オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

「高き所に栄光が、地の上に平和が」

2017-12-24 00:00:00 | 礼拝説教
2017年12月24日(日)クリスマス礼拝(ルカ福音書2:8~20)岡田邦夫

「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(ルカ福音書2:13~14)
 
 「メリークリスマス(Merry Christmas)」。このメリーは日本語にすると「笑い楽しむ、笑いと楽しみを誘うような、お祭り気分の」という意味です。クリスマス祭を陽気に楽しもうというわけです。

◇良い知らせを傾聴する
 アメリカから来ていた宣教師が日本でのクリスマス、違和感を感じると言っていました。クリスマスにアメリカではクッキーやキャンデーのような日持ちのするお菓子を用意します。休暇を楽しむため手のかかる、しかも生のデコレーションケーキを作らないといおうのが習慣です。でも、日本ではデコレーションを食べるのがポピュラーです。それで、子ども達にはイエス様の誕生会なのよと言って、デコレーションケーキを食べていたと言います。
 そのようにイエスは2000年前、私たちと同じように母マリヤから、普通に生まれたのです。しかし、天から降りて来られた、遣わされて来たので、降誕と言います。私たちを救うため、神の御子が人となられたのです。といいましても、見た目は私たちと何ら変わらない新生児です。しかし、この方が救い主であるという歴史の上のビッグニュースをヨセフとマリヤ以外に野宿で夜番をしていた羊飼いたちに知らせたのです。普通のことではないので、天使が登場します。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」。
聖書によると私たちは迷える羊です。神から離れた羊です。神のもとに帰らなければ、狼や獣の餌食です。迷い出た羊は自力で帰れません。神の子が迷える羊を探し出し、神のもとに引き戻すために来られたのです。さらに深刻なのはすべてのものと人を造られた神、創造者から離れているということです。その罪深さゆえに、人は空しくなり、不安を抱えるのです。死を恐れるのです。神の裁きがあるからです。しかし、救い主はその私たちをその罪から救うために、私たちの身代わりとなられたのです。悔い改めてキリストを信じるだけで、赦され、神のもとに帰った喜びを得ることができるのです。そういう、すばらしい喜びの知らせ、すなわち、福音を羊飼いたちは聞いたのです。

◇良い知らせを賛美する
すると、天使の合唱隊が賛美します。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
 その福音によって、平和は来るのです。神に敵対していたものがイエス・キリストを通して、和解し、神との平和をいただくのです。そこから、人と人との間の平和に広げていくのです。イエスは十字架で死ぬために生れてきたのですが、また、復活するために死なれたのです。私たちを死後の復活に導き、死に勝利させるために、天に帰られたのです。これこそが福音です。復活されたキリストが弟子たちに現れた時に「平安があるように」とあいさつされました。原語では「シャローム」です。平和とも平安とも訳せます。また、シャロームは健康とか繁栄とかも含まれる満たされた状態を意味します。復活の希望があるとき、平安ですし、満たされるのです。

◇良い知らせを体験する
ある方の話をしましょう。親がクリスチャンだったのですが、反抗期に教会から離れ、わざわざクリスチャンでない人と結婚した。成功を求め働き、ずいぶん金儲けに走っていった。それを見て、奥さんの方が不安になり、母親の言っている教会に行き、熱心になってしまった。不景気で商売はダメになり、彼はやけになり仕事をしない。子どもを預け、妻が働きにでる。彼は自分の誤りに気付き、教会に帰り、悔い改めて、人生の回れ右をして、洗礼を受けたのである。30歳の回心である。
ところが、二番目の子が二歳の時、はしかで40度の高熱が一週間続き、もう治るかと思った時、急に熱が下がり、大きくひきつけを起こした。病院にいってもひきつけを繰り返す。医師も八方手を尽くすが悪くなる一方。医師から宣告される。「残念ですがこの子は助かりません。もし生命力があったら助かるかも知れないが、脳をやられているので後遺症がすごく残りますよ」。
がくぜんとなる。恐ろしくなる。妻と手を取って「神様!」と必死に祈る。無茶苦茶な祈りもする。二人で、三日三晩、不眠不休で食べずに祈った。最後に「どうか神様、この子が助かるなら僕の命はいりません」と祈った。すると、神の静かなみ声が心に語りかけてきた。「お前はこの子の死ぬのがたまらない。自分が死にたいぐらい。私はお前を愛している。お前が滅びに行くのがたまらない。だからわたしが、お前の代わりに十字架にかかって死んだ。どうしてそれがわからないのか?」と。真理の光が心の奥底に差し込んだ。
「ああ、イエス様、わかりました。あなたの十字架で、滅びからすくわれました」と答えた。喜びでこころが満ちたのである。「助けてくれ」が「わかった、わかった」に代わった。翌日、子どもがパッと目を覚ました。視線が合っている。すっかり回復し、何の後遺症もなかった。神の奇跡である。
 癒されたことは奇跡ですが、不安と絶望の中で、自らの命を犠牲にしてまで私を愛しくださったイエス・キリストの愛がわかって、平安、シャロームが与えられたことは何とも素晴らしいことです。どうかお一人お一人にこの平和、平安が与えられますように。
『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように』。


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