読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『火花』

2018年07月28日 | 作家マ行
又吉直樹『火花』(文藝春秋、2015年)

図書館に行ったら、たまたま返却コーナーにこれがあったので、読んでみた(ってこのパターン多いな)。

第153回の芥川賞を受賞した小説である。そして2017年初旬に文庫本も入れて、すでに300万部を突破したベストセラーになっている。おまけに映画も作られ、舞台でも上演されている。

ある意味、芸人としての完全な勝ち組である。なにも舞台でコンビと一緒にしゃべくるだけが芸人ではない。MCやったり、俳優になったり、バラエティー番組を盛り上げたりするのも芸の一つであってみれば、小説を書いて売るのも芸の一つだろう。完全な勝ち組である。それに耐えられなくなったら、相方はアメリカに行った。

さて、この小説、売れない芸人のありがちな日常生活が、可能な限りの自己省察によって描かれている。語り手である徳永は自分がなぜ売れないのかよく分かっているし、彼が敬愛する神谷がなぜ売れないのかもよく分かっている。

分かっていながら、あたかも分からないかのように、神谷の芸人論を書き留める。その芸人論はあまりに「あざとい」のだ。理屈が先行し、芸が伴わないという、やつだ。それだけのことが言えるのやったら、自分でやってみろやと、だれでも思う。

もちろん徳永もそう思っているはずだ。だが彼はある時点までは、まったくそんなことを思っていないかのように、あたかも「神谷先輩」のお説を恭しく拝聴しているかのような態度を取っている。僕は神谷先輩を尊敬している、と。

だが、それも途中までで、最後にはしびれを切らして、「ごちゃごちゃ文句言うんやったら、自分が、オーディション受かってテレビで面白いん漫才やったら、よろしいやん」(p. 116)

まさにこれがこの小説を読みながら、誰もが思っていることだろう。

そしてそれだけではない。恋人の金にせよ、消費者金融にせよ、人の金で、まったく返済の意志も意欲もないくせに、後輩と飲み食いをしながら、漫才論を、あたかも成功した漫才師のように語る神谷が、ウザく感じられる。

それだけではなく、読者がそう感じるように、語り手(もちろん又吉直樹だろう)が書いていることに、なんだか腹立たしくなってくるのだ。

なんとも不愉快な小説だった。


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