場所に移した場合はどの様な機能が担えるか”と丁寧に説明すべきである。“海兵隊の<存在意義>が「抑止力」である”と言うならば、具体的な意味を問う必要がある、<誰が何をする事を抑止するのか>、<同じ抑止力を発揮するために他に何ができるのか>、<基地周辺に影響がない形で海兵隊を置ける別の場所(辺野古以外)が日本国内にあるのかないのか等々を議論すべきである、と。・・・結論として、日米両政府が「“在沖海兵隊”の必要性を問い直すことで望む形の<解決策>が見つかるはずだ」と主張している。一考に値すると私も賛同する。・・・




円安108円の効果に明暗クッキリ!

2014年09月19日 | Weblog

株価が1万6,000円に回復したものの1時108円台から更に110円台まで進むのではないかと懸念される声も聞こえる。そこで円安108円の効果の明暗を検証してみた。・・・
●景気に効果あり
○大企業:上場企業は1.9兆円の利益増
・日本にとって困った水準ではない(経団連会長)
○自動車:業界利益を6,000円億円押し上げ
・自動車業界には基本的にポジュティブ(日本自動車工業会長)
○デフレ脱却:物価上昇率1.3パーセント(7月)
・日本経済にマイナスにはならない(日銀総裁)
●景気に負の効果あり
〇中小企業:非上場企業は1,2兆円の利益減
・今より円高に進む方が心地いい(日商会頭)
〇貿易:貿易収支は26か月連続赤字
・円安がマイナスになる産業が増えている(国際協力銀行総裁)
〇家計:輸入物価が4.5パーセント上昇(8月)
・食品全般の値上げは避けられない(スーパー統括担当者・内閣府の8月の景気ウオッチャー調査)
※付記:円安効果による明暗がクッキリした。今後の成り行きを注視したい。


ブログの楽しさが分かった昨今?!

2014年09月18日 | Weblog

最近、気まぐれにネットサーフィンしていたら思いがけずに素晴らしいブログに出会えた。世の中には傑出した?!奇特な人も居るものだなあ、とつくづく感心した。自分と比べても一枚上のブロガーだ。良いとこを盗むのもブロガーの特権?と自分に言い聞かせて、せっせと真似している。ほんとに“素晴らしい”の一語に尽きる。・・・不特定多数の秀でたブロガー仲間?の存在を再認識した次第である・・・。これからもマイペースで急かず焦らずブログを書き続けようと決意した次第である。・・・

県民総意の沖縄「建白書」上程!

2014年09月17日 | Weblog

“辺野古ノー”を突きつけた沖縄「建白書」。イデオロギーよりアイデンティティーで党派を超えオール沖縄で纏まった。苦渋の歴史を背負い日本民族で在りながら属国扱いされた苦難の歴史が琉球・沖縄の過酷な歴史である。世界に冠たる民主主義国家になっても今だ日米同盟のエサになって相変わらず基地負担を強いられている。もう我慢も限界に達した。これがオール沖縄の県議会、全市町村議会の党派を超えた「建白書」の上程である。どんなに言葉巧みに経済支援というエサで沖縄県民を釣ろうとしても、もう不可能である。我慢も限界に達した。辺野古埋め立て強行ストップ!、日本国憲法9条の死守!、安倍政権の暴走を許すな!、沖縄を再び戦場にするな!、こういうスローガンを掲げ実現していく、これが沖縄県民の総意である。目指すは「平和国家日本!そして“沖縄”である」。米軍基地を無くし<自立発展する沖縄へ!>である。安倍政権と与党自公民は、沖縄県民の意思を最大限に尊重して、民意に沿った政策を実現してもらいたい。これが沖縄県民の総意であり悲願である。・・・

※付記:11月16日の沖縄県知事選の結果が民意になる!


激動の「昭和史」は終焉した?!

2014年09月16日 | Weblog

挙げれば限がないが「昭和史」を飾り彩った人々!“昭和”に足跡を残した人々は逝った。“昭和は遠くなりにけり!”である。寂しい。・・・銀幕を飾り生きる喜びを与えた俳優達は逝った。すでに過去の人となった。私たちに人生とは?人間とは?等々をスクリーンを通して訴え考えさせてくれた。そして勇気を与えてくれた。もう、そういう人達は、この世に居ない。政治家、経済界の重鎮、実業家、学者等々の諸々の人々も「昭和史」に足跡を残して去って逝った。ここに鎮魂の情を込めて感謝の誠を捧げます。“ありがとうございました”。ありふれた言辞しか言えないが同時代に共に生きた者として有り難き幸せを感じます。昨日は「李香蘭」に哀悼の誠を捧げたが「昭和史」を彩り飾って逝った人々にも感謝の念を捧げます。・・・「昭和史」を彩って逝った全ての人々にも“ありがとうございました”と、哀悼の言葉を送ります。ここに謹んでご冥福を祈ります。・・・