フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月9日(日) 晴れ 後半(観劇篇)

2018-09-11 22:42:30 | Weblog

(承前)

早稲田ー(東西線)→高田馬場ー(山手線)→池袋ー(西武池袋線)→江古田

江古田には25年くらい前、武蔵大学に非常勤で教えに行っていたときに毎週来ていたが、前回来たのは今回と同じく兎亭という芝居小屋に観劇に来たときだから去年の7月以来である。

駅の南口に出て、文化通りという名前の商店街を行く。「江古田コンパ」という看板は印象に残っている。

この家も印象に残っている。

「ぐすたふ珈琲」の看板(?)が出ている。あの日もこの店に寄って行った。あまり時間はにないが、ちょっとだけ寄っていくことにしよう。

あの日も暑い日で、アイスコーヒーを注文するつもりで入ったのだが、出されたお冷が美味しくて、結局、コーヒーはホット(浅煎りのブレンドコーヒー)にしたのだった。後から気づいたのだが、今日もまったく同じパターンになった。人間(個人)の行動様式というのは変わらないものである。

とー

マスターの茅野さんは私のことを覚えてくれていた。あのとき客は私一人で、カウンター席に座って、彼とあれこれおしゃべりをしたのだった。あのときは開店してまだ日が浅いころで、コーヒー店として定着するかどうかは未知数だったが、最近のネット(食べログなど)の評判はなかなかのようである。「すっかり定着されたようですね。お客さんは地元の方が多いですか」と尋ねると、「地元の方も来てくださいますが、わざわざ電車に乗ってきてくださる方もけっこういらっしゃいます」とのことだった。ほう、それは「phono kafe」と同じパターンである。私のように近所だから行くという客と、マクロビの食事を求めてわざわざ来る客と。両方の客に共通するのは大原さんの人柄に惹かれてという点である。きっと「グスタフ珈琲」もそうなのだろう。「ネットではトーストが美味しいと評判ですね」「はい、おかげさまで。でも、私としてはチョコレートケーキに自信があるのですが(笑い)」「そうですか(笑)。今日は食べている時間がないのですが、三度目に来るときはトーストとチョコレートケーキの両方をいただいてみたいと思います」そんな会話を交わして店を出た。私は言ったことは守ります。

「兎亭」に到着。

レンタルスペース+カフェ「兎亭」はビルの地下1階だ。ビルの名前「エイケツビル」が気になる。パソコンで「エイケツ」を漢字変換すると、「英傑」と「永訣」の2つが出る。どちらもインパクトがあるが、とくに後者は宮沢賢治の「永訣の朝」を連想させる。妹を看取る詩である。「あめゆずとてちてけんじゃ」である。心穏やかではいられない。

時間は4時40分。開演まで20分ほどである。妻はすでに来ている。

今回上演される『象』は劇団獣の仕業のオリジナル脚本ではなく、別役実の作である。初演は1962年だから「東京オリンピックの2年前」という状況は今回の上演と同じである。もちろんそれは偶然の一致だろうが、何かしらの意味はあるように思う。1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言していたが、東京オリンピックはそれを内外に宣伝する格好の場だった。『象』はそうした世間の風潮に異議を申し立てる芝居だった。人々が忘れ去ろうとしている人々、広島の被爆者を主人公にした芝居である。

紀本直美さんの『八月の終電』所収の「八月の終電はみな広島へ」に触発されて、句会で「八月の始発よ雲の彼方まで」を披露したばかりだったから、今日は原爆に縁のある一日だ。

 舞台となるのは広島市の郊外にあるらしい病院。原爆症の患者が多数入院している。原爆症は被爆からしばらくして(何年も、ときには十何年も経ってから)発症するケースがあり、入院患者の見舞客もそこで働いている看護婦も被爆者で、原爆症の発症に怯えながら生きている。たとえば或る入院患者の甥っ子の男性はこう独白する。

 「どうなさいましたか?」とか「お身体が悪いのですか」とか「御不幸があったのですか」とか「大丈夫ですか」とか「お気の毒に」とか「お気をつけなさいましよ」とか〔肩をお貸ししましょうか」とかそんな事は言っていただきたくないのです。放っておいていただきたいのです。そうして、むしろこの世に私が居る、ということなど忘れていただきたいのです。(中略)あいつはこの半透明の気体の向こうから既に的確に私をとらえております。そして私は時々考えますよ。あいつが走り出す日のことを。その日、私が笑えるかどうか、ということをね。(別役実戯曲集『マッチ売りの少女/象』三一書房、203-204頁)

この甥っ子とは対照的に彼に見舞われる叔父は自分が被爆者であることを世間に積極的にアピールして生きてきた。原水禁の集会の壇上に立って、背中のケロイドをみんなに見せたりした。しかし、いまは体が弱って(もうあまり長くないらしい)、この病院で日々を送っている。だが、いつかまた街に戻って、人々の前に立ちたいと、歩行の訓練は欠かさない。男は甥っ子にある女の子のエピソードを語る。

 「そうだ、あるはいつだったかな。一度小さな女の子がお母さんと一緒に来てね、その子が、俺の背中のケロイドをさわってみたいと云ってきかないのさ。そのお母さんは一生懸命やめさせようとするんだが、どうしてもさわると云ってきかないのだよ。ははは、おかしな子だったねえ。俺もうつるものでもないからと思って、さわらせてやったのさ。おそるおそる手を伸ばしてね、一寸さわってすぐひっこめたよ。可愛い子だった・・・。ははは、おかっぱでね。あれはいくつくらいなんだろう。もう一度会ってみたいなあ、あの子にね。お母さんが慌てて引っぱっていってしまったよ。それっきりさ・・・」(209頁)

その男の妻は見舞いに来るときは必ずおにぎりを持参し病室でそれを食べる。男は妻におにぎりの具は何かと聞く。梅干しとかつお節だと妻は答える。お前はどちらが好きかと男が聞く。やっぱりおにぎりはお節ですよと妻が答える。俺はどっちが好きだと思うと男が聞く。あなたもかつお節ですよと妻が答える。うん、当たったよと男が言う。以下、しばらく続くおにぎりを巡る夫婦の会話は全編を通じて唯一なごむ場面だ。

しかし、そういう春の陽だまりのような場面は長くは続かない。あのときの女の子はとうの昔に死んでしまったことを妻が言ったからだ。「ウソだ」と男は否定する。妻は言う「みんなそう言っていましたよ。あの子は死んだよって。死んでしまったんです。あなたもそう云ってたじゃありませんか、最後に水をのみたいって・・・。そう云ってたって・・・。あなたはそう云いましたよ。」「ウソだ、ウソだ。」と男はベッドの下に入り込んでしまう。どうやら男は自分で自分を騙しきれなくなったらしい。男と世界との関係が崩壊を始める。鼻血がとまらなくなる。自分の死期が近いことに気付いた男は、明後日市内に行くといって、妻や甥っ子にリアカーの準備をするように言う。しかし、妻はしばらく国へ帰ると言って男の元を去る。甥っ子は男を引きとめようとしてもみ合いになり、もみ合いの最中に男は絶命してしまう。男の死体がリアカーにのせられる。医者がリヤカーの男に言う、行先は分かっているね、あの街へだ、威勢よくだよ。

 舞台は部屋の中央で、観客は三方の壁際に座る。すべてが最前列だが、座る場所によって正面に見える俳優が異なる。私の席からは入院患者の男を演じる小林龍二(下の写真右)がよく見えた。これだけの量の台詞をよくものにしたものである。そして虚勢を張って生きている中年男のかっこよさと無様さをよく研究したものである。あれで土下座でもしていたら香川照之が乗り移ったかと思ったろう。甥っ子と妻の二役を演じた手塚有希(中央)は背中を見ている時間が多かったが、その張りのある低音は小林のテンションの高い台詞回しとは好対照で、演劇空間の土台をゆるぎないものにしていた。その土台があったから小林は思う存分はしゃぐことができたのである。医者と看護婦の二役と脚色と演出を手がけた立夏(左)については、演技については特筆すべき点はないが(クールであることが一番の役どころだったのだろう)、あれほどよくしゃべる登場人物たちを額縁的(平面的)な舞台ではなく金魚鉢的な(立方体的な)舞台の中に配置することで、もし平面亭な舞台であったら交わっている(対話している)ように見える各人の台詞が、立方体的な舞台では実はぶつかることを回避してモノローグの応酬になっていることを示した点がお手柄であったと思う。饒舌だけれど、孤独な人々。別役実の世界だ。

あえて注文をするならば、一人二役は、それが人手不足解消の方策であるならば、やはりできるだけ避けてほしい。たとえば、妻役を雑賀玲衣(下の写真右)、看護婦役をきえる(左)、というのが考えられる最強の布陣だろう。

次回の獣の仕業の公演は12月。楽しみにしています。

夕食をどこかで食べて帰ろう。

駅の周りは居酒屋やラーメン屋が多い。

少し歩いて見つけたイタリアンの店。井之頭五郎が好みそうな感じの店ではないだろうか。

私はウーロン茶、妻は何かアルコール飲料。

マルガリータ。写真からは分かりにくいが、大きい。半々ではなく、私が6割食べた。

ズッキーニとソーセージ(サルシッチャ)のレモンパスタ。レモンの風味が素敵。 

デザートは私はザッハトルテとコーヒー。

妻はイチジクのタルトと紅茶。

店の名前は「レガロ」。地元の家族連れで賑わっている。こういう店は良い店だ。こんどまた江古田に来るときも「ぐすたふ珈琲」と「レガロ」にしよう。

時刻はまだ7時半。池袋から山手線で田端周りで京浜東北線に乗り換えて帰る。

深夜、ウォーキング&ジョギング。

2時半、就寝。