オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

後継者となったエリシャ

2016-08-21 19:11:10 | 礼拝説教
2016年8月21日(日)主日礼拝(2列王記6:15-23)岡田邦夫

 「すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。』と言った。」2列王記6:16

 今日は預言者エリシャの話ですが、一回でメッセージをしたいと思っていますので、故人ではありますので、葬儀説教のようにすることを考えました。それで、まずは故人略歴ですが、「バイブルガイド・目で見てわかる聖書」に記されているものを述べましょう。
 エリシャ(「神は救い」の意味)は裕福な家の出身、神の召しに答えて、すべてをなげ打って従った(1列王19:19-21)。エリシャの生涯における重大な出来事は…
 ○エリヤの後継者になる(2列王2:13-18)。○水を浄化した(2:19-22)。○未亡人に食料を提供した(4:1-7)。死んだ子どもよみがえらせた(4:8-37)。○毒の入った料理から毒を消し、100人の人に食料を提供した(4:38-44)。○思い皮膚病のシリヤの将軍ナアマンを癒した(5:1-27)。○なくなった斧を取り戻した(6:1-7)。○アラムによるサマリヤ包囲が終わるのを預言した(6:8-7:20)。○ハザエルをアラムの王にし(8:7-15)、預言者の一人をエフーのもとに遣わして油を注いで王に任命させた(9:1-13)。エリヤに託された任務を果たした(19:15-16)。

◇見えないものを見せる
 エリシャは預言者として、師のエリヤの跡を継いで、数々の神の御業を人々に表してきました。働きぶりからいうとエリヤにおとらなかったように私は思います。そのように数々ある預言活動の中で、最も預言者エリシャらしい出来事を取り上げて、メッセージとしたいと思っています。
 アラムとイスラエルと戦っている時でした。アラムの王が作戦を立て、イスラエルに向かおうとすると、なぜか、その情報がイスラエルの王に筒抜け、予防線を張られていたのです。このようなことは一度や二度ではなかったので、アラムの王はスパイがいるのではないかと怒るのですが、家来のひとりがこう言います。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです」(6:12)。エリシャに透視の超能力があったとかいうのではなく、神のみ旨、み言葉を聴く賜物が与えられていたからです。この時も神の民を守るために、何度もエリシャに霊の目で見させたのだと思います。
 そこでアラムの王はエリシャを捕まえてしまえば、勝てると思い、馬と戦車と大軍とをエリシャのいるドタンに送り、町を夜のうちに包囲しました。召使が、早朝、外に出ると包囲されているのを見て言います。「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」。ヨシュアは落ち着いて、こう言い切ります。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(6:18)。この言葉は残された私たちがピンチに立たされた時に励まされる言葉です。神の声として聴く時に救いの出来事が起こってきます。エリシャはいい言葉を残してくれました。この後の出来事も不思議というか、面白いというか、神のユーモアが見受けられます(6:17-23)。
 「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」の言葉が真実であることをエリシャは若者に実際見せます。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と主に祈ると若者の目が開かれ、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えたのです。
 今度はアラムの軍勢をあしらいます。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」と主に祈ると、そのとおり彼らを盲目にされます。エリシャは彼らに「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」と言って、何とサマリヤまで連れて行ったのです。そこで「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」と祈ると、彼らの目が開かれ、なんと、サマリヤの真中に来ていたことに驚きます。
 これはチャンスとイスラエルの王はエリシャに「私が打ちましょうか。」というのですが、エリシャは否定します。打ってはならない。パンと水をあてがい、飲み食いさせて、主君のもとに行かせるようにと。盛大なもてなしをして、主君のもとに帰したのです。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかったのです。神はエリシャという器を通して、実に見えないものを見させ、平和的解決をさせたのです。
 エリシャは私たちに見えないものを見させてくれた預言者、神の人であったと思います。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」とあります(2コリント4:18口語訳)。後代の私たちも見えないものに目を注いで、彼の信仰の跡をたどっていきたいと思います。

◇見えないものを見る
 エリシャの先生はエリヤでした。エリヤが召されるという時に、執拗に食い下がって、二つの分け前をください、後継者にしてくださいと願いました。それこそが、エリシャの生涯を決定づける瞬間でした。エリヤは問います。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない」(2:10)。火の戦車と馬が現れ、竜巻にのって、エリヤが天に昇っていくのをエリシャは見えたのです。見えないものが信仰によって見えたのです。そうして後継者として、バアルの偶像信仰を締め出し、その元凶のアハブ王一族を打倒して、神の民イスラエルを救うという使命を引き継ぎ、成し遂げたのです(19:15-16)。
 エリシャは神への信仰と使命を継承していくモデルでした。継承といえば、モーセからヨシュアへの継承もそうです。神の民をエジプトから脱出させ、荒野の旅をへて、約束の地カナンの前まできて、モーセは天に召されていきます。後継者ヨシュアが残されたカナン入国の使命を果たしました。モーセとヨシュア、エリヤとエリシャ、それぞれ二代にわたって神の民救済の使命を果たしました。救済史における同じ形、類型です。
 救済史における同じ形、類型はもう一つあります。イエスと使徒たちです。イエス・キリストは十字架にかかり、復活されて、人類の救いの御業は完結します。一度限りで完全です。しかし、宣教ということ、救いの歴史からいうと後継者が担っていくよう、イエス・キリストはことを運ばれました。「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白してこそ、使徒として認められました。また、復活されたキリストを見た(に出会った)者こそ、使徒として認められました。エリシャが見えないはずのエリヤの召天を見たのと類似しています。聖霊が天から下ったとき、それを受けた弟子たちが使徒として認められました。エリシャが二つの分(霊)を受けたのと類似しています。霊の継承です。そうして、使徒たちは十字架と復活の福音を世界に向かって宣べ伝える使命を果たしていったのです。今日の私たちはその信仰と使命を引き継いでいるのです。
 継承者として、私たちは「イエスは主である」と生きた信仰の告白をし、聖霊の豊かな賜物をいただき、見えないものを見ていきましょう。エリシャのように…。もう一度言います。「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(2コリント4:18口語訳)。そうすると、エリシャの残した遺言のような言葉が解ってくるのではないでしょうか。
 「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(6:12)。

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