2017年12月17日(日)アドベント第3主日礼拝(イザヤ書11:1~10)岡田邦夫
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ書11:1)
私の父は元々、中村銀次郎だったのですが、両親が早く亡くなり、養子にいって、岡田になったと聞かされてきました。先日、ある番組で、「~村」とつく名前の由来の話を聞きました。“鎌倉時代、地主のもと、農民たちは奴隷のような生活を送っていた。鉄製のクワや鎌が安価になり、農民も所有できるようになったので、農民達は地主の手を逃れ、協力しあって荒れ地を開墾し、血縁ではなく地縁による共同体、「村」が出来た。それから上村、竹村などの名をつけるようになり、その中心となったのが中村だ…と。清水克行先生の説によると、関が原の戦いや本能寺の変より、「村」の成立が日本の歴史上に与えた影響は大きいという。”名前から見えてくる歴史があるようです。
聖書において、重要な名前が出てきます。今日、お話しするところのイザヤ11:1の「エッサイ」です。
◇ここから始まる…エッサイの子
かつてイスラエルはサムソンなど「士師」(さばきつかさ)という、霊に満たされた者が時々現れては国を治めていた時代がありました。無政府状態になったりすることもあり、外敵に弱いものでした。そこで民衆は士師サムエルに我々を治める王がほしいと訴えます。主の許可を得て、王国制度を取ることになります。サムエル(預言者でもある)は主に導かれ、サウルを即位させますが、やがて、彼は神の御心に沿わず、失脚していきます。サムエルは次の王を見出すため、ベツレヘムに行きます。主に示されて、エッサイとその子たちを呼びます。7人の息子たちに次々に面会するものの、「主が選んではおられない」と言うのです。残るは羊の群れの番をしていた末っ子のダビデ。主は「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ」と告げ、王に選び、立てるのでした(1サムエル16:12)。ここに選びの不思議があります。私たちもそうではないでしょうか。どうして自分のようものを選ばれたのかわかりません。主は無いに等しいものを選ばれたのです。
しかもです。ダビデが王として働きをなすうちに、主が約束されたのです。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(2サムエル7:16)。後に彼自身も大罪を犯しますし、後のダビデ王朝もその民も神に従わないことが多くあります。しかし、王座はとこしえまでも堅く立つというのです。これもまた、選びの不思議。
◇ここからこそ始まる…エッサイの根株から新芽
選びの民も神に背を向け、ついに神の懲らしめを受け、バビロンに捕らえ移され、祖国を失うことになります。民族は消滅の危機。木が切り倒されるように民はふるわれる。しかし、望みがあるとイザヤは預言します(11:1)。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」。それこそ、ダビデの元まで切られ、エッサイの根株しか残らなくなってしまう。そんな究極の絶望に陥っても、新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと「希望」を約束するのです。まずはバビロンから帰ってくるのですが、その先を約束しているのです。
事実、ダビデの子孫から、救い主・イエス・キリストが新芽となられ、預言が成就したのです。新約聖書を見てみましょう。「エッサイにダビデが生まれた。…生まれ…ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤから生まれた」(マタイ福音書)。「この処女は、ダビデの家系のヨセフといういいなずけで、マリヤといった」(ルカ福音書)。
パウロは神の啓示を受けて、見事に綴ります。「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(ローマ1:2-4)。ダビデの子孫としてお生まれになったのは治められる私たち人間と同列に立たれたのです。また、選ばれた者の代表として神の国を治める王になられたのです。
主は福音によって治められるのです(ローマ15:8-13)。「私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。…イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』(イザヤ11:10)どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」。神の国の福音による支配は始まったのですが、まだ、世界は真に治める者がおらず、弱肉強食の状況に置かれています。皆さんが思っておられるように、国際面でも身近なところでも、目を覆うばかりに争いが絶えません。私たちの平和への努力、平和への祈りが必要です。しかし、本当の平和をもたらすのは神なのだとイザヤは預言します。
◇ここで終わる…エッサイの根から旗
「その日」が来るとエッサイの根株からの新芽、若枝であるイエス・キリストが再臨され、絶対公正の裁きがなされるのです(11:3-5)。「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す…」。裁きの後、絶対平和が訪れるのです(11:6-9)。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う」。神のあわれみを受け、救いに選ばれた私たちの究極の将来はこの絶対平和の世界です。それを約束されているのです。望みを持ち、信じていきましょう。また、私たちは神の信任を受けて、福音宣教の使命に選ばれています。望みを持ち、使命が果たされるよう祈って、奉仕していきましょう。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」のです。主は言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残る」のです(ヨハネ福音書15:16)。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ書11:1)
私の父は元々、中村銀次郎だったのですが、両親が早く亡くなり、養子にいって、岡田になったと聞かされてきました。先日、ある番組で、「~村」とつく名前の由来の話を聞きました。“鎌倉時代、地主のもと、農民たちは奴隷のような生活を送っていた。鉄製のクワや鎌が安価になり、農民も所有できるようになったので、農民達は地主の手を逃れ、協力しあって荒れ地を開墾し、血縁ではなく地縁による共同体、「村」が出来た。それから上村、竹村などの名をつけるようになり、その中心となったのが中村だ…と。清水克行先生の説によると、関が原の戦いや本能寺の変より、「村」の成立が日本の歴史上に与えた影響は大きいという。”名前から見えてくる歴史があるようです。
聖書において、重要な名前が出てきます。今日、お話しするところのイザヤ11:1の「エッサイ」です。
◇ここから始まる…エッサイの子
かつてイスラエルはサムソンなど「士師」(さばきつかさ)という、霊に満たされた者が時々現れては国を治めていた時代がありました。無政府状態になったりすることもあり、外敵に弱いものでした。そこで民衆は士師サムエルに我々を治める王がほしいと訴えます。主の許可を得て、王国制度を取ることになります。サムエル(預言者でもある)は主に導かれ、サウルを即位させますが、やがて、彼は神の御心に沿わず、失脚していきます。サムエルは次の王を見出すため、ベツレヘムに行きます。主に示されて、エッサイとその子たちを呼びます。7人の息子たちに次々に面会するものの、「主が選んではおられない」と言うのです。残るは羊の群れの番をしていた末っ子のダビデ。主は「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ」と告げ、王に選び、立てるのでした(1サムエル16:12)。ここに選びの不思議があります。私たちもそうではないでしょうか。どうして自分のようものを選ばれたのかわかりません。主は無いに等しいものを選ばれたのです。
しかもです。ダビデが王として働きをなすうちに、主が約束されたのです。「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(2サムエル7:16)。後に彼自身も大罪を犯しますし、後のダビデ王朝もその民も神に従わないことが多くあります。しかし、王座はとこしえまでも堅く立つというのです。これもまた、選びの不思議。
◇ここからこそ始まる…エッサイの根株から新芽
選びの民も神に背を向け、ついに神の懲らしめを受け、バビロンに捕らえ移され、祖国を失うことになります。民族は消滅の危機。木が切り倒されるように民はふるわれる。しかし、望みがあるとイザヤは預言します(11:1)。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」。それこそ、ダビデの元まで切られ、エッサイの根株しか残らなくなってしまう。そんな究極の絶望に陥っても、新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと「希望」を約束するのです。まずはバビロンから帰ってくるのですが、その先を約束しているのです。
事実、ダビデの子孫から、救い主・イエス・キリストが新芽となられ、預言が成就したのです。新約聖書を見てみましょう。「エッサイにダビデが生まれた。…生まれ…ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤから生まれた」(マタイ福音書)。「この処女は、ダビデの家系のヨセフといういいなずけで、マリヤといった」(ルカ福音書)。
パウロは神の啓示を受けて、見事に綴ります。「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです」(ローマ1:2-4)。ダビデの子孫としてお生まれになったのは治められる私たち人間と同列に立たれたのです。また、選ばれた者の代表として神の国を治める王になられたのです。
主は福音によって治められるのです(ローマ15:8-13)。「私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。…イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』(イザヤ11:10)どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」。神の国の福音による支配は始まったのですが、まだ、世界は真に治める者がおらず、弱肉強食の状況に置かれています。皆さんが思っておられるように、国際面でも身近なところでも、目を覆うばかりに争いが絶えません。私たちの平和への努力、平和への祈りが必要です。しかし、本当の平和をもたらすのは神なのだとイザヤは預言します。
◇ここで終わる…エッサイの根から旗
「その日」が来るとエッサイの根株からの新芽、若枝であるイエス・キリストが再臨され、絶対公正の裁きがなされるのです(11:3-5)。「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す…」。裁きの後、絶対平和が訪れるのです(11:6-9)。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う」。神のあわれみを受け、救いに選ばれた私たちの究極の将来はこの絶対平和の世界です。それを約束されているのです。望みを持ち、信じていきましょう。また、私たちは神の信任を受けて、福音宣教の使命に選ばれています。望みを持ち、使命が果たされるよう祈って、奉仕していきましょう。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」のです。主は言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残る」のです(ヨハネ福音書15:16)。