2016年4月3日 主日礼拝(ヨシュア記1:1~9)岡田邦夫
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア記1:3
牧師で足の裏のつぼに凝っている人がいて、私も棒状のものでぎゅうぎゅうと指圧されたことがありました。その痛いつぼで内臓の弱いところがわかる言うのです。ものすごく痛いものでした。
「足の裏」はヨシュア記をひもとく“つぼ”なのです。「わたしが…与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所は…約束したとおり、あなたがたに与えている」(1:2-3)。神のみ旨がモーセに示され、それを実践するようにとヨシュアに示されたのです。足の裏で踏むという信仰の実践です。「強くあれ、雄々しくあれ」とあるように、たいへん、励まされる書です。
◇とならない
ここで「人にはどれほどの土地がいるか」という、ロシアの民話を土台に書いたトルストイの一篇のお話しに触れてみたいともいます。
ロシアにパホームという小作人がいた。自分の土地を持ちたいと願っていたところ、遠い田舎のバシキールに行くと土地は欲しいだけ安く簡単に手に入るという話を聞いた。一日分千ルーブルだと。一日分というは日の出とともに出発して夕日の沈むまでに出発点まで戻ってきて歩いて囲った土地の範囲の分ということだ。一つだけ条件は夕日が沈むまでに帰って来れなかったら土地は得られないということだ。彼は広い土地を得ようと目一杯歩いた。気が付けば夕日が沈みそう。喘ぎ喘ぎ死に物狂いで走った。出発点に倒れこんだ。村長が「やあ、えらい、よくやった、土地をしっかりとりなさったよ」と称賛したが、彼は息絶えていた。彼は葬られた。その土地はごくわずかだった。
これはヨシュア記とは対照的に見える次のようなメッセージが込められています。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを、買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)。パホームは物欲との戦いに負けたのです。ヨシュア記にはそんな人の話も出てきます。大切なのはご利益的な成功物語ではなく、霊的な戦いのことです。この書から学ぶのはモーセに約束された神の言葉を信じる、信仰の勝利物語なのです。
◇となる
モーセに約束されていました。「もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、…あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる」(申命記11:22,24)。
後継者ヨシュアには多大な励ましがあるのです。
「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(1:5)。3度も「強くあれ。雄々しくあれ。」の声掛けがあります(1:6,7,9)。何よりも心強いのは「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」です(1:9)。
ヨルダン川の東側はすでに獲得しおり、ルベン、ガドの2部族とマナセの半部族に割り当てるので、ヨルダン川の西側を攻め入る時には、先頭に立って戦えと命じます。人の側も全部族が「共に」戦うというのです。信仰の戦いは共同戦線なのです。私たちは空中の権をとるサタンとの戦いを兄弟姉妹とともに祈り闘うのです(エペソ6:12)。
私は壬生川教会にいた時に、「あなたがたの新田を耕せ」のみ言葉をいただき、開拓伝道に進むようにと強く示されました。転任願をだして、遣わされたのが、豊中泉教会でした。開拓教会ではなかったのですが、宝塚に教会が欲しいとの、祈りの込められた願いを聞いたので、開拓はこのことだ、これが神のみこころと信じて、勇気をもって足の裏で踏みだしました。続いて、箕面、三田と新田を耕させていただいています。原点となるこのみ言葉にたって、足の裏で踏み進んでいき、み言葉のようになっていくことを願ってやみません。
「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」(ホセヤ10:12口語訳)。
私たちにとって、取るべき地とは何でしょう。仕事の領域でしょうか、知識の領域でしょうか、居住の領域でしょうか、交友の領域でしょうか、信仰の領域でしょうか、聖化の領域でしょうか、恩寵の領域でしょうか、奉仕の領域でしょうか、御国の領域でしょうか、…祈り深くある時、み言葉をもって主が示しなさるでしょう。示されたら、強く、雄々しく、主が共におられると信頼し、足の裏で踏みだして参りましょう。お言葉通りになっていくことを信仰生涯の中でできるだけ多く見届けて参りましょう。
和歌山恵み教会の年配の信徒を晴美師が見舞うというので私はお供しました。病室でその方が歌いだしました。新聖歌486です。
1.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
神様は どこにでも ともにおられる
われらを倒して 負かすものはない
雄々しくあれ 強くあれ 強くあれ
お年をとっても少年のように歌う姿に感心しました。続く節も見てみましょう。ヨシュア記の信仰、そのものです。
2.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
神様の 御教みおしえを 守り行い
右にも曲がらず 左にもそれず
ただ真っ直ぐ 進むのだ 進むのだ
3.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
神様の 誓われた 約束の地は
正しい信仰だ 清い行いだ
ゆけこれらを とるまでは とるまでは
最後に申し上げたい。神の子らには天の相続が約束されています。ローマ8:17、ガラテヤ3:29、4:1、ヤコブ2:5に明記されています。この世においては、聖霊によって、その領域を足の裏で先取りさせていただけるのです。主イエスは言われました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ11:12)。生きている限り、できる限り、天国の領域を足の裏で先取りさせてもらいましょう。
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア記1:3
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア記1:3
牧師で足の裏のつぼに凝っている人がいて、私も棒状のものでぎゅうぎゅうと指圧されたことがありました。その痛いつぼで内臓の弱いところがわかる言うのです。ものすごく痛いものでした。
「足の裏」はヨシュア記をひもとく“つぼ”なのです。「わたしが…与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所は…約束したとおり、あなたがたに与えている」(1:2-3)。神のみ旨がモーセに示され、それを実践するようにとヨシュアに示されたのです。足の裏で踏むという信仰の実践です。「強くあれ、雄々しくあれ」とあるように、たいへん、励まされる書です。
◇とならない
ここで「人にはどれほどの土地がいるか」という、ロシアの民話を土台に書いたトルストイの一篇のお話しに触れてみたいともいます。
ロシアにパホームという小作人がいた。自分の土地を持ちたいと願っていたところ、遠い田舎のバシキールに行くと土地は欲しいだけ安く簡単に手に入るという話を聞いた。一日分千ルーブルだと。一日分というは日の出とともに出発して夕日の沈むまでに出発点まで戻ってきて歩いて囲った土地の範囲の分ということだ。一つだけ条件は夕日が沈むまでに帰って来れなかったら土地は得られないということだ。彼は広い土地を得ようと目一杯歩いた。気が付けば夕日が沈みそう。喘ぎ喘ぎ死に物狂いで走った。出発点に倒れこんだ。村長が「やあ、えらい、よくやった、土地をしっかりとりなさったよ」と称賛したが、彼は息絶えていた。彼は葬られた。その土地はごくわずかだった。
これはヨシュア記とは対照的に見える次のようなメッセージが込められています。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを、買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)。パホームは物欲との戦いに負けたのです。ヨシュア記にはそんな人の話も出てきます。大切なのはご利益的な成功物語ではなく、霊的な戦いのことです。この書から学ぶのはモーセに約束された神の言葉を信じる、信仰の勝利物語なのです。
◇となる
モーセに約束されていました。「もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、…あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる」(申命記11:22,24)。
後継者ヨシュアには多大な励ましがあるのです。
「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(1:5)。3度も「強くあれ。雄々しくあれ。」の声掛けがあります(1:6,7,9)。何よりも心強いのは「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」です(1:9)。
ヨルダン川の東側はすでに獲得しおり、ルベン、ガドの2部族とマナセの半部族に割り当てるので、ヨルダン川の西側を攻め入る時には、先頭に立って戦えと命じます。人の側も全部族が「共に」戦うというのです。信仰の戦いは共同戦線なのです。私たちは空中の権をとるサタンとの戦いを兄弟姉妹とともに祈り闘うのです(エペソ6:12)。
私は壬生川教会にいた時に、「あなたがたの新田を耕せ」のみ言葉をいただき、開拓伝道に進むようにと強く示されました。転任願をだして、遣わされたのが、豊中泉教会でした。開拓教会ではなかったのですが、宝塚に教会が欲しいとの、祈りの込められた願いを聞いたので、開拓はこのことだ、これが神のみこころと信じて、勇気をもって足の裏で踏みだしました。続いて、箕面、三田と新田を耕させていただいています。原点となるこのみ言葉にたって、足の裏で踏み進んでいき、み言葉のようになっていくことを願ってやみません。
「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」(ホセヤ10:12口語訳)。
私たちにとって、取るべき地とは何でしょう。仕事の領域でしょうか、知識の領域でしょうか、居住の領域でしょうか、交友の領域でしょうか、信仰の領域でしょうか、聖化の領域でしょうか、恩寵の領域でしょうか、奉仕の領域でしょうか、御国の領域でしょうか、…祈り深くある時、み言葉をもって主が示しなさるでしょう。示されたら、強く、雄々しく、主が共におられると信頼し、足の裏で踏みだして参りましょう。お言葉通りになっていくことを信仰生涯の中でできるだけ多く見届けて参りましょう。
和歌山恵み教会の年配の信徒を晴美師が見舞うというので私はお供しました。病室でその方が歌いだしました。新聖歌486です。
1.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
神様は どこにでも ともにおられる
われらを倒して 負かすものはない
雄々しくあれ 強くあれ 強くあれ
お年をとっても少年のように歌う姿に感心しました。続く節も見てみましょう。ヨシュア記の信仰、そのものです。
2.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
神様の 御教みおしえを 守り行い
右にも曲がらず 左にもそれず
ただ真っ直ぐ 進むのだ 進むのだ
3.雄々しくあれ 強くあれ 少年達よ
神様の 誓われた 約束の地は
正しい信仰だ 清い行いだ
ゆけこれらを とるまでは とるまでは
最後に申し上げたい。神の子らには天の相続が約束されています。ローマ8:17、ガラテヤ3:29、4:1、ヤコブ2:5に明記されています。この世においては、聖霊によって、その領域を足の裏で先取りさせていただけるのです。主イエスは言われました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ11:12)。生きている限り、できる限り、天国の領域を足の裏で先取りさせてもらいましょう。
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア記1:3