読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「ニューヨークの古本屋」

2007年09月03日 | 評論
常盤新平『ニューヨークの古本屋』(白水社、2004年)

1931年生まれの、77歳のおん年である。三年前の本だから74歳のときのものということになる。「ニューヨークの古本屋」というタイトルとは裏腹に、古本屋のことは、たんにちょこっと通りすがりに見つけた古本屋に入ってみた印象を書いた程度で、本題は数年後とに出かけて歩き回ったニューヨークの町並みや、自身が翻訳したり、かつてよく読んでいた「ニューヨーカー」誌などにゆかりのある人々についての話である。

おまけに80年頃に行ったときには不倫相手の女性に作らせた子どもまで連れて。仕事相手の女性に手をつけたのかなんかしらないが、きちんと前妻との関係を清算する以前に子どもを作ったりして、なんて野郎だ。

別に常盤新平というじいさんが古本屋に造詣が深いのどうかというようなことは知らないが、少なくとも表題に古本屋と銘打つ以上は、もう少しニューヨークというアメリカの出版の中心地にある古本屋がどんなたたずまいをしているとか、どんな栄光盛衰をたどり現在に至っているのか、またどこにどんな特徴のある古本屋があるのかなど、古本屋の人となりを紹介するような体裁になっていなくていいのか、ただ通りすがりに覗いてみた程度のことでこんなタイトルを使っていいのかという気にはなる。

古本屋というもの、日本の古本屋でもそうだが、主人の色のようなものが店舗にも出てくる。ただ雑然と投げ置いたような古本屋もあれば(だからといって、価値のあるものがないわけではないから、面白い)、主人の性格をぴったり表すかのようにきれいに整理整頓され、一定の秩序で並べられた古本屋もある(だからといって、価値のあるものがごろごろというわけにはいかない)。

日本でも古本屋は何度も足を運ばなければ掘り出し物に出会えるものではない。「一見さん」ではありきたりのものを見つけ出すことはできても、「おお!こんなものが!」なんて発見はまずない。毎日行く必要はない(というか行っても意味がない)が、週一くらいには足を運んでいなければ、いいものにはめぐり合えない。そんなことは古本屋好きには分かっていることだ。

しかるに5年に一回、あるいは10年に一回程度、けっして古本が目的で行くわけでもないのに、ニューヨークに行っていたからという理由で、ニューヨークの古本屋について書いてみませんかと勧める編集者も編集者なら、それを受けて下らぬ文章を書く作家も作家である。

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