文庫本になるまで第2部は待とうと思っていたのだが、ブックオフで760円になっていたので購入した。
まず訂正。第1部の感想で僕は、主人公が作者自身に似た「僕」に戻ったと書いているが、「私」だった。調べないで書く適当な感想とはいえ、これは恥ずかしいミスだ。失礼しました。
では第2部の感想。
第1部も含めてなんだけど、ペース配分がおかしい。第2部の400ページまで合計900ページで10個のイベントが発生したとして、残りの100ページで15個のイベントが発生した、という感じ。
雨田具彦のアトリエでの淡々とした生活は丁寧に、というか冗長に書いているのに、最後のまとめがドタバタと急ぎすぎ。中盤までのペースだと、ユズとの再会の前にグダグダ思い悩みそうなのに、何の思索もなく会い、あっさり復縁する。復縁に至る会話の内容は納得できるものなのだが、ここまでの苦悩の重さと比較して軽い。
まりえが免色の娘かどうか確定させないのはいいのだが、確定しなくてもいいのだという結論に至る思索が軽い。最後に色んな教訓やら人生観やら価値観を次々にまとめていくのが、そもそも「らしくない」。
「この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない。でも少なくとも何かを信じることができる」
「どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができるからだ」
色々出てくる結論の中で、最後に出てくるのがこれだ。誰にでも導いてくれるもの…騎士団長、ペンギンのフィギュア、免色氏の昔の彼女のイフクあたりか…があって、それらが人生を良い方向に導いてくれることを信じよう、的なことなんだろう。読み手によっていろいろ解釈できるように書いているらしいから、これだけが結論ではないと思うが。
とてもいい結論だけど、村上春樹にそういわれると、ちょっと違和感がある。60過ぎて今頃かよ、という気もする。村上春樹はずっとシニカルだったから。
主人公に娘が生まれるのも意外な展開。子供にはほとんど興味がなさそうな作者が、ついに普通の家庭を持って子育てしている主人公を描いた。「国境の南、太陽の西」でも主人公に二人の娘がいたと思うが、それ以来だ。しかも、この娘は主人公の本当の娘かどうか分からない。免色氏とまりえの関係と同じ、いや、あちらより自分の子である可能性は低い。冷静に考えると、これはかなり重たい問題を後に残しているのだが、主人公は騎士団長や顔なが、ドンナ・アンナの思い出とともに育てていこうと決意する。いつになく人生に前向きである。
ミステリーじゃないので、すべての伏線やネタを回収する必要はないが、いくつか謎が残ったままだ。二組の父娘が本当の親子かどうか問題の他に、白いスバル・フォレスターの男はどうなったのか、雨田具彦が関係したナチス高官殺害事件の真相は? 問題を先に送ることで未来志向になっているというか、ドタバタとできるところだけ片づけて、次のステージに進もうという意思を感じるというか。妙に爽やかな終わり方であった。
時代設定は2007年ごろだが、主人公は携帯電話を持っていない。携帯電話があれば解決するのに、という問題がいくつか発生する。CDを否定し、アナログレコードを愛聴している。新しい文化を取り入れた作品を書きにくいなら、いっそ時代設定を得意の60~70年代にして描いた方がいいような気がする。次もスマホを持たない主人公で書いたら、また類型とかマンネリとか言われそう。
簡単に肉体関係を持ってしまった絵画教室の生徒の母が、あっさり別れた。彼女は免色氏について客観的に評価する人物、という以外に物語の中で特に重要な意味を持たなかったと思う。こういうキャラが出てくると、またかと思うので、不要だった。ただ、相手の言ったことを相槌として繰り返す村上春樹的主人公の癖を「私の言ったことをオウムのように繰り返すのはやめてくれない?」とキレたところは良かった。作者が自分のワンパターンを自虐的に表現したのかと思って。
全体の構造はいつもの村上春樹パターンだが、このように随所に新しい要素もチラッと見える。次の「本格長編」のときは70代になっていそうだが、さらにガバッと新境地を見せてもらいたい。
まず訂正。第1部の感想で僕は、主人公が作者自身に似た「僕」に戻ったと書いているが、「私」だった。調べないで書く適当な感想とはいえ、これは恥ずかしいミスだ。失礼しました。
では第2部の感想。
第1部も含めてなんだけど、ペース配分がおかしい。第2部の400ページまで合計900ページで10個のイベントが発生したとして、残りの100ページで15個のイベントが発生した、という感じ。
雨田具彦のアトリエでの淡々とした生活は丁寧に、というか冗長に書いているのに、最後のまとめがドタバタと急ぎすぎ。中盤までのペースだと、ユズとの再会の前にグダグダ思い悩みそうなのに、何の思索もなく会い、あっさり復縁する。復縁に至る会話の内容は納得できるものなのだが、ここまでの苦悩の重さと比較して軽い。
まりえが免色の娘かどうか確定させないのはいいのだが、確定しなくてもいいのだという結論に至る思索が軽い。最後に色んな教訓やら人生観やら価値観を次々にまとめていくのが、そもそも「らしくない」。
「この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない。でも少なくとも何かを信じることができる」
「どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができるからだ」
色々出てくる結論の中で、最後に出てくるのがこれだ。誰にでも導いてくれるもの…騎士団長、ペンギンのフィギュア、免色氏の昔の彼女のイフクあたりか…があって、それらが人生を良い方向に導いてくれることを信じよう、的なことなんだろう。読み手によっていろいろ解釈できるように書いているらしいから、これだけが結論ではないと思うが。
とてもいい結論だけど、村上春樹にそういわれると、ちょっと違和感がある。60過ぎて今頃かよ、という気もする。村上春樹はずっとシニカルだったから。
主人公に娘が生まれるのも意外な展開。子供にはほとんど興味がなさそうな作者が、ついに普通の家庭を持って子育てしている主人公を描いた。「国境の南、太陽の西」でも主人公に二人の娘がいたと思うが、それ以来だ。しかも、この娘は主人公の本当の娘かどうか分からない。免色氏とまりえの関係と同じ、いや、あちらより自分の子である可能性は低い。冷静に考えると、これはかなり重たい問題を後に残しているのだが、主人公は騎士団長や顔なが、ドンナ・アンナの思い出とともに育てていこうと決意する。いつになく人生に前向きである。
ミステリーじゃないので、すべての伏線やネタを回収する必要はないが、いくつか謎が残ったままだ。二組の父娘が本当の親子かどうか問題の他に、白いスバル・フォレスターの男はどうなったのか、雨田具彦が関係したナチス高官殺害事件の真相は? 問題を先に送ることで未来志向になっているというか、ドタバタとできるところだけ片づけて、次のステージに進もうという意思を感じるというか。妙に爽やかな終わり方であった。
時代設定は2007年ごろだが、主人公は携帯電話を持っていない。携帯電話があれば解決するのに、という問題がいくつか発生する。CDを否定し、アナログレコードを愛聴している。新しい文化を取り入れた作品を書きにくいなら、いっそ時代設定を得意の60~70年代にして描いた方がいいような気がする。次もスマホを持たない主人公で書いたら、また類型とかマンネリとか言われそう。
簡単に肉体関係を持ってしまった絵画教室の生徒の母が、あっさり別れた。彼女は免色氏について客観的に評価する人物、という以外に物語の中で特に重要な意味を持たなかったと思う。こういうキャラが出てくると、またかと思うので、不要だった。ただ、相手の言ったことを相槌として繰り返す村上春樹的主人公の癖を「私の言ったことをオウムのように繰り返すのはやめてくれない?」とキレたところは良かった。作者が自分のワンパターンを自虐的に表現したのかと思って。
全体の構造はいつもの村上春樹パターンだが、このように随所に新しい要素もチラッと見える。次の「本格長編」のときは70代になっていそうだが、さらにガバッと新境地を見せてもらいたい。