読書な日々

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市場経済の悪夢

2007年09月06日 | 日々の雑感
市場経済の悪夢

人類が誕生してからつい数百年前に近代にいたるまでは、人間の経済活動なんてほとんど動物の生命活動と変わらなかったといってもいい。いわゆる自給自足の経済活動においてはほとんど無駄なものはでなかったわけで、あらゆるものが消費されて分解され自然に戻っていた。

しかし官製であれ民間であれマニュファクチャーというものが誕生することによって、労働者の賃金とその労働が生み出す価値のあいだになんの関係もなくなってからは、もちろんその前提として大航海時代が生み出した地域経済国家経済の枠の撤廃による市場の拡大ということがあったにせよ、生産は飛躍的に向上し、消費が生産を生み出すのではなくて、生産が消費を生み出し、ものの「よし」「あし」を決定するのは市場になった。つまり需要と供給のアンバランスということが常態となった。

その結果、売れると見れば生産者が集中し大量の供給をもたらし、売れないものは廃棄されていく。注文があるから生産するのではなく、市場があるから生産するようになる。売れるか売れないかは賭けのようになってしまう。

その結果、売れれば億万長者になるが、売れなければ首をくくらねばならない。資本家はそれだけのリスクを背負っているというわけだが、労働力を買うための賃金高とその労働力が生み出す価値はまったく別物であるので、資本は自己増殖を続けていく。マルクスはその仕組みを資本家の私的所有から労働者の共有財産にすることで、労働力の価値と労働が生み出す価値の差を社会のものへとせよと主張した。

その結果、ソ連をはじめとした「社会主義国」がとった手法が計画経済で、これは完全に破綻した。そもそも市場という競争のないところに進歩はなく、あるのは労働サボタージュと品質の悪化と、重量による価値判定という、信じられない経済世界であったことは、いまや周知の事実である。

ではこの世の春を謳歌している市場経済が生み出す、大量生産・大量廃棄によって、地球の存続そのものが危うくなっている現代において、それにとって変わるシステムがあるのかという問題だろう。市場経済がある限り、地球上の資源は食い尽くされ、森林は切り倒され、温暖化ガスの排出によって環境は破壊されつくすのは目に見えている。

私が若かった頃は、生産手段の私的所有から公的所有へというマルクスの主張は魅力的だった。だが現実にはそうした可能性がどのような道筋でありうるのかはまったくみえてこない。中国の市場経済が一つの挑戦だなどという主張は欺瞞以外のなにものでもない。そんなことを信じているのはごく一部の保守主義者だけだろう。

マルクスは資本主義のからくりを明らかにしたことは確かだ。だがそこからどのような道筋でそれを解決していけるのか、結局はなにも示さなかったようなものだ。

マルクスによれば、それまでは新しい経済システムの誕生は自然発生的であった。資本主義的システムだって、自然発生的に発達した市場と貨幣の使用という前提があって、官製マニュファクチャーと自然発生的に勃発する私的マニュファクチャーのせめぎあいのなかでこのシステムが勝利したのだったわけだが、マルクスは人類史上初めて自然発生的でなく意図的に人間が作り出す共産主義(社会主義)システムを提唱した。だがそれにもとづいてなされた様々な挑戦はすべて破綻した。というよりもそもそもそんなことが可能なのかどうか今一度再考する必要がある。

たしかに自然科学でさえ仮説の証明が一発でうまく行くとは限らない。実験によって当初の仮説に手直しを加えたり、実験の仕方そのものを変更し続けることでやっと一つの真実に到達することが出来るということを考えるならば、社会主義システムへの実験が失敗したからと言って仮説そのものが否定されなければならないことを意味しないが、現実の「実験」には人間の恐ろしいほどの犠牲を伴ったことを考えると、何度もやり直せばいいなどと嘯いてはいられない。


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