オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

どこまでも共にいる

2017-06-18 00:00:00 | 礼拝説教
2017年6月18日 主日礼拝(創世記28:10~19)岡田邦夫


 「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」創世記28:15

 この聖句は私が東京聖書学院に入学する前に、母教会の牧師夫人が開いてくださったみ言葉です。卒業したら母教会に帰ってきてほしいとの願いもあって、主から与えられたのだと思います。「あなたをこの地に連れ戻そう」の約束通り、卒業後、母教会に派遣されました。それから、ずっと心に残っているのは、あなたがどこへ行っても「わたしはあなたとともにあり」あなたを守るという主の約束です。天地創造の神、全能の神が“共に”いてくださるということが何よりの救いです。聖書全体の中心メッセージであることは皆さん、ご存知のことでしょう。

◇にもかかわらず、どこまでも
 では、神が私(たち)と共にいる、その伴い方とはどのようなものでしょう。ヤコブは双子の兄弟、エサウが先に顔を出し、ヤコブは彼のかかとをつかんで、一足後に生まれてきました。一瞬の違いでも、兄は兄、弟は弟、後継ぎはエサウ、ヤコブにはその権利はない。お腹をすかしたエサウにヤコブはレンズ豆の煮もので誘惑し、長子の権利と交換させてしまう。それは決定的なことではないので、その時を待つ。老いた父イサクが祝福継承の時、シカの肉を食べたいというので、エサウは狩りに行く。そのすきにヤコブはエサウの晴れ着を着、手と首に子ヤギの毛皮をかぶせ、子ヤギの美味しい料理をもって、目のかすんだイサクのもとに行く。イサクはエサウと思い込んで、祝福をヤコブにしてしまう。やり直しはきかない、厳粛なもの。だまされたエサウは弟を殺そうとするが、両親は叔父ラバンの元に行くようにと、ヤコブを送り出す。
 その旅の途上、日が沈み、石を枕に野宿していた時に、神のみ使いが現れ、先のみ言葉の約束が告げられたのです。本来なら、祝福には与れない立場にあったヤコブにもかかわらず、また、兄と父をだまして、祝福を奪ったような狡猾なヤコブにもかかわらず、アブラハム、イサクと受け継いだ祝福をいただき、継承したのです。しかも、その人生の旅の同伴者になってくださったのです。荒野の旅の危険、叔父の下での苦労、兄との再会の危機、どこまでも主が共にいて、守られたのです。
 「共に」といえば、イザヤ書だと皆さん、思うでしょう(43:1-2)。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない』」。どこまでも、どこまでも共におられるのです。永遠の同伴者です.

◇それだからこそ、どこまでも
 どこまで、親密に伴ってくださるのでしょうか。先週、西日本教職セミナーで、堀肇(はじめ)先生の精神医学の講義があって、学ぶところ大でした。「魂への配慮を考える」がテーマ。私は特に「寄り添う」という在り方を学ばされました。良きサマリヤ人のたとえを取りあげました。強盗に襲われ、傷ついた旅人に近寄って、オリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、家畜に乗せ、宿屋まで連れて行き、介抱しました。私たちは人生の傷ついた旅人の傷を優しく包む「包帯」になることだと勧められました。また、良きサマリヤ人はイエス・キリスト。主は私たちの人生の旅で傷ついた、その傷を優しく包む「包帯」となってくださったのです。そのような痛みを包み、やがて癒されていくという寄り添い方、伴い方を私たちにされるのです。

 日本で初めてホスピス病棟を始められた柏木哲夫先生が「恵みの軌跡」という本を出されました。副題にあるように、精神科医・ホスピス医としての歩みを振り返って書かれたものです。私は以前お聞きし、感動した話ですが、この本にその動機となった出来事「緘黙症(かんもくしょう)の患者さん」が載っていました。そのまま、お読みしたいと思います。
 「医局のローテーションでK病院へ一年間の予定で赴任しました。病棟に四十七歳の女性患者Yさんがいました。カルテには「緘黙症」とあり、この一年間一言もしゃべらないと記載されていました。部長も私の前任者も薬を工夫したり、心理療法、グループ療法、行動療法、作業療法、さらに電気ショック療法まで試みたりしましたが、効果がありませんでした。音には反応するので耳は聞こえていることがわかっていました。仮面様の顔貌(がんぼう=かおかたち)をしており、いかにも感情が動かない感じがしました。私も緘黙症に関するいろんな書物や文献を調べて、効果がありそうな方法はすべて試みてみましたが、Yさんは一言もしゃべってくれませんでした。
 半年経ったころ、医局にあったジャーナルを読んでいると、「Being with the
patients」という記事が目に留まりました(患者と共なること)。緘黙症の患者さんと生活を共にすると、長くかかるが言葉が出るようになる場合がある、との報告でした。私はこの記事を部長に見せ、普段詰め所でするカルテの記載その他のことを、机を持ち込んで、Yさんの部屋でさせてほしいと頼みました。部長は不承不承許可してくれました。それから半年間、私は詰め所での仕事をYさんの部屋で行いました。自分の勉強や読書も、出来るだけYさんの部屋でしました。Yさんは、私の存在にはほとんど無関心のようでした。私はときどき、「Yさん、何でもいいから、一言しゃべってよ」と懇願しましたが、効果はありませんでした。
 一年間の勤務を終えて、荷物をまとめ、駅までタクシーで行くことにしました。玄関には部長やナース、数人の患者さんが見送りに来てくれました。「お世話になりました」と言って頭を下げ、顔を上げたとき、一番後ろにYさんがいるのが見えました。私はうれしくなって、Yさんに手を振りました。そのとき、信じられないことが起こりました。Yさんが一言、「ありがとう」と言ったのです。私は自分の耳を疑いました。幻聴ではないかと思いました。しかし、その場にいた人はみな、Yさんの「ありがとう」を聞きました。私はタクシーの中で駅まで泣き続けました。
 Yさんはその後、また一言もしゃべらなくなりました。そして数年後、肺炎で亡くなったと聞きました。励ましたり支えたりすることよりも、寄りそうこと、そこに存在することがケアの基本であることを教えられました」。
 寄り添うということが傷ついた人にとってどれほど重要でしょうか。柏木先生はホスピス病棟で実践されました。私たちも、もう少し広い意味で寄り添う者になりたいですね。何よりも主が私たちと寄り添って、魂を癒してくださることを覚えます。
 ヤコブは兄から祝福の権利を横取りし、叔父のもとに逃げていく。叔父のところで結婚に際して、14年も苦労させられる。しかし、主は共におられて、その心の傷をいやし、兄との再会で和解ができ、傷ついた関係が癒されたのです。ヤコブの神、主イエス・キリストはそのような伴い方をされるのです。十字架において打たれた傷によって、私たちは癒されたのです。また、人生に傷ついたとしても包帯のように優しく包むように伴ってくださるのです。
「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」創世記28:15

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