読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

安倍内閣崩壊

2007年09月13日 | 日々の雑感
安倍内閣崩壊

昨日の昼に青天の霹靂のごとくに発表された安倍晋三の首相辞任に国民の多くが驚き、今朝の新聞は無責任だ、幼稚だ、政治の状況がまったく分かっていないなどの批判の大合唱だった。たしかにその通り。だが私はそれ以上に安倍内閣の存在理由そのものに疑問を持っている。

日本の政治システムは総選挙によって国民の民意が反映された国会議員のなかから首相を選ぶことによって、首相の選択に民意が反映されるようになっている。行政のトップが民意を反映して政治を行うことが絶対要件であり、そのためにどういう選択の手法をとるのかは国によっていろいろである。アメリカは総選挙によって選挙人を選び、選挙人が大統領を選出するという二段階の選挙によるが、そうすることで僅差を作らない選出システムが選ばれ、大統領に絶対権力が与えられる。フランスでは大統領は直接的国民投票によって選出される(第1回投票で過半数を獲得した候補者がいない場合には、上位二人で第二回投票を行い、過半数を獲得した候補者が大統領として選ばれるシステムになっている)と同時に、日本のように国会議員のなかから首相が選出される。しかし国家元首ということで言えば大統領である。

大統領には任期があり、よほどのことがない限り任期を全うする。だが日本の首相は、大きな政局の変化、とくに一番大きいのが国会議員の選挙の結果などによって解散総選挙となることが多い。それは衆議院議員の任期の途中に首相が変わることは、首相の政策が民意を反映しない可能性があるからだ。

たとえばこの安倍内閣を見てみよう。彼を首相として選出するもとになった総選挙は小泉首相のもとでの選挙で、しかもあのときの争点は郵政民営化だった。つまり行政改革が争点になっていたのだから、同じ衆議院議員から選出された安倍内閣は行政改革については既定路線を進めることはできても、それ以外の総選挙で争われなかった問題についての法案は慎重に国会で議論していかなければならなかったはずである。ところが、前回の総選挙でまったく争点にならなかった教育基本法の改悪、憲法改定のための国民投票法などを強行採決強行採決の繰り返して、つまり数の力(それも人のふんどしで勝ち取った数)で押し切ってきたのだ。

国民はだれもそんな法律に信任の投票をした覚えはない。したがって、安倍内閣が小泉内閣が公約に掲げていなかった法律を通そうするなら、まず解散総選挙を行って、国民の信任を得てから行うべきだったのだ。つまり総選挙を行っていないということは安倍内閣は存在そのものが国民の信任を得ていないことを意味するし、夏に行われた参議院選挙で政権選択の選挙だと言い出したのだから、あの選挙で負けたということは、彼の内閣そのもの、そして彼が通してきた法律そのものが、不信任を受けたと考えるべきだ。

安倍首相の辞任表明を受けて自民党内は慌てているが、勝手にメディアを利用して総裁選を国民による信任選挙に偽装してもらいたくはない。総裁選なんかは一政党の党首選びであって首相の信任選挙ではない。森内閣のときのように密室選挙だと批判されたからといって、公器たるメディアを勝手に使わないでいただきたいものだ。

自民党の総裁なんか自民党の中で勝手に選んだらいいが、まず解散総選挙をやって、民意を反映した国会のもとで新しい首相を選出するのが、日本の政治システムを正しく機能させる道ではないかと思う。

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「GO」

2007年09月12日 | 作家カ行
金城一紀『GO』(講談社、2000年)

この作品は窪塚洋介と柴崎コウ主演の映画のほうを先に見ている。小説と映画とあれば、たいていどちらかがよくて、他方はもう一つだなという感想をもつものだが、これに関してはどちらもよく出来ているというか、小説のほうが先なんだから、映画がよく出来ているというべきか。なんといっても窪塚と父親役の山崎努のうまさだろう。

小説では、回想という形でいろんなエピソードが時間順でなく提示されても、あまり違和感がないが、それをもとに映画を思い出してみると、時間軸に忠実に並べてあったために、エピソードの羅列といわれても仕方がないようなところもあったかなと思う。映画ではこうしたエピソードが小説に忠実に再現されていたので、小説を読みながら、あの映画はけっこう原作に忠実に作ってあったんだ、面白おかしくするためにわざとあんな突拍子もないようなエピソードを作ってたわけではないんだな、と感心しきり。

さて、小説の面白さはその語り口にある。「在日」という、日本社会からも韓国本国からも差別的扱いを受けてきた人たちの計り知れない苦痛を全身で受け止めざるをえない状況の中で、「僕」は元ボクサーの父に仕込まれたボクシングの腕前を武器に喧嘩ばかりしている日々を送ることで、自分の存在価値をなんとか維持していたわけで、けっしてその最中は、もちろん桜川との恋愛も含めて、この小説の語り手のように、なんだか突き抜けた状態にあったわけではもちろんないだろう。バスケットの試合のときのように、また在日であることを桜川に告げて初セックスがうまく行かなかった後久しぶりにデートをしたときの「僕」の激昂ぶりのように、自分自身をどう押さえつけていいか分からないほど、自分が分からないような状態になっていた。

そして親友の正一の死。そういったものを乗り越えて、大学生を卒業してこの「僕の恋愛に関する物語」を書くまでになったときの「僕」はそういったわけの分からない怒りを自分なりに分析できる段階に達しているわけで、だからこそこうした語り口が生まれたといっていいだろう。

それにしても一見軽そうな「僕」の語りは「在日」がとくに「在日朝鮮人」が置かれている矛盾に満ちた状況を的確に読者に伝えてくれる。しかも語り口の面白さが読書を楽しくしてくれるので、まったく稀有な語りだと思う。出身地に関係なく「朝鮮籍」「韓国籍」を持つようになった経緯、民団と総連の役割、国籍を変更することの意味、朝鮮学校と日本の学校の違い、などなど。そして元学生運動家というような種族がいったいどんな考え方をしているのかまで的確に見せ付けてくれるところなんか、なかなか憎い。

最後に本読みにうれしい場面は、「僕」が正一や桜井といろんな本や音楽を紹介しあって感想を述べ合い、視野を広げていく、人生の糧としていくところ。青春時代はこうやって思索の土台を作っていくべきなんだ、ってことを若い読者にもすんなり分かる形で、この小説が教えてくれるところは、この小説がただの馬鹿の記録じゃないぞということを示していると思う。なかなかいい本だ。

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「ねじまき鳥クロニクル 第3部」

2007年09月11日 | 作家マ行
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部』(新潮社、1995年)

じつは少し前にこの小説について感想を書いたが、ちょっとした勘違いで2部で終わりなのかと思っていたら、じつは3部まであるということにこの前図書館で気づいた。どうりで訳の分からない状態で終わっていて、いくらなんでも大江健三郎の小説じゃあるまいし、あんなわけの分からない状態に読者をほうっておいたまま終わるのってひどいんじゃないかと思っていたので、やれやれと胸をなでおろしていたしだい。

しかし第3部を読み終わって、訳の分からない状態にほうっておかれたままという私の印象はまったく変わっていない。なんのための間宮中尉の回想手紙なのか、ナツメグとシナモンがしていたことはいったいなんだったのか、マルタとクレタの姉妹はいったい何のために存在するのか、笠原メイっていったい何者なのか、綿谷ノボルの力とはなんだったのか、久美子とは誰だったのか、分からないことばかりで物語が終わり、結局読者としての私には何一つ訴えかけることもなく、心に響くこともなく、面白いと思わせることもなかったというのは、本当に村上春樹の小説では初めてのことなので、正直言って面食らっている。

ただこれから7年後に書かれることになる「海辺のカフカ」にも似たような構図、つまり時代を超えた共鳴現象が作品の中核をなしていることを考えるなら、戦争という、人間の歴史のなかで人間自身が作り出した最も恐ろしい地獄に、村上春樹流の手法によって向き合おうとしてるのかと憶測できないこともない。そうでなかったら、間宮中尉の手紙とかナツメグによる回想という形であんなに延々と日中戦争にまつわる恐ろしい世界を描く必然性がない。

大江健三郎の小説じゃあるまいしと書いたが、大江は象徴こそが文学の力の源泉という思い込みがあって、象徴を構築することばかりに関心が行き、読者に読ませるということを忘れた現代では類まれな作家であるが、ついに村上春樹も象徴の泥沼に落ち込んでしまったのかと残念でしょうがない。ただ村上春樹の文章そのものは健在なので、まるでかつてのヌーヴォーロマンのように、文章の一つ一つはけっして難しいものではないのに、けっして一つのまとまった像を結ばないというのか、全体としてはなんらまとまった物語を構成しないという泥沼に足を突っ込んだような状態に読者は置かれることになる。

井戸という閉塞された場所がどこか別の時代・場所・次元に通じているという井戸の象徴、青いアザを持つことによってナツメグの父親である獣医の時代と現代の綿谷ノボルの世界と通底するという青いアザの象徴、恐怖の幕開けを告げるねじまき鳥という象徴?、綿谷ノボルという権力悪の象徴?によって汚される久美子やマルタたち女という象徴?ホテルの廊下と部屋を迷路のように使う偏執などなど、私たちの理解を超えるものばかりが次々と現れて、読者を翻弄する。

しかし村上春樹は外国では人気があるらしい。相当の国々で翻訳され、ものすごい勢いで売れているらしい。もしこれが、戦争に向き合おうとしているのかと思わせる主題の選びかたと、上に列挙したような大江健三郎ばりの象徴的手法によるものなのだとしたら、たしかにノーベル賞も夢ではないだろう。大江はまさにそうやって受賞したのだから。しかしほんとうにそんなことにでもなったら、日本ではだれも読まないのに外国ではノーベル賞という不思議な「名誉」を村上春樹も手にすることになるだろう。

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お見合いのような

2007年09月10日 | 日々の雑感
お見合いのような

昨日、娘がフィアンセを連れてきた。いわば私たち夫婦とフィアンセのお見合いのようなものである。話に聞けば、高校が同じだったが、同窓会で再会し、意気投合して、付き合いだし、結婚を決めたということらしい。まぁ娘が自分で決めたことだし、私たちとしてはどうこういう筋合いはない。

結納だとか、そんなことはするつもりもないので、二人で結婚を決めたということを報告に来て、相手を紹介してくれたらそれでいい。私たち愛し合ってます風に両親の前でべたべたされたらかなわんが、そういうこともなく、二人で話し合って式から住むところから自分たちで進めてくれるのは、けっこうなことだ。

考えてみれば、私自身も上さんと結婚するときに双方の親の承諾を得るというような意識はなく、たんに結婚を決めたことを報告するというような感覚だった。私の両親と上さんの両親はその後勝手に連絡を取って結納みたいなことを親たちだけでしたらしいが、私たちにはなんの相談もなかった。最近でも友人の娘さんなんかは結納をしたとかいうような話も聞いたが、娘の場合もするつもりはない。

男親にとって娘の結婚というものは、さだまさしの歌じゃないが「娘を奪っていく君を一発殴らせろ」風な、大事なものをもぎ取られるというような意識が一般的なのかなと、ときどき明石家サンマが娘のことをそんな風な言い方で表現しているのを見ると思っていたのだが、娘に言わせるとそんなことはないよということらしい。白無垢の花嫁衣裳に手をついて「お世話になりました」なんて涙ながらに言うなんて場面は、私たちの場合には考えられない。まぁそういうことをしたい親子はしたらいいでしょうけど。

そういう儀式的なことをしないからといって、感慨がないわけではない。人並みに娘の行く末については心配もあるし、よくぞここまで成長してくれたというような誇らしげな気持ちもある。しかし相手の職業だとか学歴だとかを聞いた自分にがっかりした気持ちが湧いたのには正直驚いた。お前はそんなことを気にしないと表向き自分に言い聞かせながら、やっぱりそんなことを気にしていたのかという、自分自身に対する驚きである。そんなことは幸せの条件でも何でもないと常日頃思っているようなふりをしていながら、本当はそんなことにこだわっていたのかという自分自身へのがっかり感でである。

私だって結婚したときにはまだ大学院生で、これから海のものとも山のものともどうなるか分からない状態だったのだ。上さんの両親にすれば、両親の地元のものをという考えがあったらしいから、ろくでもないのに引っかかったというような意識だったのかもしれない。

いずれにしいても、どんな男が来るのか、どんな話をしたらいいのか、あれこれ考えて心乱れる一日で、疲れた。

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キューバ人の不思議

2007年09月08日 | 日々の雑感
キューバ人の不思議

キューバといえば世界中のほとんどで社会主義が崩壊し、かつ社会主義を名乗っている国でもとても社会主義などとは言えないような実態になっている(中国がそう)状況にあって、ちょっと変わった社会主義を維持している国である。アメリカのすぐ近くにあって、アメリカの影響もかなり大きいと思うのだが、経済的には貧しく、国民の不満も相当に大きいのではないかと思うのだが、それでも決してカストロによる独裁というわけでもないようで、社会主義を維持しているのが興味深い。

今日の朝日新聞の土曜版というやつに面白い記事がのっていた。編集委員の山田厚史という人が、いま話題になっているM.ムーア監督の「シッコ」という映画や吉田太郎の「世界がキューバ医療を手本にするわけ」という本にも言及しながら、キューバの医療の優れたところを紹介している。キューバの国民所得はインド並みに低いのに、下町から山村まで地区ごとに担当医がいて予防医療が徹底しているうえに、しかもがん治療から心臓移植まで医療費はタダで最新医療技術の点でも先進国なみの医療技術を備えているというのだ。

そして問題になるのは医者の人格だろう。その気になればアメリカに渡って高収入を得ることも出来るのに、貧しい国に踏みとどまって地域医療にがんばっているのはなぜだろうと山田さんは締めくくっているが、キューバといえばラテンの国。ラテンの国といえば自由奔放で快楽に生きる人たちというのが私たちのもっているイメージだ。毎日面白おかしく過ごせればいいじゃないかなんて人々ばかりというのは、私たちの作った勝手なイメージなのだろうか?

これもずいぶん前の朝日新聞で読んだ記憶があるのだが、キューバは医師派遣の先進国でもあって、開発途上国にたくさんの医師を派遣していることでも有名で、もちろんそうした人道的な支援によって国連の中でもキューバの地位は高いのだという。医師は1年とか2年とかという期間家族を離れて過ごすわけだが、ラテン系の恋愛を大事にする人たちが、国家の政策のために1年も2年も離れて過ごすことに耐えているという事実が、また上に書いたようなキューバ人のイメージをかけ離れていて、私の浅はかな先入観を揺さぶりをかけてくる。

しかし一方で国民所得がインド並みに貧しいという事態はやはり「社会主義だから」なのか、それとも「社会主義にもかかわらず」なのかということから考えて見なければならない問題だ。ソ連だってかつて医療費はタダだと社会主義の優位性を宣伝するのに使っていた。その一方で自由が抑圧され人権がないがしろにされ、労働者の勤労意欲が低下しているのだとしたら、市場経済の問題とあわせて、やはりキューバでもこの問題は解決されていないのだなということが分かる。はたして社会主義はみな平等だけれども貧しいもの、なのだろうか。



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「SPEED」

2007年09月07日 | 作家カ行
金城一紀『SPEED』(角川書店、2005年)

The Zombies Seriesという副題をもつので、同じシリーズ物が今後もでるのだろうか?

永正大学の教授や学生たちの不祥事につけこんで彼らを利用し、また学園祭の実行委員長を務めることで金と権力を手にしようとする法学部の学生中川にたいして、彼の犠牲になった同級生彩子の自殺に不審をいだいた高校生の岡本佳奈子が、他殺の証拠のようなものをもっていると中川に言ったことから、中川の手下に襲われ、彼女をたまたま助けてくれたことから、ゾンビーたち、つまり南方、朴、萱野、山下、アギーたちと行動し、中川の謀略を頓挫させるという話。ちょっと石田衣良の池袋なんとかシリーズに似ている。

やはりこれも時代なのだろうかと思うのは、かつて社会の悪に対してそれに立ち向かいそれを暴いてやろうとするような登場人物が出てくる小説というものは、松本清張なんかがそのいい例だと思うのだが、フランスのバルザックの小説のごとき重厚さがあった。つまり事件や出来事の社会的背景について用意周到に描写が張り巡らされ、登場人物も個人として動いているというよりも社会的存在だったように思える。

だが、石田衣良のシリーズ物にせよ、この金城の小説のゾンビーたちにせよ、取り上げられている犯罪というか事件なんかは時事的背景が使われて社会的に見えるけれども、またその登場人物たちの悪に対する思いはけっして清張の人物たちに負けることはないのだが、どうも個人的行為に見えてしまう。

たとえば永正大学の学園祭に乗り込んで中川をとっちめるという計画の前夜、南方がこんな風に佳奈子に自分たちのしていることを説明している。

「少しまえにあることがあって、俺たちの世界はあっけなく壊れちゃったんだ。これまで俺たちは俺たちなりに世界をまともに機能させようと思って、がんばってたんだぜ。でも、わけの分かんない力が俺たちの大切なものを奪っていっちゃって、俺たちがそれまでいた世界はもう元には戻らなくなっちゃったんだ。でもって俺たちがどうやって世界を作り直そうか途方に暮れている時に岡本さんが現れて、きっかけをくれたってわけさ。」(p.204)

この世界という言葉を本来の意味にとってはいけないのかもしれない。たんに彼らの狭い生活の圏域のことを言っているだけのことなのだろう。それを私は読みながら大きな世界と理解したことが、この作品を松本清張なんかと比較するというような「間違い」をしでかすことになったのかもしれない。

でも佳奈子が通うお嬢様学校のどうしようもないほど閉ざされた変化のない世界に風穴をあけるには、それを通して日本社会のどうにもならないほどにっちもさっちもいかない世界に風穴をあけることから始めるしかないという気持ちは分からないでもないし、この作家をはじめとして良心的な作家たちが現代社会に立ち向かうときにとる態度がこうした趣をもつことは、逆にそれほど日本社会が成熟していないことの表れなのだと理解することも出来るだろう。

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市場経済の悪夢

2007年09月06日 | 日々の雑感
市場経済の悪夢

人類が誕生してからつい数百年前に近代にいたるまでは、人間の経済活動なんてほとんど動物の生命活動と変わらなかったといってもいい。いわゆる自給自足の経済活動においてはほとんど無駄なものはでなかったわけで、あらゆるものが消費されて分解され自然に戻っていた。

しかし官製であれ民間であれマニュファクチャーというものが誕生することによって、労働者の賃金とその労働が生み出す価値のあいだになんの関係もなくなってからは、もちろんその前提として大航海時代が生み出した地域経済国家経済の枠の撤廃による市場の拡大ということがあったにせよ、生産は飛躍的に向上し、消費が生産を生み出すのではなくて、生産が消費を生み出し、ものの「よし」「あし」を決定するのは市場になった。つまり需要と供給のアンバランスということが常態となった。

その結果、売れると見れば生産者が集中し大量の供給をもたらし、売れないものは廃棄されていく。注文があるから生産するのではなく、市場があるから生産するようになる。売れるか売れないかは賭けのようになってしまう。

その結果、売れれば億万長者になるが、売れなければ首をくくらねばならない。資本家はそれだけのリスクを背負っているというわけだが、労働力を買うための賃金高とその労働力が生み出す価値はまったく別物であるので、資本は自己増殖を続けていく。マルクスはその仕組みを資本家の私的所有から労働者の共有財産にすることで、労働力の価値と労働が生み出す価値の差を社会のものへとせよと主張した。

その結果、ソ連をはじめとした「社会主義国」がとった手法が計画経済で、これは完全に破綻した。そもそも市場という競争のないところに進歩はなく、あるのは労働サボタージュと品質の悪化と、重量による価値判定という、信じられない経済世界であったことは、いまや周知の事実である。

ではこの世の春を謳歌している市場経済が生み出す、大量生産・大量廃棄によって、地球の存続そのものが危うくなっている現代において、それにとって変わるシステムがあるのかという問題だろう。市場経済がある限り、地球上の資源は食い尽くされ、森林は切り倒され、温暖化ガスの排出によって環境は破壊されつくすのは目に見えている。

私が若かった頃は、生産手段の私的所有から公的所有へというマルクスの主張は魅力的だった。だが現実にはそうした可能性がどのような道筋でありうるのかはまったくみえてこない。中国の市場経済が一つの挑戦だなどという主張は欺瞞以外のなにものでもない。そんなことを信じているのはごく一部の保守主義者だけだろう。

マルクスは資本主義のからくりを明らかにしたことは確かだ。だがそこからどのような道筋でそれを解決していけるのか、結局はなにも示さなかったようなものだ。

マルクスによれば、それまでは新しい経済システムの誕生は自然発生的であった。資本主義的システムだって、自然発生的に発達した市場と貨幣の使用という前提があって、官製マニュファクチャーと自然発生的に勃発する私的マニュファクチャーのせめぎあいのなかでこのシステムが勝利したのだったわけだが、マルクスは人類史上初めて自然発生的でなく意図的に人間が作り出す共産主義(社会主義)システムを提唱した。だがそれにもとづいてなされた様々な挑戦はすべて破綻した。というよりもそもそもそんなことが可能なのかどうか今一度再考する必要がある。

たしかに自然科学でさえ仮説の証明が一発でうまく行くとは限らない。実験によって当初の仮説に手直しを加えたり、実験の仕方そのものを変更し続けることでやっと一つの真実に到達することが出来るということを考えるならば、社会主義システムへの実験が失敗したからと言って仮説そのものが否定されなければならないことを意味しないが、現実の「実験」には人間の恐ろしいほどの犠牲を伴ったことを考えると、何度もやり直せばいいなどと嘯いてはいられない。


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「プロヴァンスの贈りもの」

2007年09月05日 | 映画
「プロヴァンスの贈りもの」(2006年、アメリカ)

土日も働きまくりあくどい手法も使って辣腕トレーダーの地位を手にいれたロンドンに住むマックスが少年時代に一緒に住んでいたプロヴァンスの屋敷とぶどう園をもつヘンリーおじさんの死去の連絡を受けて、遺産売却のためにプロヴァンスに飛ぶが、留守中のごたごたから、結局は屋敷を売るのをやめ、仕事も辞めて、プロヴァンスに住むことになるという、お決まりの話といえば、お決まりのストーリー物である。

何を期待してこんな映画を見に行ったのだろう。やはりプロヴァンスの景色を堪能したかったのじゃないのかな。なんともいえない南仏の景色はやはり健在だ。ちょっと行くと小さな町ににぎわうレストランがあるなんていうのも、自然をたっぷり楽しみながら、食の満足や人恋しさの飢えも満たしてくれるところが、南仏のいいところだろうな。

最近なんかで読んだが、イギリス人はプロヴァンスに別荘を買うのが流行らしい。イギリスのどんよりした天候に比べたら、真っ青な空とブドウ畑に囲まれたプロヴァンスは天と地ほどに違うらしい。それにしたって金持ちでなければそんなことはできないわけで、インターネットビジネスで金持ちになった連中が南仏に週末を過ごしにくるということなんだろう。飛行機で飛べば2・3時間でいける距離だ。

プロヴァンス、プロヴァンスというけれど、日本にだって、こんなところがあるんじゃないのだろうか。わざわざ10数時間もかけてフランスくんだりまででかけなくっても、日本でもこうしたゆったりした生活と文明の利を享受できるところが。とはいってもエクサン=プロヴァンスのようなすばらしいところはやっぱり日本にはないか。

面白かったのは、マックスが初めてというか久しぶりにおじさんの屋敷に車で行くときのカーナビの音声。フランス人なら別にどうということもないだろうが、外国人から見ると、Vous avez depasse votre destination(目的地を行き過ぎました)とかVous etes arrive(到着しました)とかAllez(進みなさい)としつこく機械音声で言われるのは、なんともこっけいである。

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「ゼニの幸福論」

2007年09月04日 | 評論
青木雄二『ゼニの幸福論』(角川春樹事務所、1998年)

数年前にお亡くなりになった漫画家の青木雄二さんの人生論である。昨日読んだ中身のないかつ偽善的なエッセーなんかよりもよほど人のためになる一冊であろう。

一昨日読んだ伊坂幸太郎の「ラッシュライフ」に出てくる空き巣の黒澤は青木さんの人生論を参考にしているのではないかと思うほど、単純明快で、読むものにカタルシスを与えるくらいに救われるような気がするのは、訳の分からないこの時代にはっきりと善悪をつけてくれるところがあるからだろう。

曰く、「ゼニこそ幸福の源泉である!」「この際ハッキリといわしてもらうけどなぁ、ゼニのない人間とは不幸な人間なんですよ」と、本当にハッキリおっしゃる。人間というもの、愛だの理想だの生きがいだのといった観念で生きることはできない。まず金がなければ幸福にはなれない。もちろん金さえあれば幸福になれるわけではないが、まず大前提が金だというわけだ。つまり人間が生きるには必要最低限の金がいるということ。もちろん幸福になるにはそのレベルは高くなるから、生活保護を受けて幸福になれるなんて馬鹿なことはおっしゃらない。

曰く、矛盾するようだが、「ゼニがなくとも幸福になれる!」大金を得たものと、わずかの金しかもっていないものの幸福のあり方は違うとおっしゃる。もちろん青木さんは「ナニワの金融道」という連載漫画が大ヒットして大金を手にされたので、毎日何もしない(といっても時折講演に出かけられているが)幸せを謳歌しておられた。大金がないからといって幸福になれないわけではない。小金しかないなら、ないなりに、自分にとって本当に価値のあるものに金を使うことによって、最大限の幸福感を得ることは出来る。「待っていても幸福はやってこない。自分で奪い取れ!」けだし、名言である。

曰く、「幸福とは闘い取るもの!」幸福は待っていてもやってこない。奪い取れとは、社会的な意味での闘いということも青木さんはおっしゃっている。つまり国民の税金を吸い取っている者たちの好き勝手にさせていてはいけない、みんなは搾取されている!とここで、青木さんはマルクスの搾取理論を紹介される。

ちょっとこのあたりになると、青木さんの付け焼刃という印象がしないでもないが、たしかにわれわれは搾取されているのであり、おっしゃるとおりだ、貧乏人だからこそ闘わなければならないことは分かるが、どうも大金を手にして毎日何もしない自由を享受しておられる青木さんと自分を比較してしまって、いったい何がどう違うのか、青木さんのように自分も何もしないでいられるにはどうしたらいいのかと、若干途方にくれてしまうのである。

人間、誰一人として気兼ねするものがないとなると、本当に強い。こんなことを言ったら、仕事がなくなるんじゃないかなんて心配することが必要ないというのは、すばらしいことだ。そういう自由さが青木さんのエッセーにはある。そういていて、その自由闊達さがまた人々の共感を呼び、本は売れるわ、印税は入ってくるわで、ウハウアである。

とくに講演なんてのほどおいしい仕事はないとおっしゃっている。1時間も好き勝手なことを喋って、数万円から40万円も講演料がもらえる。もちろん有名人だけに与えられた特権と言っていい。

なんか生きるのばからしい。

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「ニューヨークの古本屋」

2007年09月03日 | 評論
常盤新平『ニューヨークの古本屋』(白水社、2004年)

1931年生まれの、77歳のおん年である。三年前の本だから74歳のときのものということになる。「ニューヨークの古本屋」というタイトルとは裏腹に、古本屋のことは、たんにちょこっと通りすがりに見つけた古本屋に入ってみた印象を書いた程度で、本題は数年後とに出かけて歩き回ったニューヨークの町並みや、自身が翻訳したり、かつてよく読んでいた「ニューヨーカー」誌などにゆかりのある人々についての話である。

おまけに80年頃に行ったときには不倫相手の女性に作らせた子どもまで連れて。仕事相手の女性に手をつけたのかなんかしらないが、きちんと前妻との関係を清算する以前に子どもを作ったりして、なんて野郎だ。

別に常盤新平というじいさんが古本屋に造詣が深いのどうかというようなことは知らないが、少なくとも表題に古本屋と銘打つ以上は、もう少しニューヨークというアメリカの出版の中心地にある古本屋がどんなたたずまいをしているとか、どんな栄光盛衰をたどり現在に至っているのか、またどこにどんな特徴のある古本屋があるのかなど、古本屋の人となりを紹介するような体裁になっていなくていいのか、ただ通りすがりに覗いてみた程度のことでこんなタイトルを使っていいのかという気にはなる。

古本屋というもの、日本の古本屋でもそうだが、主人の色のようなものが店舗にも出てくる。ただ雑然と投げ置いたような古本屋もあれば(だからといって、価値のあるものがないわけではないから、面白い)、主人の性格をぴったり表すかのようにきれいに整理整頓され、一定の秩序で並べられた古本屋もある(だからといって、価値のあるものがごろごろというわけにはいかない)。

日本でも古本屋は何度も足を運ばなければ掘り出し物に出会えるものではない。「一見さん」ではありきたりのものを見つけ出すことはできても、「おお!こんなものが!」なんて発見はまずない。毎日行く必要はない(というか行っても意味がない)が、週一くらいには足を運んでいなければ、いいものにはめぐり合えない。そんなことは古本屋好きには分かっていることだ。

しかるに5年に一回、あるいは10年に一回程度、けっして古本が目的で行くわけでもないのに、ニューヨークに行っていたからという理由で、ニューヨークの古本屋について書いてみませんかと勧める編集者も編集者なら、それを受けて下らぬ文章を書く作家も作家である。

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