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のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ウェディング・ベルを鳴らせ!』

2009-07-13 | 映画
ピリッと辛いおつまみをお皿にたんまり盛って、かたわらに小瓶のビールをずらりと並べて、そいつを片っ端から空けてラッパ飲みしながらつまみをむしゃむしゃやりながら、時には立ち上がって踊りながらそして「ありえね~」だの「やっちまえ~」だの大声で茶々を入れながら観るのが、クストリッツァ映画の正しい鑑賞法なのではないかと思うのでございます。

ともあれ、『ウェディング・ベルを鳴らせ!』を観てまいりました。
↑公式サイトがいろいろと楽しいつくりになっております。(昨今流行りの”婚活”なる言葉を持ち出しているのは気に食わぬ所でございますけれども)

日本で長編のクストリッツァ作品が公開されるのは『ライフ・イズ・ミラクル』以来4年ぶりでございますが、この間カントクは映画学校を設立したり、フィルムフェスティバルを開催したり、マラドーナの伝記映画を撮ったり、渋るネレを説得して『ジプシーのとき』をオペラ化したり、さらにはノー・スモーキング・オーケストラの一員としてワールドツアーに出たりもしておいでですから、ずいぶんとお忙しかったはず。にもかかわらず本作からほとばしるバイタリティときたら、例えて言うなら一杯機嫌で好き勝手に演奏しまくるジプシーバンドを満載して突っ走る蒸気機関車のごとくで、クスツ親爺もはや恐いものなし(というかやりたい放題)の感がございます。

今回はコメディに徹したようで社会風刺は少なく、そのぶんドタバタハチャメチャぶりに更に磨きがかかっているのですが、カントクのこれまでの作品と比べるとやや求心力が弱いような気はいたします。登場人物おのおののエピソードがつぶ立ちしすぎているせいなのか、はたまた動物を含め無数に登場する小道具たちを活かしきれていないせいなのか。しかし、本筋と関係のない周辺的なことがらがいやに自己主張するというのもクストリッツァ作品の魅力のひとつでございますから、ここはひとつ赤瀬川源平風に「今回の作品はいつになく拡散力がある」とでも申しておきましょう。

揃いも揃ってアクが強く血の気が多い登場人物たちが、ベタなギャグやシュールな冒険を執拗なまでに繰り広げ、その合間にストーリーと全く関係のない小ネタが当たり前な顔をして割り込んで来る、要するに甚だクストリッツァ的なコメディでございます。よって、爪の先ほども面白さが感じられないという方もいらっしゃることでしょう。これはトムヤムクンのどこが美味しいのかわからないとか、ヘビメタの何がいいんだかさっぱり、というのと同様、好みと相性の問題でございまして、合わない方にはそりゃ残念、としか言いようがございません。



そう。
牛は走り、猫は飛び、煙突は倒れ、美しい山村には至る所にメカ仕込みの落とし穴が口を空け、懲りない求婚者を何度でも呑み込むのでございます。大男の頭突きで建物は倒壊しかけ、ロケット男は(案の定)ひたすら飛び続け、血の気の多い司祭様は鉄拳を振るい、結婚式は銃撃戦と化し、それでもなおウエディングベルは鳴らされねばならないのでございます。ちなみにベルはじいちゃんのお手製。このじいちゃんの作るヘンテコな、しかし意外と実用的なメカの数々もまた見ものでございます。
じいちゃん自身もなかなか隅に置けない人で、孫をお嫁さん探しに送り出す一方、自分は街から彼を追ってきた美女に結婚を迫られる日々。でもってこの美女もまた、彼女の美貌とダイナマイトバディに一目惚れした男に結婚を迫られる日々。主人公のツァーネ君は運命の人を見つけた喜びもつかの間、牛は盗られるわ、不良にボコられるわ、植木鉢に直撃されるわと散々でございます。
そこへおじいちゃん同士の友情やらセルビアマフィアやらがからんで来て、ああもうどうすんだこりゃどっこい何とかなるわないやいやそうは言ってもとりあえずGoツァーネGo!Go!てな感じでございまして、「ボクのお嫁さん探し」というシンプルなはずのストーリーは、怒濤のごちゃごちゃを擁して突き進んで行くのでございます。

風刺は少なめとはいえ、その矛先と描き方は実に明解(というかあからさま)でございました。
例えばマフィアのボス、バヨは娼館を兼ねたストリップバーのオーナーで、昔からある工場をつぶしてセルビア初の世界貿易センタービルを建てようと画策しております。御丁寧にも例のツインタワーとそっくりのものを。貧乏人からも容赦なく金をむしり取り、性的搾取と暴力で儲けているバヨが、俺の力でツインタワー-----経済グローバリズム/アメリカニズムの象徴-----をぶっ建ててやるぞと息巻く様には、経済グローバリズムに対するカントクの皮肉な見方が伺われます。またカントクの息子ストリボール・クストリッツァが演じる大男は「世界に愛と平和を広げよう」とのたまいながら、ランボー(詩人じゃない方)が持っているようなでっかいマシンガンを粛々と撃ちまくるのでございます。

ストリボールは前作『ライフ・イズ・ミラクル』に引き続き主人公の頼れる友人役でございまして、マッチョな風貌を活かして笑わせてくれます。今回は音楽も彼が担当ということで、ノー・スモーキング・オーケストラのクレジットは無し。
現在のノースモのギタリスト、イヴィツァ・マクシモヴィッチ氏がしつこい求婚者役で出ていたということは後で知りました。サイモン・ラトルのごとき鳥の巣頭の姿しか見たことがなかったので全く気付きませんでした。そういえば劇中で弾いておりました、ギター。


このおっさんがまた、いい味出してらっしゃるのですわ。

音楽は今までと比べると若干おとなしいように感じられましたが、世間の評判は上々のようでございます。ノースモのアクの強さ、わざとらしさとゴチャゴチャ感が好きなワタクシにはちょっと物足りなませんでした。まあ、これも好みの問題でございます。

そんなわけでございまして
100点満点というわけではないものの、のろは大いに楽しませていただきました。
ウンザ・ウンザ・サウンドに乗せてドタバタ人生讃歌を歌い上げたカントク、今後もどんな作品を見せてくれるのやら、のろは楽しみにしております。そろそろまた『アンダーグラウンド』や『ジプシーのとき』のような悲劇性のある作品を撮っていただきたいなあとも思いつつ。




T-1000ばなし

2009-06-14 | 映画
いやあ!
昨日はT-1000が見られて幸せでございました。
のろはT-1000がとっても大好きでございます。
どのくらい好きかと申しますと、エージェント・スミスと同じくらい好きでございます。
困るなあ、どっちかひとつだけあげるって言われたら。

何です。
T-1000をご存じない?
またまたご冗談を。
これですよ、これ。


ちっちっち。

はい、昨日放送された『ターミネーター2』の悪役、液体金属殺人マシーンT-1000でございますよ。
放送時間の関係か、カットされまくりで若干腹が立ちましたけれども、まあ~T2は何度見てもよろしうございますね。ストーリーもアクションも結構でございますが、のろにとっては何を置いてもT-1000でございます。

そう。
無表情で走って車を追いかけるT-1000!
顔面にショットガンくらっても元気に無表情なT-1000!
ジョンの養母に化けて台所に立つT-1000!お料理のスキルをいったいどこで身につけたんだ!
カマキリ姿でエレベーターに襲いかかるT-1000!
撃たれまくってよろめきながらも無表情だけはしっかり保つT-1000!
全身でヘリにへばりつくT-1000!
悪役らしくばかでかいタンクローリーで主人公たちを追いつめるT-1000!
細おもてのくせにやることがT-800知事より荒っぽいぞT-1000!
ボキンボキン折れ壊れながら無表情に迫って来るT-1000!
知事に突き刺した棒を無表情で ぐ り ぐ り するT-1000!
サラ・コナーの肩をこれまた無表情にぶっ刺しながらも「痛いのはわかってる」T-1000!うひゃあ極道!
サラ・コナーに化けてジョンを呼び寄せるT-1000!何て卑劣なんだ!惚れぼれだ!
どうでもいいけどリンダ・ハミルトンてちょっとクラウス・キンスキーに似てるなあ!
けっこう追いつめられてたくせに相手が弾切れと見るや余裕で ちっちっち やってしまうT-1000!
それまでの冷静さとうって変わって盛大に苦しみながら消滅していくT-1000!
ああ素敵だなあ。

何です。
無表情が好きなのかって。
そうですよ。
『エイリアン』2と3のビショップとかね、大好きでございますよ。

閑話休題。T-1000を見ておりますと、悪役はこうでなけりゃなと思うのでございます。
善玉たる主人公たちを無慈悲に、徹底的に、手段を選ばず追いつめ、追いつめ、痛めつけ、死闘を繰り広げたそのすえに無惨かつ華々しい最期をとげる。ああ素晴らしい。
何度やっつけても平気で追いかけて来るぐらいタフな一方で狡智に長け、冷酷無比でありつつ若干お茶目というのもポイント高しでございます。一作目のターミネーターも無慈悲でタフなのはけっこうなんでございますが、力で押しまくる感じでございましたんでねえ。主人公の親近者を装ったり、善良な人間のふりまでするT-1000の狡猾さがいいんでございます。「かわいいお子さんだ」だの「いいバイクに乗ってるな」だの気の利いたことも言うくせに無敵の殺人マシーン。あっはっは。
一見強そうに見えないのに不死身というのも、不気味でよろしうございます。『マトリックス』のスミスも一見普通のおっちゃんのくせにやたらめったら強い、というのがポイントでございますね。2作目ではエージェントたちがやけにごつくなっておりましたけど、あれはいけません。強そうな人が見たまんま強いんじゃ、面白くございません。そんなこともあってのろは『ターミネーター』は2の方が好きなんでございます。

ちょうど昨日から『ターミネーター4』の上映が始まりましたけれども、何でもすでに5および6の制作が決定しているんですってね。既存の設定とネームバリューで稼げるだけ稼ごうというやりかたは本当に嫌になります。とはいえ、T5にはT-1000ことロバート・パトリックが科学者役で出るかもしれない、という話は大いに気になる所でございます。公開中のT4ではなんとCGでT-800、もといシュワ知事の姿を再現しているということでございますから、T-1000の復活も夢ではないやもしれません。のろはT3は観ませんでしたしT4も観に行くつもりはございませんが、もしもT-1000が大きなスクリーンで見られるなら、どんなに駄作の呼び声高くっても劇場に足を運んでしまいそうな気がいたします。


ところで久しぶりにTVを見て思ったんでございますが、TVの中というのは本当に「今のあなたはOKじゃない、こうでなくっちゃ、これを買わなきゃ、素敵じゃない/安全じゃない/かっこよくない」というメッセージで溢れておりますね。
CMというものそれ自体はいろいろと面白いので嫌いではないんでございますが、久しぶりにさらされて、ちょっとしんどくなりました。

『スラムドッグ$ミリオネア』

2009-06-02 | 映画
やっとこさ『スラムドッグ$ミリオネア』を観てまいりました。

うーむ面白かった。
そしてこれまたいい作品でございました。
スクリーンいっぱいに溢れるエネルギーと鮮烈な色彩感覚に圧倒されました。
観る前は何となく、『世界最速のインディアン』のような「痛快な、いい話」かなと思っていたのでございますが、蓋を開けてみればインド社会や人間の心の暗い側面がほとんど間断なく描かれており、R指定になっている理由が分かりました。
しかしそんな暗さをもぶっちぎる疾走感で、躍り出したくなるインドポップスに乗せて映画はガンガン進んで行くのでございます。

スラムに暮らす3人の孤児、主人公ジャマールとその兄サリーム、初恋の人ラティカは、貧困、犯罪、宗教対立といった社会的な闇、そして嫉妬,金銭欲、利己心といった人の心の闇に否応なく呑み込まれ、その中でしたたかに生き、成長して行きます。
巨大で混沌とした闇の中を、希望とラティカへの思いを胸に一心に駆けるジャマール。
苦いあきらめを抱いて、闇のただ中で躍るラティカ。
そして時に悪辣な手段を使って、如才なく闇の中を泳いで行くサリーム。
「運命」に翻弄されたのは、さて、誰だったのか。

ジャマールたちを呑み込む闇は所々で目を背けたくなるほどのどす黒さを呈しますが、その中を突っ走る兄弟のパワフルさからは目が離せません。
また、回想シーンの疾走感に対して、クイズ場面の緊張感はまさに手に汗握るハラハラもの。
スクリーンの中で、見ず知らずの無学な「スラムドッグ」、ジャマールを応援する観衆と一緒に、スクリーンの外ののろも両手を握りしめ、祈るような気持ちで彼の一答、一答を打ちまもったのでございます。
私は「クイズ・ミリオネア」を見たことがございませんので、クイズの仕組みも知らなかったんでございますが、そのことが場面の緊張感を削ぐことはございませんでした。

映画は、不正手段でクイズを勝ち抜いたという疑惑をかけられたジャマールが留置所で取り調べ(というか拷問)を受ける場面から始まり、留置所、クイズ場面、そしてジャマールの回想シーンが交錯しながら進んでまいります。
時系列が行ったり来たりするにもかかわらず見づらさを全く感じさせず、ラストの数分で、それまでに語られたことごと-----ジャマール,サリーム,ラティカに降り掛かった運命、そして3人の選択-----が、ひとつの終幕に向って加速度的に収斂していくその描き方は実に見事でございました。

インドの暗い側面ばかりを描いてけしからん、というインド国内の反発もあるようでございます。しかしインドが長い歴史と独自の文化を持っていることや、昨今目覚ましい経済成長をとげていることが言わずもがなの事実なら、依然として世界最大の貧困人口を擁する国であることも隠しようのない事実なのであっって、そういう側は描くなと言うのもいかがなものかと。
それよりもこの清濁合わせ呑んで疾走するエネルギーを、これぞインドパワーじゃー と誇ってやればいいのじゃないかしらん。
映画を批判したところで、社会問題を解決できるわけでも隠せるわけでもございませんし。

Jai Ho



『MILK』

2009-05-05 | 映画
二者の間でだけ交わされたはずの会話が一方の知らぬ間に皆の話のネタに供されるというのは、一種の集団的暴力でございます。しかもただその場にいるだけで、否応なく共犯になってしまう。ああ嫌だ。



それはさておき

『MILK』を観てまいりました。
ううむ、これは素晴らしい作品でございました。

映画『ミルク』オフィシャルサイト

「私はここにいる」と宣言する。
「私には生きる権利がある」と叫ぶ。
ただそれだけのことをするのさえ、困難な人がおります。
その人とは、
多数派ではない人、
社会的に弱い立場にいる人、
宗教が見方や後ろ盾になってくれない人、そして
虐げられることが当たり前になってしまった人でございます。
そういう人たちに向って、ミルクは呼びかけます。

"My name is Harvey Milk and I'm here to recruit you!"

ミルクは単に同性愛者の代表というだけではなく、生きづらさに苦しむ全てのマイノリティの代表であると申せましょう。

1970年代のアメリカ。ゲイ・ムーヴメントが起こりつつあったとはいえ、同性愛者であるというだけで解雇されたり逮捕されたり、時には自殺に追い込まれる社会の中で、偏見と差別に立ち向かい、権利のために闘ったハーヴェイ・ミルク。
ミルクは決して孤軍奮闘していたわけではございません。多くの人々の声がこの「20世紀の英雄」を支えていたということ、そしてミルクという情熱的でチャーミングな人物が、人々の希望の寄りしろとなっていたということが、本作では力強く、かつテンポよく描かれております。
それまでずっと身を隠すように生きることを余儀なくされてきたマイノリティたち。
また多数派に属してはいても、公然と人権が抑圧されている現状に憤りを感じていた人々。
彼らの声と思いこそが、この映画の本当の主役であるとも申せましょう。
ミカン箱の上から通行人に呼びかける(まあミカンの箱であるかどうかは置くとして)まったく草の根の所から始めた活動は次第に大きくなり、街頭を埋め尽くすデモ行進となり、カリフォルニア州全土を巻き込んだ闘いへと発展してまいります。
人々の思いが実際のムーヴメントになってゆくさまには本当に胸が熱くなり、映画の山場である「提案6号」をめぐるスリリングな攻防戦にはまさに手に汗握る思いでございました。



「提案6号」とは、カリフォルニア州内の公立学校から同性愛者の教員、および同性愛者の権利擁護を支持する職員を排除せんとする条例でございます。同性愛者は神の法に背く悪(evil)であり、異常者であり、変態なのだから、子供たちに近づけちゃならん、という言い草。
けっ。
アンチ・ゲイの先鋒である政治家らが「神の摂理」やら「良識」はたまた「ノーマル」という言葉をお吐きんなって、分別ぶった顔で同性愛者を差別するさま-----その中には当時の記録映像もございました-----には、まことに、まことに、まことにまことにまことに、腹が立ちましたですよ、ええ。
ワタクシは宗教を否定する気は毛頭ございませんがね、他者への敵意を根拠づけるために神様が担ぎ出される、という現象はワタクシにはとても醜悪で盲目的なことに思われますよ。そりゃ、そうした言説も、ひとつの価値観として冷静に捉えるべきなんでございましょうよ。でもね、「神聖なもの」を後ろ盾にして人を差別する価値観なんぞ、ぺっぺっでございますよ。

ともあれ
度重なる落選にもめげず4度目の出馬でようやく政治の舞台へと躍り出たミルクはもちろん、この「提案6号」を廃案にするために奔走するんでございます。デモを組織し、敵の本拠地に乗り込んで討論会に臨み、暗殺の危険に身をさらして演壇に立つわけでございます。映画の原作である『ゲイの市長と呼ばれた男 ハーヴェイ・ミルクとその時代』を読むと、実際ミルクが常に暗殺の危険を身近に感じていたということが分かります。
映画の冒頭で40歳の誕生日を迎えたミルクが、僕は50歳までは生きないだろうとつぶやくシーンがございますが、これも脚本家の創作ではなく、ミルク自身が親しい人々に対してしばしば語った言葉でございました。
この不吉な予言どおりに48歳で凶弾に倒れたミルク。
政治活動を始めてから8年。公職に就いてからは、実にたったの11ヶ月。
しかし彼の存在がどれほど大きなものであったかは、実際の追悼行進を再現したラストシーンから、深い悲しみと共に伝わってまいります。

ひとつ申し添えたいことは、本作は決して、信念に殉じて命を落とすということを讃えたものではないということでございます。ミルク自身も死を予感していたとはいえ、別に死にたかったわけではございません。それどころか「生きたい、生きさせろ」と叫んでいたのに、それを許さない人々がいたのでございます。映画はあくまでもミルクの死ではなく、生にフォーカスいたします。
観客は「もしもの時のため」の遺言をテープに吹き込むミルクの回想とともに、彼の気楽なヒッピー時代から最期の日までをたどってまいります。いわば刻一刻とミルクの死に向って進んで行くわけでざいますが、じめじめ感はございません。むしろミルクと彼の支援者たち、そして街頭の人々からほとばしる生き生きとした時代のエネルギーからは、萎縮せずに自分の生を精一杯生きろ!というポジティブなメッセージが発せられておりました。

ショーン・ペンの演技は本当に素晴らしうございました。
カリスマ的な活動家、ジョーク好きの社交家、アグレッシヴな論客、sweetな恋人、そして死の影に脅かされる男。さまざまな側面を持つハーヴェイ・ミルクという人物が、一人の生きた人間として、スクリーンの中で呼吸しておりました。
また、ミルクを射殺する保守派の元同僚、ダン・ホワイトを演じたジョシュ・ブローリンも大変よろしうございました。『ノーカントリー』でユーモアの無い変な髪型の男に追いかけられた彼ですが、今回は自らがユーモアの無いちょっと変な髪型の男になっております。不満と屈辱感を溜め込んで思いつめて行く哀れな人物を、ぴりぴりとした緊張感を出しつつみごとに演じておりました。

ご存知の通り本作は今年のアカデミー賞で8部門ノミネートされ、脚本賞と主演男優賞を受賞しました。
授賞式の当日,会場の周辺にはアンチゲイの人々も詰めかけて同性結婚反対のプラカードを掲げたということでございますが、彼らはそもそもこの映画を御覧になったんでございましょうかね。受賞スピーチでこのことにもしっかり触れたのはさすがにショーン・ペンという感じがいたします。
この作品が世界各地で絶賛され,さまざまな映画賞を受賞していることも、授賞式でのペンのスピーチも、同性愛者への偏見を無くしていくことに一役買うことでございましょう。また、そうあってほしいと強く思う次第でございます。



キンスキー来宅

2009-03-28 | 映画
のろは思いやりのない人間なので否が応にも思いやりを要する歓送迎会といった場には近づいてはいけないのだということをうっかり忘れておりました。
やれやれでございます。

それはさておき

ポポル・ヴーのCDを引っぱり出して聴いていましたら、キンスキー×ヘルツォーク映画がたまらなく観たくなり



勢い余って買ってしまいました。



やっは~い。



もしや特典にこんなのが入っているのではと期待しておりましたが、本編のみで特典映像はございませんでした。

Werner Herzog on Klaus Kinski


でも、いいんでございます。
キンスキーが狂乱状態で下宿のバスルームに立てこもり、48時間に渡って叫び続け、トイレや浴槽をふるいにかけられるほど粉々にして住民を恐怖に陥れたというくだりを聞くだけで、のろはなんだか元気が出てまいります。

なんでじゃろう。

『ラースと、その彼女』

2009-01-29 | 映画
寝ている間にピッキングで部屋に侵入されて本だけごっそり盗まれる
という夢を見ました。
寝覚め最悪でございます。

それはさておき

ようやく『ラースと、その彼女』を観てまいりました。
いやあ、大変いい映画でございました。
前評判がよかったのでそこそこ期待しておりましたが、のろの期待を上回る良作でございました。

ストーリーは↑公式サイトを御覧いただくとして。

ラースと人形のビアンカをめぐる、田舎町のもろもろ。
語り口はユーモラスでございますが、「変な奴 V.S.まともな人」という型通りの、皮肉を含んだユーモアではございません。むしろ、まともな大人を自認する人々も、端から見ればちょっとおかしな嗜癖や子供っぽさを大なり小なり皆持っている、ということがやんわりと語られ、あくまでも優しい視点で描かれております。

やんわりとしているだけに、共感のしどころ、感じどころは見る人によって様々かと存じます。
のろが感じ入ったのは、ラースとビアンカを受け入れる、町の人々の優しさでございます。



もちろんラースが人形に恋したことは、小さな田舎町にとってちょっとどころではない事件でございます。日曜日には皆が教会に集まるような町で、車椅子に乗せられて公然と出歩くセックスドールというとんでもないシロモノが、人々の間にとまどいを引き起こさなかったわけではございません。ビアンカはコミュニティにとって、いわば大きな異物でございました。
しかし町の人々は、異物にそれっと飛びかかって排除したり、ラースをしゃにむに「矯正」しようとしたり、まともではないからと言って村八分にしたりといった頑迷で排他的なあり方はとらず、あえて彼女を受容することを選ぶのでございます。その受容の過程で人々も、ラース自身も、今まで目をそむけて来た様々な感情と向き合うことになります。そして本当に大切なものは何かということに気付いたり、確認したりしていくのでございます。

弟が狂ったと頭を抱えるラースの兄に「何であれ、彼女がやって来たことには理由があるのですよ」と諭す医師。
「たかが人形、大したことじゃないわ。...あんたとこの妹なんて猫に服を着せてるじゃないの!」と言い放つおばちゃん。
ビアンカを教会に入れる入れないで揉めた時、「イエスならどうしただろうか?」と皆に問いかける牧師さん。
こうした知性と度量と優しさでもってビアンカを受容することで、時々ちょっとぶつかりあいながらも前に歩き出す町の人々、そしてラース。

終盤に語られる「彼女(ビアンカ)は私達みんなに素晴らしい贈り物をくれました。私達が思ってもみなかった仕方で」という牧師さんの言葉は、この作品に一貫して流れている知性と優しさとユーモアを凝縮したようなセリフでございます。
「優しい」と申しますとちと柔弱なイメージになってしまいますが、本作はその一貫した優しさの中に、むしろ確固とした気骨を感じる作品でございました。たくましい優しさ、とでも申しましょうか。口調は穏やかかつユーモラスでありながら、その中に、様々な固定観念や偏見に対するカウンターパンチを含んでいるのでございます。

また共感しどころと言えば、ラースの「身体に触られると、痛い。熱いものに触ったときみたいに反射的に身を引いてしまう」という言葉に、触られることが非常に苦手なのろは大いに共感いたしました。ラースは身体的にも精神的にも、人と「触れ合う」ことをとても恐れております。ラースがその恐れを克服していく過程が本作の一番の主題であると申せましょうが、彼の抱いている恐れを描くにあたっての適度な距離感もまた、よろしいものでございました。
べったりとくっついてしまうのではなく、異常なものとして突き放してしまうのでもなく。まさしく町の人々がとった「寄り添う」という態度にも似た絶妙な距離感でございます。観ているこちらも町の人々と一緒に、ラースという内気な青年を見守っているような心地になりました。

北欧映画のような淡々とした雰囲気の漂う本作、意外にもれっきとしたアメリカ映画でございます。またウィキペディアによれば監督のクレイグ・ギレスピーはオーストラリア生まれで、19歳のときアメリカに渡ったとのこと。いやはや、イメージで決めつけてはいけませんね。ともあれ、9.11以降、国際社会で傲慢さや自国中心主義ばかりが目につくようになってしまったアメリカという国で、このような作品が生まれたのは、何かこう、心が明るくなるようなことでございます。




『落下の王国』3

2008-10-10 | 映画
*** 今回はネタバレ話でございます。主にラストに触れておりますので、未見のかたはできればお読みになりませんよう ***




ロイが語る、6人の男の物語。
主人公である仮面の黒盗賊は、初めはアレクサンドリアの亡くなった父の姿で現れますが、物語が進み、中盤でいよいよ仮面を取るとロイの顔が現れます。
ここには二重の意味がございます。アレクサンドリアの側から見れば、彼女にとってロイが、父と同じように特別な人になったということ。そしてロイの側から見れば、アレクサンドリアの気を引くために思いつきで始めた物語、いわば他者の物語だったものが、ロイ自身の物語になったということ。
それ故、語りはじめた頃のロイはアレクサンドリアの興味に合わせて話を作っておりましたが、終盤になると、登場人物を殺さないでという彼女の頼みを振り切って「僕の物語」を語り続けるのでございます。仲間が1人また1人と死んでいき、最後に残された黒盗賊は、いつしか「娘」として物語の中に入り込んだアレクサンドリアを伴って総督オウディアス-----ロイから恋人を奪ったハンサムな主演俳優-----の前に立ちます。

この時ロイは、黒盗賊を殺してしまうつもりだったのでございましょう。
物語の中の黒盗賊は、カッコつけてはいても実は嘘つきのいくじなしで、恋人をオウディアスに奪われたダメな男であるばかりでなく、いたいけな「娘」を物語に深入りさせ、危険な所の中枢までつれて来てしまったエゴ走った男、まさにロイ自身なのですから。
自分のエゴのせいで無邪気なアレクサンドリアの心身を傷つけてしまったロイは自己嫌悪のどん底に陥っています。
現実の自殺には失敗したものの、いや失敗したからこそ、せめて自分の分身である黒盗賊にとびきり惨めで、ぶざまな死を与えるつもりだったのでございましょう。そしてこの時点ではやっぱりまだ自殺を決行するつもりだったのかもしれません。
オウディアスにボコボコに殴られた黒盗賊はなすすべもなく水に沈んで行きます。
鉄橋からはるか下の川へと落下して半身不随になったロイのように。そして絶望の淵に沈んで行くロイの心のように。
分身を殺そうとするロイに必死で抗議するアレクサンドリア。
物語を介して築かれて来た2人の関係が、この時はじめてはっきりと言葉で表現されます。

--盗賊を殺さないで。娘が悲しむわ
--2人は親子じゃない
--でも彼を愛してるのに
--これは僕の物語だ
--2人のよ

ロイはほとんど流すようにしか聞いていなかったことでございますが、アレクサンドリアはアメリカに移住して来る以前、馬泥棒によって父を殺され、家を焼かれるという辛い体験をしております。彼女はロイの物語をただお話として楽しむだけでなく、語り部ロイと黒盗賊を通じて亡き父に会っていたのでございます。即ちロイ/黒盗賊の死はアレクサンドリアにとって、愛する父の二度目の死を意味するのでございます。



これまでアレクサンドリアの流す涙にも、彼女の喪失体験にも全く関心を寄せずにいたロイ。医師や俳優仲間の励ましにも耳を貸さず、自分の不幸ばかりを拡大して見ていたロイは、どんなにさとされても自らの視野の狭さに気付くことがございませんでした。いつしか自分の物語/人生にアレクサンドリアを深く巻き込み、彼女にとってかけがえのない存在になっていることにも気付かきませんでした。物語を仲立ちとした象徴的な会話によってようやくロイは、彼の物語-----彼の人生と死と喪失の象徴-----が決して彼一人のものではないことに気付かされるのでございます。愛する人を失うという傷みが、彼だけに課された重荷ではないということにも。

もしもロイが他人のことなど全く意に介さず、どこまで行っても自分しか見えない人物であったとしたら、「物語」はここで終わりを迎えていたことでございましょう。
幸い、そうはなりませんでした。
あわや溺死とも思われた黒盗賊は水底から猛然と立ち上がり、オウディアスの顔に正面からパンチをお見舞いします。
たった一発、それで充分。「愛と復讐の壮大な叙事詩」の幕切れにしてはいやにアッサリとしておりますが、「復讐」という名の、自分の受けた傷に拘泥する行為はもはやロイの物語のテーマではないのでございます。今やロイにとって大事なことは、彼自身が(この時点では心理的に)自分の力で立ち上がり、彼を愛する娘/アレクサンドリアを安心させてやることでございます。
この直後、ハートのペンダントを投げ捨てるシーンは、ロイの物語で初めて「落下」が肯定的なイメージを持って語られた場面でございます。この時ロイは失った恋人への未練を、そしておそらく、自殺によって恋人と彼女を奪った俳優に復讐してやろうといういじけた心も、すっぱりと投げ捨てることができたのでございましょう。

物語ること、物語を共有することによっていわば「自分の足で立つ」心的な力を取り戻したロイ。のちに彼が身体的にも回復したことが、オレンジ農園のアレクサンドリアによって語られます。
アレクサンドリアはもうロイに会うことはございませんが、映画のスクリーンを通して彼を発見します。

ワタクシは初め、この作品の舞台が映画草創期である1915年のアメリカに設定されている意味がいまいち納得できませんでした。物語ることの双方向性とその力を表現するのがテーマなら、わざわざ時代を100年近くも昔に設定する必要はないと思ったからでございます。ラストシーンに至ってようやく分かったのでございますが、本作は語りと映像によって構成されたファンタジー、即ち映画というものへの讃歌でもあったのでございます。

アレクサンドリアはロイの語るファンタジーの中に父や身近な人々の姿を見いだしたように、映画というファンタジーの中にロイの姿を見いだします。ロイを見分ける記号、それは誰も真似できないようなすごいスタントをこなしていること。走り、飛び、何よりも、「落ちる」こと!
私達が映画という素敵な嘘においてスーパーマンやバットマンやブッチとサンダンスといったヒーローに出会うのと同様、アレクサンドリアはスクリーン上で、ロイという彼女だけのヒーローと出会っております。時計からぶら下がるロイドも給水塔から落っこちるキートンも、アレクサンドリアにとってはロイ・ザ・ヒーローなのでございます。

めくるめく映像美によって落下を描いて来たこの作品の最後を締めくくるのは、壮麗な宮殿でも息をのむ絶景でもなく、白黒サイレント映画を飾った数々のスタントシーン。何度も繰り返された落下のイメージが、まさか『恋愛三代記』(この邦題なんとかならないものか)の、両手で投げキッスをしながら落ちて行くキートンにつながるとは思ってもみませんでしたが、嬉しい驚きでございました。
私達が人生を投影し、泣き、笑い、時には生きる力さえ貰う「物語」への愛とリスペクトが詰まった本作。「映像美だけの作品」と称されるのはあまりにも勿体ないことでございます。監督は私財を投じて制作なさったということでございますので、しっかり資金が回収されて次回作へのはずみともなってほしいものと、心から願わずにはいられません。



『落下の王国』2

2008-10-06 | 映画
橋から落ちる。
窓から落ちる。
オレンジの木から落ちる。

棚から落ちる。
塔から落ちる。
宮殿のてっぺんから落ちる。

手紙が落ちる。
入れ歯が落ちる。
美しい妻が落ちる。

『落下の王国』にはそのタイトルどおり、落下のイメージが散りばめられております。
そも、お話は、鉄橋からの落下スタントのせいで半身不随になっている駆け出しのスタントマン、ロイと、オレンジの木から落ちて腕を折った5歳の少女、アレクサンドリアが病院で出会うことから始まるんでございます。

時は映画草創期、1915年のロサンゼルス。
下半身不随になった上に恋人を主演俳優に奪われ、失意のどん底のロイ。生きる気力もないまま窓際のベッドに横たわっている彼のもとへ、ある晴れた日、奇妙な手紙が落ちて来ます。手紙の主は上の階に入院しているインド移民の少女、アレクサンドリア。
かたことの英語を話すアレクサンドリアは、仲良しの看護婦に宛てたはずの手紙を勝手に読んでいるロイに腹を立てますが、ロイが即興で紡いでみせる物語にたちまち惹き付けられます。病室にしげしげ通うようになったアレクサンドリアに、ある日ロイはこう持ちかけます。
「眠くて続きが話せないよ。夜よく眠れないんだ。薬剤室に行って、眠るための薬を取って来てくれないか」.....

鉄橋からの落下によって恋人と身体の自由とを一度に失ったロイは人生に絶望しています。ロイにとって落下は即ち絶望のイメージであり、必然的に彼が語る物語にも悲しい「落下」が繰り返し現れます。しかしその「愛と復讐の壮大な叙事詩」はアレクサンドリアの想像を通じて、目もくらむほどの美しさをもってスクリーンの上に展開されるのでございます。



珊瑚礁の海を泳ぐ象。
青い街に取り囲まれた壮麗な宮殿。
紺碧の空の下、激しく炎を上げて燃える一本の樹。
4年の歳月をかけ20カ国以上で撮影された、この世のものとも思われない風景。
その中を不思議な衣装をまとった6人の男たちが、駆け、たたずみ、剣を振るい、叫び、微笑み、落下します。
公式サイトのフォトギャラリーを御参照ください)
この夢のような映像だけでも、劇場に足を運ぶ価値がございます。

映像美だけではなく、ファンタジーを通じて現実を乗り切る、というのろごのみのテーマも単純ながらきちんと描かれておりまして、話としても上出来と言ってよろしいのではないかと。もっとも、全然きちんと描かれちゃいないぞと思ったかたもおいでのようなので、貴方がどうお感じんなるか保証はできませんが。
どちらかというと「観客に預ける」タイプの作品ではございますが、例えばタルコフスキーのように観賞後じっくりと考えこむことを要請するほどではなく、はたまた『クリムト』のように監督が凝りに凝った(のであろう)耽美映像をただただ流して90分終了、というものではなく、語りすぎないエンターテイメントとして丁度いいさじ具合であったと思います。
しかもじっくり考えるといっそう味わい深い作品でございます。
それについては次回に語らせていただきたく。

のろは5歳のアレクサンドリアと一緒に時にわくわくと、時にうっとりと、ロイの語るおとぎ話の世界に耽溺いたしました。一方で、はたしてロイは絶望の淵から抜け出すことができるのだろうか、自殺してしまうのではないかとはらはらしながら。
そして終盤では例によって涙と鼻水にまみれ、ラストシークエンスでは監督の映画愛をひしひしと感じ、暖かく満ち足りた思いに満たされて劇場をあとにしたのでございました。


次回はちとネタバレ話をさせていただこうと思います。

『落下の王国』

2008-10-02 | 映画
タイトルだけで「観よう」と決めた作品なんてめったにございません。
この作品が初めてであったかもしれません。
現代は単に「落下」(The Fall)でございますから、秀逸な邦題をつけたかたに大いに感謝せねばなりますまい。

映画「落下の王国 - The Fall -」オフィシャルサイト

夢のような作品でございました。
そうそうたるロケーション、息をのむ映像美、繰り返される落下のイメージ。
絶望した青年が即興で紡ぎ出す幻想的な物語の、えも言われぬ輝き。
文字通り、鳥肌が立ちました。


後日もう少しまとまった感想を述べさせていただきたく。

フェアリーテイル祭り3

2008-09-24 | 映画
9/22の続きでございます。

・3匹の子豚(ビリー・クリスタル/ジェフ・ゴールドブラム 監督:ハワード・ストーム)

B・クリスタルが演じるのはアーティスト志望の三男豚。
ファッションも含めてとても可愛らしいんでございますが、本作の見ものは何たってジェフ・”ハエ男”・ゴールドブラムの狼でございます。
顔の真ん中に長い鼻づらをくっつけて、お尻にぞろりとご立派な尻尾をぶら下げてのご登場。
しかしなんとまあ、これが意外にカッコイイのですよ。



ふさふさのロングコートを羽織り、サックスのBGMを従え、葉巻をくゆらせながら
「ドアを開けろ。さもないと、プーと吹いて、フーと吹いて・・・・・・吹き飛ばすぞ」
うひゃあ、渋い。アホだけど渋い。
かなりのアホでその上恐妻家というダメ狼の役でございましたが、ハエ男ファンなら必見の作品と申せましょう。
ベタでアホすぎる言動が実に素敵でございました。
「お前などゴミだ」と言って蹴散らしているのは本当にゴミですし。
「そこをどけ・・・どけと言うんだ。お前、耳が無いのか?」と凄んでみせる相手は道ばたの木だったりしてね。そりゃあ無いでしょうよ耳は。

アーティストな三男豚が頑丈さと美観にこだわってレンガの家を建てるのに対して、拝金主義でケチの長男豚は安上がりなワラで、プレイボーイの次男はナンパした女の子豚を連れ込むために、とにかく手っ取り早く木の枝で家を建てるというのも面白うございました。


・ラップンゼル(シェリー・デュヴァル/ジーナ・ローランズ 監督:ギルバート・ケイツ)

ラプンツェルのことでございます。
ジーナ・ローランズ演じる魔女はとてもよかったんでございますが、それ以外にはあまり見るべきものはございませんでした。
「友達」として与えられた鸚鵡のせいで王子様のことがバレてしまう、というのは上手いと思いましたけれど。


・赤ずきんちゃん(マルコム・マクダウエル/メアリー・スティーンバージェン 監督:グレーム・クリフォード)

マルコム・マクダウエルがもう ノ リ ノ リ でございまして。
「三匹の子豚」のジェフ狼は長身で手足がすらりと長く、まがりなりにもビッグ・バッド・ウルフの体裁を保っておりましたけれども、マルコム狼は元妻演じる赤ずきんちゃんとさして背丈も変わらず、空腹だったとはいえお婆さんにさえ撃退されてしまうヘタレぶりでございます。
のちに赤ずきんちゃんから、お婆さんが病気と聞いて「じゃあ少しは弱ってるだろうね」と喜ぶ始末。



この作品の魅力はとにかくマルコム狼につきます。
「あのババァ、さては胆石持ちだったのか」とぼやくオチもナイスでございます。


・えんどう豆とお姫様(ライザ・ミネリ/トム・コンティ 監督:トニー・ビル)

王子様役のトム・コンティ、どっかで見た顔だなァと思っておりましたら、『戦場のメリークリスマス』のローレンス中佐じゃあございませんか。
おお、 めりぃ・くりーすます、みすたあ・ろーれんす!

それはさておき。
完成度の高い作品でございました。
他の話と同じく、セットはごくチープなんでございますが、きちんと作られた映画を一本見たような心地になりました。
原作はごく短いお話でございますから、50分もどうやってもたせるのかと思いきや、間延び感もなく、余計なネタもなく、伏線もきっちり張られておりまして、なかなかに見事な出来でございます。

嵐の夜にずぶ濡れで転がり込んで来たやんちゃなお姫様と、彼女にしぶしぶ宿を貸した頼りない王子がしだいに惹かれあっていくさまが、王子の親友の道化師や魅力的とは言いがたいお妃候補たちなど、原作にはないキャラクターをうまく活用して描かれております。
ライザ・ミネリ演じるお姫様がとってもチャーミングでございましてね。
黒いドレスのよく似合う、サバサバとしていながらも包容力のある女性で、王子があんなボケナスじゃなかったらすぐにでも結婚を申し込んだ所でございましょう。
もっとも王子もボケナス一辺倒なわけではないことが、さりげなく描かれておりまして、これもたいへんよろしうございました。
ラブコメ嫌いなのろではございますが、最後は何となく幸せな気分になりましたとも。


・ジャックと豆の木(エリオット・グールド/デニス・クリストファー 監督:ラモント・ジョンソン)

ジャックが牛を「魔法の豆」と交換して帰って母親に叱られるシーンを見て、ギリアムの『ブラザーズ・グリム』の冒頭を思い出し、ちと切なくなってしまいました。
『ブラザーズ~』では、夢見がちなジェイコブ少年がこれをやったせいで、病気の妹が死んでしまうのですよ。病院へ行くお金が工面できなくて。
で、そのことをずっとトラウマとして抱えたまま、ジェイコブ(弟)とウィルヘルム(兄)のグリム兄弟は大人になって・・・というお話。
ちなみに『ブラザーズ~』は世間的には評価が低いようでございますが、ワタクシは大好きでございます。
いいじゃございませんか、ギリアム節。おとぎ話の勝利。
ジョナサン・プライスもナイス悪役でございましたし、ピーター・ストーメアもとってもよかった。
エンドクレジットまで彼とは気付かなかったけれども。(なんたること)

閑話休題、ジャックと豆の木でございますね。
これはもともとのお話にけっこう忠実に作られておりまして、その分ぶっ飛んだ遊び要素があまりございませんでした。
まあ、こう思ったのはのろがここに至るまでにロビン蛙やマルコム狼のぶっ飛びぶりに慣れてしまったせいかもしれませんが。
ただ学芸会からそのまま引っぱって来たようなかぶり物の牛は、たいへんのろごのみでございましたね。
リアルに作ろうという努力がほとんど見えない所がかえって清々しい。



以上、全体として、軽めなノリと監督&俳優の遊び心が実に楽しい作品群でございました。
逆に言えば、冗談を控えめにして「いい話」として仕立てようと試みた作品は、あまりいい出来ではなかったように思います。
今週の土曜日から上映される他の4作品もできれば観に行きたいと思っておりますので、何よりもティム・バートンやクリストファー・リーがどれだけぶっ飛んでくれているかに期待を寄せている次第でございます。



フェアリーテイル祭り2

2008-09-22 | 映画
行ってまいりました、オールナイト。
昨日は『脱力が予想される」などと失礼なことを言ってしまいましたが、どうしてどうして、たいそう面白うございました。
それぞれのお話の感想をざっと申し上げますと。

・美女と野獣(クラウス・キンスキー/スーザン・サランドン 監督ロジェ・ヴァディム

美女の尻に敷かれる野獣が印象的でございました。笑
スーザン・サランドンのいじわるな姉役になんとアンジェリカ・ヒューストンが。
料理をしている姿が魔女に見えましたが、とにかく「無駄に豪華な俳優陣」といううたい文句には納得した次第。
キンスキーはですね、やっぱり下手に特殊メイクするより素顔の方がだんぜん恐いです、ええ。



野獣の時はともかく、王子様キンスキーは案の定、ものっ  すごく変でございました。
奴にスカイブルーを基調とした王子様コスプレをさせようなんて、一体誰が思いついたんだか。
本人もよくゴネなかったなあ。いや、ゴネたのかもしれませんが。
せめてもう少しキンスキーに似合うような衣装にできなかったものか。
奴にどんな衣装が似合うのかって。そりゃあ、鎧とか、開襟シャツとか、カウボーイハットとか...ううむ、駄目か。
ワタクシとしてはキンスキーの台詞回しが聞けただけでも満足でございますが、作品の出来はいまひとつであったと思います。
後述の「ラップンゼル」にもあてはまることですが、セットや特殊効果がチープなだけに、シリアスなドラマをやろうとすると、そのシリアスさが浮きまくってしまうんでございます。

・三匹の熊(キャロル・キング/テイタム・オニール 監督:ギルバート・ケイツ)

ベタな小ネタ満載で面白うございました。
当時19歳のテイタム・オニールに7歳くらいの少女を演じさせるのはさすがに無理があるものの、これもネタの一環として見るべし。

・カエルの王子様(ロビン・ウィリアムズ/テリー・ガー 監督:エリック・アイドル)

いやー面白かった。上映していたのは深夜2時頃でございますが、眠気を感じている暇など全くございませんでした。
さすがにモンティ・パイソンなみの毒っ気はございませんが、子供向けともとうてい思えません。
王女様が「何人もの王子をふってきた私がカエルとヤルですって?!」なんて台詞をお吐きになりますので。
ナレーションオチになってしまったのだけはいささか残念でしたが、めでたしめでたしの部分はあんまり茶化しがいがなかったのかもしれません。
ロビン・ウィリアムスはやっぱりスゴイですね。
全身タイツに表情が全く動かないかぶりものといういでたちだったんでございますが、声と見ぶりの表情がそりゃもう豊かで。
あんなスタンダップ・コメディの極意を心得たカエルなら、王女様がいかに嫌がってみせようとも、たちまち皆の人気者になってしまうのも無理はないというもの。
なにせ「何をやっても大ウケだったのです」笑



次回に続きます。

フェアリーテイル祭り

2008-09-20 | 映画
これからみなみ会館のオールナイト上映、フェアリーテイル祭り オールナイトへ行ってまいります。
上映作品はリンク先↑のとおり。
画像から見ても、何となーく脱力が予想されるプログラムではあります。

のろがなんたって楽しみなのはクラウス・キンスキー&スーザン・サランドンの『美女と野獣』でございます。
野獣の時はまあノーメイクでもいけるとして、王子様に戻ってからもキンスキーが演るんでしょうか?
ううむ、何と悪人面の王子様だろう。

それについで楽しみなのがマルコム・マクダウェルの『赤ずきんちゃん』。

マルコム・マクダウェルの狼ですぜ、狼。
狩人にお腹をかっさばかれる間抜けな狼ですぜ。



ハラショー。

それからエリック・アイドル監督、ロビン・ウィリアムス主演の『カエルの王子様』も気になる所でございます。『バロン』に先立つこと7年でございますが、この2人はもともと親交があったのですね。

おお、そろそろ出なくては。
では。

『ぼくの伯父さん』

2008-09-14 | 映画
駅ビルシネマ・フランス映画祭でジャック・タチの『ぼくの伯父さん』と『ぼくの伯父さんの休暇』を観てまいりました。

『ぼくの伯父さん』の方は10年ほど前にTVで観ておりましたので今回はパスしようかとも思いましたが、やはり行ってよかった。


ああ、ユロ伯父さん。
飄々としたトラブルメーカー。
呑気で無邪気でとんでもなく間が悪い、稀代の「KY」。
ほとんど何も喋らないけれど、楽しいことが大好きなユロ氏はまるで子供のようでございます。
自分では普通に振る舞っているつもりなのに、驚異的な間の悪さと「常識」から3歩ほど隔たった発想によって周りの世界を機能不全に陥られせてしまう。
その飄逸なキャラクターは、タチが尊敬するバスター・キートンのキャラにどこか通じるものがございます。
ポーカーフェイスで善良なところも似ておりますね。
もちろんキートンのような超絶アクションは全然ございませんけれども、代わりに風刺のスパイスがぴりりときいております。




ユロ氏の乗り物がまた、いかしてるんでございます。
『ぼくの伯父さん』ではエンジン付き自転車(あえてこう呼ばせていただきます)、『休暇』では今にも分解しそうなポンコツ車。
そのポンコツぶりたるや、コロンボ刑事の愛車さえこれと並べば新品に見えようというぐらいなシロモノございます。
これらが周りのゴージャスな車と対象的で、お金持ちではないけれども幸せな、我が道を行くユロ氏を象徴しております。

ユロ氏はいたって幸せそうなんでございますが、会社社長でリッチな生活を送る義弟はユロ氏を全く理解できません。
定職にも就かず、結婚もせず、下町の古いアパートでのほほんと暮らしているユロ氏は、モダンな家で暮らし、ピカピカの車を乗り回す社長にとっては与太者にしか見えない。
海辺のリゾートにやって来た、良識ぶった人々の目にもまた、ポンコツ車をガタピシバンバン言わせて走るユロ氏の姿は、はた迷惑な変人として映ります。
でも当のユロ氏は、義弟の渋面にもプチブルジョワたちの白い目にも全然気付かない態で、飄々と日々の生活を楽しみます。
犬とたわむれ、カナリヤをさえずらせ、ご近所さんたちと一杯やり、甥っ子と手をつないで遊びに行くんでございます。

そんなユロ氏のマイペースっぷりにあきれ顔の人々、即ち常識的な小市民たちもまたユロ氏に負けず劣らず、いや実はそれ以上に、滑稽なんでございます。
モダンでカッコイイ義弟の家はその一方で、殺風景で見栄っ張りな感じがいたしますし、どこか間が抜けております。
それと同様に、ホームパーティで社交辞令合戦に終始する義弟とその友人たちや、リゾートに来てまで株価の上下ばかり気にしている紳士、深刻ぶった顔でラジオニュースに耳を傾け、せっかくの仮装パーティには参加しようともしない人々は、いかにもいっぱしの大人という顔をしておりますが、何だか間が抜けており、滑稽でございます。
まあ、変な海賊の仮装をしてパーティに繰り出すユロ氏も、間が抜けていて滑稽で、その上子供っぽいんでございますが、こちらはとっても素敵でございます。
何故ならユロ氏はカッコつけたり、見栄を張ったり、良識ぶったりすることなく、素直かつシンプルに人生を楽しんでいるからでございます。

そんなユロ氏を見ていると不思議と「人生、何があっても大丈夫」という気がしてまいります。
不器用でも、お金が無くても、なんとかなる。
生きるのって楽しいことなんだから。
ひたすら無口なユロ伯父さんは、無言の内にそう語ってくれているのじゃないかしらん。
10年前ののろは、気付かなかったけれども。






『赤壁』に...

2008-08-28 | 映画
* 注:今回は三国志演義に興味のないかたにはさっぱり要領を得ない話であろうと存じますが、悪しからずご了承くださいませ。*



甘寧興覇 略して甘興覇が いないたぁ どういうことですか?

甘寧親分ではなく、代わりに中村獅童氏の演じる「甘興」なる架空のキャラクターが活躍するんですと?
なんじゃあそりゃあぁあ!!(ジーパン風に)

それからねえ、ジョン・ウー殿、鳩を飛ばせたければいくらでも飛ばしてくださいまし、
スローモーションも好きなだけお使いなさい、
2丁拳銃ならぬ2丁弩が登場してもワタクシは喜んで受け入れましょう、
しかし
赤壁の戦いにロマンスなんぞ挟まないでくだせえましよ!
タイトルロゴが密かにハート形になってるのはそういうことなんでございますか?!
よりによって赤壁でござんすよ、赤壁!まさしく天下分け目の大戦じゃございませんか。
勘弁してくださいましよ!
だいたい三国志に出て来る女なんて貂蝉と雛氏だけで充分でございまさあ!
この2人の傾国の美女が三国志の全お色気を担っているんじゃございませんか。
あとの美女連中は名前だけで結構でございますよ、 名前だけで。
閨房の周瑜と小喬なんぞ覗いてる暇があるんなら、連環の計をめぐる虚々実々の駆け引きですとか、甘寧と凌統の確執なんかをみっちり描いてくださいましよ!
って言っても甘寧はいないのか。ギャー!

あとねえ、孔明役には他の人はいなかったんでございますか?
金城氏が悪いってんじゃございませんけれども、どうも将来過労死する御人には見えないんでございますよ。
当初のキャスティングどおりトニー・レオンだったらドンピシャだったのになあ。
まあ身長と年齢に少々の難がございますけれどもさ...


と まあ
公開に先駆けてちと不満をぶちまけてみたわけではございますが。
ぶちまけたからにはこれ以降はおとなしくして、神妙に公開を待ちたいと思います。
こんだけぶーぶー言ってるくせに観に行くのかって。
ええ行きますとも。もちろん行きますとも。
ジョン・ウー演出の「長坂坡一騎駆け」だけでも、観に行く価値があろうってもんでございます。
ああ、長坂坡一騎駆け。
この言葉だけでもわくわくしてまいりますよ。
最初の10分で終わりですって?それでもよろしうございます。
ちょうはんはいっきがけ。
ちょうはんはいっきがけ。
わくわく



甘..

いや、もう黙りますとも。