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のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『月に囚(とら)われた男』

2010-05-25 | 映画
秀作でございました。
レイ・ブラッドベリ作品のようなもの悲しいSFでございまして、観賞後にはしみじみとした余韻が残ります。
チラシなどの雰囲気からてっきりバッドエンドに違いないと身構えていたのろには、意外にも希望の感じられるエンディングは嬉しいものでございました。ついでに申せば作品の雰囲気と内容をよく表している邦題も、近年まれに見る秀逸さではないかと。(現題は単に”Moon”)

月に囚(とら)われた男 - オフィシャルサイト

SFといっても視覚的な派手さはなく、ほとんど密室劇のような展開。しかも出演者は実質的に主人公ひとりだけ、という超ミニマル映画でございます。舞台装置はいたって地味でありながら最後まで飽きさせないのは、求心力のある脚本と主役を演じるサム・ロックウェルの熱演のなせる技でございましょう。

出演者ひとり、とはどういうことかと申しますと。
主人公のサム・ベルはとある企業の従業員で、資源採掘のため3年の任期で月の裏側に単身赴任しております。採掘作業は機械化されているため、基地にいるのは積み込みと発送作業にあたるサムひとりっきり。会社のお偉いさんは「いや~君はわが社の誇りだよ~」なんて言ってくれるものの、通信の不具合についてはほったらかしで、なかなか直してしてくれない。そのせいでサムは地球にいる妻や娘との会話もままならず、話し相手といっては人工知能搭載のロボット、ガーティだけ。

このガーティを含め、機器や内装のデザインはいかにも実用第一といった感じの無機質なもので、心なごませるような所がちっともございません。そこに何とか人間的な空間を演出しようとして、サムがこまごまと努力しているあたりがリアルでもあり、哀しくもあるのでございます。植物を育て、写真を貼りまくり、故郷の街の模型を作る。そして今日で何日経過というカレンダーをトイレの壁に記していく。囚人がやるように。

そんな淋しく単調な3年間もあと少しで終わり、いよいよ地球に帰れるぞという時に採掘現場で事故を起こし、基地で目覚めたサム。妙な胸騒ぎに導かれて事故現場に行ってみると、そこには何と事故車両に埋もれたままの自分の姿が。
こいつは誰だ?
いやいや俺は誰だ?
・・・

「月に囚われた男」予告編



とまあこんな具合でございまして。
ふたりサムの謎はわりかしあっさりと解明されるのでございますが、謎が解けたところで、それだけではなんら解決にはならないというのがミソ。
しかも会社から派遣された船が刻一刻と近づいているのでございます。このタイムリミットがあるおかげで、初めは淡々と進むかに思えた物語は終盤へ行くに従ってずんずん緊張感を高めてまいります。のろはラスト10分ばかりは、両手を握りしめて うおーがんばれサム~ちゅーか急げ~ と心の内で声援を送っておりました。

サム・ロックウェルはたいへん好演でございまして、外界から遮断された空間で自分の分身?と付き合う、というまことにうっとうしい状況に追い込まれた男のいらだちと、真実を知ってしまったことから沸き上がる悲哀がひしひし伝わってまいります。後者については描き方が少々ウエットすぎるような気もいたしましたが、泣いている観客もいらっしたのようですので、まあ好みの問題かもしれません。

サムの唯一の話し相手である人工知能ロボット、ガーティの声を担当するのはケビン・スペイシー。何せ飄々としたくせ者を演じたら当代随一のけびんさんでございましょう。こいつ絶対何か隠してるに違いない、と初めから不信感満々で観ていたんでございますが、 ガーティ君、意外といい奴でございました、人間味があって。

人工知能に人間味もへったくれもあろうかって。いやいや、ここもまたミソなのでございまして。「サムを守る」というプログラムの指令に従って優しい選択をするガーティ、利益のためなら人を人とも思わない大企業、そして、二人のサム。彼らのありようは「人間らしさ」とは何だろうか、というシンプルな問いへと観客を導きます。

社会批判や人間性への問いを底流に据えながらも、哲学的な方向にに深入りすることはございませんので、「2001年宇宙の旅」のラストでものすごい置いてけぼり感を味わったのろでも、最後まで楽しく観ることができました。
CGによる派手なドンパチ映像が隆盛を極めております昨今、エイリアンと闘うでもなく、地球の危機を救うでもない、こんなにもヒロイックな要素の無いSF映画は珍しいのではないかしらん。とはいえ自らの運命を受け入れ、かつそれを自分の手で変えるべく一歩を踏み出すサム・ベルの行動はささやかながらも英雄的であり、このあたり、ちょっと「ガタカ」と通じるものがございます。

監督・脚本をつとめたダンカン・ジョーンズは「デヴィッド・ボウイの息子」という重たい称号を背負った人でございます。プレッシャーが無いわけはないと思いますが、それに潰されることなく、これからも創作を続けていただきたいものでございます。


『バッド・ルーテナント』

2010-05-08 | 映画
強烈な睡魔と格闘しながら働いている夢を見ました。寝た気がいたしません。

それはさておき

前々回『Kick-Ass』の話をいたしましたが、ニコラス・ケイジと言えば『バッド・ルーテナント』の感想レポを書きかけでほったらかしていたのを思い出しました。

「バッド・ルーテナント」 予告編


「彼が向かったその先にあるものとは...」ったって、色々あったその先に感動のエンディングや衝撃のどんでん返しが待っているような映画ではございません。タイトルには堂々と「バッド」などと銘打っているくせに、そこはヘルツォークでございまして、観客はあれよあれよと善悪の彼岸に連れ去られてしまうのでございます。
つまり

綱渡りのロープがどんどん細くなっていくよヒャッハー!
落ちれば地獄さ!進むも地獄さ!しょうがないからラリったれ~アラヨイヨイ!
とか言ってたらどうにかこうにか渡りきったよ!
たどり着いたのはもとの場所だけどね!

てな感じの作品でございます。
どんなだ。

主人公テレンスは優秀な刑事である一方、ドラッグまみれでフットボール賭博中毒、遊び人どもを脅してクスリを巻き上げては、高級娼婦である恋人と真っ昼間から仲良くたしなむ悪徳警官。その上物語が進むにつれ、賭博でこさえた借金はどんどん膨らむわ、街の権力者には目をつけられるわ、麻薬ディーラーとの裏取引に手をそめるわ、どんどん悪徳スパイラルに堕ち込んで行くのでございます。かてて加えて事件の捜査は善意の老婦人に邪魔され、コーヒーテーブルの上にはイグアナが寝そべり、アル中の実父からは犬を押しつけられ、腰は痛いし、ろれつは回らないといった何ともトホホなとトラブルが複合して、公私に渡ってテレンスを悩ませます。
要するに主人公がひたすら四面楚歌に追い込まれて行くという何とも救いのない展開なのでございますが、悲愴感はまるでございません。もはや髪の毛ひとすじほどに細くなった綱の上を、猫背でヨロヨロ躍りながら渡って行くテレンスの姿はいっそコミカルですらあります。

どうにかこうにか綱を渡りきってハッピーエンドと呼べなくもない終幕を迎えても、テレンスが送る綱渡り人生の根本的な問題は何ひとつ解決されないままでございます。それでいて観賞後に残る奇妙な爽快さは、ある種の民話や昔話の読後感にも似ております。
ある種の、と申しますのは、キリスト教や仏教といったメジャーな宗教の説話として脚色されていない民話のことで、例えばずる賢いトリックスターや単に運のいい男が一人勝ちして終わる、という教訓もへったくれもない話のことでございます。そもそも人間は道徳という便宜的な枠の中には納まり得ない、複雑かつ滑稽な存在のはずであり、そうした存在をいいとも悪いとも言わずつき離した視点で、とはいえいささか暑苦しいモチーフで語る所がああとってもヘルツォーク。

サントラは出ていないようですが、アイスランドのバンド、シガー・ロスの曲が使われているという話をどこかで読みました。おそらくコップの中の金魚や、銀のスプーンの思い出語りのシーンで流れる音楽でございましょう。透明感のあるハーモニーが、悪徳渦巻くテレンスの世界にふと舞い降りるとてつもなく美しいひとときを演出しており、大変よいものでございました。

ニコラス・ケイジの狂いっぷりは素晴らしく、前歯むき出してヒャッハッハと笑うイカレ野郎の演技がものすごくはまっております。ニコラス・ケイジって、まともな人間よりちょっと壊れた人役の方がだんぜんよろしうございますね。『フェイス・オフ』でも悪役を演じている時の方がよっぽど輝いていたっけ。思えばあの作品は悪役ケイジと悪役トラボルタを見られるという大変美味しい映画でございました。そうさジョン・ウー、あなたは魅力的な悪役を描くのが得意だったはずなのに.......いえ、何も申しますまい。

ともあれ
ヘルツォークの作品は「ボーゼンとうち眺める」というのが正しい鑑賞の仕方であろうという思いを強くしたのろでございました。カントクとニコラス・ケイジ、なかなか相性がよさそうでございます。これを皮切りにヘルツォーク&ケイジ映画が作られていくことになったら。ううむ、それはそれでちょっと嫌だ。






『Kick-Ass』のこと

2010-04-27 | 映画
『アリス・イン・ワンダーランド』の帽子屋は『オリバー・ツイスト』でマーク・ストロングが演じた悪党トビー・クラキットのなれの果てに違いありません。



トビーさん、もともとちょっといかれた奴ではありました。



とまあこんな具合でございまして
去年の秋に『リボルバー』を観て以来、ワタクシの中ではソーターさんことマーク・ストロングが大流行しております。少なくとも向こう一年ぐらいはソーターソーターうるさいことと存じますが、どうぞご容赦くださいませ。何しろこれからさ来年の夏にかけて、ソーターさんが出演する新作映画が7本も控えているのでございます。しかもそのうち少なくとも4本は悪役ときたもんだ。きゃっほう!

海の向こうではついこの間、ソーターさんをニューヨークの麻薬王(もちろん悪人)に据えたアクションコメディ『Kick-Ass』が封切られました。観客からも批評家からもなかなかの好評を得ているご様子。まことに喜ばしいかぎりでございます。
『Kick-Ass』はアメコミの映画化作品でございまして、ごく普通の冴えない高校生が自作のコスチュームに身を包み、自称スーパーヒーローとして奮闘するというお話。

Kick Ass New Extended Movie Trailer [HD]


うーむ、こりゃ面白そうだ。アメコミ好きで有名なニコラス・ケイジをキャスティングしているのもご愛嬌。マシュー・ヴォーン監督は前作『スターダスト』でも、息子たちに王座を競わせる狡猾な王にピーター・オトゥールを配役したりと、いい感じにメタパロディのセンスを発揮してくれております。

リチャード一世忌 でも触れました映画『冬のライオン』では、オトゥール演じるヘンリー2世の息子たちが王座を廻って骨肉の争いをくり広げます。



これまで敵対者を火だるまにしたり、兄弟を塔のてっぺんから突き落としたり、ジョージ・クルーニーの生爪をペンチでひっぺがしたり、いろいろと素敵な悪逆行為をやっていらしたソーターさん、今回はスーパーヒーローのコスプレをした11歳の女の子をボコボコに殴り倒して頭を踏んづけたりなさるんだそうです。いやあ、ワクワクしますね。
ちなみに実際のマーク・ストロング氏は子煩悩な二児の父であり、インタヴューにはユーモアを交えて丁寧に答える人当たりのいいナイスガイであり、また御本人の談によれば、デリに寄るのが好きな方向音痴のサッカーファンでございます。

ティーン向けっぽいのに、暴力表現とFワードてんこ盛りのせいで見事にR-18指定をくらった本作。よい子の皆さんはDVDを待ちましょう。というか日本で劇場公開していただけるんでしょうか、これ。


本とゾンビ

2010-04-05 | 映画
とても大事なことが書かれた一冊の本を守るために、襲い来るゾンビどもを斬って斬って斬りまくるという『バイオハザード』と『ザ・ウォーカー』をちゃんぽんしたような夢を見ました。

『ザ・ウォーカー』は本が重要なキーとなっているという点と、ゲイリー・オールドマンが久しぶりに悪役に復帰したという点で、そこそこ気になっている作品ではあります。まあ「この世に残されたただ一冊の本」って、どうせあれでしょうけれど。




この本が『マーフィーの法則』でした、とかいう企画だったら、かの『ギャラクシー・クエスト』級の傑作を期待できたかもしれません。

『ライムライト』

2010-03-26 | 映画
生は避けられない。死が避けられないのと同じだ。

TOHOシネマズの午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本で『ライムライト』を観てまいりました。
あのもの悲しくも美しい「エターナリー(テリーのテーマ)」が頭から離れませんです。この旋律を聴きますと、老道化師カルヴェロの熱い言葉や何とも言えない表情、そしてテリーの可憐な舞姿が思い出されて、鼻の奥の方に熱いものがこみあげて参ります。

charles chaplin limelight soundtrack candilejas



波乱の生涯を経て来たチャップリンだからこそ、人生を肯定する言葉のひとつひとつに計り知れない重みがございます。初めてこの作品を観た時はバラはバラに、石は石になろうとしている。という台詞がいたく心に滲みたものでございますが、この度は上に挙げたひと言がずーんと参りましたですよ。
これから歳を経たのちまたこの作品を観たならば、また別の台詞に心打たれることでございましょう。名作とはそういうものでございます。

思えば、酒で失敗して落ちぶれた喜劇役者がうら若い美女と出会って再起する、という部分はチャップリンよりもキートンの実人生に近いものがございます。そのキートンを迎えて映画史に残る共演をしてくれたチャップリンにはもちろん惜しみない拍手と笑いを捧げるものでございます。しかし贅沢を言わせていただければ、キートンにメガネと口ひげを付けさせてあの表情豊かなストーン・フェイスを隠してしまったことは、キートンファンとしてはちと残念でございました。
聞く所によるとこの共演シーン、実はもっと長尺だったものの、可笑しすぎて作品のムードを崩すという理由でカットされたんだとか。そのカットされた分、どこかに残っておりませんかねえ!ぜひとも死ぬ前に見てみたいものでございます。

ともあれ。
いつまでも色あせない、そしておそらく年齢も国籍も問わずあらゆる人の心に訴える、まさに不朽の名作と言うべき映画でございます。
よって、テリーが「私歩けるわ!」と言う感動のシーンで『博士の異常な愛情』を思い出して危うく笑いそうになったことや、テリーの舞台化粧を見て「サムソンとデリラ」を歌うクラウス・ノミを思い出してしまったことは



ごくごくこっそりと告白せねばなりますまい。

『シャーロック・ホームズ』

2010-03-19 | 映画
ソーターさん!
セプティマス!
ブラックウッド!
やっほう!!

というわけで
去年のドイル忌から待ちわびていたガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』を見てまいりました。

いやあ、面白かった。
飽くまでもミステリとしてのホームズものを愛する方々や、厳密を期するシャーロッキアンにとっては色々と不満な作品ではございましょうが、のろは大きに満足いたしました。まあ、そもそも監督がガイ・リッチーなのでございますから、重厚さや深刻な人間ドラマを求めるのは間違いというもの。その点は譲れないという方は、目をつむって黙殺なさった方がいい作品ではあります。

「アクションありのミステリ映画」というよりも「ミステリ仕立てのアクション映画」となっておりますので、謎解きの部分はかなりあっさりしております。またアイリーン・アドラーが犯罪者として登場したのには驚きましたけれども、パスティーシュとしては全然許容範囲。むしろ(世間では高評価ですが)ネッシーの出て来るアレですとか、ホームズ先生が重度のコカイン中毒になっちゃって云々というアレよりもワタクシは好きでございます。

かく申すのろもキャスティングおよびトレーラーが発表された時にはエッと思ったものでございます。しかし蓋を開けてみれば、あのホームズらしからぬ風貌-----即ち人懐っこそうな顔やぼさぼさ頭や、決して「ひょろ長い」とは言えない中背の体格-----やアクションがちなストーリ展開にもかかわらず、意外なほどにホームズらしさが感じられるキャラクター造形となっておりました。

即ち、誰もが見落としているような小さなことをバッチリ観察し、かつ後々まで覚えている。
状況を素早く把握して的確に対処する。
他人の感情には無頓着。
わりと迷惑かけまくり。

こうした性格的特徴と、ホームズ先生に要求される知的・身体的能力とが、型破りではあるもののしっかり描かれていたからでございます。
それどころか、奇人変人で「ロンドンで最悪の下宿人」-----特に事件がなくて退屈している時は-----である一方、超スピードで回転する頭脳と断固たる行動力の持ち主でもあり、頑固で気難しくて冷笑的だけれども情に薄いわけではない、というホームズの様々な顔が生き生きと、かつ説得力を持って演じられており、たいへん好演でございました。雑踏をすり抜けながら変装していくシーンや脳内シミュレーションなど、アクティブな頭脳活動の描写も新鮮でございます。

ジュード・ロウ演じる美貌のワトスン君は、無二の親友、欠かせない相棒、そして頭痛の絶えないお守り役という役どころ。これは「ブルース・パーティントン設計図」*1や「悪魔の足」*2でのホームズ-ワトスン関係を展開させたものと申せましょうか。
もっとも本作のホームズはワトスン君への依存度がずいぶん高めでございまして、その分ワトスン君の頭痛は甚だしいものとなっております。ベーカー街を去って新婚生活を始めようとするワトスン君に対してダウニーjrホームズ、あからさまにすねた態度をとったり、手の込んだ嫌がらせをしたり、自分を追って来るようそれとなく仕向けたりと、やること自体はいたって子どもじみております。しかもこれを明晰な頭脳を駆使してやるもんだから始末が悪い。ため息をつきながらも行動を共にしてしまうワトスン君もワトスン君であり、まさに腐れ縁の仲でございます。二人のかけあいは「仲良くケンカしな」って感じでございまして、可笑しくも微笑ましい。

*1「ブルース・パーティントン設計図」...捜査のため不法侵入の手助けをしろと言われて、初めは渋るものの結局引き受けるワトスン。一瞬だけ嬉しそうにするホームズ先生。
*2「悪魔の足」...事件の鍵を握る毒物の効果を実証するため、(ワトスン君を巻き込んで)自ら体験してみるホームズ先生。毒物の効果で危険な状態に陥った所を間一髪でワトスン君に助けられる。NHKで放送していたグラナダTV版では、錯乱から覚めたホームズが思わず「ジョン!」とワトスン君をファーストネームで呼ぶのが有名な見どころ。幻影シーンで出て来るウィリアム・ブレイクの絵が怖くて怖くて。




そして、そう、悪役ラヴァーとしてはこの人に言及しないわけにはまいりません。
ソーターさん、もといマーク・ストロング演ずるブラックウッド卿でございます。
頭のご様子からして、てっきり彼はモリアーティ教授役かと思っていおりましたがさにあらず、映画のオリジナルキャラクターであるオカルトな人物を演じておられました。黒いコートの襟立てたソーターさんに「私に従え」なんて言われた日にゃあ、ワタクシ喜んで従っちまいますとも、ええ。『スターダスト』のセプティマス(第七王子)の時も、黒いライディングコートがよく似合ってたっけなあ。ほれぼれ。

高い鼻梁にとんがった耳、薄い唇、ノーブルな物腰、細長い体型にぴっちりきれいに撫で付けた髪。こう並べてみるとロバート・ダウニー・Jrよりもむしろソーターさんの方が、ホームズ先生の風貌イメージに近いようでございます。しかしこの人が絞首刑から3日の後に生き返ったり、世界の終わりを予言したり、黒魔術じみた儀式殺人を次々と犯して行くんだから素敵ではございませんか。
もちろん観客には、これには何かケミカルな仕掛けがあるのだろうこと、そしてそうした仕掛けの数々は、映画が終わるまでにホームズがきれいに解き明かしてくれるであろうことが分かっております。そうと分かっておりましても、苦しみもだえつつ死んで行く生贄たちを冷ややかに見つめるブラックウッド卿は不気味で憎々しく、眉間のあたりから邪悪なオーラを発しているようで、そりゃもうとってもナイスな魔術師ぶり。死に行く人から抜き取った指輪を自分の指にはめて眺めるシーンなんて、実によろしうございます。

こんなキャラクターを世の中の悪役ラヴァーが放っておくはずもなく、Youtubeには既に5つを下らないファンビデオが投稿されておりました。惜しむらくは終盤の渡り合いで、もう少し粘っていただきたかった。ようやっとの直接対決でございましたし、ロンドンの曇り空を背景に剣をぶん回す姿が何しろかっこよかったので。あの、いともキモ可笑しい死体ファイトを披露したセプティマス王子と同じ人とは、とても思われませんです、はい。
死体ファイトって何だとお思いの方はぜひ『スターダスト』をご覧下さいまし。公開時はあまり話題にもならず、のろ自身もあまり興味が湧かなかった作品ながら、観てみたらファンタジー好きのツボを付く意外な良作でございました。恐ろしく豪華な俳優陣(ピーター・オトゥール、イアン・マッケラン、ロバート・デ・ニーロ、ミシェル・ファイファー、ルパート・エヴァレット、クレア・デーンズ他)のいとも楽しげな演技も見もの。
超映画批評『スターダスト』70点(100点満点中)

閑話休題。
難を申せば、アイリーンにはもう少しレディ然とした風格が欲しかった。
また、始めにも申しましたが、謎解きがあっさりしすぎた感は否めません。ミステリをもっと作りこんでいてくれたらより多くの原作ファンを喜ばせることができたのではないかと思うと、これまた惜しいような気がいたします。

「異色なホームズ像」であることは間違いなく、こんなもんホームズじゃねーとご立腹になる方のお気持ちも分かります。ワタクシもいまだに『レッドクリフ』に腹を立てている人間でございます故。
しかし古典を題材にして新しいものを作ろうとしたら、大なり小なり改変を含まずにはいられないものでございます。その上、ドイル忌の記事でも申しましたが、かの完璧なジェレミー・ブレット・ホームズが世に出てしまったあとでございます。今までのホームズ像に追従するものを作ったらどうなるか。断言させていただきますが、ブレット・ホームズに負けるに決まっております。
それを鑑みましても、よくぞこれだけ新しいホームズ像を、しかも根本的なホームズらしさを残しつつ作ってくれたものよと、のろは感歎するものでございます。

海の向こうでは既にヒットを飛ばしている本作、続編の話もチラと聞こえてまいります。常ならば続編というものをあまり好まないのろではございますが、これにはちょっと期待しております次第。
だけどもし続編が作られても、ソーターさんは出ないんだろうなあ。がっくし。
モリアーティ教授を「袖から武器が出て来る」つながり*3でチャールズ・ダンスが演ってくれたら、のろとしてはとっても嬉しいんでございますけれども、ホームズ先生より頭一つぐらい長身のモリアーティというのはさすがにちょっと難しいかしらん。

*3『ラスト・アクションヒーロー』で演じた悪役ベネディクト。そういえば劇中でホームズのセリフを引用していましたっけ。


『Dr.パルナサスの鏡』

2010-02-04 | 映画
フィリップ・シーモア・ホフマンが鍋奉行をしてくれました。夢で。
意外とノリのいい人でしたよ。

それはさておき

ギリアム待望の新作『Dr.パルナサスの鏡』を観てまいりました。
『Dr.パルナサスの鏡』公式サイト

日本版予告編


イギリス版予告編



ううむ!
いささかスケールの小さめだった前作『ローズ・イン・タイドランド』(当のろやでの記事はこちら)や良作ながら随分おとなしかった『ブラザーズ・グリム』と比べますと、毒や皮肉や横溢する妄想といった要素がふんだんに盛り込まれており、その点ではギリアム往年の傑作を思い起こさせる作品でございました。
それだけに、もったいない。

トム・ウェイツは良かった!
男衆4人も良かった!
ストーリーも(意外なほど)よく練られてた!
ちょっとドスのきいた声のヴァレンティナも良かった!
映像は言うまでもなく素晴らしかった!単に美的というだけでなく、毒とわざとらしさ満載の悪夢的な仕立てがたまりませんです。
中盤以降、特にジュード・ロウがあのテカテカの笑顔で、嘘くさいメルヘン風景の中を巨大竹馬でのし歩き→警官ダンス→ママの首がポンッと取れて中からトム・ウェイツ登場!のあたりはほんと最高だった!立ち上がってギャハハと笑って拍手しながらブラボーと叫びたいほど素晴らしかった!
ほろ苦くもニヤリとさせるラストも良かった!
エンドロール後のおまけもしみじみ来た!

ああ、ならばいったい何が不満なのだ。

***以下、若干ネタバレでございます。***



飽くまでも私感ではございますが

俳優は皆それぞれにいい演技を見せてくれたものの、トム悪魔ウェイツ以外の主要キャラクターがいささか魅力に乏しく、どの登場人物にも、ストーリーを牽引するだけの力がない。
特にギリアム作品特有の、想像力で武装して困難な現実を乗り切る、という役どころの人物が不在である上、その位置づけに近いはずのパルナサスとアントンのキャラクターが、ちと弱すぎる。
それゆえに、パルナサスとアントンのダメさが目立つ現実(=鏡の外)のシーンが多く、イメージが氾濫するファンタジー(=鏡の中)のシーンが細切れにしか登場しない前半は甚だテンポの悪いものに感じられました。そしてせっかくギリアム節が炸裂している後半も、誰の視点に寄り添うべきか分からないままにクライマックスを迎え、そのまま終息してしまったのでございます。

物語なんかなくたってこの世は安泰だよ、と言う悪魔に向かって「世界のどこかで、物語は語られ続ける。それが宇宙を支えている」と語ったパルナサスは確かに、ギリアム的人物の片鱗を見せました。しかしここで自称「物語なんかいらない派」の悪魔と「物語る者」パルナサスの1000年におよぶ対決が始まって今に至るのかと思いきや、パルナサスは早々に凋落してしまい、精神的にもすっかり打ちひしがれて死を望む始末。つまり「物語ること」を辞めたくて仕方がない人物になってしまうのでございます。
何も、かのミュンヒハウゼンの向こうを張るぐらい颯爽としてくれ、とは申しません。しかし、曲がりなりにも主人公の位置にある人物なのでございますから、せめてもう少しシャキッとしていただかないと、肩入れしたくってもできないのでございますよ。

それからパルナサスの弟子的な位置づけのアントン。彼に好感を抱けるか否かで、この作品の印象がだいぶ違って来ることと存じます。
彼を不器用だけども一途で一生懸命な奴、として見ることのできるかたは幸いなるかな。残念ながらワタクシには、彼が関西弁で言う所の「いらんことしい」な、甚だ鬱陶しい男に思えてなりませんでした。それがために終盤に見せる彼の必死の活躍も、ちっとも応援する気にはなれませなんだ。
『未来世紀ブラジル』のサムや『ブラザーズ・グリム』のジェイコブ(おお、ヒース・レジャー)は、妄想がちの不器用男でありながら-----あるいは、だからこそ-----、手に汗握って応援したくなるような、崖っぷち人間の魅力がございました。一方アントン君には変に器用さや馴れ馴れしい所があり、決して「ファンタジー/物語」がないと生きていけない人物ではない。

そしてインテリア雑誌に載っている作られた「幸せ家族」像にあこがれるヴァレンチナも、その「幸せ家族」ファンタジーを、生きる糧にするほど切望しているというわけではない。
つまりこの作品の中で、居場所としてのファンタジーを本当に必要としているのは、パルナサスの敵対者であるはずのトム悪魔ウェイツだけなのでございます。

多くのギリアム作品において「ファンタジー/物語」の有効性は、当の「物語る」人物にとって、文字通りの死活問題だったはずでございます。
本作でも生死をめぐる諸々の選択や決断がございますが、それが全てファンタジーの内部においてなされるため、ファンタジーと現実との相克・対決はほとんど描かれません。
現実に押しひしがれて死ぬか、ファンタジーを武器に生き延びるか。
その瀬戸際を行くはみ出し者たちの、あの狂おしい切迫感と高揚は、どこへ行ってしまったのか。

ファンタジーを奉じる者の不在。
ギリアムが創作の視点を変えたのさ、と言われればそれまででございますが、この作品を見た時にワタクシが抱いたモッタイナイ感をつきつめると、どうやらここにたどりつくのでございます。

どうも期待が高すぎたせいか、色々と愚痴を並べてしまいました。
しかし誓って申しますが、決して凡作の範疇に入る作品ではないのでございます。死と破壊と笑いが融合したギリアム的ユーモアや、独特のまがいもの感溢れる美術、そして俳優達の演技は皆本当に素晴らしかった。主要キャラクターにいま少し魅力があれば、もう一度劇場に足を運びたい作品でございました。

ギリアムの次回作は(今度こそ)ドン・キホーテがテーマのあれになるとの噂が聞こえてきております。問題は(常のごとく)資金が集まるかどうかという点らしいので、パルナサスがヒットしておおいに儲かるってくれるといいなあと願っております。

クストリッツァとギリアムには何があってもついて行くと心に決めているのろとしては、彼らが次の作品を撮れるかということが何より気がかりなのでございます。
まあ、クストリッツァはたぶん大丈夫だろうけど。
.....。


2009年に観た映画

2009-12-31 | 映画
午前3時に目が覚めて、やけに明るいので窓を開けてみたらば、それはもう鏡のような満月でございました。
雲ひとつない夜空に煌煌と冴え渡るその明るさといったら、手をかざせば壁にくっきりと影ができるほど、目を凝らせば本も読めるほどでございました。
もっとも別に電気を止められているわけではないので、そんな苦労して月明かりで本を読まんでもいいんでございますがね。

さておき

2009年もはや最終日とあいなりました。
これといって感慨もございませんが、一応の締めくくりとして、今年観た映画の中で当ブログにレポートしそびれたものを、感想付きでここにリストアップさせていただこうと存じます。

『未来を写した子どもたち』
インドの売春街に暮らす子どもたちのドキュメンタリー。カメラを手にした子どもたちのキラキラした、屈託のない笑顔、瑞々しい彼らの作品を見て、こちらも何かわくわくとしてまいります。と同時に、沈んだ表情で「もうすぐお客を取らされる」と語る少女や、学校へ通うことを夢見る、遠い眼差しの少年、彼らのおかれた悲惨な状況を思うと暗澹たる気持ちになります。何もしなくていいのか。でも何ができるというのか。とにかくこういう現実があることを、一端なりとも知っただけでも、何ごとかではあるのだ、と言い訳めいた思いを抱いて新年の京都みなみ会館を後にしたのでございました。

『ミツバチのささやき』
フランケンシュタインの怪物、毒キノコ、レジスタンスの兵士。彼ら「邪魔者」に加えられる理不尽な排斥。彼らと共にあるアナ。世界がもっとシンプルで、かつ神秘に満ちていて、その全てが自分に好意を持っていると、根拠もなく信じていた頃、あらゆるものと友達になれるはずだった、人を信じることが当然だった、そんな子どもの頃の感覚をかすかに呼び覚ます作品でございました。

『帝国オーケストラ』
ナチス政権下のベルリン・フィル、その活動や葛藤を、当時の団員の証言で構成したドキュメンタリー。
ユダヤ人の団員が亡命せねばならなかったならなかったことを回想して「音楽以外の理由でオーケストラを辞めさせられるなんて酷いことだ」と語ったバイオリニスト、その同じ人物が、戦後、ある団員がナチス党員であったという理由で退団させたれたことを、喜ばしいこと、誇るべきこととして語っている。

『沈黙を破る』
自分の安全を確保するためなら、他者の人権を蹂躙しても構わないのか。
むしろ他者の人権を踏みにじることが、自らの安全をいっそう脅かす要因となっているというのに、それに気付かないのは、自分の側の被害を身近に感じる一方で、相手の側の被害、苦しみ、悲しみ、憤りの深さを知らず、それに対して想像力を働かすことも放棄しているらなのでございましょう。

『羅生門』デジタルリマスター版
原作にはないエピソードを最後に加えたことで、人間がその「人間的」なふるまいによりいっそう醜悪であさましい、救いようのない存在にまで落とされ、そこからこれまた、「人間的」なふるまいによって高みへとすくい上げられる。ラストシーンで志村喬の見せる笑顔、「人が犬を羨ましがっている世の中」にあってなお、人間という存在への信頼と希望を取り戻すことができた、その喜びの笑顔が胸に残りました。
今さら申すまでもないことながら、普遍的な価値を持つ作品とはこういうものでございましょう。
それにしても京マチ子怖かった。

『屋根裏のポムネンカ』
純粋な子ども向け作品と思いきや、悪の復活を予感させる不穏なラストなど、なかなかどうしてチェコアニメ。
悪役のフラヴァ(ピアニストの故フリードリヒ・グルダに見えてしょうがない)が、ポムネンカを救出しに来たおもちゃたちへの対処法として「半分は水に沈め、残りの半分は新聞紙で叩き潰す」と言ったのには笑ってしまいましたが、これとて「敵の矮小化」という戦争プロパガンダの戯画かと思うと、笑いの中にもひやりとするものがございます。
陽気なT-1000みたいな、粘度ボディのシュブルトがいいキャラでござました。

『コンチネンタル』(DVD)
まったくねえ、あのラッキョウ顔なのに、かっこいいんですよねえ、フレッド・アステア。冒頭、レストランの支払いのためにやむなくタップを披露する場面なんて、本当に即興でやっているかのような軽やかさ。例によってボーイミーツガールのストーリーも、名曲「コンチネンタル」も全てはダンスの添え物。それでいいんでございます。

『リボルバー』(DVD)
謎解きや種明かしよりもスタイリッシュな雰囲気を優先させたせいで、観客に対して甚だ不親切になってしまった作品。
それでも充分楽しめましたし、好きか嫌いかと問われれば迷わず好きな方に入る映画でございます。のろはガイ・リッチーの作品もジェイソン・ステイサムの作品も観たことがございませんでしたから、「らしさ」を期待せずにすんだのが幸いしたのでございましょう。
とりあえず、ソーターさん最高。

『暴力脱獄』(DVD)
ポール・ニューマンが亡くなった時、ピーター・バラカンさんがラジオの番組内でこの名作に言及され、あの優しく穏やかな声で「史上最低最悪の邦題だと思います」と断じておられました。全くその通りかと。何やらムキムキの荒くれ者どもが鉄パイプで看守をめった打ちにしてでもいそうな邦題でございますが、実際は、不屈にして軽妙な魂の持ち主ルークの、もの悲しくも痛快な物語でございました。

『シェルブールの雨傘』(駅ビルシネマ)
全編、歌。
疲れました。

『ドクトル・ジバゴ 』(DVD)
大河ドラマとはこういう作品を言うのではないでしょうか。
歴史という大きな河の中を、浮き、沈み、もがき、愛し、離れ、巡り会い、どこへ行き着くやらも分からず、ただその頭を必死で水面に上げながら流されて行く人間の姿が、『白痴』のムイシュキン公爵のごとく善意にして無力な主人公、ジバゴを中心に描かれ、全編を観終わった後は、ああ、とため息をつくしかないような、感慨と余韻に浸されました。

『ベルリン・天使の詩』(駅ビルシネマ)
何度観てもいい。のろは生涯ベストワン映画を選べと言われたら、目下のところこの作品になるのでございます。生きてるのって、いいものだ、と思わせてくれるから。
観賞後もう一度観たくなり、翌日行きつけの大きなレンタル屋に行った所、あろうことか棚に並んでおりませんでした。まあ、そもそもが『ゴッドファーザー』シリーズをアクション映画のコーナーに置いたり『ミリオンダラーホテル』を60~70年代名作コーナーに置いたりするがさつな店なので、この物静かな傑作がなおざりにされていても驚くにはあたりません。

『火の馬』(駅ビルシネマ)
ううむ
こんなことはめったにない、というかほとんど初めてのことでございますが、起きているのがやっとだったのでございます。
おそらくコンディションが悪かったのでございましょう。勿体ないことをしました。

『ゴスフォード・パーク』(DVD)
役者さんがみんないいですねえ。特に女優陣が。不幸な女がよく似合うエミリー・ワトソン、経験の浅い召使いのケリー・マクドナルド、彼女をアゴで使うマギー・スミス奥様、辛い秘密を抱えた女中頭ヘレン・ミレン、みなみな素晴らしい演技、そしてこうしたそうそうたる顔ぶれを存分に活かしきる脚本、お見事でございます。
まあこれもチャールズ・ダンス目当てで観たんですけどね。


『ヘアスプレー』(駅ビルシネマ)
実に楽しい作品でございました。メッセージは明確、音楽はご機嫌で色彩はカラフル、何をおいても、クリストファー・ウォーケンを変なオモチャ屋の店主に配役したというのがよろしうございます。あの座ったギョロ目に、犬のウンコ型のチョコレートやパカパカ光る蝶ネクタイを売りつけようとする
人のいいおっさんを演じさせようという発想は実に素敵でございますね。

『8 1/2』(駅ビルシネマ)
『その男ゾルバ』みたいに「あ~、ま~、いっか~」と思わせてくれる作品でございました。
今さらのろごときが何をか言わんやでございますが、グイドの妄想シーンは最高でございますね。
らったったったっ たらら~ん たっ らったったったった~ん とくらぁ。

『パイレーツ・ロック』
何か軽いですねえ。でもま、いいんじゃないでしょうか。女の子がビッチすぎるという点を除いては、けっこう楽しめました。

映画『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』
おお
まさか3度も泣かされてしまうとは...
評判にたがわぬ傑作ドキュメンタリーでございました。負け犬と言わば言え、時代遅れと言わば言え!人生一度っきり、夢を追わないでどうする...というのは、ありふれたテーマかもしれませんが、ほとんどメジャーになることもないまま、それでも30年に渡って音楽活動を続けて来た彼らの言葉には、いわゆる「成功者」の言葉とは違った重みと熱さがございます。

『赤と黒』デジタルリマスター版
ジェラール・フィリップの輝くばかりの美貌、これが全てかと。単に顔かたちのことではございません、手の表情、立ち居振る舞い、全てのシーンがサマになる、まさに「銀幕の貴公子」、あんな人はもう二度と現れないのでございましょうね。


以上に加えて、先日『戦場でワルツを』を観たのでございますが、これは後日もうすこしきちんとした感想記事にしたいと思っております。



『マイケル・コリンズ』

2009-10-06 | 映画
ここの所「観てみたら以外と面白かった映画」の話ばっかりでございますね。
実を申せば今回もそんな感じでございます。

というわけで


を鑑賞いたしました。
「アイルランド独立の闘士」コリンズがその短かい生涯を終えるまでの6年間を通して、かの国が分割・独立に至った経緯を描く歴史ドラマでございます。のろの大好きなチャールズ・ダンスが出ているということ以外、ほとんど何の前知識もなく観た作品でございまして、セピア色がちのパッケージからして、堅実だけれども地味な映画を想像しておりました。
ところがどっこい、しょっぱなからのスピード感のある展開にぐぐいぐいぐいと引き込まれるではございませんか。
マイナーな人物の伝記映画のくせにこの面白さはいったい何事じゃと思わずDVDを途中で止めて調べてみましたら、おやまあ、ニール・ジョーダン監督作品だったのでございますね。言われてみればアイルランドだしリーアム・ニースンだしスティーヴン・レイだし。

時は20世紀初頭、所はアイルランド。独立を求めるアイルランド義勇軍(のちのIRA)の一員であるコリンズは、イースター蜂起において圧倒的な軍事力を誇るイングランドによって多数の仲間が捕えられ、殺されるのを目の当たりにいたします。こんな闘い方ではイカ~ンと発奮したコリンズ、若者を集めて暗殺テロ部隊を組織し、神出鬼没の活動で英政府を大いに悩ませます。鎮圧部隊による苛烈な締め付けもコリンズらの活動を押さえることはできず、ついに英政府はアイルランド側に独立交渉を呼びかけるのですが...。

Michael Collins - Trailer -

ううむ、トレーラーはいまいちシケておりますな。

特典のドキュメンタリーの中で、コリンズは都市型ゲリラの考案者とも言われておりました。未婚の若者たちで形成されたコリンズの暗殺部隊が英国要人を次々と暗殺して行く手際は周到にしてスピーディ、荒削りながらも鮮やかな手並みでございます。
かと言ってコリンズが血も涙もないファナティックな人物かというと、そうではございませんで。「全世界あったかみのある顔の俳優ベスト100」で13位くらいには食い込みそうなリーアム・ニースン演じるコリンズは陽気で気さくな、なんとも人好きのする男でございます。登場時26歳のコリンズがどうみても40がらみのおっちゃんというのはちとアレでございますが、溌剌とした熱演のおかげか、あまり気になりませんでした。

過激で冷酷な活動家の顔と、優しく人情味のある紳士の顔を併せ持った人物。監督はコリンズをそうした二面性を擁する人物として描くべく苦心したといいます。その試みの成果として、単純な「英雄」でもなく「冷酷なテロリスト」でもない、人間的な深みを感じさせるコリンズ像が立ち現れております。コリンズが抱く祖国と同胞への愛情は、そのまま裏返って敵(イングランド)への冷酷な暗殺テロの原動力となっているようでございました。
コリンズと友人がかわす次の言葉には「守るべきもの」を軸にすえた暴力の本質が現れているように思われます。

コリンズ「平和を守るためなら死んでもいい」
友人「殺しても、だろ」

圧倒的な力に対抗する手段として遂行されるテロ、テロとテロ対策という形で応酬される暴力、そして穏健派と強硬派の分裂のすえ味方同士の流血へと至る暴力の連鎖は、現代のテロ問題、とりわけパレスチナを思い起こさずにはいられませんでした。
(ちなみにファタハとハマスは今月中に和平文書に調印することで合意したとのことでございます)
ファタハとハマス、権力闘争終結へ

暗殺部隊を率いたコリンズがさらなる流血を嫌って英国側の妥協案を受け入れるのに対し、コリンズが要人を殺しまくっている間アメリカで政治的な活動をしていたデ・ヴァレラ(のちのアイルランド共和国初代首相)が戦争も辞さないという強硬な方針で完全独立を主張するのは、皮肉を通り越して悲劇でございます。こうして起きたアイルランド内戦という歴史的悲劇に、親友や盟友との別れというコリンズの個人的悲劇をからめて描いているのは実にうまいですね。

というわけで
面白いだけでなく勉強にもなった本作でございますが、気になったことがひとつ。
コリンズの敵対者、即ち始めは英国軍、後にはデ・ヴァレラを中心とした完全独立派が、悪者のように描かれている点でございます。まあそうした方が話が分かりやすいのでしょうし、コリンズに肩入れもしやすいんでしょうけれども、例えばデ・ヴァレラをもっと悩める人物として描くこともできたのでは、と思うと惜しい気がするのでございます。一般市民への発砲などで悪名高い武装警察ブラック&タンズも、大戦帰りで生活の糧を見つけられない兵士たちによる寄せ集め部隊だったということがひと言でも触れられていれば、お話にいっそうの深みが出たのではないかしらん。


まあ、悪者的な描き方によかった点もないわけではございません。
だってね。
「悪役」のひとり、英国諜報部のソームズ氏を、チャールズ・ダンスが演じているのですもの。医者や貴族や作家といった知的で落ちついた役も結構でございますが、この人は何たって悪役がよろしうございます。
そのダンス氏がですね、「全世界白スーツの似合う男ベスト100」で悠々ベスト3内には入るであろう人ではございますけれども、ちなみにベスト3のあと2人はジュリアン・サンズとビリー・ドラゴでございますけれども、今回は2m近い長身を黒の三つ揃えに包み、恐怖のブラック&タンズを引き連れてロンドンからやって来るわけでございますよ。丁寧に撫で付けた髪にあのギョロ目、エリート然とした物腰はいかにも冷徹な切れ者といった雰囲気でございます。
本作ではニール・ジョーダン作品常連のスティーヴン・レイがダブリン警察でありながらコリンズと内通するブロイという人物を演じております。猫背ぎみでもさもさ頭で風采は上がらないけれど「いい人」のブロイと、アングロサクソンな風貌で不気味な威圧感を漂わせる「悪い人」ソームズは露骨なほどに対照的でございますね。

自分のことを”Boy”呼ばわりするソームズに対してささやかな抵抗を試みるブロイさん。

答えるソームズさん。

この時の「何言ってんだこの虫けら」と言いたげにイラッとした表情がね、ええ、実によろしうございます。そしてもちろんこのあともBoy呼ばわりのまま。さらにはのちに拷問室にぶら下げられた血まみれブロイ君を両手ポケットで眺めつつ「アイルランド人ときたら下らんことですぐ歌い出すくせに、訊いたら何も答えないときてる」などとのたまうんでございます。ああ何て嫌な奴なんでしょう。のろほれぼれ。

というわけでソームズさんには大いに活躍していただきたい所だったのでございますが、おそらく登場から10分も経たないうちにコリンズの暗殺部隊によって射殺されてしまいました。
許さんコリンズ。

どうも話が不謹慎なことになってまいりましたが、冗談抜きでなかなかの良作でございました。
ヴェネチア国際映画祭で男優賞を受賞したニースンはじめ、俳優陣の熱演も見どころでございます。ヒロインにジュリア・ロバーツを据えた必然性はいまいち分かりませんでしたが、彼女も悪くはございませんでしたよ。

『グッバイ・レーニン!』

2009-09-29 | 映画

を鑑賞いたしました。
おや、『ルナ・パパ』のチュルパン・ハマートヴァちゃんが出ているではございませんか。かわいいなあ。

お話の始まりはまだ壁があった頃の東ベルリン。主人公は平凡な青年アレックス。共産主義を信奉するお母さんが心臓発作で倒れ、昏睡状態の間に壁は崩壊、東西ドイツは統一。あれよあれよという間に資本主義が流入して社会が180度変わった所でお母さんが昏睡から目覚める、「少しのショックも命取り」の状態で...。やれどうする、アレックス。そこで彼はお母さんをショックから守るため、手を尽くして世の中が変わっていないふりをするのでございます。

家族愛ものと思って敬遠していたのろが阿呆でございました。面白いこと、面白いこと。その上、予想していたよりも深い話でございました。
街の風景から店頭に並ぶ商品まで社会が急速に変化して行く様子はコミカルに描かれておりますが、その流れから取り残された人々の嘆きやとまどいがチラリと挿入され、ビターな味わいを添えております。何より、今は無き東ドイツをお母さんの周りにだけ復活させようと友人隣人を巻き込んで奔走するアレックスの姿が、可笑しくて、優しくて、ほろ苦い。

アレックスは若者なだけに、激変した社会にもすんなりと適応しているように見えます。しかしなんちゃって東ドイツを作り上げる過程で、思いがけない現実やお母さんの長年の秘密に突き当たるんでございますね。その度にちょっとぐらつきながらも、こつこつと2つの日常-----統一ドイツに生きる自分の日常と、「東ドイツ」に生きる母の日常-----を築いて行く、その作業はお母さんのためであると同時に、アレックス自身が思い描いていたことと、それをいろいろな方向に裏切る現実との間に折り合いをつけて行く過程のようでもあります。

Good Bye, Lenin! - Trailer


アレックスが重ねる涙ぐましい努力には、そこまでやるかと思いつつもエールを送ってしまいます。中でも傑作なのは友人デニスと一緒に作る嘘ニュース番組でございます。実際のニュース映像と自前の嘘映像をうまいことモンタージュして作ったまことしやかな東独ニュースは、うまさとうさん臭さが入り交じって絶妙な可笑しさ。内容が単なる模擬東独ニュースから、アレックスが思い描いた理想の国のニュースへと次第にシフトして行くのも面白い。

ロバート・カーライルのドイツ版みたいな風貌のデニス、こいつがまたなかなかいいキャラでございましてね。生粋の映画マニアで、創作意欲を刺激されたのかノリノリで協力してくれるんでございます。西側出身の彼はしたたかでお気楽でノリがよく、真面目で少々もっさりとしたアレックスとは実にいいコンビでございます。
こう並べてみますと、二人の性格は東独と西独という互いの出身を戯画的に表現しているのかもしれません。東のアレックスが西のデニスと協力して「理想の国」を作り上げていくというのもなかなかに象徴的ではございませんか。

嘘番組を見せてまで真実を隠そうとするのは、やっぱりちょっと首を傾げざるを得ないことでございます。それはみんな分かっている。分かっているし反発もするけれど、大真面目なアレックスに付き合ってあげるんでございますね。隣人も、友人も、恋人も、そしておそらく、お母さん自身も。ある人は嘘をつくことに後ろめたさを抱き、ある人はかつて自分が暮らしていた東独という場所にノスタルジーを感じながら。
そういう可笑しいような哀しいような、甘苦い優しさに貫かれた作品でございました。


『神に選ばれし無敵の男』

2009-09-25 | 映画
最近伝記を読んだからでございましょうか、カルロス・クライバーとチャットしている夢を見ました。
残念ながら会話の内容はひとつも覚えておりません。
ニューイヤーコンサートのCDを買った時の夢では握手までして貰ったんだけどなあ。

それはさておき。


を鑑賞いたしました。

時は1932年、ポーランドの片田舎で鍛冶屋を営むユダヤ人青年ジシェは、その怪力を認められてベルリンに上京し「無敵の男ジークフリート」の名で力自慢の興行をすることに。興行主であるハヌッセン(ティム・ロス)は物事を見通し未来を予知する「千里眼の男」を標榜し、ナチスが新設するオカルト省への就任を目前に控えております。興行は大好評を博するものの、自らの出自を偽ることにいたたまれなくなったジシェは舞台上で自分がユダヤ人であることを明かし.....というお話。

神に選ばれし無敵の男 予告


往年のヘルツォーク映画とは趣を異にする、という評判を聞いていたので、何となく見るのが怖くて鑑賞を伸ばし伸ばしにしていた作品。観てみれば何の何の、佳作でございました。確かに南米を舞台にした2作品に見られた暑苦しいまでの迫力は影を潜めておりますが、その代わりに『カスパー・ハウザーの謎』や『ヴォイツェク』の殺害シーンのような不思議な透明感が全編を満たしておりました。その透明感のおかげか、舞台はナチスが政権につく1年前のドイツで主人公は実在したユダヤ人という重たい歴史的背景があるにもかかわらず、寓話のような趣きに仕上がっておりました。

運命を意のままに操るかに見えたハヌッセン。
虚ろな栄光の果てにようやく自分の使命を見いだしたジシェ。
聡明で清らかな彼の弟ベンジャミン。
やがて時代の渦に呑み込まれ消えて行くこの3人のうち、もっとも無力なのはジシェであったと言えるかもしれません。
と申しますのもハヌッセンのハッタリもベンジャミンの聡明さも持たないジシェは、時代がユダヤ人に課する恐ろしい運命をただ1人確かに予感していながら、それを人々に伝える言葉を知らないからでございます。この無力さ故に「無敵の男」は同胞である素朴な村人たちの素朴な疑いによって滅びて行くのでございます。
ホロコーストの予兆を感じつつも警告する術を持たないジシェの恐れと焦燥は、真っ赤な蟹の大群の夢で表現されております。線路上にわらわら群がる蟹、遠くからどんどん近づいて来る列車。その静かな悪夢が孕む無関心と破滅のイメージは強烈でございました。
このイメージを説得力ある言葉に変換できないジシェのもどかしさは、歴史がこれからどういう道筋を辿るか知っている、しかもそれに対して何もできはしない鑑賞者のもどかしさと重なります。



ジシェを演じるのはフィンランド人のヨウコ・アホラ、”World's Strongest Man Competition"(世界最強の男コンテスト)の優勝者で、つまりは本当の力持ちでございます。演技経験のない彼の朴訥な笑顔や立ち居振る舞いは、いかにも一癖ありそうなティム・ロス演じるハヌッセンと対照的で、田舎出の素朴な青年役にぴったりでございました。


『死刑執行人もまた死す』

2009-09-19 | 映画
ここの所レンタルDVDをよく見ております。
せっかくなので短めの鑑賞レポートを。



舞台はナチスドイツ占領下のプラハ。「死刑執行人」の異名で恐れられる冷酷な司令官ハイドリヒはある時狙撃され、命を落とします。犯人が見つかるまで毎日一定数の市民を殺して行く、という卑劣なやり口で犯人を探すゲシュタポ。自分のせいで市民が殺されることに苦悩する暗殺者。父をゲシュタポに連行された娘。プラハ市民ながら、ゲシュタポのスパイとしてレジスタンスに潜り込む男。そしてプラハ市民たちは?------というお話。

いやあ、こんなにサスペンスフルな作品だったとは。フリッツ・ラングが1943年に撮った反ナチプロパガンダ映画なのでございますが、娯楽映画としてもたいそう完成度の高い作品でござました。
前半は暗殺者をめぐるゲシュタポの苛烈かつ陰湿な捜索活動と、暗殺者をかくまった一家を中心としたプラハ市民たちの動揺と団結を息詰まる緊張感で描きます。後半は一転、レジスタンスらが、ゲシュタポのスパイをハイドリヒ暗殺者として陥れる策動が、畳みかけるようなテンポで展開してまいります。
ほんの小さなことからも情報をたぐりよせ、じわじわと包囲網を狭めて来るゲシュタポの恐ろしいこと。
単純に見るならば、ナチスは悪党に、プラハ市民はみな英雄的に描かれていると申せましょう。少し英雄的すぎるくらいに。見せしめ処刑のために捕えられた教授が幼い息子に宛てた「私のことは父としてではなく、自由のために戦った闘士として思い出せ」という言葉や、仲間の合唱に見送られながら処刑場へ赴く青年の晴れやかな表情には胸を打たれます。
しかしその一方で、これは監督が意図したことなのかどうか分かりませんけれども、市民やレジスタンスの行動の側にも何やらうそ寒い怖さがございました。父の助命のためゲシュタポに協力しようとした娘を市民が取り囲む場面や、後半に市井の人々が結束して裏切者を陥れて行く過程では、ある理念のために結束した群衆の不気味さも感じないではなかったのでございます。

一人でもゲシュタポのやり口に屈したら国全体が敗北したことになる。それは分かる、分かるけれども、屈しないことの引き換えに無辜の市民が日々処刑されて行くのはいいのだろうか。監督としてはシンプルに「非道なナチに対抗し自由のために戦った人々の美談」として作ったのかもしれませんが、何かそれだけに収まりきらない、正義という概念の矛盾を示す一面を持った作品でございました。

ちなみに本作は実話にもとづいており、ハイドリヒも実在の人物でございます。ちとネットで調べたかぎりでは「長ナイフの夜」や「水晶の夜」、ホロコーストにも深く関与したとされ、ナチスの中でも相当の実力者だったようでございます。また彼の暗殺をうけて行われたSSによる報復措置がまことに酸鼻を極めるものであったということはこちら→ラインハルト=ハイドリヒ略伝に詳しく書かれております。



アラビアのロレンス

2009-09-08 | 映画
『アラビアのロレンス 完全版』を観てまいりました。

映画『アラビアのロレンス 完全版』公式サイト

長い話を縮めて言えば、第一次大戦中、アラブ独立の立役者となったイギリス人の話でございます。
何故イギリス人がアラブを助けるのかというと、当時アラビア半島はオスマントルコに支配されており、トルコはドイツと同盟を結んでおり、イギリスはドイツと戦争していたからでございます。つまり独立というエサをちらつかせてアラブ人たちを動かし、遠まわしにドイツに打撃を与えようという魂胆。さりながらその裏で、トルコがいなくなったら私らで半島を分け分けしましょうね、という密約をフランスと交わしているのだからタチが悪い。かの二枚舌外交でございますね。
英軍の将校でありながらもアラブの文化や歴史に造詣が深いロレンスは、砂漠の民ベドウィンの信頼も勝ち取り、アラブ人自身による独立国家を夢見て奔走するのではありましたが.....。

本作を語る際に最もよく使われる形容は「雄大」と「壮大」ではないでしょうか。それは音楽や映像のスケールは言うに及ばず、歴史の中における一人の人間の偉大さと卑小さとを描ききった、深みのある人間描写が見る者を圧倒するからでございましょう。



ロレンスとは誰だったのか?
映画の冒頭に示されたこの問いに、碓とした答えが与えられることはございません。
歴史を動かした稀代の英雄か、歴史に翻弄された弱い一個人か。
イギリスとアラブ、人道と大義、英雄と「ただの人間」、温厚さと嗜虐性。こうしたさまざまな二極の間を、ロレンスは絶えず行き来し、よろめきつつ疾走します。走りきったその果てに両極のどちら側にも居場所を見つけられず、抜け殻のようになったロレンス。呆然として地平線を見つめる彼を取り残し、時代は砂ぼこりを蹴立てて進んで行くのでございます。

終始柔らかな物腰で、ナイーヴな自信家ロレンスと弱さにまみれた「ただの人」ロレンス、そして狂気すれすれの「堕ちた英雄」ロレンスを演じ分けたピーター・オトゥールは素晴らしうございましたし、脇を固める人々の演技や人物造形も素晴らしかった。

抜け目のないファイサル王子を演じるアレック・ギネスはどっからどう見ても鷹揚なアラブの王子様であり、『戦場にかける橋』の英軍将校と同じ人物が演じているとはとうてい思われません。発する言葉がいちいち警句じみているファイサルはのちにイラクの初代国王となる人物で、結果的に一番動かずに一番おいしいところをいただく人物でございます。将来王位につく人間としてはこのくらいの老獪さは当然よ、とばかりに余裕で立ち回るしたたかな機略には、コノヤローと思いながらも感服してしまいました。

ハウェイタット族の族長アウダ・アブ・タイを演じるはザンパノ、いやさアンソニー・クイン。(本作公式サイトのキャスト紹介ページでクインの主要作品に「道」と「その男ゾルバ」が含まれていないのは一体どういうわけかしらん)これまた、生まれてこのかたアラブの族長といった趣きでございます。アウダ・アブ・タイは肖像画が残っております。見ると面長の鷲鼻で、そもそもクインと顔が似ております。ネット上で見かけた情報でございますが、クインがアウダの衣装を身につけて撮影現場に現れるとエキストラのベドウィンたちから「アウダ・アブ・タイ!」の大合唱が起こり、それを見たリーン監督思わず「あの役者は誰だ?今からクインを下ろして彼を使えないかな」と言ったとか。
ファイサルがいつもほんの少しふんぞり返っているように見え、後述するアリはいつも背筋をピンと伸ばし胸をはっているのに対し、アウダは若干前屈みでございまして、浅黒い大きな手で何かをグワシとつかむシーンが目立ちます。そのいかにも無遠慮な身振りは強欲そうでもあり、人懐っこそうでもあり、とにかく一挙手一投足に強烈な存在感がございました。
一歩間違えば単なる野卑な道化となってしまいかねない役を、粗暴ながらも洞察力と愛嬌のある人物として演じたアンソニー・クイン、さすがでございます。

しかしまあ
何と言っても、
何と言っても、
何と言ってもオマー・シャリフでございましょう!
漆黒のベドウィン民族衣装を身にまとい、鋭い眼光で砂漠を見はるかすその姿の凛々しさよ。
もちろんカッコよさというのは風貌のことだけではございません。
ロレンスはさまざまな二極の間を行き来した末に自己を喪失し、虚しさと失意を抱えて、もはや「home」と思うこともできないイギリスへと帰って行きます。それに対しアリは徹頭徹尾、誇り高きベドウィンの族長でございまして、その一貫性がたまらなくカッコいいのでございます。彼のブレのない在りようは、人格的な矛盾を抱えて政治や名声に翻弄されるロレンスを逆さに映す鏡像のようでございました。戦局が変わろうとも、またロレンス自身が変わろうとも、アリがロレンスに寄せる友としての忠誠心が揺るぐことはなく、彼の視点は本作におけるひとつの芯となっております。

まあそんなわけで
休憩を挟んで約4時間の超大作ではございますが、この作品を映画館のスクリーンで見られて本当によかったと思います。
休憩時間に飲み物を買った際、無意識のうちにレモネードを選んでいたのには自分でも笑ってしまいました。ロレンスがレモネードをね、飲むシーンがあるのでございますよ。
特定の食べ物のイメージと結びついた映画はままございますが、のろはこれからコカコーラの自販機で「リモナーダ」を見かけるたびに、砂まみれのアラブ装束で将校専用バーに踏み込んで行くピーター・オトゥールの姿を思い出すことでございましょう。



妻の貌

2009-08-15 | 映画
『妻の貌』を見てまいりました。

映画「妻の貌」 オフィシャルサイト

悲劇の記録ではございません。
ある家族の、何てことのない日常の記録でございます。
それだけにいっそう「ヒロシマ」が市井の人の平穏な暮らしの中に深く爪痕を残しているという、痛ましい事実が浮き彫りになります。

私達の多くにとって「ヒロシマ」=原爆投下は60年以上前の出来事であり、毎年8月6日の前後や、ニュースで核兵器のトピックが取り上げられた時にのみ思い出す悲劇でございます。少なくともワタクシにとって「ヒロシマ」は生活とは全く別の次元にあるものでございます。生活は日常、「ヒロシマ」は究極の非日常。
しかし監督の妻であり被爆者であるキヨ子さんにとって「ヒロシマ」はあたかも体内に突き刺さった鋭い破片のように、生活の中に食い込んでいるのもの、昔々の出来事ではなく、60年以上に渡って日々付き合わねばならなかった疵なのでございます。

身体の中に、心の中に、「ヒロシマ」が突き刺さっている。それでもなお、日常を生きなければならない。

今も原爆症で苦しむ人々が大勢いるということは、もちろん言葉の上では知っておりました。しかし身近に被爆者のいないワタクシには、本当に単に言葉の上でだけ、知っていたことでございます。映画『ヒロシマナガサキ』を観た時でさえ、証言者各々のあまりに強烈な体験と、写真と証言によって甦る原爆投下時の地獄絵図にとらわれて、今もひっそりと苦しむ人々が大勢いることには思いが至らなかった。
「ヒロシマ」が突き刺さったままの日常を送るキヨ子さんの姿からは、大きく報道されるわけでもない、映画や本に取り上げられるわけでもない、ひとり、ひとりの被爆者の存在、1945年8月6日の疵を今もなお背負った人々の存在、顔も見えない名前も知らない無数の被爆者たちの存在が、静かに浮かび上がってまいりました。

原爆投下直後、家族を探すため市内に入って被爆したキヨ子さんには目立った外傷はないものの、発症以来、激しい倦怠感や輸血を要するほどの貧血や甲状腺がんと闘っています。
病院でキヨ子さんと同室になった女性は、被爆時に建物の下敷きになりやけどを負ったことから、絞った雑巾のように皮膚のよじれた右腕と、傷口からインクが入ったことで入墨のようになった左腕を持っていました。彼女の初めての子供は「紫(色)で生まれて2日目に死んだ」と言います。

彼女たちが、いったい何をしたというのか。
家族の身を案じた19歳のキヨ子さんが、そして十月十日(とつきとおか)のあいだ胎内にはぐくんで来た初子を生まれて2日目に亡くしたあの女性が、一生苦しまねばならない疵を負わされるだけの何をしたというのか。
映画はあくまでも淡々と進み、誰をも糾弾しはいたしません。しかし彼女たちがこうむったあまりにも理不尽な暴力を思うと、怒りがこみ上げてまいります。
この理不尽な暴力に対する言い訳があるとすれば、一つだけでございましょう。
「戦争だから、仕方なかった」

ふざけるな。
戦争を可能な選択肢として考える人は要するに、こうした理不尽な暴力を、自分の愛する人や全く見知らぬ他人-----顔の見えない無数のキヨ子さんたち-----にこうむらせることも「場合によっては可」としているわけでございます。その人なりの正義感と倫理観に基づいた考えなのでございましょうが、共感できません、ワタクシには。
非戦闘員への攻撃だから悪くて、戦闘員だけに対する攻撃ならいい、という話ではございません。そもそも、戦闘員と非戦闘員との間の線引き自体が限りなく曖昧なのでございますから。


本作は一人の被爆者の記録であると共に、ひとつの家族の半世紀史でもあります。
観客は映画の最終盤に、初めはよちよち歩きの幼児として画面に登場した孫娘の歩さんが晴れ着姿で成人式へと向かう場面に立ち会います。
そこには彼女を見送る、少し小さくなったキヨ子さんの姿もございました。
長男が市立中学の入学試験に合格した時「とてもうれしいのに、ふっと、弟が被爆したあの時と同じ年になったんだなあと考えてしまう」と言ったキヨ子さん。19歳で被爆したキヨ子さんは、成人した孫娘の姿を見送りながら何を思ったのか。

「平和の尊さ」という言葉は時々、どうしようもなく虚ろに響くものでございます。今現在享受しているものの貴重さを想像することの困難のためかもしれません。半世紀に渡って記録されたキヨ子さんの貌(かお)はしかし、言葉では表しきれないその尊さを、無言で語っているようでございました。


マン・オン・ワイヤー

2009-08-09 | 映画
劇映画とドキュメンタリー映画を半々くらいの割合で鑑賞いたします。
近年はドキュメンタリーの方が多いかもしれません。思う所もございまして、当のろやの映画鑑賞レポートでは取り上げずにまいりましたが、これからぼちぼちドキュメンタリー映画の鑑賞レポもさせていただこうかと思っております。
と申しますのも先日『マン・オン・ワイヤー』を観たのでございまして。この作品、うかつに語れないような重いテーマではない上に、紹介しないのは勿体ないほどの快作でございましたので、これを皮切りにドキュメンタリーレポも初めてみようかと思った次第。

というわけで
マン・オン・ワイヤー|MAN ON WIREを観てまいりました。

いや、痛快、痛快。
息を呑むほど美しく、スパイ映画さながらにスリリングで、最後にはほんの少しほろ苦い気分になり。「史上最も美しい犯罪」の記録というだけでなく、エンターテイメントとしても申しぶんない作品でございました。
主役はフランス人の大道芸人フィリップ・プティ、通った全ての学校を退学させられ、独学で語学や芸を身につけて来た、小柄なアウトサイダー。その彼が時間と知恵と情熱を傾けて追い求めた目標とは、おお、神もご覧あれ!地上110階にして当時世界一の高さを誇った建築物、かのワールドトレードセンタービルでの綱渡りだったのでございます。



ちなみに命綱はございません。
もちろんこんな自殺的行為に許可が下りるはずはなく、許可もないのにビルの屋上に上がり込んで綱渡りをするなんぞは立派な違法行為でございます。そこでプティは数人の仲間と一緒にWTCに潜入するわけでございます。その経緯が実に面白い。身分証を偽装し、物陰に息を潜め、居眠りする警備員の前を抜き足差し足で通り抜け...という潜入作戦には思わず手に汗握ります。わざと犯罪映画風な作りにしているのも楽しい。一方、プティがワイヤーの上に一歩足を踏み出した瞬間から映画を支配するのは、不思議に軽やかな静謐でございます。彼に捧げられた「空中の詩人」という称号はまことに正鵠を穿った表現であると申せましょう。音楽の使い方も上手いなあと思ったら、マイケル・ナイマンでございました。

命綱なしで地上400メートルをしずしずと歩む人影は、あたかも空中を散歩する天上人のようでございました。実際、ワイヤーの上のプティは、私達の日常の価値観とは全くかけ離れた場所を歩いていたのでございます。

綿密に計画を立て、警備をかいくぐり、驚く人々を遥か下方に見下ろして彼がやってのけるのは、いわば命がけの遊びでございます。一銭の特にもならない。何かの役に立つというわけでもない。そして一歩間違えば無惨な死が待っている。動機は「夢」。ただ、それだけ。
そんな舞台に立ち、プティは微笑みます。自分のすべてをかけた一本の細いワイヤーの上で微笑み、ひざまずき、寝転んでみせます。その美しさといったら。

ワタクシは彼が本当に羨ましかった。
芸術的な綱渡りの技術が、ではございません。聞き手を引き込む魅力的な話し方でもございません。支えてくれる仲間がいたことでも、一夜にして築かれた世界的な名声でもございません。
ただ、「夢を持っている」ということ、それがたまらなく羨ましかったのでございます。


ちなみに
この作品、ロバート・ゼメキス監督によって長編映画化される計画があるのだとか。
ええ?ロバート・ゼメキスでございますか?

ヘルツォークが撮ればいいのに!