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のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

悪夢

2008-08-18 | 映画
『ノーカントリー』のDVDを発売日にさっそく購入しまして。
購入したはいいものの、手に入れたことに安心して特典映像も見ずにほったらかしていたんでございますよ。
そしたら何が祟ったのやら存じませんが、先日ノーカントリーがらみの実に嫌な夢を見ましてねえ。

どういう夢かと申しますと、のろが『ノーカントリ』の別バージョンを見ているというものでございます。
それはコーエン兄弟が「終わり方ががすっきりしない」「よくわからん」などなどの批判を受けて作った「ラストがすっきりするバージョン」なのでございます。

最後にシガーが殺されて、めでたしめでたし。


最悪でございました。


おお、夢でよかった。
いや、夢でも見たくはなかった。
たとえ脳内にせよ、かくもひどいシロモノを生産してしまって、コーエンズに申し訳ないような気がいたします。

ノーカントリーがらみの悪夢を見るんだったらせめて
こんなのとか




こんなのとか




こんなのが



よかったなあ。

二度と目覚めないかもしれませんが。
それもまたよし。

『インディ・ジョーンズ』

2008-07-20 | 映画
考えてみればハリソン君に劇場で会ったことが一度もなかったなあと思い
インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国を観てまいりました。

いや、面白うございましたよ。
ジョーンズ先生、相変わらず古代遺跡を破壊しすぎでございます。
そして相変わらずの三枚目ヒーローっぷり、素敵でございました。

ただ「インディ・ジョーンズ」に別段思い入れのない人や、思い入れがあってもごく冷静に作品を鑑賞できるかたが御覧になっても「面白い!」と思えるかどうかは、ワタクシちょっと分かりません。
まあかく申すワタクシとて「インディ」シリーズにものすごく思い入れがあるってわけではございませんが、あのテーマ曲を聴いただけでワクワクして来るという手合いではございます。
のろと共に客席に座っていた皆様も同類でいらっしたらしく、映画が終わってもエンドロールが最後まで流れて場内が明るくなるまで、誰も席を立ちませんでした。蛇が出て来ただけでみんなワッと笑ったりしてね、なかなかいい雰囲気でございました。
そんなわけで若干の思い入れ補正も手伝ってはおりましょうが、とにかく最後までおおむね楽しく見ることができましたので、多少のツッコミどころには眼をつぶることにいたします。

何たって今回はね、悪役がよろしうございますよ。
アクション・エンターテイメントは悪役が命でございます。
「インディ」シリーズはのろの中で、悪役には大して魅力が無いのに好きな映画、という特異な場所を占めておりました。
が、本作の悪役はケイト・ブランシェット姐さん演ずるソ連軍のエージェントでございます。
魅力的でないわけがございません。


いや、こんな場面はありませんが。

背筋をぴりっと伸ばし、薄い唇の端をつり上げ余裕の表情で微笑むその姿の何と美しいことよ。ロシアなまりもきまっております。細身の剣を振るってのちゃんちゃんばらばらもカッコようございました。
特に断崖絶壁でのカーチェイスのシーンがよろしうございましたねえ。
インディ陣の車を崖っぷちへと激しく追いつめつつニヤッと笑って「さよなら、ドクトル・ジョーンズ」。
うひゃー 最高。

ワタクシとしてはもっともっと執拗に冷酷に主人公サイドをを苦しめていただきたかったのでございますが、そうしたらかくも美しく咲き誇る悪の華の前に老ハリソン君や若造シャイア・ラブーフはすっかり食われてしまっていたことでしょうから、まああのくらいのご活躍で丁度いいのかもしれません。

カッコいいといえばワタクシは全シリーズを通して、ジョーンズ先生が一番カッコよかったのは『魔宮の伝説』で、今にも閉じようとする壁の隙間から手を伸ばして帽子を回収したシーンだと思っております。あの、虫うじゃうじゃシーンの直後のとこでございますよ。腕しか写っておりませんがね。
帽子ってのは「なきゃ死ぬ」ってなものではございません。しかもあの宮殿、地下でございます。日よけは無用のはず。
にもかかわらず、わざわざ危険を冒して愛用の帽子を回収するジョーンズ先生。あのダンディズムには痺れました。

そう、インディ・ジョーンズといえば帽子と鞭でございます。
今回は鞭の方はあまり活躍いたしませんでしたが、帽子は相変わらずの名小道具ぶり。
最後のシーンの帽子づかいなどは、いよっ、ファンの心を分かってるねェ、とかけ声のひとつもかけたくなるニクい演出でございました。

そんなわけで、かのシリーズの続編としてなんと19年ぶりに制作された本作、のろには充分満足のいく作品でございました。
・・・・・

とは申せ
多少のツッコミどころには眼をつぶるものの、これだけはちょっといただけないというものが一点ございます。
原爆実験のシーンでございます。
ハリウッドの娯楽作品中で原爆が使われるのは、残念ながらそう珍しいことではございません。
本作で描かれているような原爆実験は実際に行われていたことでございますから、おそらく冷戦まっただ中という時代性を強調するイベントとして脚本に組み入れられたものと存じます。
その点、原水爆をただ単に超強力な兵器としてしか扱わない他の作品ほど不謹慎なものではないと申せましょう。
ずるずると溶けて行くマネキンの顔や一瞬にして燃え上がる犬のぬいぐるみの映像を挟んでいることにも、制作者の誠意を、まあ、感じないではございません。
しかしこのシーンでジョーンズ先生は完全に被爆しております。
数日で死に至らなかったとしても、白血病や癌を発症する高い可能性を否応無く背負い込んだはずでございますが、もちろんそうした危険性が映画の中で語られることはございません。
直後に「どっぷり放射能浴びてもしっかり洗っとけば大丈夫サ」と言いたげなシーンがございます。これはおそらく核の危険性に無頓着であった当時のアメリカを皮肉っているんだろうとは思いますけれども、それこそ「原爆=超スゲー強力な兵器」という程度の認識しかない人に対してこの皮肉が皮肉として機能するかどうかは、甚だ疑問でございます。
ハリウッドにおける安易な原爆づかいを鑑みるに、少なくともアメリカにおいては、この原爆実験シーンから皮肉を読み取る人は少数派なのであろうと思わざるをえません。

スピルバーグかルーカスが、例えばドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』を観た後でもなお、このシークエンスをあえて入れたであろうか?
娯楽作品は理屈抜きに楽しむのが鉄則とは申せ、ジョーンズ先生の頭上に高々とそびえるキノコ雲を見て、こう考えずにはいられないのでございました。



再びキートン話

2008-07-03 | 映画
キートン帽 がそこそこうまくできたので、調子に乗ってまた帽子を作ってみました。



つばのストライプが斜めになってしまいましたが、形はまあまあうまいこと出来たようでございます。
モデルは『キートンの蒸気船』でキートンがかぶっていたこれ。



本当はもっとピシッとしたマリンキャップなのですが、雨に濡れてつぶれているんでございます。そのつぶれ具合がよろしい。
これを常々かぶっていたら、のろもキートン演じるウィリーのように、心優しくて一生懸命なやつになれるかしらん。無理だろうなあ。

それにしてもバスター・キートンの横顔は完璧でございます。
仮に人類がこの先千年永らえたとしても、こんなみごとなシルエットの持ち主は二度と現れますまい。


*注 人差し指が短いですね。幼少の折りに洗濯物絞り機に巻き込まれたためなんだそうでございます。本人いわく私は泊まっていた下宿屋の裏庭によちよちと出て行った。ちょうど雇い人の女の子が服を絞り機にかけていた。私はこの絞り機がいたく気に入ってしまい、つい人差し指をまっすぐ突っ込んでしまったのである。(『バスター・キートン自伝』 筑摩書房 1997 p.16)

かの淀川長治さんはしきりにキートンのことをブサイクブサイクとおっしゃいましたけれども、ワタクシはキートンの風貌を「ギリシャの若い神」のそれに例えた映画研究家のジョルジュ・サドゥールや、「キートンは私がスクリーン上で出会った最も美しい人物のひとりである」と語った語ったオーソン・ウェルズの方に賛成いたしますよ。
もちろんウェルズの言う「beautiful」は容貌の美しさだけを言ったものではないこととは存じます。また、キートンがいかに端正な顔立ちをしていたとて、それはごく瑣末なことではございます。キートンをキートンたらしめるその他の要素、即ちコメディアン、俳優、そして監督としての才能や驚異的な身体能力といったものの大いさから比べれば。

話を帽子に戻しますと。
先日のろ宅に届いた『Buster Keaton Remembered』に、例のキートン帽の正式な作り方が書いてございました。

この本はキートンの3番目の夫人で26年間連れ添ったエレノアさんによる語りおろしと、キートンのフィルモグラフィ、そして多数の写真で構成された回顧録でございます。
のろが本でもネットでも見たことのない写真がたくさんあり、しかも大判で高画質なもんですから、まったく感涙ものでございます。『ライムライト』でチャップリンと共演した時のリハーサル風景まであるんでございますよ。尊敬と愛情のこもった作品解説や撮影の裏話も、読んでいてたいへん楽しうございます。


キートン帽が舞う見返し。ナイスでございます。

キートン帽の作り方は以下の通り。
「ステットソン社製のソフト帽の裏地を取り払い、クラウンを潰して平らにする。つばを2インチ(6センチ弱)幅まで刈り込む。カップ一杯のぬるま湯にティースプーン山盛り3杯のグラニュー糖を溶かし、つばの上下からしみ込ませる。スチームアイロンでつばを平らにならし、固まるまで乾かす」
つばのピンと平らな状態を崩さないように、帽子を持つときは必ずクラウンの部分を掴んだ、とのこと。この一文を読んだとき、のろの脳裏にはキートン映画の数々の場面がわわわっとフラッシュバックで流れたのでございました。確かに、帽子を持ち上げる場面では必ず頭頂部のへこみに指をひっかけて、クラウン部分だけを持っているんでございますよ。その持ち方も含めてトレードマークにしていたのかと思っておりましたが、成程、そういう事情だったとは。

キートン帽にまつわる面白いエピソードも語られております。
映画のプロモーションでドイツへ行ったときのこと。
新しい帽子が必要になったキートンは、エレノアさんと連れ立ってホテルのすぐ横の小さな帽子屋へ。
言葉が通じないので、パントマイムで意思疎通をして、フェルト帽とはさみを出してもらうとキートン、いきなり帽子の裏地をひっぺがし、つばをジョキジョキと切りはじめる。
なにしろまだ代金を払っていなかったので、店主である小さいお爺さんは驚いて卒倒せんばかりだったといいます。
しかしキートンが変形し終えた帽子をかぶって見せると、店主さんも目の前のお客が何者で、今いったい何が起こっていたのかにようやく気付いたのでございます。

いたずら好きだったキートン。自伝の中で我々のいたずらはただ笑いのためだけだった。だから人を傷つけたり侮辱したりする残酷な仕掛けは絶対に使わない。.....我々のいたずらは、引っ掛けられた当の本人があとで一緒に笑えるようなものばかりだった。(p.120)と語っております。
この帽子のエピソードも、そんないたずらのひとつと申せましょう。
キートンと友人たちによる、情熱的なまでに手の込んだいたずらの数々は、『自伝』の中でつぶさに読むことができます。

私の顔のことではすっぱい顔、死人の無表情、凍り付いた顔、偉大なる石の顔、そして信じようが信じまいが、「悲劇的なマスク」とまで、長年のあいだいろいろな呼び方をされてきた。という語りで始まる『自伝』、そりゃもうとにかく面白いんでございます。
のろは読みながらゲラゲラ笑い、ほんの少ししんみりとし、最後にキートンが再び自身のことを「凍り付いた顔の小男」と称するくだりでは、全然泣き所ではないのにばーばー泣いてしまいました。

甚だ残念かつ腹立たしいことに、日本語版の『自伝』は現在、絶版状態でございます。
他にもキートンを主題とした書籍はいろいろあるのでございますが、日本国内で出版されたものは全て絶版。
チャップリン関連の書籍なら普通に書店の棚に並んでいるというのに。
キートン贔屓のワタクシには、全くもって納得のゆかぬことでございます。
そんなわけで若干の憤懣をこめつつ、世界の片隅でキートン愛を叫ばせていただきたく。

Viva! キートン。


13金

2008-06-13 | 映画
13日の金曜日は久しぶりでございますね。

そういえばかのジェイソンさんは近年とうとう宇宙まで進出なさったという話を風の噂に聞きましたが、今後はどうなさるんでしょうね。
いよいよ『エイリアン V.S プレデター V.S ジェイソン 』でしょうか。いっそのこと『エイリアン V.S プレデター V.S ジェイソンそしてフレディ 』で四つ巴の戦いをくりひろげていただきたいもんでございます。そこにヴァネッサ・パラディが乱入し、ジャック・ニコルソン大統領も手斧を振るって応戦し、ジョン・トラボルタが厚底靴でプレデターどもを蹴散らしてくだすったらなおよろしい。
うっかり地球に落ちて来て捕虜になったデヴィッド・ボウイは鬼軍曹ジョージ・タケイによって生き埋めにされ、トミー・リー・ジョーンズがコーヒー片手に「最近の宇宙人は理解できん」とぼやき、研究のためにひそかにエイリアンを培養していたランス・ヘンリクセンの野望はデコの広さでライバル関係にあったNASAのエド・ハリス管制官によって打ち砕かれるものの、彼もまた嫉妬に狂った宇宙のトラック野郎デニス・ホッパーに撃ち殺されるという展開だったらいっそうよろしい。
最終的にはエイリアンに喰われて半身サイボーグになったチャールズ・ダンス博士のはからいで、シガニー・ウィーバー率いる『ギャラクシー・クエスト』の面々が勝利を収めてしまう、という話だったら劇場で1800円払ってもようございます。


ううむ
今回は『アンカー展』レポートをするつもりだったのですが、すっかり話が妙な方向へ行ってしまいました。
アンカー展ばなしはまた次回ということで・・・。




キートン帽

2008-05-08 | 映画
自慢じゃございませんが小学校から高校を通じて、家庭科の課題をまともに提出できたことは一度もございません。
まともに、どころか、提出まで漕ぎ着けたこと自体が稀であったと記憶しております。
そんなのろではございますが、唐突に思い立ってキートン帽を作ってみました。



ミシンがございませんので、オール手縫いでございます。
何故こういう誰の役にも何の役にも立たないことにだけ情熱を注いでしまうのか、自分でも不思議でございます。

裏はもちろんストライプで。


キートン帽。
バスター・キートンのトレードマークである、あの、ぺちゃんこのポークパイ・ハットでございます。
街路を爆走する時も、西武の荒野を行く時も、小作りな頭の上にちょこんと乗っかっているあの帽子。
海に落とされる時も、列車から放り出される時も、天国への階段を駆け上る時も手放さないあの帽子でございます。

もっとも、ロイドには眼鏡が、チャップリンにはチョビ髭が必須(『ライムライト』は別として)という感があるのに対し、キートン帽は必須というわけではございません。
彼の一番のトレードマークはメイクや衣装ではなく、そう、あの、もの悲しげな”ストーン・フェイス”だからでございます。
決して笑いもしなければ泣き叫びもしないあの生真面目な顔があるかぎり、毛皮をまとった原始人を演じていようと、大金持ちのお坊ちゃんを演じていようと、そこにいるのは100%、ぼくらのキートン、なのでございます。

そんなわけでキートンはキートン帽にこだわわず、シルクハットやら、ハンチングやら、官帽やら、劇中でいろんな帽子をかぶっております。
それらがまた、よく似合うんですね。
ギャグの小道具としてもしばしば帽子を活用しております。『キートンの蒸気船』では、キートン帽というもの自体をギャグにしております。

洒落たベレー帽をかぶって、長年会わずにいた父親の前に現れたキートン。
ちっぽけな蒸気船の船長である無骨な父親は、息子のチャラチャラした恰好が気に食わない。
で、帽子屋に連れて行かれたキートンは店員にさまざまな帽子をとっかえひっかえかぶせられる間、大人しく突っ立っているんでございますが、キートン帽をかぶせられた時だけ猛烈な勢いで拒絶するんでございます。「こんなダサい帽子を勧めるなんて!」と言いたげに、目をひんむいて。
ほんの2、3秒の瞬間ギャグなんでございますがね、キートンの必死な顔と電光石火で帽子をむしりとる動きがもう最高で、ほんとに、爆笑ものでございました。



実物のキートン帽はグレーのフェルト地に黒のリボンでございます。そもそもは市販のソフト帽子のてっぺんを潰し、つばをぺたんこに伸ばしたもので、キートン自らあの形に加工したものなんだそうでございます。

のろ製キートン帽はちょっと潰しすぎたようで、外でかぶったらすぐに風で飛ばされてしまいそうです。
まあ、もとより外でかぶるつもりは全然なかったんでございますがね。
これを頭にのせて歩いているだけで、犬や警官が追っかけてきそうでございますもの。





『ノーカントリー』3

2008-04-15 | 映画
4/8の続きでございます。
引き続き、何でシガーはあんなにも怖いのかって話でございます。

*以下、引き続きネタバレでございます*


シガーと知り合いである殺し屋ウェルズは、シガーはどんな人物かと訊ねられて「奴はユーモアの解らん男だ」と言い、また「金やらドラッグやらそういったものを超越したprinciple(原理、原則、行動指針、主義信条)を持っている」とも言います。
ユーモアがないとはつまり、あらゆることを大真面目に受け止めてしまうということでございます。これはガソリンスタンドの店主との対話シーンで、おそろしい緊張感とそこはかとない可笑しみをもって描かれておりますね。
初盤のこのシーンと、エンディング近くのモスの妻カーラ・ジーンとの対話シーンで、シガーは例のコイントスをいたします。この二つの対話とコイントスのシーンから、ウェルズが言及しているシガーのprincipleの一端を伺うことができます。
即ち、「偶然も、必然も、人が意図してたどり着いた状況も、意図せず成り行きで陥ってしまった状況も、ひとしなみに見なす」ということ。そして「ほんのささいに見えるあらゆるものごとが生の大きなターニングポイントとなりうる」ということでございます。これらはシガーのユーモア感覚のなさとも関係しております。

ガソリンスタンドの老店主は、妻の父の持ち家でこの商売を始めたのはほんの数年前のことで、それまでは別の土地で暮らしていたと言い、「財産付きの結婚をしたわけだ」というシガーの言葉を否定します。店主にしてみれば家と店が自分のものになったのは偶然と言ってもいいようなものであり、少なくとも結婚当所に計画していたことでは全然ないのでございますから、否定するのは当然でございます。
しかしシガーは店主の意図がどうであれ、結果的には彼が義父の持ち家と店舗を手に入れて今に至っている、という事実だけを見ます。実際、偶然と言おうと何と言おうと、今ある状況は老店主が人生のある時点である選択をした、その結果として存在するものでございます。
シガーは苛立たしげにため息をついてコインをはじきます。

--言え、表か裏か。
--私は何も賭けちゃいませんよ。
--賭けたさ。お前は生まれたときからずっと賭け続けてきた。自分では気付かなかっただけだ。このコインがいつ鋳造されたか分かるか?
--いいえ。
--1958年だ。22年間旅をしてここへたどり着いた。そのコインがここにある。表か裏のどちらかだ。お前は当てなくちゃならない。さあ言え。

店主がここにいて、シガーがここにいること。
1958年製のコインが今シガーの手の下にあること。
それが表であること、あるいは裏であること。
そのコインの裏表いかんに店主の命がかかっているということ。

これらを偶然の積み重ねと呼んでもよろしうございましょうし、必然の積み重ねと呼んでもよろしうございましょう。シガーが自らの意志でコイントスを望んだからだと言ってもよろしうございましょうし、店主が「特に意味のない世間話」で思いがけずシガーの機嫌を損ねてしまったからだとも言ってもよろしうございましょう。
経緯や理由が何であれ、ひとたび起きたことは変えることも取り消すこともできず、そうした不動の過去の積み重ねの結果としてある”今”という一点。店主の意図も来歴も人格も感情も全く意に介さないシガーが見ているのはこの”今”の一点だけでございます。ちょうど死や運命なるものが、人間の意図も来歴も人格も感情もなにひとつ斟酌することなく、ただ時間と場所のある一点において行き当たった者をさらって行くのと同じように。

もちろん人間には全ての因果の連鎖を見渡すことなどできやしませんから、そうした運命の一点になぜ、どのようにして行き当たってしまうのかを見通すこともできません。
かくて人間はそれと気付くことなく日常的に、生死に関わるような決定をするわけでございます。
道を渡るか、渡らないか。今すぐ家を出るか、10秒後に出るか。そんな些細なことでさえも生死の分かれ目となり得ます。シガーはコイントスというあまりにも軽い行為に命を賭けさせることによって、このことを象徴的に語っております。

何でもないような出来事が生死を決する機会になりうるということ。“今”という一点が、ほとんど無限と言ってもいいほどの重量を持つ”過去”の積み重ねから成り立っているということ。
これらはまぎれもない事実とはいえ、人が生活の中で意識するようなことではございません。
しかし運命あるいは死の擬人化とも呼ぶべきシガーにおいては、これこそがprincipleなのでございます。

そして全ての些細なことが運命的な重みを持っているシガーの世界には、ユーモアや軽口や「特に意味のない世間話」などが入り込む余地はありません。ユーモアという意味での笑いに値するものなど、何ひとつ無いのでございます。

またユーモアが成り立つためには、送り手と受け手の間にある程度共通した精神的基盤が必要でございますね。ワタクシが冗談を言っても貴方がくすりとも笑わなかったり、かえって怒り出したりしたとすれば、それはワタクシと貴方のユーモア基盤がズレているということでございます。
しかしユーモア感覚そのものが無いとしたら、これはもはやズレどころの話ではございません。

ことほど左様に逸脱した精神の持ち主でありながら、それ意外はごく普通の人間であるということが怖いんでございます。

不死身ではないし、感情が無いわけでもない。
不機嫌そうだったり嬉しそうだったりする。
撃たれれば血が出るし、傷も痛むらしい。
ナッツを食べ、牛乳を飲み、両手できちんとハンドルを握って車を運転する。
ロボットでもエイリアンでもない生身の人間、というか、もそもそと喋る、生真面目な、普通のおっちゃんでございます。
髪型はアレですが。




またシガー自身自覚しているように、彼もまた決して見通すことのできない因果の網の中の住人であり、この点においてはモスやベルや私達と何ら違いのない、ただの人間でございます。運命はシガーひとりを特別扱いすることなく、交差点で車をぶち当てて来るのでございます。

シガーにおいて普通さと異常さが並立していることの不気味さは、「普通の真面目な人」や「おとなしい子」が見知らぬ他人や自分の家族を惨殺したというニュースの不気味さに通じます。
(4/19追加 ↑とは言ったものの、こうして身近な例に引き寄せてしまうと、あの得体の知れない不気味さを型にはめて矮小化してしまっているような気もいたします)

不可解な犯罪が増えたと嘆く保安官ベルは、シガーという不可解きわまりない怪物との遭遇が決定打となり、職を辞します。
理解できない程の破壊性とモラルの崩壊を前になすすべもないベルにとって、そして私やおそらく貴方にとっても、シガーはこの世の不可解と不条理の集大成のような存在なのでございます。



いつでもどこでもピンポイント視点なのろゆえシガーばなしに終始してしまいましたが、コーエンズ作品ならではの美しく冴えた映像は、殺伐としたストーリーにもかかわらず一貫して静謐さを漂わせておりますし、音の使い方も素晴らしく、演技も演出も文句のつけようがなく、全体としてものすごく完成度の高い作品でございます。
完璧と称されるに値する作品かと存じます。
昨日もう一度観に行って、つくづくそう思った次第でございます。


ちなみにYoutubeを漁っておりましたらパロディ映像クリップにもいくつか遭遇いたしました。
あんまり面白いものはございませんでしたが、唯一ヒット作がございました。
即ちこれ
ううむ
何度見ても笑ってしまいます。

『ノーカントリー』2

2008-04-08 | 映画
死亡事故や通り魔殺人のニュースを耳にする度に「どうして私ではないのだろう?」と思わずにはいられません。
突然の不条理な死に見舞われたのがどうして「被害者◯◯さん」であって、私ではなかったのか。
あるいは、被害者を死の淵に叩き込んでしまったのがどうして「××容疑者」であって、私ではなかったのか。
悲惨な事故や、ほんの数分の間に自分と他人の人生を破壊しつくしてしまう衝動は、どうして私を見過ごして他の人を襲ったのだろう?
不測の出来事によって命を落とす人は世の中に大勢いるというのに、そうした出来事は一体どうして私ではなく他の人を見舞ったのだろう?

もちろん理由などありはしないんでございます。
それが分かっていながらも、何故か?と思わずにはいられないんでございます。
それはおそらく、自然(人間を含めたこの世界全体)を支配しているのが無秩序や偶然ではなく、人間の道理にのっとった法則や基準であってほしい、という無意識的な願望があるからなのでございましょう。
私の感覚をそのまま人類全体に敷衍するのは暴論ではございましょうが、人間にとって都合のいい理(コトワリ)が自然をも支配していてほしいという願望は、おそらく全人類的なものでございます。
宗教というものが人間によって発明され、かつ、今もって求められているものであるからには。
宗教とはつまり世界を説明する方法のひとつであって、他の方法と違って特徴的なことは、その中に善悪の判断がからんでくることでございます。
悪い行動、間違った行動をとる奴らは罰せられ、善い行動、正しい行動をする人間はむくわれるものだ、と。
そうであるべきだ、と。

しかし実際に世界を動かしているのは、人間に好意的な理(コトワリ)なんかでは全然ないのでございます。
少なくともワタクシはそう思います。
だからこそ「あんなにいい人だった◯◯さん」、みんなに愛された◯◯さん、夢も希望もあった◯◯さんが残酷な死に見舞われ、一方で早く死ねばいいのにと常々思っているのろのようなのがいまだに生きているというわけでございます。

前置きが長くなりましたが、4/6の続きでございます。
*以下、再びネタバレでございます*



前回の記事を読みなおして、ウーム我ながらいつもながらポイントがズレておるなあ、と思いました、はい。
そもそもシガーについて語らずにこの映画について何か喋ろうとしたのが間違いだったような気がいたします。
と申しますのも、この作品のメインテーマはシガーひとりによって表現しつくされているからでございます。
即ち、不条理で不可解で悲惨で暴力的なこの世界と、それでもなお生きて行く人間なるもの、というテーマでございます。


殺し屋・シガーというキャラクターについては「レクター博士以来の衝撃」であるという前評判を聞き及んでおりました。
そのとうりでございました。
『羊たちの沈黙』に少なからぬ思い入れのあるワタクシとしてはちと悔しいのでございますが、レクター博士がまともな人間に思えるほどでございました。
怖かったのですよ。本当に怖かったのですよ。
で、この怖さは一体何なのだろうかと考えたんでございます。

シガーは自分自身の理(コトワリ)にのみ従って行動する人物で、一般的な価値や道理といったものが通じません。
しかし倫理観とファッションセンスが完全に欠如している他は、いたって普通の人間のように見えます。
ものすごく手際がいい、いわば凄腕の殺し屋でありつつ、派手さは全然なく、カッコよくもない。
こうした要素が複合して、シガーのあの得体の知れない怖さをかもしだしていると思われます。
それは人の生と死が、人間の基準や価値観には全く無頓着なものによって決められている、ということを目の当たりにする怖さでございます。
また、突然の不条理で無慈悲な死が、悪魔や死神や天災やエイリアンなどではなく一見普通の人間によってもたらされるということの怖さでございます。

シガーはどんどん人を殺します。
引き出しを開け閉めするのと同じくらい簡単に、非常に手際よく。
そこには強い憎悪や欲望といった、私達が納得しやすい動機はございません。
殺しを楽しむことすらありません。
彼にとって殺しとは、別に快楽なわけではなく、仕事上の義務ですらなく、単なる作業でございます。
映画の冒頭で保安官補を手錠で絞め殺したあとにさも嬉しそうなため息をついておりますが、これは殺しそのものが楽しかったからというよりも、計画通りにことが運んだのを喜ぶ「やったね」の笑顔でございましょう。
(ちなみに原作ではこの時シガーが大人しく捕まっていたわけが、殺し屋ウェルズ(映画で演ずるはウッディ・ハレルソン。ナチュラルボーンキラーじゃ笑)との対話シーンで語られております。シガーいわく、脱出できるかどうか試してみるためにわざと逮捕されてみたとのこと)

シガーはどんどん人を殺します。淡々と、粛々と。
あまりにも淡々としているので「冷酷」とか「非道」とか「残虐」というものとも、ちょっと違う感じがいたします。
こうした言葉にはまず「人命はかけがえのない大切なものだし誰もそれを奪われたくはない」という前提があり、それを承知していながらあえて踏みにじる行為に対して適用されるものでございます。
一方シガーの理(コトワリ)には、この「人命は大切なのだよ前提」というものがございません。ほんの少しも。
悪とすら呼べないような気がいたします。
台風や地震を「悪」と呼ばないのと同様に。
自然災害を「悪」と呼ばないのは、それらが人間の善悪や倫理観を超越した現象だからでございます。
シガーが金や麻薬やその他もろもろの価値観や倫理観を全く超越しているのと同様に。

長くなりそうですので、次回に続きます。

『ノーカントリー』1

2008-04-06 | 映画
いえ、安藤忠雄さんではございません。



『ノーカントリー』を観てまいりました。

ラブコメにせよ、サスペンスにせよ、ロードムービーにせよ、コーエン兄弟の映画を鑑賞した後に心中にこだまするのは「ああ、人間って...」という声でございます。
...」の後に句を継ぐことができないのは、「可笑しいもの」とも言い切れず、「悲しいもの」とも言い切れず、「愚かなもの」とも言い切れず、かつそのいずれにもよく当てはまるということが映画の中で鮮明に示されているからでございます。
強いてひと言に押し込めるならば「滑稽なもの」というのが一番妥当な所でございましょう。

コーエンズは常にその作品を通して、人間といういとも滑稽な生物の戯画を描いて来られました。
あるいはむしろ、人間の道理や思惑など全くおかまい無しにのし歩き、私達を突き動かし、押し流していく「運命」なるものを描いてきたとも申せましょう。
運命、あるいは偶然、あるいは神の見えざる手と言ってもよろしうございます。同じことでございます。
何であれ、登場人物たちはその無慈悲な流れの中でジタバタいたしますが、いかようにもがけども、流れ着く先を自分で決めることは出来ません。
その様子が時に喜劇的に見えたり、悲劇的に見えたりするわけでございます。

『ノーカントリー』には、人間に対して完全に無慈悲で無頓着なこの「運命」なるものが、人の姿を得て具現化したかのようなキャラクターが登場いたします。
おかっぱ頭の殺し屋、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)でございます。この人物については次回に語らせていただきたく存じます。
とにかくいろいろと強烈でございましたので、印象をうまくまとめられるかどうか分かりませんが。

シガーによって運命の無慈悲と不条理を思い知らされるのが、ひょんなことから麻薬がらみのヤバい金をネコババしてしまった一般市民、モス(ジョシュ・ブローリン)。
そしてモスを殺し屋の手から保護するために追いかける老保安官、ベル(トミー・リー・ジョーンズ)。
それから彼らの巻き添えを食らって死んでいく、無数の人々でございます。
なにしろシガーはモスを追う道々、言葉を交わした相手をほとんど余す所なく殺していきます。
全然言葉を交わさなくっても殺していきます。
モスが逃げれば逃げるほど、その後ろには累々と、見知らぬ人たちの死体が横たわって行くんでございます。
ふと振り返ると死屍累々、というのはいかにもコーエン節な感じがいたします。

*以下、ネタバレでございます*

しかし本作には、バラバラになった円環が最後にはピチンときれいに閉じられるような、あの緻密に計算されたプロットや収まりのいい終幕は、用意されてはおりません。
主人公モスはエンドロールまでまだ大分時間を残した所で、あっさり殺されてしまいます。
モスを助けられず、誰も助けられなかったベルは、世の中にはびこる不条理な悪への無力感にかられて職を辞します。
モスがらみの殺しの道行きをいとも几帳面に締めくくったシガーは、思わぬダメージをこうむった身体を引きずり、いずれともなく姿を消します。

円環は閉じられません。

物語は退職したベルが見た夢の話で締めくくられます。
雪の降りしきる冬山を、昔ながらのたいまつを掲げて進む父親。父親の後を進む、今や父よりも老年となったベル。

冬山が無慈悲な現実世界の比喩であり、たいまつが昔ながらの正義や秩序といったものの比喩であることは間違いないと申せましょう。
この夢の意味するものを「希望」という明るい言葉で呼ぶのも、けっこうではございます。
しかしワタクシはむしろこの夢もまた、これまでのコーエンズの作品において見られるように、理由も目的地も分からぬままやむにやまれず突き動かされていく、人間の性(さが)というものを表現しているように思えてなりません。
最終盤に登場する老人が言っているように、世界の不条理と残酷さは決して今に始まったものではございません。
世界は常に「雪の降りしきる冬山」のように厳しく、油断のならない場所であり続けたのですし、これからもそうでございましょう。
昔ながらのたいまつ、即ちOLD MEN風の正義が、世界をくまなく照らし暖めることは決してないことでございましょう。
今までも、これからも。

それでもなお、たいまつを掲げて進むのは、一体何のためなんでございましょう?
世界の根本的なありようを、その残酷さを、変えることなどできはしない。
それなのに何故?何のために?何の意味があるんでしょう?
吉なのか凶なのか、一体そもそも意味があるのか?
危険と分かっていながら大金をネコババしてしまうことも、徒労と知りながらも「正義」や秩序のために自らの命を危険にさらすことも、なべて、結果も意味も分からずに行動に突き動かされる人間の性(さが)の一端なのではございませんか。

そんなわけで、やっぱり思わずにはいられないのでございますよ。

ああ、人間って......。




次回に続きます。


『スターリングラード』2

2008-03-23 | 映画


と いうわけで
3/20の続きでございます。

*****以下、再び完全ネタバレ話でございます。*****

前回、本筋以外の部分についてはより控えめな描き方をしてほしかった、と申しました。
特に恋愛の部分はもっとあっさりさっぱり、サラッと描いていただきとうございましたねえ。
正直、全然無くってもいいくらいでございました。

始めのうちは、別に気にならなかったんでございますがね。
例えばヴァシリとダニロフがファンレターへの返事を書いている場面。
ヒロインのターニャ(レイチェル・ワイズ)が現れたとたん、二人とも微妙にカッコつけだすんでございますね。
ほのかな恋心とほのかなライバル心が画面に漂い、奥ゆかしくってなかなかいいシーンでございました。
しかしその後ストーリー上でこの三角関係がどんどん出ばってまいりまして「実はこれが本筋です」とでも言いたげに幅をきかせておりますのは甚だいただけません。
何よりいただけないのは、映画の最終盤に瀕死の重傷を負ったターニャ、横っぱらにあいた穴から血を流すターニャ、その青ざめた顔で観客の涙を誘ったであろうターニャが、結局は助かってしまうということでございます。
映画の中だって、人が死んで嬉しいということはございません。
しかし、はばかりながら申しますが、彼女は死んでしかるべきでございました。

ターニャはヴォルガ河を渡ろうとする群衆と共に、ドイツ軍の爆撃を受けて倒れます。
まさにオープニングの数分間で死んでいった、あの名も無き幾多の兵士たちと同じように。
ターニャとあの兵士たちとで違うのは、私達観客は彼女がどんな人物であるかを知っているということ、この1点でございます。
彼女が教養ある女性であるということ、ヴァシリを愛しているということ、両親をドイツ軍に殺されたということ。
彼女が個性と来歴を持ったかけがえのない人間であることを、観客は知っています。
にもかかわらず、そんな彼女の唯一性など全くおかまいなしに空から銃弾が浴びせられる。
これによって、「唯一の人物ターニャ」と「名も無き兵士たち」が同列に置かれるのでございます。
即ち観客は、いとも簡単に死んで行ったあの兵士たちもまた、ターニャと同じように個性や、来歴や、愛する人を持っていたこと、今あまりにもあっけなく死のうとしているターニャと同じように、紙くずのように扱われたあの命のひとつひとつもまた、かけがえのない存在だったということに思い至る・・・
はずでした。

一方、ターニャが死んだと思い込んで絶望したダニロフは、ケーニッヒの居所をヴァシリに教えるために自ら標的となって死にます。
隠れ場所から姿をあらわしたケーニッヒを、ヴァシリの照準が完璧に捉えます。
2人はこの時初めて、面と向ってお互いの姿を見るのでございます。
「ああ、君か・・」と言いたげな、撃たれる直前のエド・ハリスの表情が素晴らしいんでございます。
眉間に銃弾をうけ、泥の中に倒れるケーニッヒ。
死闘は終わった。青空を見上げるヴァシリ。



しかし友も恋人も失った彼の胸には、戦争の虚しさがこだまするばかりだった・・・
はずなのですが。

医師の「もう駄目だろう」という言葉にもかかわらず、どんな奇跡が起きたのやら、死んだと思われたターニャが生きていることがラストで明らかになるんでございます。(おぉいダニロフ)
で、病院でヴァシリと感動の再会、と。

はあ。

まあ、ね、観たときは「はあ。・・・よかったっすね」と思いました。
しかし考えているうちにだんだん腹が立ってまいりました。
これでは「有象無象の兵たちや、美人でもなければ天才でもない凡庸な狙撃手たちや、主人公の恋路の邪魔をするやからは死んじゃったけど、かっこいい主人公と可愛いヒロインは生きてるんだもの。めでたしめでたしだよね」と言っているようなもんではございませんか。
非現実的な娯楽アクションものなら、こういうことも許されるでしょう。むしろ奨励されますね。
しかし独ソ両軍と民間人あわせて100万人以上の死者を数えた、苛烈な市街戦を題材にしてやっていいことではございません。
そも、オープニングでは戦争映画であったものが、ラストでは甚だご都合主義的な恋愛映画になっているとはこれいかに。
こりゃケーニッヒ少佐じゃなくったって




どうもずいぶんけなしてしまったようでございますが
駄作だと言うつもりはございません。
むしろいい所が多かっただけに、悪い所も目についてしまうのでございましょう。

例えばヴァシリとケーニッヒを、小道具から色彩までこだわって徹底的に描き分けている点なぞ、たいそう面白うございました。
ヴァシリ陣営は全体的にカーキ色、というか土色で、ごたごたと猥雑な感じがいたします。
床に雑魚寝する兵士たちを横目に、ストーブの上で煮詰まったお茶(か何か)を汚いおたまですくい、カップに注いで飲むヴァシリ。
一方、戦車がおっそろしく整然と並ぶドイツ陣営は冷たいグレーの色調で描かれ、ひとりソファに身をうずめたケーニッヒは、お盆の上のデミタスカップでコーヒーを飲んだりいたします。
ヴァシリたちは適当な紙で巻いたいかにも粗悪な煙草を、まあ、煙草というより煙突といったほうが近いようなシロモノを吸っているのに対して、ケーニッヒの煙草は銀のシガレットケースにこれまた整然と並んだ、金の吸い口付きの見るからに高級そうなもの。
ウラルの羊飼いヴァシリは決して教養が高くはないけれども、純朴な愛すべき青年であり、みんなのヒーロー。自覚のないままにあれよあれよと祭り上げられ、権力者からの祝福を受けてとまどい、スターリンの肖像をきょとんと見つめる。
バイエルンの貴族ケーニッヒは、戦地に赴く間にも分厚い本のページをめくる教養人。同僚とも距離をおく孤高のエリートで、どうやらヒトラーに対しても懐疑的。
常に3人のグループで、どんどん移動しながら標的を狙う、いわば「動」スタイルのヴァシリ。
1人で隠れ場所に潜んで動かず、標的が姿を現すのを待ちかまえる「静」スタイルのケーニッヒ。

このあまりにも対照的な2人が、同じように瓦礫の中に這いつくばり、ひたすら相手の眉間を捉えようと火花を散らすというのが、本作の最大の見どころでございましょう。
こう考えてまいりますとますます、このテーマを描くことに集中して、三角関係やら何やらの要素はあんまり盛り込まないでいてくれたらよかったのに・・と思わずにはいられません。
もしくはもっと時間を長くして、それぞれの要素をメインテーマにつながるまでしっかり掘り下げて描くとか。
(メインテーマというものがあればの話でございますが)
長い映画は嫌だっていうかたもいらっしゃいますけれども、短くて薄っぺらい作品になるよりはマシだと思うのでございますよ。
せっかくジュード・ロウとエド・ハリスという素晴らしい役者を揃えたというのに、勿体ないことでございます。

でもまあ、アレです。
多分この映画が本当に言いたかったのは
脚本がまずかろうとも、ラストがご都合主義だろうとも、みんな英語で話すので「ケーニッヒ」が「コーニック」と発音されていようとも、軍服のエド・ハリスはサイコーだってことでございます。



うーむ納得。

『スターリングラード』1

2008-03-20 | 映画
花粉真っ盛りの時節でございますね。
ワタクシは今までの所なんともございませんけれども
エド・ハリス様はお怒りのようでございます。

YouTube - [MAD] 花粉症患者魂の叫び「ザ・ロック」版

いやあ、それにしても
エド・ハリスよりも軍服の似合う俳優なんているんでございましょうか。いや、いない。
トム・ベレンジャー?眠ってな!

と いうわけで 唐突ですが
『スターリングラード』を観ました。

↑ ” A N D エド・ハリス " でございますよ、” A N D エド・ハリス " 。ほっほっほ。

帽子 軍服 エド・ハリス
煙草 長銃 エド・ハリス
ああエド・ハリス エド・ハリス 

えっ 映画はどうだったのかって。
面白いうございましたよ。ええ。
ただ、ねえ。名作になりそこねた感が強い作品ではございました。
広い客層を取り込もうと欲張りすぎたのか、あるいは大感動の人間ドラマを作ってやろうと頑張りすぎたのか。
いろんなテーマを詰め込みすぎた結果、全体に薄っぺらい感じになってしまっておりました。

どういうお話か、冒頭のシーンとともにちとご説明いたしますと。

***** 以下、完全ネタバレ話でございます *****

時は第二次大戦まっただ中。
独ソ両軍の市街戦が熾烈を極めているスターリングラードに、ソ連軍新兵の一団が到着します。
着くや否や、右も左も分からぬ青年たちは、すぐさま最前線へと追い立てられます。
前線基地へと移動する間にも機銃掃射が雨あられと降り注ぎ、まだ銃を手にしてもいない新兵たちは、ヴォルガ河畔でどんどん死んで行きます。
基地に着いたって、そもそも物資が足りないもんですから、銃は兵の半数にしか与えられない。
残りの半数はどうするのかと言うと、銃弾だけ持って、銃を持ってる奴の後ろにくっついて、丸腰で敵陣に突っ込めと。
前の奴が倒れたら、そいつの銃を取って進めと。
無茶苦茶でございます。無茶苦茶でございますが、従わざるをを得ない状況でございます。
で、ウラーと叫びながらドイツ軍に向って突っ込んで行く。
当然、正面から掃射を浴びてみんなバタバタと死んで行く。
これはとても駄目だってんで退却すると、今度は何と味方の方から撃たれる。臆病者は死ね、と。

冒頭数分の間に繰り広げられるこの戦闘シーン。
兵士たちの命が紙くずのように軽く、道理もへったくれもなく吹き飛ばされて行くさまは凄絶でございます。
そうであるだけに、ここで非常に印象深く描かれた「戦場における命の軽さ」というテーマが
その後ぜんぜん展開されないのは残念でございました。
兵士の死はその後も描かれるものの、あくまでも主人公およびその恋人を引き立てるための道具立てとして使われている感がございます。

ともかく、そうして戦場に送り込まれて来た若者の一人が、天才的な狙撃の腕の持ち主、ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)でございます。
その腕を見込んだ文官のダニロフ(ジョゼフ・ファインズ)のはからいで、狙撃班に編入されたヴァシリ。
ドイツ軍の将校を次々と、まあ、しとめていくんでございます。
腕もいい、ルックスもいい、しかも労働者階級出身。
ソ連軍としては、戦意高揚のための「救国のヒーロー」像にもってこいの人物でございます。
ヴァシリの活躍は連日、殺した将校の数とともに新聞やビラで華々しく報道されます。

ドイツ軍は焦ります。あの狙撃兵を何とかせにゃならん、と。
で、栄光のベルリンから助っ人として誰が来るかといいますと
ほっほっほ。
エド・ハリスが来るんでございますよ。
エド・ハリス、もといケーニッヒ少佐もまた、凄腕のスナイパーなんでございます。
ヴァシリの宣伝部長ダニロフの言葉を借りるならば「バイエルンの貴族V.S.ウラルの羊飼い」の戦いの幕が、ここに切って落とされるってわけでございます。
バイエルンかあ。いいなあ。バイエルン。バイエルン。

このスナイパー同士の対決を描いた部分は、緊迫感に溢れていて実に素晴らしいんでございます。
しかしその合間に挟まれるエピソードがちょっとウ~ムあれれ。
いえ、各々のエピソードそれ自体は、決して悪くはないんでございますよ。
しかしそれらが互いに食い合いをしてしまっている、と申しましょうかねえ。
つまり
友情と羨望と戦火の恋と、権力の欺瞞性と戦争の悲惨さと、あこがれと裏切りそして名声のプレッシャーに悩む主人公、A N D 凄腕スナーパー同士の対決、というあまりにも盛りだくさんなテーマの中にメインテーマが拡散してしまい、全体的には何が言いたいのやら分からない作品になっていると思うのでございますよ。
それぞれ、映画のテーマとして設定されたのだとすれば描き方が浅すぎるし、欄外の挿話にしては中途半端に深入りしすぎている感じがするんでございます。

各々のエピソードは面白い上に、俳優の演技もよろしうございますので、最後まで、飽きるということはございません。
しかし「あれっ、さっきの話を掘り下げて行くんじゃなかったの??」と肩すかしを喰らったような気分になることが、残念ながら一度ならずございました。
メインテーマを強く打ち出して、他の部分はもっとサラッと控えめな描写にしてくだすったら、よかったんでございますがねえ。

皮肉なことではございますが、主人公側ではなく敵であるケーニッヒ側を描いた場面では、語りすぎず抑制の利いた演出が大変いい効果を発揮していたと思います。
例えば、映画の終盤、ケーニッヒが司令官に自分の認識票(軍人さんが首にかけてる名札)を渡す場面でございます。

この場面に少し先立って、ケーニッヒが勲章を着け替えるシーンがございます。
黒地に銀の縁取りの光る、いかにもナチのエリートらしいパリッとした十字勲章を外し、代わりに薄汚れてさび付いた、あんまり見栄えのしない勲章を着ける。
この時点では、これがいったい何を意味しているのか観客には分かりません。
ともあれ、その汚れた勲章をつけたまま戦場に望むケーニッヒ。
その日は両軍の大規模な戦闘があって、死者も沢山出る。
累々と横たわる死体の中からヴァシリの身分証が見つかる。
で、どうやらヴァシリは乱戦の中で死んだらしい、ということになるわけですね。
そこでスターリングラード攻略にあたっていた司令官は、ケーニッヒを呼んでこう言う。
奴は死んだ。君の役目はもう終わったんだ。明日の飛行機でベルリンへ帰りたまえ。それまで君の認識票はこちらで預かっておく。もしも帰るまでの間に君が死んで、それが知れ渡ってしまったら、兵士たちの士気にかかわるから。

認識票が無いってことは、死んだら身元が分からなくなるってことでございます。
つまり司令官が暗に言っているのは「オマエがこれ以上ここをグズグズしていてうっかり死んだとしても、もうこっちの知ったことじゃなからな。いつまでも俺の縄張りでうろついていないでさっさとベルリンへ帰れ」ってことでございます。
そもそもこの司令官は、一匹狼で切れ者のケーニッヒが、苦戦中の自分を「助けに」やって来たことが気に入らなかったんでございます。
これもハッキリと語られるわけではございませんが、微妙な表情や態度からその心境が伺えます。役者さんもうまいですね。

ケーニッヒの方はヴァシリがまだ生きていると確信しているのですが-----「なぜなら、私がまだ殺していないからだ」-----黙って認識票を手渡します。
認識票と一緒に勲章も外す。あの、薄汚れた勲章でございます。そして、こう言うんでございますよ。

「この勲章もお返しします。この地で戦死した将校に、かつて贈られたものです。私の息子でした」

この冷たい目の、精密機械のような狙撃手が、何を思ってはるばるこの地へやってきたのか。
今までどんな思いで銃を握っていたのか。
それがこのひと言で、初めて明かされるんでございます。

と同時に、ケーニッヒ登場時のなにげないシーンに、見かけよりも深い意味が込められていたことも分かります。
負傷兵たちから目をそらして煙草に火をつける、その心境。
司令官の「君のような高官が来るとは思わなかった」という言葉。
映画の初盤に置かれた、こうしたさりげない伏線と、終盤のひと言。
ケーニッヒが息子の仇討ちをせんという沈痛な思いを抱え、おそらくは志願してこの戦場へやって来たということが、抑制のきいた演出でもって語られております。
抑制されているだけに、いっそう心に訴えるものがございます。

主人公サイドを描くにあたっても、主となるテーマ以外に関しては、このくらい控えめな描写をしていただきたかったのですがねえ。・・・



ちと長くなりましたので、次回へ続きます。



メイシーさん

2008-03-07 | 映画
先月コーエン兄弟の話をちょっぴりいたしましたが
コーエン兄弟といえばまあ、『ファーゴ』ございますよねえ。
で、『ファーゴ』といえばまあ、ウィリアム・H・メイシーでございますよねえ。

いや そこはフランシス・マクドーマンドだろ とか
いやいや やっぱりブシェーミだろ とか
何言ってんでえ ピーター・ストーメアだろ などのご意見はとりあえず脇に置いといて。

ウィリアム・H・メイシーさん。
『ファーゴ』および『マグノリア』でのすばらしい演技のおかげで、
のろの中ではすっかり メイシーさん=ダメオヤジ のイメージが定着してしまい
そのイメージは『 エアフォース・ワン』でのかっこいい空軍少佐役を見てもなお、拭えなかったのでございます。

ですから、そのメイシーさんがアメリカの人気司会者オプラ・ウィンフリーの番組で
いとも軽々とウクレレを弾き歌いなさっているお姿は、のろには新鮮な驚きでございました。

YouTube - William H. Macy plays the Ukulele

ぎゃははは!

『WILD HOGS』(邦題『団塊ボーイズ』)という映画のプロモーションでございましょうね。
番組に出演しているのは、映画で共演したジョン・トラボルタ、ティム・アレン、そしてマーティン・ローレンス。
彼らを前にしてメイシーさんが歌うのは...

「君がバイクを借りたなら、バイク乗りらしいことをしてみなきゃね。
 『イージー・ライダー』をレンタルしなよ。
 『団塊ボーイズ』はやめときな。
 ジョン・トラボルタはセクシーじゃないし
 マーティン・ローレンスはタフじゃないし
 ティム・アレンは面白くない。
 いい仕事してるのはメイシーだけ。
 (観客大爆笑)
 まあ笑うがいいさ。
 でもバイクの上の僕のカッコイイことといったら...(観客爆笑)」

そしてボコボコにされるメイシーさん笑
おお、それでこそ貴方だ笑笑


いやはや、それにしても
この驚きは『ビヨンド the シー』を観て、
ケヴィン・スペイシーが歌手顔負けに歌が上手いということを知った時以来のものでございました。

ええ、『ビヨンド the シー』、サントラ買ってしまいました。
けびんさん好きなんです。ほっといてくださいまし。

閑話休題。
この動画、ウクレレを演奏している人の姿をネット上で探している最中に
偶然行き当たったものでございます。
この他に行き当たった、ウクレレ関連のおもしろものとしてはこんなのもございました。

のろの家にはファミコンなるものはございませんでしたけれども
このメロディは、なぜか懐かしうございますねえ。
こうして聴いてみますと、なかなかの名曲でございます。









コーエン兄弟

2008-02-25 | 映画
おめでとう。



のろのワンオブマイフェイヴァリット監督であります所のジョエル&イーサン・コーエン兄弟が
最新作『ノーカントリー』で、アカデミー作品賞、監督賞、脚色賞を受賞なさいました。
おまけに助演男優賞も、この作品に出演しているハビエル・バルデムさんが受賞なさったとのこと。

もちろん、アカデミー賞ってのはごく一部の人たちによる多数決の結果にすぎないのは分かっております。
それでも、なんだか嬉しうございます。
前作の『ディボース・ショウ』と『レディ・キラーズ』が不評だっただけに、なおさら。
あ、『レディ・キラーズ』はのろも見ていないや。ごめんよコーエンズ。だってトムハンクスなんだもん。

外国語映画賞は『ヒトラーの贋札』でございましたねえ。
去年の『善き人のためのソナタ』に続くドイツ映画の受賞でございます。やっほう!
ちなみに京都ではちょうど去年の今ごろに公開された『善き人の~』、
来月、3/15~21の日程で、京都シネマにてアンコール上映されます。
大変いい作品でございましたので、去年見逃したかたは、この機会にぜひとも劇場に足をお運びください。
当作の主演俳優で、東独時代は自身もシュタージ*の監視を受けていたというウルリッヒ・ミューエ氏は
昨年7月に胃がんのためお亡くなりになりました。
まだ54歳でいらっしたのに。

*シュタージ=東独の秘密警察。『善き人~』は、優秀なシュタージであるヴィースラー(ウルリッヒ・ミューエ)を軸に、
彼に監視される人気劇作家ドライマン、その恋人である女優クリスタ、
そして恐るべき監視国家であった東独の社会状況をめぐる物語。


ともあれ。
おめでとうよ、コーエン・ブラザーズ。

しかし今回は、常連俳優を全然使わなかったのかしらん?
スティーブ・ブシェーミもジョン・グッドマンも、ジョン・タトゥーロも無し?
ちょっぴり淋しいなあ。





鷹の爪

2007-12-31 | 映画
毎日なんでこんなに寝るんだろうと思うぐらい寝ております
ああ もったいない もったいない 
人生の時間がもったいないよう

それはさておき

放っておくと両の眉毛が連結を志向するのろ。
新年を迎えるにあたって
おろしたてのカミソリで眉間を剃っておりましたら
皮膚まで削ってしまい、立派な傷跡ができてしまいました。

月形半平太とお呼びください。
つきさまあめが。
はるさめじゃぬれてゆこう。



それはさておき



もはや今年も終わりでございます。
年忘れの笑いに秘密結社 鷹の爪でも御覧ください。

のろは昨日劇場版 秘密結社 鷹の爪 THE MOVIE ~総統は二度死ぬ~を観て来たところでございます。
いやー笑いました。
そして、意外といい話でした。
「わざとらしさ」とか「いかにもな悪役」とか「ベタな台詞」って
大事だと思うんでございますよ。いや、ほんとの話。

制作者のFROGMANという人物、監督・脚本・編集・キャラクターデザイン・作画・声優を
ほとんど一人でこなしていらっしゃるのだとか。
ものすごい才能ではないでしょうか。
尊敬いたします。

TVで放送していた時には全然存じ上げませんでしたが
今回映画を観てすっかりはまってしまったのろ。
今宵はYoutubeで鷹の爪団の活躍(あるいは悲哀)を見て笑いながら年を越すのもいいかなと思っております。
それまで起きていられればの話ではございますが。

それでは皆様、良いお年をお迎え下さいませ。

『アメリカv.sジョン・レノン』その3

2007-12-15 | 映画
原題にならって『アメリカv.sジョン・レノン』とばかり言っておりましたが
正式な邦題は『PEACE BED』だったんでございますね。

それはさておき
12/12の続きでございます。

先にも申しましたが
この映画ではひとりジョン・レノンという人物の行動だけでなく、
60~70年代という「時代」がリアリティを持って描き出されております。
「革命の時代」を文章でしか知らないワタクシにとっては、この点が大変興味深うございました。
体制派・反体制派双方の、いわば第一線で活動していた人々の証言や
ニュース、コンサートの映像、ラジオの放送、新聞などなどから
時代の雰囲気や動静が背景として浮かび上り
その前で展開される一人の(いや、むしろ一組の)人間の行動に
しっかりとした社会的、歴史的文脈を読み取ることができます。

それゆえこの作品は、直接的にはアメリカ政府と闘うはめになったいち個人の姿をモチーフとしておりますが
単に伝記映画/音楽映画としての機能を果たしているのみならず
同時に、権力の座にある人々が何を恐れ、その恐れの対象をどんな手段で排除しようとするかの証言でもあり、
自分を包囲するさまざまな問題に対してどんな態度をとりうるか、というひとつの可能性を示したエンパワメント・メッセージにもなっているのでございます。

「闘う羽目になった」と申しましたのは、ジョン・レノンの方では別にアメリカ政府に喧嘩をふっかけたつもりはなく、
「闘い」は社会活動の中で付随的におきてしまったもの、という印象を受けたからでございます。

体制への反抗、社会的不正への疑問や不満があり「これ、おかしいんじゃないの?」と叫びたい人が沢山いた。
そういう人たちの先頭に立って、片手にはギターを抱え、片手には白いハンカチを振って
「黙っちゃいけない、黙る必要なんかないんだ」と言いながら歩いたのが”ジョン&ヨーコ”というアイコンだった。

先頭を歩いたから、ものすごく叩かれた。
それでも歩くのをやめなかったから、闘わざるをえなくなった。
2人が歩き続けられたのは、もちろん彼ら自身の強靭さも大いにございましょうし
「時代」および「名声」というサポートがあったからでもございましょう。

しかし「時代と名声」という後押しがある一方、まさにその「時代と名声」ゆえの無理解もございました。
今では、ミュージシャンの政治的発言をバカにしたりはいたしませんが、30年前は違ったようでございます。
インタビュー映像からありありと分かることでございますが
記者たちはジョン&ヨーコの発言やパフォーマンスを頭からバカにしております。
これはワタクシ、本などで読んである程度知っていたことではございますが
あ れ ほ ど にあからさまだとは思いませんでした。

何故そこで笑うのか?と思うような箇所で、記者たちの間から笑いが巻き起こったりいたします。
「僕らのことを記事にするなら、必ず一緒にPEACEの文字を掲載してくれ」と言うことの、
いったいどこが馬鹿げているというのでございましょうか?

「黒人も白人も、みんな袋をかぶって出勤すれば、偏見や差別はなくなる。
 人を見た目じゃなく、中身で判断せざるをえなくなるから」
これはいったい、笑うべき発言でございましょうか?

全くもってWhat's So Funny 'Bout Peace Love And Understanding?でございますよ。
平和、愛、そして相互理解の、いったい何が可笑しいっていうんだ?
(歌詞はこちら。いみじくも今朝のピーター・バラカンさんのラジオ番組で、この曲がかかっておりました。
身体的には何も問題ないようで、静かなる反骨精神も健在であり、ひとまずは安心いたしました。
とはいえ、胸中は不安でいらっしゃることと想像いたします。
今後二度とこのような事件がおこらないことを祈るばかりでございます)

閑話休題。
そんな中での彼らの活動を見ていてウ~~ムすごいと思ったのは
・笑われても、叩かれても、脅されても、叫ぶのをやめなかったこと。
・あくまでもアートの力で、世界/社会を変えようとしたこと。
  つまり暴力的手段でもなく、威勢のいい言葉で人心を焚き付けるのでもなく、
  1人1人の心に自発的な変革を起すことによって、世界/社会全体の変革を促したということ。
そして
・常に真摯さとユーモアを忘れなかったということ。
はなからバカにした態度の記者たちの質問にも非常に真剣に、かつ、
どこか飄々としたユーモアを持って答えております。しかも即答で。
ものすごく真剣で、ユーモラス。強靭な魂と鋭い知性。
『Yes オノ・ヨーコ展』で彼女の作品に触れた時にも感じたことでございます。
心が離れていた時があったにしても、やはり彼らは根っこのところで、共通するものを持っていらしたのでございましょう。

まともではない社会の中で、まともなことを叫ぶ。笑われても、叩かれても、叫び続ける。

もちろん、容易にできる生き方ではございません。
しかしあのように生きた人がいる、という事実が
自分の無力さばかりを観想してしまいがちな私達に
「黙るな!」という叱咤と勇気をくれるのでございます。



『アメリカv.sジョン・レノン』その2

2007-12-12 | 映画
福田康夫総理大臣に「どうしてイラクに自衛隊を派遣しなきゃならないんですか」と尋ねたのに
のらりくらりとかわしてばかりで、ちっとも質問に答えてくれないので
腹が立ってゲンコでぶん殴った

と いう夢を見ました。

夢とはいえ暴力はいかんな、のろ。

つい手が出てしまってスンマセンと福田首相に頭を下げ
ああ、イカンなあ、スナフキンだったらたとえ腹を立てたとしても、こんなふうに
人をどついたりはしないだろうなあ...と思いながら目覚めた初冬の朝でございました。




それはさておき
12/8の続きでございます。

*以下、ジョン・レノン氏のことを「ジョン」とも「レノン」とも呼ばずいちいち「ジョン・レノン」と表記する冗長さをお許しください。彼を「ジョン」と呼ぶのは、同時代に生きた人たちや根っからのビートルズファンたちの特権のような気がして、ワタクシには何だか気が引けるのでございます。かといって「レノン」や「レノンさん」と呼ぶのもまた、どうも批評家めいていて嫌なのでございます。


パンフに載っていた監督の言葉に即して言うならば映画『アメリカv.sジョン・レノン』は
一人の(超有名)アーティストが「戦争は嫌だ、平和がいいよ」と世界に向って叫んだ、
そしたら何が起きたのか?ということの顛末でございます。

何が起きたのか?
マスコミはバカにし、若者たちは共鳴した。アメリカ政府は慌てた。
ベトナム戦争を進行中の米政府にとっては、若者には髪を伸ばしたり、ベッドでゴロゴロしたり
”Give Peace a Chance”を歌ったりせずに、黙って戦争に行ってほしかったからでございます。
慌てた政府はアーティストを黙らせようとした。アーティストは黙らなかった。
で、「アメリカv.sジョン・レノン」てなことになってしまった。

つくづく思ったことは、「黙らない」ということ---いいことはいいと言い、間違ってることは間違ってるということ---
は、ものっ すごく大変だ、ということ。
けれども、やっぱり黙ってはイカン、ということ。
黙ってしまったら、広報力や権力のある人たちの言うことに、従わざるをえなくなるからでございます。
彼らの言うことが正しかろうが、間違っていようが。
で、そういう力を持った人たちというのは、たとえ戦争になったとしても
自分は銃を持って戦場に行くことなど絶対にない人たちでございますね。

映画の中で、ニクソン政権下の要人が当時を振り返って、こんなことをおっしゃっておりました。

「夜、ホワイトハウスの外で反戦集会の参加者たちが歩いていた。手に手にロウソクを持って。
 私はそのうちの一人の手を引っぱって、持っているロウソクで自分の葉巻に火をつけて、言った。
 ”これで君も、何かの役には立ったというわけだ” その程度のことだと思っていた」

ベトナム戦争の最中、即ち、密林で毎日、自国の青年や現地の人たちが命を失い、
手足を吹き飛ばされているそのさなかにして、この認識でございます。

確かこの証言をなさったのと同じ人であったと思いますが
当時の認識として、こうもおっしゃっておりました。
(ジョン・レノンには)アメリカで儲けさせてやっているのに、この国を批判するとはケシカラン。
ロンドンかリバプールにでも引っ込んでおればいいものを。

こう思っていたのはひとりこのかただけではなかったようで
ジョン・レノンに対して、国外退去命令が出されました。ほとんど言いがかりのような理由で。
実際は理由などどうでもよく、ラヴだのピースだの言ううるさいのはこの国から出て行け、ということだったのでございます。
このあたり、9.11直後の情勢とよく似ております。
平和を訴えるというシンプルで当たり前のことが「非国民的」な行為とみなされたのでございます。
そして、おエライ人たちが「愛国心」というなんとなくカッコよさげな言葉をダシにして戦争をしたがるのは
昔も今も(そして洋の東西も問わず)変わらないようでございます。



ちと長くなりそうでございますので、次回へ続きます。