フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月4日(火) 曇り

2012-12-05 00:41:12 | Weblog

  10時、起床。寝過ごしてしまった。前夜、3時半頃まで仕事をしていたせいだが、そういうのはよくあることで、それでも9時前には自然に目が覚めるのだが、今日は寝過ごしてしまった。蒲団が暖かだったせいかもしれない。

  10時半には家を出なくてはならないので、今日は朝食抜きである。そのため2日連続で朝食の写真がブログに載らない。

  私がブログに朝食の写真を載せるのにはいくつかの意味ある。第一に、「朝食の写真を必ず載せる」と決めることでブログの書き出しのハードルが下がる。「〇月〇日 晴れ」とその日の天気を最初に書くのと同じようなもので、書き出しを定式化することで、「何を書こうか」ととりあえず考えずにブログを書き始めることができる。第二に、朝の食卓は日常的な風景である。私のブログは特定のテーマを定めて書いていない。あえていえば、ありふれた日常そのものがテーマなのである。ありふれた日常だからといって、書くにあたいしないということはなくて、書くにあたいしないようなことの中に書くにあたいすることを見つけること、実際に見つかるかどうかはわからないけれど、見つけようとする気持ちが大切なのではないかと思うのである。なぜなら人生というのは、大部分、ありふれた日常の積み重ねだからだ。第三に、私はシンプルな生活をよしとするものだが、シンプルな朝食はその象徴である。旅館の朝食は楽しいが、それはごくたまに経験するからよいのであって、毎朝、あのような食事をしたいとは思わない。キリスト教徒が食卓で祈るように、朝食を写真に撮りながら、「今日もシンプルな一日でありますように」と私は祈るのである。

  11時半に研究室に着き、面会の予定をすませてから、コンビニで購入したおにぎり2個(鮭と昆布)の昼食。

  3限は選択基礎演習。電車の乗客がどういうタイミングで降りる準備を始めるか、そのタイミングの遅い早いを左右する要因は何か、をテーマにした研究発表。

  4限は演習「ケーススタディの方法」。昨日、『木更津キャッツアイ』のDVDを観たが、最終回までは見られなかったので、教室で最終回の一番の見せ場(ぶっさんの死)が見られたのはよかった。『木更津キャッツアイ』は、木更津という首都圏の周辺にある街が舞台になっている。昔からの漁師町であるが、東京や千葉のベットタウン的な要素もある。田園都市線沿線の丘陵地を開拓して作った新興住宅街とは違って、新旧の要素が入りまじった、混合的な郊外である。その街で、高校時代の野球部の仲間たちが繰り広げる、「テンションの高いだらだらとした日常」が描かれている。それは「終わりなき日常」ではなく、ぶっさんの余命を意識することで、「終わりある日常」=「かけがえのない日常」として描かれている。

  授業を終え、雑用を片付けて、5時に研究室を出る。普段なら6時頃まで居残るのだが、今日は寒いし、空も暗いので、さっさと帰ることにした。「まやんち」のラストオーダーの時間(6時)に間に合うかもしれないとチラリと考えたが、電車の中でウトウトして、蒲田を乗り過ごし、川崎まで行ってしまったため、「まやんち」に寄り道することはできなかった。「まやんち」は日曜と月曜が定休日なため、私は土曜日に行くことが多いのだが、土曜日はたぶん「まやんち」が一番混んでいる日である。ラストーダーがあと1時間遅ければ、大学からの帰りに立ち寄れるのだが、それはスタッフのみなさんが(全員ではないが)主婦であるため、難しい。かろうじて可能性があるのは、授業が4限で終わる(4時15分)火曜日と木曜日であるが、授業が終わっても、あれこれの雑用があるため、なかなか5時には出られない。「maruharu」なら早仕舞の日でも7時頃までやっているが、職場と隣接しているから、帰りに立ち寄るという感覚のカフェではない。仕事の合間に一服する場所である。神楽坂の「トンボロ」は6時までだが、大学からは近いので、5時に出ればゆっくりコーヒーを飲む時間はある。でも、木曜日が定休日で、大学からの帰りに立ち寄れるのは火曜日だけ。今日、寄ればよかったかな。


一年中で一番日の暮れるのが早い季節になった

  翌日に授業のない火曜日の夜は、ちょっとのんびりできる。週末の気分に似ている。土曜日が大きな週末で、火曜日が小さな週末だ。大小の週末のリズムで私の一週間は構成されている。いま、午前0時40分。寝るには少し早い。何か本でも読もうかと思う。