読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『畏れ慄いて』

2013年10月30日 | 現代フランス小説
アメリー・ノートン『畏れ慄いて』(作品社、2000年)

以前に(このブログを読み直したら、なんと2007年だった)読んだアメリー・ノートンの『畏れ慄いて』が翻訳で出ているので読んでみた。また後で感想を書こうと思っているが、じつは『チューブな形而上学』の翻訳が出ているのを、最近知ったので、急にアメリー・ノートンへの関心が再び湧いてきて、図書館で借りようと思ったら、これしかなかった。

のっけから違和感を感じる。
「ハネダ氏はオーモチ氏の上司で、オーモチ氏はサイトー氏の上司で、サイトー氏は…」とという冒頭の一文がすっと頭に入ってこない。ここで横書きになっているが、小説のほうは縦書きである。ということは上下が逆だろう。私はブログで紹介した時、この箇所をこんな風に訳している。

「羽田さんの部下が大持(?)さんで、彼の部下が斎藤さんで、彼の部下が森さんで、彼女の部下が私で、私の部下は一人もいない。」(p.7)

本当は部下という言い方とは逆の「上司」(superieur)という語が使われているのだが、関係代名詞で次々とつないでいく書き方がうまく日本語に収まらないので逆で訳してみた。

縦書きにしたときに、こちらのほうがすっと頭に入るだろう。それに苗字だってなぜカタカナなのだ?モリなんて後でフランス語のforetだという説明が出てくるし、あとで登場する部長のテンシさんだって「天使」の意味だと書いてあるのだから、最初から羽田、大持、斎藤、森とすればいい。

とまぁ、こんな風にのっけから違和感を感じたのだが、もちろん翻訳者はプロなので、翻訳には問題ない。タイトルの『畏れ慄いて』なんかも、その説明を見ていると、たしかにその通りなのだろう。私はそうした宗教的なことや日本的なことを考えもしないで、直訳しただけのことだったから。

原文で読んだときの私の感想については、こちら

アメリーは、ちらっと一回だけ触れられているが、この会社に通訳として採用されたはずだ。日本語もフランス語も話せる外国人女性を採用するとすれば、たぶんそうだろう。なのになぜ経理課に配属されるのか理解できない(本人もそう書いている)。私に理解できないのは、あの大持という(大餅かもしれない…餅のことに触れていたから)副社長の対応である。ちょっと戯画化しすぎだろう。ただ彼女は通訳として採用された外国人女性の処遇を問題にしたのではなくて、普通に入社した年若い女性社員の処遇の有り様を、自分のこととして描き出したと考えるならば、この小説は誇張でも、言いがかりでも、戯画化でもないだろう。

この傾向はますますひどくなって、今や日本全体がブラック企業化しているとも言われる。この小説でも10時間労働と頻繁に出てくる。フランスではありえないだろう。日本なら10時間ならいいほうで、もっと酷いところはゴマンとある。だからこそアメリーは冒頭に日本の会社員に連帯のメッセージを書いてきたのだろう。


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