読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「ねじまき鳥クロニクル 第3部」

2007年09月11日 | 作家マ行
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部』(新潮社、1995年)

じつは少し前にこの小説について感想を書いたが、ちょっとした勘違いで2部で終わりなのかと思っていたら、じつは3部まであるということにこの前図書館で気づいた。どうりで訳の分からない状態で終わっていて、いくらなんでも大江健三郎の小説じゃあるまいし、あんなわけの分からない状態に読者をほうっておいたまま終わるのってひどいんじゃないかと思っていたので、やれやれと胸をなでおろしていたしだい。

しかし第3部を読み終わって、訳の分からない状態にほうっておかれたままという私の印象はまったく変わっていない。なんのための間宮中尉の回想手紙なのか、ナツメグとシナモンがしていたことはいったいなんだったのか、マルタとクレタの姉妹はいったい何のために存在するのか、笠原メイっていったい何者なのか、綿谷ノボルの力とはなんだったのか、久美子とは誰だったのか、分からないことばかりで物語が終わり、結局読者としての私には何一つ訴えかけることもなく、心に響くこともなく、面白いと思わせることもなかったというのは、本当に村上春樹の小説では初めてのことなので、正直言って面食らっている。

ただこれから7年後に書かれることになる「海辺のカフカ」にも似たような構図、つまり時代を超えた共鳴現象が作品の中核をなしていることを考えるなら、戦争という、人間の歴史のなかで人間自身が作り出した最も恐ろしい地獄に、村上春樹流の手法によって向き合おうとしてるのかと憶測できないこともない。そうでなかったら、間宮中尉の手紙とかナツメグによる回想という形であんなに延々と日中戦争にまつわる恐ろしい世界を描く必然性がない。

大江健三郎の小説じゃあるまいしと書いたが、大江は象徴こそが文学の力の源泉という思い込みがあって、象徴を構築することばかりに関心が行き、読者に読ませるということを忘れた現代では類まれな作家であるが、ついに村上春樹も象徴の泥沼に落ち込んでしまったのかと残念でしょうがない。ただ村上春樹の文章そのものは健在なので、まるでかつてのヌーヴォーロマンのように、文章の一つ一つはけっして難しいものではないのに、けっして一つのまとまった像を結ばないというのか、全体としてはなんらまとまった物語を構成しないという泥沼に足を突っ込んだような状態に読者は置かれることになる。

井戸という閉塞された場所がどこか別の時代・場所・次元に通じているという井戸の象徴、青いアザを持つことによってナツメグの父親である獣医の時代と現代の綿谷ノボルの世界と通底するという青いアザの象徴、恐怖の幕開けを告げるねじまき鳥という象徴?、綿谷ノボルという権力悪の象徴?によって汚される久美子やマルタたち女という象徴?ホテルの廊下と部屋を迷路のように使う偏執などなど、私たちの理解を超えるものばかりが次々と現れて、読者を翻弄する。

しかし村上春樹は外国では人気があるらしい。相当の国々で翻訳され、ものすごい勢いで売れているらしい。もしこれが、戦争に向き合おうとしているのかと思わせる主題の選びかたと、上に列挙したような大江健三郎ばりの象徴的手法によるものなのだとしたら、たしかにノーベル賞も夢ではないだろう。大江はまさにそうやって受賞したのだから。しかしほんとうにそんなことにでもなったら、日本ではだれも読まないのに外国ではノーベル賞という不思議な「名誉」を村上春樹も手にすることになるだろう。

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