オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

とても幸いな風景

2017-07-02 00:00:00 | 礼拝説教
2017年7月2日 主日礼拝(詩篇1:1~6)岡田邦夫


 「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩篇1:2~3共同訳)
 
「初めに在ったのァ/神さまの思いだった。/思いが神さまの胸に在った。…神さまの/思いが凝(こご)って/あらゆる者ァ生まれ…」。これはケセン語訳聖書のヨハネ福音書の冒頭の訳です。“ことば”(ロゴス)を大胆に“思い”と意訳しています。ジンとくる訳です。初めに神のことばと思いがあったと解釈したらいいかも知れません。それに対応するような、詩篇のことばがあります。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ」(19:14)。
 モーセの五書(創・出・レビ・民・申命記)は神のみ旨が記されており、その展開がその後の聖書です。150に及ぶ詩篇が五巻の構成になっているのは、その五書に応答しているというものです。言い換えれば、五書の神のことばと思いに対して、人のことばと思いを歌っているのが詩篇といえます。「詩編には神への賛美や神に助けを求める祈り、また神への信頼を表す詩などが入っており、悲しみと喜び、疑いと信頼、痛みと慰め、絶望と希望、怒りと安堵、復讐心や赦しといった人間のありとあらゆる感情が表現されている。祈りと賛美の形で詩篇は生活のすべてを神と分かち合うよう私たちを招いている」(聖書・スタディ版・各書の概説より)。
 その詩篇全体の序曲ともいうべきものが第一篇です。

◇自然の風景に思いを馳せる
 詩篇は他の訳と比較して読むのも味わいを深める道です。共同訳で読んでみましょう。
1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
 自然の情景に思いをはせてみましょう。昼は目が痛むほどの強烈な太陽光、風が吹けば、赤土が舞う。頭や口を覆わなければならない。しかし、木々が生い茂り、草花に覆われ、ひときわ果実がたわわな所がある。流れのほとりに植えられた木である。一方、麦畑、収穫した麦を脱穀し、それを入れたかごを真上に振り上げると、風でもみ殻だけが吹き飛ばされ、麦だけかごに落ちる。この流れのほとりの木と風に飛ぶもみ殻は人の生き方を描いています。神に従う人、神に逆らう者と意訳しています。

◇人生の風景に思いを馳せる
 その光景は正しき者と悪しき者の生き方と実りを表しています。共同訳は正しいか、悪いかは神の前にどうあるか、なので、あえて神に従う人、神に逆らう者と意訳しています。この世では一見、悪しき者が栄え、正しき者がそうではないように見えるところもあるけれど、幸いかどうかは、神の裁きから見ないと、ほんとうはわからないのです。この詩篇はそれを教えて人の生き方を描いているのです。
幸いな生き方は、消極面、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らないことです。積極面、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむのです。その生き方は麗しく、まことの実りのある人生なのです。「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。神のことばと思いを心に感じ、心に響かせるのです。み前に傲慢と気づいたら悔い改め、赦しをいただき、へりくだって恵みをいただくのです。すぐ結果は出ないかもしれませんが、ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがないのです。教えを約束と捉えることもできます。聖書から約束の言葉を聖霊によっていただくのです。ときが巡り来れば約束は実現していくのです。
この教会に与えられたみ言葉に通じます。「この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(エゼキエル47:9)。それは終末を描くものでもあります。

◇御国の風景に思いを馳せる
 裁きは最後の審判。神に逆らう者は風に吹き飛ばされるもみ殻。滅びです。神に従う人の道を主は知っていてくださる。みこころに留めていてくださるのです。神の河の流れる、永遠の御国に入れてくださる。その流れのほとりに植えられた木が永遠の命の実を結び、命の葉も永遠にしおれることがなく、すべて、永遠の繁栄をもたらすのです。そこは栄光に満ち、喜びにあふれています。主の約束、神のことばと思いがすっかり実現し、充満しているのです。
 流れのほとりは神の傍ら、みそばです。神が人と共にいまし、人が神と共にいます。神の愛が絶えず流れ込んでくるのです。
 私たちは神に逆らう者、罪ある者の道にとどまり、傲慢な者でした。神に従って生きられるようにと救い主、イエス・キリストが私たちのところに遣わされてきました。ローマ人への手紙にこうあります。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです」(5:8-10)。
 私たちが神に従う道、流れのほとりの木のように生きられるのはひとえに、イエス・キリストの愛の犠牲によるのです。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」の教えは十字架のことばと思いなのではないでしょうか。
詩篇の序章を通して、あらためて、自然の風景に思いを馳せ、人生の風景に思いを馳せ、御国の風景に思いを馳せましょう。

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