オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

立ち直っていくペテロ

2011-04-03 00:00:00 | 礼拝説教
2011年4月3日 主日礼拝(ルカ22:24-34、54-62)岡田邦夫

 「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ福音書22:32

 東日本大震災復興支援チャリティーマッチ・日本代表-Jリーグ選抜が3月29日にあり、試合の勝敗よりも、三浦選手の決めたゴールシーンが観客や視聴者に大きな感動を与えました。そして、試合前の日本経済新聞コラム「生きるための明るさを 三浦知良・サッカー人として」はまた、感動の文章でした。被災されている人たちには水や食料や医療などで、サッカーどころではないもしれないが、被災地で必死に生きている方々に勇気をいただくためにするのである。そして、「悲しみに打ちのめされるたびに、乗り越えてきたのが僕たち人間の歴史のはずだ。とても明るく生きていける状況じゃない。でも、何か明るい材料がなければ生きていけない。…みなさんに負けぬよう、全力で、必死に、真剣にプレーすることを誓う」。同胞として、あるいは神に造られた人間として、指標を示す言葉だ私は思います。
 日本ホーリネス教団年会での聖別派遣式で、教団委員長はキリスト者として、この震災とどう向き合うかをメッセージされました。これからどうなるか分からないという状況をヨハネ黙示録5章によると、7つの封印を開くものがいないという描写をします。それを開くことの出来るのは小羊なるイエスであり、復活のキリスト。だから、日本がこれからどうなるか分からないという状況の中で、キリスト者はこのイエス・キリストを「礼拝」することが最重要なことなのですと…。

◇治める人は仕える人
 さて、これからどうなるか分からないという状況はペテロを初めとする弟子たちにありました。エルサレムに一行が入場すると祭司長、律法学者たちは、イエスを殺そうと企てているという一つの意志、動きがあります。ユダにサタンが入り、イエスを裏切り、祭司長のところに出かけて行きました。そのような不穏な空気の中で、イエスは彼ら以上の意志をもって行動します。最後の晩餐をされた時に「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越(すぎこし)の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」と言われて、聖餐を制定されました。さらに裏切り者がいることを知らせますと、「そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始め」(ルカ22:23)、また、この中でだれが一番偉いのだろうかという議論まで起こったのです。イエスは偉い人は仕える人だと戒め、試練の時にもついて来た弟子たちに主と共なる王座を約束されました。こうして遠く先のことを約束され、今、目の前に起こることを話します。それが分からないペテロの応答。ちぐはぐな会話となります(22:31ー34)。
 イエス:「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
 ペテロ:「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
 イエス:「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
 それから、ゲッセマネでこれから起こる十字架の苦しみが充分に分かるので、天使の助けが必要なほどの苦闘の祈りをなさいました。まだ、わかっていない弟子たちは悲しみの果てに寝込んでしまいます。そして、イエスだけが祭司長たちによって逮捕されます。大祭司の家に連行され、ペテロは遠く離れついていき、庭でたき火をしている関係者の中にそっと紛れ込み、様子を見ていました。きっと心臓が破れそうになるぐらい、これからどうなるのか、不安でいっぱいだったに違いありません。
 まじまじと彼を見たある女中:「この人も、イエスといっしょにいました。」…ペテロ:「いいえ、私はあの人を知りません。」
 ほかの男:「あなたも、彼らの仲間だ。」…ペテロ「いや、違います。」
 別の男:「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」…ペテロ:「あなたの言うことは私にはわかりません。」
 彼がそう言い終わらないうちに、鶏が鳴き、イエスの言われた通りになってしまいました(22:60-61)。しかも、捕縛されたイエスが振り向いてペテロを見つめられたのです。彼は外に出て激しく泣きました。

◇治める人は砕かれた人
 イエスの弟子が泣いたというのは聖書の中ではここだけ。このペテロが「泣いた」ということが重要であり、この涙はあることを受けとめたことのしるしなのです。事態の流れから言いますと、最後の晩餐の時に、裏切る者は誰か、誰がいちばん偉いかを論じ合って、イエスからのお言葉をいただき、ペテロはきっと一番よい弟子であろうとしたのでしょう。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言ったのは本気だったでしょう。ところがイエスが逮捕されれば、問い詰められて、三度も主を知らないと主を裏切り、自分の誓った言葉をも裏切ることを言ってしまったのです。悔恨の涙が流れたのでしょう。それは意味のあることでした。
 ある方の説教が端的にこう述べていました。「このように12弟子の筆頭格と思われるペテロの失態は、人間の弱さであり、恐れによる自己防衛が働くためでしょう。その恐れの罪は誰にでも有り得るのではないでしょうか」。私はこの恐れる罪というところをもう少しお話ししたいと思います。
 旧約聖書のサムエル記にでてくる、イスラエルの初代の王サウルと次代の王ダビデの話です。両者とも神に立てられた器としての王なのですが、両者とも罪を犯し、サウルは神に捨てられ、ダビデは神に受け入れられていくという対比で描かれています。詳しいことは聖書を読んでいただきたいのですが、ここでは二人の信仰の有り様の結論だけを述べましょう。サウロが神に捨てられことになったのは「人を恐れ、神を恐れなかった」ためです。ダビデが神に受け入れられたのは「神を恐れ、人を恐れなかった」ためです。サウルは「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」と宣告されました(1サムエル15:23)。しかし、ダビデが預言者に指摘されて「私は主に対して罪を犯した。」と明白に告白すると、預言者には蒔いた種は刈り取ることは言われますが、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」と宣言されます(2サムエル12:13)。そして、ダビデの王座はとこしえまでも堅く立つという契約、約束は変えられることはありませんでした(2サムエル7:16、23:5)。
 ペテロはサウルのように、人を恐れ、神を恐れず、主を否んだのでしょうか。サウルのように神の器として失格となるのでしょうか。当然そうなるでしょう。しかし、イエス・キリストは初めから、救いの言葉を投げかけていました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。ほんとうにふるわれるのは、ペテロがイエスの十字架の苦悩死を目の当たりにする時、埋葬された時です。これからどうしたらよいかわからなくなってしまう時です。しかし、主は墓を打ち破り、復活され、ペテロにその姿を現したので、ペテロは立ち直っていきます(24:34)。そして、後に約束された聖霊が弟子たちの上に降ると力を得ます。そこで、「神を恐れ、人を恐れない」神の器、使徒ペテロになっていきます。
 ペテロの涙は自分の弱さ、情けなさを嘆くとともに、とことん自分の罪、特に神に従わない罪が根底にあることを悔い改めた涙だったでしょう。東北関東大震災は未曾有の悲惨な出来事です。復興に向けて、私たちは涙を流し、できるだけのことをしていきましょう。しかし、もっと人間の悲惨な現状は神を恐れず、滅びに向かっていることです。私たちはキリスト者として、ペテロのように涙すべきです。
 主を三度否み、鶏が鳴き、主が振り向いてペテロを見つめられ、「主のおことばを思い出し」、泣いたのです。ペテロがこうなることを見通して、先に告げられていたのです。もうこれで、だめだとは思わなくていい、立ちなおることも予感させてくれる、そのような主のおことば思い出し、主の魂への配慮を大いに感じて、泣いたのです。震災の復興の明るいニュースを聞くと私たちはまた前向きになります。キリスト者としてはどんな人間の悲惨な現状をも愛に満ちた眼差しで見ておられ、まことの復興に向けて、主が働いておられることを信じましょう。聖書全巻を通して、そう告げています。私たちは「主のおことばを思い出し」泣きましょう。十字架の主、復活の主のおことば思い出し、涙しましょう。
 ホーリネスの東京聖書学院では、学科で合格点を取って卒業するわけですが、それ以上に、これまで話したような、魂が砕かれるという経験をし、信仰を持って立ちなおる経験をすることが卒業証書だと伝統的に受け継がれてきました。ペテロはイエス神学校の卒業証書をいただいたのです。しかも、無学な人と言われる人が卒業生代表として、いただいたです。あなたも、砕かれて、信仰に立つ時に、神に用いられる者となるのです。

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