オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

→練られた品性→

2016-08-28 08:52:19 | 礼拝説教
2016年8月28日(日)伝道礼拝(ローマ5:3-5)岡田邦夫

 「患難さえ喜んでいます。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。」(ローマ5:3-5)

 この夏はリオデジャネイロ・オリンピックで、全力で競い合う選手の姿は見る者を興奮させました。金、銀、銅とは別にIOCから2人の選手に貴重な賞が贈られました。陸上女子5000メートル予選の時でした。ニュージーランドのニッキ・ハンブリン選手とアメリカのアビー・ダゴスティーノ選手がレース中盤で接触して、ともに転倒しました。すぐに立ち上がれなかったハンブリン選手をダゴスティーノ選手が助けて、2人とも再び走り始めましたが、足首を痛めたダゴスティーノ選手のスピードが落ちると、今度はハンブリン選手が手を差し伸べて励まし、2人は最後まで走りきりました。IOCは2人にフェアプレー賞を贈り、互いに相手を思いやったスポーツマンシップをたたえました。ハンブリン選手は「私が起き上がるのを助けてくれた彼女に感謝しているし、誰だってお返しはすると思います。トラックに立つと、お互いに理解し合えるのではないかと思います」とコメントしています。
 しのぎを削る戦いの場で、人としての麗しい光景が見られました。そのようなことは急にできるわけではなく、日ごろ積み重ねられてきた品性がそうさせたのだと私は思います。品性といえば、聖書には「練られた品性」という言葉がでてきます。それを非常に大切にしている医師がいるのです。

◇希望を生み出す「知」
その医師は病理学が専門ですが、がん患者とその家族の心労に対応できていない現状を憂え、その人たちと向き合い、面談を行うという「がん哲学外来」を無料で始めました。カルテもパソコンもなく、傾聴に終わらず、対話していく中で、言葉の処方箋を差し上げるというものです。しかし、それが悩む彼らに大きな助けになっているのです。逆境を乗り越える言葉には、「がんになることはきめられないが、がんになったあとのことはきめられる」「逆境のときこそ、品性が磨かれる」「本当の希望は、苦しみにあった人にしか生まれない」「小さな苦しみは愚痴を生む。大きな苦しみは知恵を生む。この知恵が希望のエネルギーになる」などがあります(樋野興夫“「今日」という日の花を摘む”より)。
 その著書にはこんな話も載せられています。“外見も知性も、生活水準も完璧な女性がいました。ただし、重い障害のある息子さんがいたのです。同じ施設に子どもを預けている母親が、「あなたは、お子さんに障害がなかったら、完璧な人生なのに」と思わず口走ってしまいました。するとその女性は、「いいえ。この子がいるから、私の人生は完璧になりました」と穏やかに答えたそうです。これを品性といいます。…その苦しみを経て品性が磨かれ、子どもとともにあることに希望を見出したのでしょう。”
 それらは聖書の「患難さえ喜んでいます。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません」から汲出された言葉です(ローマ5:3-5)。
 神を信じることで、神との平和をいただき、自分の人生を俯瞰(ふかん)的に見ることが出来、患難、忍耐、練られた品性、希望という生産的なつながり、経過を予測したり、経験したりして、知ることが出来るのです。それが生きた知恵ですから、「知っているからです」とはっきり言えるのです。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」。

◇希望を生み出す「愛」
 オリンピックで活躍した人のインタビューで、支援してくれた人たちがいて、できたのだというのが大抵の人のコメントでした。特に大逆転を演じた人たちがそうでした。人生における戦い、患難との戦いにおいて、前述のように知恵がいりますが、支えられているという意識がどれほど大切かを知らされます。「…この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(5:5)。その支えが人の支え以上に、神の支えなのです。見えませんが確かなのです。下のほうから神のみ手が支えてくれ、下のほうから神の愛が注がれているのです。鉢植えのシクラメンは上から水をかけるのではなく、下の受け皿から水を染み込ませていきます。そのように優しく神の愛は浸透してくるのです。

 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(5:6-10)。
 私たちは、神の前には不敬虔な者、罪びと、神の敵。そのような者のところに御子が降ってきてくださり、十字架で身代わりに死んでくださり、その不敬虔な罪びとの罪を赦してくださり、さらに、敵対関係を解消し、和解してくださいました。それは信じる者に与えられる最高の栄誉です。さらに神の怒り、すなわち、終わりの日における究極の大患難、それから逃れさせていただき、神との絶対平和という救いに与れるのです。神は私たちを極限にまで愛するゆえに、その究極の希望を与えてくださっているのです。
 神の愛は、十字架にかかり、死んで葬ら、黄泉に降られた、その下のほうから、苦難の中にある者たちにひたひたとしみ渡ってくるのです。以前、大変辛い経験をされた方から、あるテープをお借りしました。難病の進行性筋萎縮症になられた難波紘一さんの講演でした。歩けなくなることから始まり、あらゆる筋肉が萎縮し、最後は内臓が動かなくなっていくという難病。動かなくなっていくのは恐怖ですが、さらに辛いのは褥瘡(じょくそう=とこずれ)です。なりやすて治らない、肉が腐っていくこと大なのです。夜中でも15分おきの寝返りをさせてもらう必要があります。もっと辛いのは何で自分だけがこんな患難に合うのか、神はどうして、まじめな信仰者を試練に合わせるのかという、精神的、霊的苦悩です。現代のヨブだと彼は嘆きました。
 夫婦で様々な聖会、講演会に出ました。そして、遂に十字架のキリストに出会います。信仰による知恵、聖霊による神の愛をリアルにいただく経験をしました。このときのみ言葉は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:28-29)。そのみ言葉どおり、魂の安らぎが来ました。といって体が楽になったわけではないのですが、患難、忍耐、練られた品性、希望を知り、神の愛に浸る秘訣を得たのです。
 彼の手記の中で、このような励ましのくだりがあります。夜中も妻に15分おきに寝返りをしてもらいますが、明るい日差しが差し込んでくると、創造の神を思い、今日も一日ガンバって生きていくぞという思いが高まります。しかし、動ないからだですから、服を着るだけでも全力を振り絞らなけばなりません。それだけで疲れ切ってしまいます。ついどうしてこのような難病にしたのかと神に苦情を言ってしまう。そんなとき、神がおっしゃるのです。「難病の者に選んだのはこうだ。鉱脈から、普通の人はせいぜい銅や銀を掘り出しているが、お前にはどうしても、金やダイヤモンドを掘り出してほしいのだ」。そのようなお声を聴くので、聖書の行間を読み、愛と恵みに満ちた、隠された神の国の宝を探すのです。
 あなたは患難の中にありますか。神の愛の中で品性を磨いていこうではありませんか。望みはありますか。患難、忍耐、練られた品性の過程を進んで行き、神からいただく、金、銀、銅のメダルにまさるフェアプレー賞ならぬ、フェイス(信仰)プレー賞に望みをおいてまいりましょう。



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