ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

テスラ社の行方

2023-03-16 13:05:51 | 社会・政治・一般
原油の枯渇が危惧される21世紀において、ガソリン車のように化石燃料を使わない電気自動車(以下 EV車)は重要な選択肢となる。

なにせ20世紀以来、自動車こそが現代文明の象徴的存在である。世界中で自動車は活用されたばかりでなく、愛好者を多数輩出した。高級自動車は富の象徴であり、また低価格な実用車は世界経済の末端まで使用される必需品である。

生活に根付いた自動車を手放したくない。だからこそ化石燃料を使わない自動車の開発が急がれた。その尖兵を担ったとされるのがアメリカのテスラモーター社である。

最高経営者(CEO)のイーロン・マスクの名声と共にテスラ社は21世紀の代表的企業になると思われている。だが、ここにきてテスラ社及びイーロン・マスクの経営手腕に疑問が呈されるようになっている。

何故だか日本のマスメディアには、この手の情報はあまり掲載されない。しかし、このインターネットにより海外の情報が素人でも気軽に入手が出来、また翻訳ソフトの活用により大雑把ならば読めるので、いつまでも隠せる訳がない。でも、なかなか報じられないのが不思議だ。

実のところテスラ社は既に追放された二人の技術者が創設した企業だ。イーロン・マスク氏は創業当時の出資者ではあるが、決して最先端技術の開発能力がある訳ではない。しかし、資金集めの手法は見事だった。

まだ車の開発製造も不十分なテスラ社を支えた経営の柱は3つ。一つはビットコインによる売り抜けに成功したこと。もう一つは排出権取引による資金調達、そして最後はNUMMIを格安で購入できたことだ。

まだ当時、ビットコインは危険性もよく認識されず、初期において投資をして勝ち抜けたマスク氏の目の付け所のよさと逃げ足の速さは十分尊称に値する。また二酸化炭素を出さない電気自動車製造会社ゆえに、排出権をトヨタなどに売りつけた遣り口は、優秀な投資家の証拠であろう。そしてGMとトヨタの合弁工場であるNUMMIを格安で入手したことで、製造ノウハウを持たぬテスラ社は最初から高品質な車を製造できた。たいしたものだと思う。

しかし、EV車を製造販売して利益を出した会社ではなく、投資会社として成功したことが後々に響くようになった。まず技術に拘る創業者を役員会から追放した。また製造業では不可欠な技術力の高い工員をリストラし、作業工程を簡素化して人件費の削減に成功した。

その結果、テスラ車の作りは粗が目立った。素晴らしい操作性、先進的な技術、快適な運転感覚は消費者の心を奪った。ところがアフターサービスの悪さ、修理技術の稚拙さが目立つようになった。高級車並の値段だけに購入者の不満は募った。

正直言って今のテスラ車に未来のEV車を牽引するだけの可能性が見いだせない。自動運転も未だにカメラを使い、レーダー波を使うライバル企業に大きく後れを取っている。

すでに自動運転は過大広告だとアメリカ政府に睨まれているし、購入した消費者もハイブリッド車に戻る傾向をみせている。EV車がまだまだ発展途上の車であることを勘案しても、今のテスラ社の姿勢は褒められたものではない。

おかしいのは日本のマスコミでEV車礼賛、日本メーカーsageで、テスラの惨状を報じるのを躊躇っているように思えることだ。幸いにして特段、私がとやかく書かなくても賢明な日本のユーザーは慎重姿勢を崩していない。

原油の枯渇が予想される21世紀においてEV車は貴重な可能性だと私は考えている。礼賛するだけでなく、適切な非難も必要ではないかと思うのですがね。
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確定申告最終日

2023-03-15 12:15:05 | 日記
猫の手もひったくりたいほど忙しいのでお休みします。
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自動車評論

2023-03-14 09:20:49 | 社会・政治・一般
多分、日本における最も著名な自動車評論家であったのが故・徳大寺有恒だ。

その徳大寺氏を主筆として創刊された自動車雑誌がベストカーガイドであった。私が車に興味を持ちだした十代後半から20代後半まで読み続けた愛読誌であった。その編集部の若手の一人にいたのが国沢光宏であった。

正直、その当時はさほど目立つ存在ではなかったと思う。名物編集長の勝俣氏や他のレーサー出身のライター等の書く自動車記事に比べてしまうと、ドライバーとしての技量が低いことが明白だった。

しかし、その後国沢氏は自らレースの世界に飛び込み、運転技術の向上に務め後の自動車評論に活かしているから、たいした努力家だと思う。彼が独立してフリーの自動車評論家とした頃には、私はベストカーを読まなくなっていたので、彼のその後はあまり良く知らなかった。

再び目にしたのは、フォルクスワーゲン(以下VW)社の不正事件の時だ。VW社の偽装を非難する記事が大半を占める中、国沢氏は擁護の立場で論調を張っていた。正直言って妙な反論だと思っていた。なにせNOxは40倍でも有害性はないとか平気で書いていた。

私は不正の背景にあるのは、あまりに厳し過ぎる環境規制があると考えているが、ウソの報告はよくないし、NOxの有害性は当然なので、国沢氏はあまりに企業寄りではないかと疑っていた。

実のところ、自動車評論家あるいは自動車ジャーナリストという職業はかなり危うい立場にある。仕事上、自動車の評価をするのはともかく、多くの場合、その評価の対象となる車はメーカーから広報車として貸与される。

借りた車を貶した場合、次回以降再び借りることが出来るとは限らない。だから新車の場合、よほど明白な欠陥がない限り、貶すことを避ける傾向が強い。もちろんあくまで自分の意見を貫き通す硬骨の自動車評論家も実在した。

しかし、その場合はその評論が貶されたメーカーの技術者が納得せざるを得ないほど説得力があるからこそ、自動車メーカーは次回もその自動車評論家にも広報車を貸与する。少数ではるが、そのような実力ある自動車評論家はいたのだ。

オーナーとして自分の車を評価するならまだしも、借りた車を仕事のネタとして評価することは、それなりにリスクを伴う。それゆえ国沢氏もメーカーから拒否された経験を持つと聞く。

そのせいか、あるいはだからこそなのか、国沢氏の自動車評論には時折首を傾げることが、ままある。特に最近だとやたらお韓国車を持ち上げる。当初はその姿勢を私は評価していた。

韓国車は日本でこそマイナーな車だが、世界規模でみれば大メーカーであり、韓国車が走っていない国のほうが少ない。だからこそ、取り上げる価値はあると思えた。ただ、その取り上げ方がいささか偏り過ぎに思えた。間違いなく広報車を借り出して取材しているのだろうけど、褒めるばかりで欠点を取り上げようとしない。

私とて韓国車(現代または起亜)のデザインの良さは認めている。しかしエンジンは一世代以上遅れているし、製造がわりと大雑把なので故障が多い事も知っている。これが故・徳大寺氏であったのならば、その欠点もやんわりと指摘していたはずだ。しかし国沢氏の文は甘い、甘すぎる。

元々韓国は国内市場が小さいが故に、初めから世界への輸出を考えた車を作る。しかし、製造業者としての技量が低く、また大雑把な気質が車造りにも反映されてしまっている。中古車市場での値下がりの激しさがその証拠である。

最近はEV車に力を入れているが、そもそも内燃機関を製造する技術が低いので、組合せで作れるEV車に可能性を見出していることが明白だ。またこれはLGが作っているバッテリーの欠陥だが、それを採用したが故に車が炎上するトラブルを頻発させている。

これだけトラブル、欠点が多いのにそれに触れずに韓国車を絶賛する国沢氏の姿勢に私は非常に懐疑的です。
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日野町冤罪事件

2023-03-13 11:07:43 | 社会・政治・一般
決して見逃してはいけない。

>1984年、滋賀県日野町で酒店の女性が殺害されて金庫が盗まれた事件では、強盗殺人の罪で阪原弘さんが、自白を強要されたとして無罪を訴えましたが、2000年に無期懲役が確定し、服役中に病死しました。

MBSニュース

遺族は「父親は自白を強要された」として、再審(裁判のやり直し)を求めていて、2月27日に大阪高裁は「自白の根幹部分の信用性に動揺が生じた」として、再審を認める決定を出しました。


しかし、大阪高検は再審決定を不服として最高裁に特別抗告しました。実に見苦しい事件です。阪原氏を勾留中に脅して無理やり自白を引き出して、強引に有罪に持ち込んだ検察でしたが、その後阪原氏を盗んだ金庫の放置場所へ誘導したことが明白な写真ネガが返還されたことから、この自白強要が露呈しての再審決定でした。

以前にも記事にしましたが、当時滋賀県警は不祥事続きでどうしても有罪判決が欲しく、それに検察が協力した上での冤罪事件だと見られています。当の阪原氏は既に病死していますから死人に口なしと油断して、写真ネガを返還してしまったことが検察側の最大の失態でした。

普通なら現場を知るはずの犯人に先導させるはずが、警察官が先行して誘導していることが写真ネガから読み取れる稚拙な冤罪事件です。他にも不可解な点はあるのですが、犯人の自白こそが100%有罪の証だとして強引に推し進めたが故の失態でしょう。

なぜにこのような無実の人間を貶める非道は行われるのか。

古今東西、権力を握るものは自らを正義の代行者だと確信します。権力を握るものは、正義の側であるがゆえに決して自らを貶めること、すなわち過ちを認めません。

日野町を管轄する警察及び滋賀県の検察にとっては、自らの誤りを認めることは国家の威厳を損なうことであり、断固として犯罪捜査の過ちを認めない。それが正しいことだと確信している。

だからこそ無実の人間でも、少しでも怪しい部分があれば有罪に落し込み、国家正義の体現者としての権威を優先する。本当の犯人を野放しにする危険よりも、自らの権威が地に墜ちる方が怖いという歪んだ正義感の顕れでもある。

また現場を担当する警察官や刑事、検事にとって役所の人事考課は減点主義であるのだから、無実の人間を犯罪者に仕立て上げた汚点を人事考課表に記載されるのは真っ平御免。あくまで犯行を自白した阪原が悪い。

どうせ立ち飲みが出来る小さな酒屋の現金を奪うチンケな犯罪者なんざ、いずれどこかで悪さをして捕まるに決まっている。阪原だっていつかはやるかもしれない。だったら早めに監獄へ送り込んでしまえ。

これで日本の平和は守られる、我々の権威も守られる、人事考課の減点もない。まさにイイことづくめだ。かくして戦後もっとも稚拙な冤罪事件が生まれた。

無実の人の人権よりも役所の面子を第一に考えた醜悪な事件でもあります。私は今後もこの事件を追い続けようと考えています。
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その犬の歩むところ ボストン・テラン

2023-03-10 10:23:58 | 
私には唯一、どうしようもない悔恨がある。

それは子供の頃に飼っていた犬のルルを最後まで看取れなかったことだ。両親の離婚が背景にあり、子供の力ではどうしようない事ではあった。また母もルルを気遣い、近所の大工さんの家にルルを譲っていた。

近所だからすぐに遊びにいけたが、祖父母の家に同居することになり、その町を離れてしまった。その後も何度か遊びにいったが、ルルはそのたびに飛び跳ねて喜んでいた。帰るのが辛くて、ルルを抱きしめて「また来るからね」と囁くのが精一杯だった。

その後、私は荒れた子供になり問題児と化した。家の中ではおとなしい子供であったが、学校では喧嘩の絶えない子であった。遂には引っ越さざるを得なくなり、ルルがいる町とは今まで以上に離れることになった。

気が付いたら、ルルのことを忘れている自分がいた。あれほど自分が情けなく、惨めで、みっともないと自覚したことはない。再び犬を飼いたい気持ちに嘘はないが、ルルを思い出すと自信がなくなる。

犬の黒いつぶらな瞳で見つめられると、彼らが無償の信頼を寄せてくれるのが分る。だからこそ、その信頼に応えられなかった自分のみっともなさが悔恨として心に深く刻まれている。

そのせいか犬を飼いたいと切望していながら今日まで果たせずにいる。果たして自分に犬を飼う資格があるのかと悩んでしまうからだ。その心配は幾度かの緊急入院で、ほぼ確信に近くなっている。一人暮らしでは責任をもって犬を飼うことは難しい。

分かっているが、やはり犬が傍らにいる幸せと安心感には憧れざるを得ない。とりわけ表題の書のような本を読んでしまうと、ルルと駆け回った幼き日々を思い出してしまい、ますます想いが募ってしまう。

そのくらい、この本は犬好きのハートを射抜きます。犬好きなら是非とも読んで欲しい逸品ですよ。
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