オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

ナアマンのいやしを体得せよ

2016-09-04 09:00:26 | 礼拝説教
2016年9月4日(日)主日礼拝(2列王5:8-14)岡田邦夫

「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」2列王5:10

 私のことですが、戦時中、東京の空襲を避けて、福島に疎開していた時のこと、母が私をおぶって橋を渡っていたら、何かにつまずいて、前のめりに倒れました。頭にさしていたピンで私の鼻が縦に切れて出血、母は新聞紙を切ってそこにペタッはっつけただけでした。薬がなかったからです。その傷跡は30年以上たって完全に消えました。そんな時代ですから、体中できものが出来てひどい状態にもなりました。終戦となったので、わが家は海水浴に行きました。海水につかったら、次の日からぐんぐんよくなって、すっかりきれいな肌になっていました。そんな思い出があるので、ナアマン将軍がヨルダン川の水につかって、重い皮膚病が癒されたという奇跡は、決してウソではないと私は思うのです。

◇「…ない」
 今日は、ないないづくしで、この話を進めてみましょう。北の隣国アラムとはこの時、平和条約を結んでいたらしいです。アラムの将軍が重い皮膚病(ツァラアト)に冒されていたので、イスラエルから連れてこられた召使の娘が、サマリヤの預言者なら直してくれるでしょうと進言。将軍は主君の許可を得、王の依頼の手紙をもって、イスラエル王に謁見。王は言いがかりかと誤解しますが、エリシャは安心させます。「彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」(5:8)。☆預言者は異邦人だからといって、区別はするが「差別はしない」。
 ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立つ。エリシャは使いに伝言。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」(5:10)。なんだ、それは、手をおいて祈ってくれないのか、川なら故郷にもあると怒って帰ろうとする。一緒に来た僕が引き止める。「もしも、むずかしいことを命じたとしたら、きっとなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか」。☆この癒しは「難しいことではない」ということです。
 ナアマンは神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に身を浸したのです。しかも七度でした。☆神(神の人)の「言ったとおりに信じて、するしかない」のです。すると言ったとおり、信じたとおり、「彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです(5:14)。癒しの奇跡です。
 エリシャのところに引き返し、持ってきた贈り物(銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着)を渡そうとすると、それは絶対受け取らないと言い張ります。☆「ご利益ではない」ということです。純粋にイスラエルに預言者がいることを知らせるためでした。弟子のゲハジは欲にかられます。ナアマンを追い、預言者の仲間が来るのでその仲間にあげたいと言って、贈り物をもらい、自分の家にしまい込んでしまう。エリシャに知れて、ゲハジは重い皮膚病になるという罰を受けてしまいます。☆大事なのは「心が欲で汚れてない」ことです。
 ナアマンは癒された後、信仰告白をしています(5:15、17)。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました」。「しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから」。ただし、主君がリモンの神殿礼拝のとき、私の腕に寄りかかるため、私は身をかがめますが、主がこのことをお許しくださいますようにと正直に言いますと、エリシャは「安心して行きなさい。」と彼に告げるのでした。☆彼がたどり着いたのは「イスラエルの神のほか、神はいない。ただ主にのみささげます。他の神々には仕えない」という信仰告白でした。

◇「…ある」
 今度はあるあるで綴ります。こうして、ナアマン将軍の癒しの奇跡を見ていきますと、聖書における癒しとは何かがよくわかってきます。「差別はない…難しいことではない…信じてするしかない…ご利益ではない…この神のほか神はいない」と。私にはこれと似た光景も浮かび上がってきます。
 ☆イエスの奇跡によく似たものがあります。「行って、シロアムの池で洗いなさい」という同じフレーズがある。私にはそう響いてきます。生まれつきの盲人がいて、弟子がこの不幸は本人のせいか、親のせいかと問いますと、イエスはそのどちらでもない、神の御業の現れるためだと告げます。差別はないと光をあてます。地面につばきをし、泥を作り、盲人の目に塗って言った言葉が「行って、シロアム(訳していえば、遣わされた者)の池で洗いなさい」でした(ヨハネ9:7)。難しいことではない、信じてするしかないのです。「そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った」のです。神の御業が現れたのです。
 近所の人に聞かれても、当人は名前だけは聞いたが、どこにいるかわからないとしか言い様がありません。これが安息日だったので、パリサイ人が聞きつけ、この癒しは不法行為だとし、癒された当人と両親を尋問。「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはず」と証言します(ヨハネ9:33)。そのため、追い出されてしまいますが、そこにイエスが会いに来られたので「主よ、私は信じます」と面前で信仰告白をしました(9:39)。魂の目も開かれたのです。主の奇跡の目的はそこにあったのです。

 ☆「あなたのからだが元のようになってきよくなります」と同じフレーズがエレミヤ書にある。「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。わたしはユダとイスラエルの繁栄を元どおりにし、初めのように彼らを建て直す。わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ…」(33:6-8)。これから、ユダの民はバビロンに捕らえられていくけれど、約70年後には神が民を帰し、痛んだ町と民を元通りに癒しきよめるという回復の預言です。そして、もっと先の終わりの日のことをも重ねて預言しているのです。元どおりにし、きよめると。
 ある時、教会員が心筋梗塞で倒れ入院。教会あげて、皆で祈りました。牧師にこのエレミヤの言葉、「わたしは健康といやしとをもたらして…もとのようにする」(口語訳)とのみ言葉が与えられました。医師団は脳死と判定していたのですが、一週間後、意識を回復し、やがて元の元気な体になり、仕事にも復帰したのです。その時、私はこの奇跡は「大いなる学習」だと知らされたのです。すでに救い主がすべての病を負い、癒しの御業をなしとげられたのですが、神の大御心は罪によって傷つき、病んでしまっている全人類を最終的に完全にきよめ、癒し、元のように神のかたちを回復し、神と人が共にいるというエデンの園を回復することです。それが私たちの経験で、祈って、治らない病が奇跡的に癒されたとか、あるいは、奇跡とは感じられないが病が癒えたとか、あるいは、病は治らなかったけれど、心に言いしれない平安を得たとか、心がふさいでいたけれど、祈ったら、魂が慰められ、元気になったとか、多種多様の癒しの経験は、神の大御心を知っていく「大いなる学習」なのだと思います。その経験は望遠鏡のようなものです。癒しの経験の望遠鏡から、神の大御心・人類の窮境の癒しを覗き見るのです。

 ☆読みかえもある。「イエスの血潮の川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」。「私は今、イエス・キリストのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました」。イエス・キリストは私に言った。「安心して行きなさい」。


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