仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「尼崎事件」③

2012年10月30日 | 日記
昨日の続きです。イスラム、アラブ社会で独裁者が倒され、独裁者の存在によって保たれていた秩序が失われて、さらなる混乱に至るという現象があります。独裁政治よりも、さらに恐ろしいのは無秩序だと言われます。“自由”と“無秩序”は同じ内容を持っています。わがまま、自由奔放、束縛がない状態です。それを制御するのが政治であり文化です。

その点、動植物は種の中に、無自覚的にある種の秩序を持って誕生し、成長の秩序に従って死に向かっています。ところが人間は、人間存在そのものの中に、そうした秩序を持ち合わせていないので、縁によって無限な可能性があります。その無限の可能性をコントロールするのが、言葉が重なりますが、文化であり政治であり、さまざまなご縁です。

浄土真宗では、人間のことを「機」(き)といいます。仏さまの教えを受け入れる対象という意味ですが、「機」の内容は、細かく3つの面から説いています。1.可発ーさまざまな可能性を秘めている。2、変ーさまざまに変化する。3、機関ー受容したものを表現する機関となる。ともに主としては“信心獲得する可能性”の上で語っていますが、悪い方向でいえば、人は鬼にも邪にもなるということでしょう。

あってはならないことですが、このたびの「尼崎事件」は、被告が生み出したことですが、本来人間が待っている性質が生み出したものであり、事件そのものの誘発の背景には、日本社会にある“自由”のもつ悪い面が生み出したとも言えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする