8時、起床。今日も寒い。トースト、ポテトサラダ、洋梨の生ジャム、紅茶の朝食。
ブログの更新をすませて、11時前に妻と自宅を出る。娘が出演する「ドラマティック・カンパニー・インハイス」の芝居を吉祥寺まで観み行くためである。蒲田-(京浜東北線)→東京―(中央線快速)→吉祥寺は約1時間。電車は駅に着く度に、当然だが、ドアが開く。すると外の冷たい空気が車内に流れ込む。さ、寒い。吉祥寺に着いて駅ビル(アトレ)内の寿司屋で差し入れの寿司を買い、櫂スタジオまでの道の途中のうどん屋「武吉志」で昼食(けんちんうどん)を食べる。妻はごぼう天うどん。讃岐うどんで、汁は濃くない。私も妻もうどんは関西風が好き。うどんを食べて身体が温まった。
劇場の櫂スタジオは吉祥寺の駅から線路沿い(新宿方面)に歩いて10分ほどの五日市街道に面した場所にある。
『遠雷』(脚本・演出:左観哉子、出演:立夏・藤長由佳)
原発事故の後の世界を描いた作品である。一年前の『灰』と同じだ。私たちは原発事故の後の世界を生きている。事故から1年8ヶ月になろうとしている。喉元過ぎれば熱さを忘れ・・・というわけにはいかない。私たちはいまだに存在論的不安の中で、地にしっかりと足をつけることができずに、宙吊り状態のままで、毎日を生きている。どんなに楽しげにふるまっても、心の中に、手なづけることのできない不安をかかえている。私たちは忘れることも、戻ることもできない地点に来てしまっている。ならば、語るしかないであろう、それぞれのやり方で、繰り返し、繰り返し・・・。
しかし、『遠雷』は『灰』の続編ではない。『灰』とは別の登場人物(今回は二人の女、小夜子とアキラ、二人は学校時代からの友人である)が、原発事故の後の世界を語るが、黒い雨が人々を死に至らしめるという設定は同じである。
小夜子の語り。
その日、一羽の鳥が水銀灯にとまり、わたしの方を向いて鳴いていた
雨上がりの薄明かりに
うつくしい水色の羽を持つ、小さな鳥
わたしはその余りの可愛らしさに、おいでと声をかけました
するとその鳥はわたしのほうへ羽ばたこうとした
そしてほんの数回、空を漕いだところで、・・・・
しずかに旋回しながら落ちました
それが世界の終わりの合図であったのだろう。やがて黒い雨は小夜子を蝕んでいく。
小夜子の語り。
痛い
目が
目が痛い
嫌よ
あたし死ぬんだ
体中が腐って死ぬんだ
嫌よ
腐って死ぬなんて嫌
あんたが殺して
殺して!
これと同様の語りは『灰』の中でも出てきた。そのときは、「殺して!」と哀願する女を男が絞め殺すのだった。しかし、今回は、アキラは小夜子を殺さない。アキラの腕の中で息を引き取る前の小夜子の語り。
アキラ
アキラ
大丈夫?
よかった
あんたが大丈夫で良かった
見えるよ
あんたの顔が見える
ほら、・・・・
真っ黒い雨が海を染め始めた
アキラ
ここはもう人が住めんようになる
ずっと何年も
わだつみ様のお祭りもなかったし
きっと神様が
怒ってしまわれたんやね
ここはもう人が住めんようになる
あんた逃げるのよ
あんたの父さんの船で
西へといけるだけ走っていくの
アキラ
小夜子が死んだ後、アキラは父の船に乗る。脱出(エクソダス)だ。そのときのアキラの語り。
父さんの船は雨にまっ黒に染まっていた
わたしは構わず飛び乗り、三度、エンジンロープを引いた
ド、ド、と鈍い音をたてて船は走り出した
西へ西へと舵を取りながら
荒れる波の上を ひとり
雨雲はまるでわたしの罪のように
消えることもない
それでもずっと走っていたら いつ会えるだろうか
小夜子が祈るような
まだ瑞々しい何処かへと
わたしは走った 舵をとる 私の両手から
古いエンジン油のにおいがした
ひとり まっ黒な海を走りながら
私は愛する人たちのおもかげを
眼前に見ていた
ラストのアキラの語り。
月が祈るように
わたしは祈る・・・
ひとつだけ願いが叶うなら
わたしは何を願うのだろう
ひとつだけ取り戻すことができるとしたら
わたしは何を願うだろう
しずかな 暗い 夜の海
わたしは手を伸ばした
ああ、どうか一時でも
夢であったと言ってくれたなら、・・・・
この脱出は希望に満ちてはいない。行く手は暗い。しかし世界の終わりのその先を予感させる。それが明るいものか暗いものかは、わからない。わからないが、語り続けることをアキラは選んだ。アキラの願うべきことは、語りを聴いてくれる他者、語り合うことのできる他者と出会うことだ。それ以外にはない。モノローグではなく、ダイアローグ。それが世界の終わりのその先にある物語の構造だ。
演劇とは何だろうと、考えた。芝居の始まる前、観客にはこれから演じられる芝居の脚本が配布された。少しの時間、私はそれに目を通した。小夜子やアキラの台詞を読んだ。ストーリーをたどるだけなら、芝居を観る必要はない。脚本を読むだけで十分だ。私は頭の中で、小夜子のセリフやアキラの台詞を朗読し、台詞を語るときの小夜子やアキラの表情まで思い浮かべた。そして実際の芝居が始まった。さきほど脚本で読んだのと同じ台詞が役者の口から発せられる。脚本という平面的なものが、役者の声や身体を通して、立体化していく過程を私はつぶさに鑑賞することができた。二人の役者は台詞を発するとき、足踏みをするように身体をしずかに上下させる。それを最後までずっと続けた。それによって、原発事故後の世界の不安定な(地面に足がしっかりと着いていない)状況を見事に表していた。まるで二人は暗い海の波間に漂っているように見えた。私が考えもつかなかったような演出だ。脚本が役者の身体を通して実現(立体化)されていく過程、その過程に立ち会うこと、それが演劇だと思った。
芝居が終わり、熱演した二人の役者と話をした。「アキラはあの後、どうなるのだろう?」と私はアキラを演じた役者に聞いてみた。「工場で働くとか」と言って、彼女は笑った。 逞しいんだな、と私は思った。
吉祥寺の駅の方へ戻り、カフェでケーキとコーヒーで一服してから帰る。吉祥寺の街は人が多かった。いつもこんななのだろうか。私はめったに来ない街だが、妻は昔、この街にある女子大の学生だった。しかし、街の風景も大分変わったそうだ。それはそうだろう、もう30年も前の話である。そして明日は私たちの29回目の結婚記念日だ。