フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月15日(土) 曇り

2018-09-16 10:37:54 | Weblog

明け方、気分が悪くて目が覚めた。何だか頭がくらくらして、乗り物酔いをしたときみたいに吐き気がする。一瞬、脳梗塞を疑い、布団の中で手先や足先を動かしてみたがちゃんと動くし感覚もある。天井をみたら、左から右に(いや、右から左だったかな)天井全体が動いている。ようやくこれは目まいだと理解する。目まいは視覚の異常ではなく、三半規管のバランスが崩れたときに現れる症状である。去年の5月に同じような症状を経験している。あのときは起きているときに起こったので、すぐに目まいだと分かったが、今回は寝ているときに起こったので(寝返りを打った拍子に傾頭性の目まいが生じたのだろう)、すぐに目まいとわからなかったのだ。原因はこのところの不規則な生活(度を超した夜更かしからくる寝不足)に身体がイエローカードを突きつけたのだろう。

しばらく目を閉じて、じっとしていたが、なかなか目まい(天井のゆれ)は収まってくれない。困ったな、これだと立ちあがってトイレにもいけない。そのうちウトウトと眠り、目が覚めると9時だった。どうにか目まいは収まった。書斎に行って、今日会う約束をしていた卒業生に断わりの連絡をし、予約していた「パン日和あをや」にもキャンセルの連絡をする。それから明後日から二泊三日で行く予定の青森旅行(一人旅)も大事をとって取りやめることにして、ホテルの予約をキャンセルする。それから再び寝床に戻り、次に起きたのは午後1時だった。いくらでも寝られる気がする。

起きてから2時間ほど経って(私は普段から起きてすぐに食事はとらない)、トースト、ハム&エッグ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食(すでに午後3時だから遅い昼食というべきだろう。池波正太郎なら「第一食」と書くところ)。気分の悪さはまだいくぶん残っているが、空腹だとむしろフラフラしてよろしくない。

今日の『半分、青い』。ボクテとユーコが鈴愛に会いにきた。来週は涼次が登場するらしい。大団円が近づいてきた。ところで、マー君の10歳年上の彼女、明子さんは登場しないのだろうか。登場するとすれば女優は誰だろうか。写真を見たときの律のあの驚きように相応しい女優でなくてはならない。原田知世(50歳)が和子と二役で出てほしいというのが私の希望です。

青森旅行の新幹線の切符の払い戻しついでに散歩に出る。

涼しくなってきてナツの食欲がすごい。私や妻の顔を見るたびに鳴いてエサを要求する。来るべき冬に向けて脂肪を蓄えておこうというのだろう。

お腹がいいときはこうして寝ている。喰っちゃ寝、喰っちゃ寝の生活である。

せっかくなので新しいカメラ(α6000)を首から提げて(ポケットに入れてというわけにはいかない)、試し撮りをしながら歩く。(今日は朝食の写真からα6000で撮っている)

曇ってはいるが、雨が降る気配はない。

 

サイバーショットと違ってα6000(ほか多くのミラーレス一眼)は電子シャッターではなくメカシャッターなので、シャッター音を消すことはできない。私がサイバーショットでシャッター音を消して使っているが、何も隠し撮りをするためではなく、本来無音なのにわざわざ電子音をつけているのがウソっぽくて嫌なのである。メカシャッターの音は物理的な音だから、音だけでなく、音の振動もカメラのボディーを通じて指先に伝わってくる。それがむしろ心地良い。シャカ、シャカ、シャカ、「いま写真を撮っている」という実感がある。

駅前まで来た。

「みどりの窓口」にはけっこう列ができていた。切符を買う人、買った切符を変更する人、私のように払い戻しをする人、同じくらいの割合だ。自販機が空いているので、切符を買ったり、時間の変更の人はそちらでやってくれると混雑が緩和されるのだが、やはり窓口の人間相手の方がよいのだろう。私の前の定期券の払い戻しの人が係の人に声を荒げて文句を言っている。なんでそんなに払戻金が少ないのかと。窓口の人が丁寧に説明しているが、なかなか理解できないらしい。隣の窓口で私が払い戻しをしている間、ずっとそんな調子だった。こういう場合、私はどうしたって優等生的な態度で窓口の人と会話することになる。「手数料が〇〇〇円かかりますがよろしいでしょうか」「はい、もちろんでございます。お手数をおかけいたします」

3万円ちょっとが戻ってきた。これにキャンセルしたホテル代の2万円弱を加えてほぼ5万円。さらに旅行中の飲食代やお土産代を加算すれば、8万円くらいにはなったであろう。新しいカメラが8万5千円であるから、カメラ台がほぼ出たことになる(と旅行を中止した自分をなぐさめる)。

「テラスドルチェ」で一服していこう。

個別のテーブルは満席で、中央の大きなテーブルに座る。でも、私はこの席が結構好きである。テーブルが広いというのはいい。

ここではコーヒーの入ったサイフォンがまず運ばれてくる。

その後、少ししてから、カップが運ばれてきて目の間でサイフォンからコーヒーが注がれる。

店を出て、サンロード商店街を歩く。

 

バーボンストリートへ。

 

クロス通り通って家路を辿る。

帰宅するとナツが神社の狛犬のように玄関先に座っていた。

夕食は焼き魚(タラの粕漬け)、茹でトウモロコシ、牛肉の炊き込みご飯、卵とキャベツの味噌汁。

デザートはプラム。

今日、卒業生のユカさん(論系ゼミ4期生)から結婚式の日取りが決まりましたという連絡を受けた。改めておめでとう。出席させていただきます。

これから出席することになっている卒業生の結婚式はこれで4つになった。もしかしたらこれから私に連絡を取ろうとしている人もいるかもしれないので記しておきます。

 9月29日(土) ケースケ君&ユリさん(3期生同士)

 12月9日(日) ケンゾー君(2期生)

 3月2日(土) メグミさん(5期生)

 6月1日(土) ユカさん(4期生)

1時半、就寝(最近にしては早い)。


9月14日(金) 曇り

2018-09-15 19:28:29 | Weblog

8時、起床。

トースト、ポトフ、牛乳、紅茶の朝食。

今日の『半分、青い』。母と娘の語らいのシーンが今日のメイン。こういうシーンがあると、ほどなくして母が亡くなるというのは、朝ドラにおけるセオリーだが(祖父仙吉しかり、律の母和子しかり)、今回はそれはないだろう。むしろここから部屋の押し入れから出てきたモアイ象から百均ショップの店長を思い出し、「扇風機の風は壁に当てるといいんだよ」という彼の言葉を思い出し、「これだ!」と鈴愛はひらめくのであった。あれが伏線であったとは!

今日のCDはグールドの弾く「パルティータ」3番・4番、「トッカータ」7番(ともにバッハ)。ピアノ(チェンバロ)の音が弦楽器や金管・木管楽器の音と違うのは、後者が「線」であるのに対して、前者が「点」であることだ。点の集合としての旋律。どんなに流麗な演奏であっても、ピアノの演奏は点の連続であって、だからよい演奏というのは米粒の1つ1つが艶々と立っているように炊き上がった飯のようなもので、ベタッとしたところがない。聴いていて気持ちがシャキッとする。自然に背筋が伸びる。もっとも演奏しているときのグールド自身は低い椅子を好み背中が丸くなっていたけれど(たぶんその方が指先の力の微妙な調整がしやすかったのだろう)。

昼食は「phono kafe」に食べに行く。

ご飯セットを注文。二人で来るときは全部の種類を注文するが、一人のときは3品にしぼらなばならない。

大好物の玄米ビーフンの春巻き。

冬瓜の柚子酢(左) ファラフェル(レンズ豆のコロッケ)(右)

デザートはパフェ。

 豆乳で作ったアイスクリームとヨーグルトの上にブルーベリージャムと焼き菓子がのっている。この美味しさにもっと早く気づくべきだったと返す返すも残念である。

パフェの美味しさに魅了されて、「本日の大原さん」を撮るのを忘れてしまった。

夕食はおでん、鶏つくね、サラダ、ご飯。

おでんはコンビニ(セブンイレブン)で買ったもの。妻がクーポン券を使いたかったのである。

デザートはいただきもののあん入り白玉みつ豆。

昨日購入したミラーレス一眼の説明書の読みながら試し撮り。 

ピクチャーエフェクトの中の絵画調HDRで撮ってみた。なるほど。ロートレックのポスター画みたいになる。(普段使いのサイバーショットにもピクチャーエフェクトの機能はついているのだが、スナップ写真を撮るために使っているので、この機能は使ったことがなかった)。

ためにしサイバーショットの方でピクチャーエフェクトの絵画調HDRで撮ってみたらこうなった。あらま、同じ絵画調でもこちらは岸田劉生の油絵みたいだ。これからはポートレイトを撮るとき、「普通に撮りますか、ロートレック風に撮りますか、岸田劉生風に撮りますか?」と聞いてみようかしら(笑)。

明日は屋外で試し撮りをしてみよう。

3時、就寝。 


9月13日(木) 曇りのち雨

2018-09-15 03:04:44 | Weblog

9時、起床。

トースト、ハム&ベーコン、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。 

 今日の『半分、青い』。鈴愛の母晴の手術は終わったが、癌のステージは事前の見立て(早期の癌)より進んでいて、5年生存率は50%だと医師から改めて説明があった。もちろん余命宣告ではないものの、気の重い話ではある。ふ~ん、闘病ものではない朝ドラでこういうことをする理由は何だろう。癌になったことで、晴は鈴愛と律の再婚を自分は望んでいるということを二人に正直に告げることができた。しかし、その場では、二人が共同で会社を立ち上げるというところまでしか話は進まなかった。「仕事」での共同に留まっている。「家庭」での共同、つまり二人の結婚(再婚)まで進めるためには更なるプッシュが必要だ。おそらく「5年」という時間を鈴愛(および律にも)に意識させることによって、二人の結婚を促進しようということではなかろうか。

今日のCDは昨日と同じ(平均律クラヴィーア曲集第一巻)。今日もこれを聴きたい。一週間くらい聞き続けてもいいくらいだ。

 昼食は担担麺風の冷やし中華。

冷やし中華はさっぱりして美味しいが、淡白で、ものたりなさが残ることがある。これならものたりなさを克服できる。

少し陽射しが出てきた。

散歩がてら大井町に買物に出かける。

大井町駅前のみずほ銀行で現金を下ろして財布に補充する。私はあまりカードで買物をしない。ネットで買物をするときはカードで決済するが、店頭で買い物をするときは現金主義だ。銀行でお金を下ろしたときは、残高伝票を印字して、手帳に貼り、自分の懐具合をリアルタイムで認識しておくようにしている。これ、体重の管理と同じである。違うのは、体重はルーズにしていると増えるのに対して、預金はルーズにしていると減ってしまう点である。知らないうちに残額が増えている。なんてことはまずないのである。

買物を終えて、蒲田に戻ってくる。今週末から「カフェ・スリック」は11連休に入るので、今日行って9月のシフォンケーキを食べておこう。

前回来たときにラムレーズンのシフォンケーキを食べたので、今日はさつま芋のシフォンケーキを注文する。紅茶はウバをミルクで。

トッピング(付け合せ)は自家製の大学芋。秋の味わいである。

私が本日最後の客となり、閉店後もしばらくマダムとおしゃべりをした。

次に「カフェ・スリック」を訪問するのは9月の末あるいは10月に入ってからになるだろう。 

JRのガードをくぐって東口から西口へ。

くぐって、あがる、という行動は、異世界に通じる道をいくようなちょっと不思議な感覚がある。

夕食はポトフ、玉子豆腐、カブのお新香、ご飯。

デザートはお土産のシフォンケーキ(ラムレーズンとさつま芋)。

ハーフ&ハーフにして食べる。

今日、大井町でした買い物は2つ。

1つはカメラ。ソニーのミラーレス一眼α6000.「ヤマダ電機」で購入。

一眼レフは大きくて重いので、私は持ち歩く気にはなれない。しかし、ミラーレス一眼は大分コンパクトになった。これならカメラ散歩や旅行に気軽に持って行ける。

いままではカメラ散歩や旅行にはパナソニックのラミックス(DMC-LX100)を二度ほど修理に出しながら長いこと使ってきたが、SDカードへの保存の最中にときどきフリーズするなど、そろそろ買い替え時である。お疲れ様でした。

これからは普段使いのコンパクトカメラはサイバーショット(RX100Ⅲ)、カメラ散歩や旅行にはα6000とソニーコンビでいくことになった。

大井町でのもう1つの買い物は、ほぼ日手帳ウィークスのメガ版(スニーカー/マットブルー)。1800円也。アトレの「ロフト」で購入。

メガ版のウィークリーはメモページ(方眼)が通常版の3倍の213頁もある。スケジュール帳とメモ帳を兼ねているのだ。

1月始まりだが、パスポートサイズの革製のカヴァーを使うと、2年分のウィークスを携帯できるので、年度またぎの問題はこれで解決できる。また、2年分のウィークを携帯することのメリットは、ルーティン的な仕事について、「去年はどういうスケジュールでやっていたかな」ということがすぐに参照できることである。日記だと3年連用とか5年連用とかがあるが、スケジュール帳には2年分で十分だ。革製のカヴァーに入れるので、ウィークス自体はソフトカヴァーでよい。

2年分のウィークを携帯するとなると、鞄の中に入れるしかない。1年分ならば上着の内ポケットに入るが、その場所はすでにスマホの居場所になっている。グーグルカレンダーを使っているので、スケジュールはデジタルと紙の併用で管理していることになる。空いている日や空いている時間の確認だけなら前者で十分だが、内容まで及ぶ確認は後者でないと心もとない。

2時半、就寝。


9月12日(水) 曇り

2018-09-14 13:18:09 | Weblog

9時半、起床。

トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

いただきものの焼き菓子を食べる。

今日の『半分、青い』。病室を訪ねた鈴愛と律に晴は鈴愛のことが心配でならない、鈴愛の行く末が心配でならない、誰かもらってくれないだろうかと、律の顔を見ながら言う。 「これから癌の手術を受ける人間」という立場を思いっきり利用している(笑)。律は、さすがに「安心してください。僕が幸せにしてみせます」とは言わなかったが、「鈴愛と一緒に会社を立ち上げます」と鈴愛に相談もせずに答えた。律はやはり「他人の期待に応える」という生き方が抜けていないな。もっとも「他人の期待に応える」生き方というのは社会的存在としての人間の基本ではある。小さな子供は目の前のことにしか関心がない。将来のことを考えるなんていうのは大人の生き方だ。それが「大きくなったら何になる?」と大人たちから聞かれることで、未来志向の生き方を学習していくのだ。このとき質問にどのように答えたら大人がほめてくれるか、喜んでくれるかを子どもは理解する。そしてそういう方向で生きていくようになるわけだ。初めから自分の中にそういう方向性があったわけではない。大人の要求を取り込んで自分の欲望に変換して生きていくのだ。自分は自分の思い通りに生きていると思っている人はこういうメカニズムに鈍感なだけだ。

机に向かう。今日のCDはグレン・グールドの弾く「平均律クラヴィーア曲集 第一巻」(バッハ)。

最近はLPを聴くことがほとんどないが、学生時代、一番最初に買ったクラシックのLPはグールドの弾く「平均律クラヴィーア曲集 第一巻」だった。それを皮切りにグールドのLPを立て続けに購入したのは、長年に渡って朝日新聞の夕刊に「音楽展望」を書いていた音楽評論家の吉田秀和の影響だった。私の世代にそういう人は少なくないのではないか。

「私は、自分でもまったく想像もつかないほど、長々とグレン・グールドについて書いてきた。私には、自分の書いたことが、読者が彼のバッハを楽しみ、理解するうえに、果たして何かの役にたつかどうか、見当がつかない。私はただ、はじめて彼のレコードをきいた時、バッハの作品のうえに長い間たまってきた塵埃の類を一挙に払いのけて、この作品がはじめて生まれた時のような、率直で新鮮で、しかも尽きることのない生命ーと芸術!―にみちている生きもののようにきこえてきたし、その時感じた驚きと喜びは、不思議なことに、いつ、また、このレコードをとりだしてきいてみても、同じ新鮮さでくり返されるとだけいっておけばよかったのかもしれない。」(吉田秀和「グールド讃」より、『吉田秀和全集』第6巻、172-173頁)。

私はバッハも好きだし、グレン・グールドも好きだが、たぶん吉田秀和が一番好きなのではないかと思う。彼が書いていることをよりよく理解したくて、彼が書いている音楽を聴いてきたのだと思う。

昼から大学へ。今日はオフィスアワーの水曜日だ。

秋の長雨の季節が近づている。ただし、その前に夏に別れを告げ、秋の訪れを感じる「鎌倉日和」の一日がどこかでなくてはならない。その日を見逃すことがあってはならない。

一文の卒業生で「発達障害ライター」の宇樹(そらき)義子さんが研究室にやってきた。彼女と会うのは卒業以来である。社会学専修の学生ではなかったが、大教室で私の講義を受けており、なんどか個人的におしゃべりをしたことある。彼女も私の講義や私とのおしゃべりのことはよく覚えていて、最近、ネットで私の研究室のホームページやブログのことを知り、連絡のメールをくれたのである。アラフォーになった彼女は学生時代よりもいくらかふっくらとし(本人曰く「幸せ太りです」)、学生時代よりも快活に社交的に話す人になっていた。

いまはご主人と九州にお住まいで、今日は夕方からお父様と食事をされる約束があって、その前の時間に研究室に顔を出してくれたのである。最近、発達障害の自立・就労を試験する本③『発達障害の人の「私たちの就活」』(河出書房新社)という雑誌に「このわがままな身体と生きていく」というエッセーを書いていた。郵便で大学の方に送ってくれていたのだが、私はその前にアマゾンで購入して読んでいた。大変に興味深い内容である。

「たかはし」に食事に行く。

私は肉豆腐定食、彼女は卵焼き定食を注文した。お父様との会食は人形町で懐石料理とのことなので、ご飯は軽めにされるようにアドバイスすべきだったが、「ご飯は残します」と言いながら、しっかり完食した。

大好物だが、真夏なら決して注文しなかったであろう肉豆腐定食。こんなところにも秋の訪れを感じる。

食後のお茶は「カフェゴト―」で。私はシナモンミルクティー、彼女はセイロン風ミルクティーを注文。「たかはし」でガッツリ定食を食べた直後なので、スイーツはなし。

 

彼女は高機能自閉症ということだが、そういわれても、「そうなの?」という感じ。たしかに学生時代の彼女にはコミュニケーション下手なところはあったかもしれない。でも、文学部の学生や教員つまり私の周りには、そういう人はめずらしくないので(笑)、とくに何かの「障害」だとは思わなかった。しかし、本人にしてみたら、自分が直面しているあれこれの困難な状況の背後に「発達障害」という原因があると知ったこと(診断を受けたこと)は、ショックである反面、救われた気持ちにもなった。なぜなら「無理をしなくてもいい」と言ってもらえたからである。「障害」とは本人に内在するものではなく、本人と社会との間で生じるものだから、双方向的に調整し合いながら、「生きやすさ」を模索していくべきものである。

*発達障害については、私が生半可な説明をするよりも、この雑誌をお読みいただくのがよいだろう。

彼女が帰ったあと、お土産にいただいたお菓子を研究室で食べる。和三盆を使ったバタークッキーである。

口に入れるとホロリと溶けた。これはまたずいぶんと上質なお菓子である。立て続けに3つ口に運び、「いかん、食べ過ぎてしまう」とあわてて自粛した。

彼女は卒業してから、ときどき私に連絡を取りたいと思っていたそうだ。私の方も、何かのときに「あの学生はその後どうしただろう」と思い出すことがあった。そういうことは珍しいことではないが、実際に連絡が届くのはごくまれなことだろう。この夏は彼女のほかにもそういう連絡をくれた卒業生がいて(ブログには書いていないが)、毎晩、天体観測をしている研究者が遠い宇宙からの微弱な、しかし知的生命体からの電波をキャッチしたときのような気分になった。「あの頃」と「いま」がつながったような気分といってもいい。人生を物語だとすれば、それはそのときそのときの断片的なエピソードの集まりように見えながら、思わぬところで連続しているものなのである。

6時半頃、研究室を出る。

9月になって、研究室に来て仕事をされる人の数も増えているように思う。

 

秋学期の授業開始まであと2週間だ。

夕食は豚肉とキャベツとニンニクの茎のオイスターソース炒め、

蕗の煮物、胡桃とほうれん草の白和え、大根と卵の味噌汁、ご飯。

不意打ちのように投稿原稿の査読の依頼が来る。いま書いている原稿と締め切りがタブっているが、引き受けざるを得ないか。いま書いている原稿の締め切りの2日後を査読の締切にしてもらえるのなら引き受けますと返事する。それでお願いしますとのこと。わかりました。田宮次郎が『クイズ・タイムショック』の冒頭で言っていたように、「人生は時間との闘いです」。

3時、就寝。


9月11日(火) 曇り

2018-09-13 11:58:54 | Weblog

9時、起床。

トースト、ハム&エッグ、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

卵料理を付けるのは1週間振りである。私は朝食はコンチネンタルではなくアメリカンを好むので、卵・肉料理はt付けるべきものなのだが、月1キロ減ペースのスローダイエットを実施中なので、朝の体重との兼ね合いで、しばしば省かれるのである(卵・肉料理にとどまらず、トーストを省くこともある)。4月以来、月1キロペースでやってこれたのだが、8月はそれが達成できず、0.5キロの減量にとどまった。これは夏休みに入って卒業生らとの社交の機会が増えたためである。社交といってもカフェでコーヒーだけ飲んでさようならというわけにはいかない。ランチやスイーツを食べならがらの歓談である。むしろよく太らなかったものだと感心する。太らなかった理由は3つある。第一に、短期速成の無茶なダイエットはリバウンドをしやすいが、スローダイエットは身体が記憶している定常体型そのものをゆっくりと変化させていくためリバウンドが起こりにくいのである。第二に、体重を朝と夜一日二回測り、体重に応じて朝食の構成を変えたり(インプット量の調整)、深夜にウォーキング&ジョギングをしたりして(アウトプット量の調整)、体重のコントロールをしているからである。第三に、閉店に向けてカウントダウンに入った「phono kafe」の低カロリーで健康的な食事をとることが多かったからである。

机に向かう。今日のCDはグレン・グールドの弾く「フーガの技法」(バッハ)。

「フーガ」と聞いて思い出すのは、クラシック曲ではなく、ザ・ピーナッツという女性デュオが歌った「恋のフーガ」(1967年)である。ドゥードゥビドゥヴァ、ドゥドゥドゥビドゥーヴァ、パヤ、パヤ、パヤである(分かる人には分かる)。「フーガ」は「遁走曲」と訳されることがあるが、「恋のフーガ」の出だしは「追いかけて追いかけてすがりつきたいの あの人が逃げてゆく雨の曲がり角」であった(歌詞:なかにし礼)。たしかに「遁走」だ。しかし、曲(作曲:すぎやまこうちち、編曲:宮川泰)はとくにフーガの技法で書かれているわけではない。

 映像は→ こちら

一昨日観た芝居の原作(戯曲)に目を通してみた。かなりの台詞の量である。よくこれだけのものを70分ほどでできたものである。2013年に新国立劇場で大杉漣が主役の病人役をやった「象」は上演時間が2時間以上だったそうだ。別役実は自身の作品の上演にあたって原作に言葉を加えたり、言葉を削ったりすることを認めないから、二つの舞台は同じセリフの量だったはずである。にもかかわらずこの上演時時間の大きな違いは、一方が台詞をゆっくりしゃべり、他方が台詞を早口でしゃべった結果だろうと想像する。クラシックの演奏では同じ曲の演奏時間が指揮者や奏者によってかなり違うというのはよくあるが、演劇ではどうなのだろう。そして台詞を語るスピードの遅い早いがもたらす演劇的効果とはどんなものなのだろう。いずれ考えてみたいテーマである。ちなみに『象』に象は登場しない。別役はどこかで「象というタイトルに特に意味はない」と不条理劇の作家らしい発言をしていたが、普通に考えれば、病人役の男の背中のケロイドが象の皮膚のようだからだろう。そしてあの男の足には鎖がついていた。檻の中の象のように。そして老いた像が象の墓場で死ぬように、彼も自分の死に場所と定めていた「あの街」へ行こうとしていたのだ。

午後2時半を回ったころ、昼食を食べに外に出る。

「そば新」にしよう。

ここで注文するものは最近はたいていこれ、天玉うどんである。コロッケとかチクワ天も試したが、やっぱりかき揚げと玉子の組み合わせが一番だ。

食後のコーヒーを「ルノアール」に飲みに行く。

途中、駅前の「キシフォート」に寄る。

「そば新」で天玉うどんの写真を撮ろうとしてSDカードの残量が少なくなっていることに気付いたので、新しいものを購入。それと乾電池式のスマホの充電器を購入。先日の北海道の地震で停電のためスマホのバッテリーの充電問題がクローズアップされ、乾電池式の充電器を備えておく必要を感じたのである。乾電池が4本付いて880円というのは安いのではなかろうか。

「ルノアール」は私にとっては物思いカフェで本を読んだり、書き物をするときに利用する。「もの思いカフェ」は蒲田ではほかに「テラスドルチェ」と「カフェドコバ」があるが、「ルノアール」には他の2点にないものがある。

フリーWi-Fiである。鞄に入れて来た(軽いので気軽に鞄に入れられる)ノート・パソコンで日曜日のブログ(後半の観劇篇)を書く。

帰りに東急プラザの「くまわざ書店」に寄って、高浜虚子『俳句五十年』(中公文庫)を購入。岸本尚毅(NHKの俳句講座の講師の一人)が「解説」を書いている。 

 時刻は6時を回った。日の暮れが早くなってきて、しかも曇り日なので、空は暗い。

夕食は焼き魚(サバの干物)、がんもどきとほうれん草の煮物、サラダ、味噌汁、ご飯。

デザートは梨。

 深夜、ウォーキング&ジョギング。

3時、就寝。