仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

人は本来、幸福?

2012年10月26日 | 現代の病理
月曜日、朝一の飛行機で、大宰府市のご寺院へ報恩講の出向。二日市温泉にて2泊、その帰り道の一昨日、京都の大学での講義でした。講義は都市開教論ですが、15回中、5回は「苦しみへの対応」です。今日は、浄土真宗と苦しみとの関連で、比較対象として、創価学会や霊友会、PL教団、その他の新宗教の、苦しみへの対応の紹介しました。

今回、はっきりと新宗教について意識したのは、多くの新宗教の人間論が、「人は本来、幸せである」という考え方から出発しているという点です。

たとえば

創価学会では「不幸は、過去世(過去の世に生を受けた時)の悪業による。その悪業は、この世で最高の善を積むことにとって断ち切られる。その最高の善が題目だ」と説いています。

幸福の科学では、愚痴や心配性、怒り、妬みといった不幸な感情は、根源において、「有限の生命」という考え方から発している。幸福の原理として「愛・知・反省・発展」の四正道を掲げ、「愛」の実践を説く。

天理教では、人の本来の姿は、親神という共通の親をいただく兄弟。兄弟仲良く助け合ってくらすのが人生の目的。その本来の姿で暮らす生活を、「陽気ぐらし」といい、親神は、あなたと私がこの本来の姿で暮らせるよう日々お働き(守護-しゅご)くださっている。この本来の姿から私たちを遠ざけてしまうのが私たちの自己中心的な心づかいで、ここに不幸の原因がある。

霊友会では、現世における不幸の原因は先祖の霊のゆえであると考え、先祖供養を正しく行うことによって障りは取り除かれるとする。

PL教団では、「人生は芸術である」との真理に背いて、「生」の表現が阻害されるところに人間の不幸・苦痛・災難の原因がある。信者一人ひとりに最大限自己を実現していくところに幸福がある。


といったものです。仏教は「一切皆苦」と、人生は苦しみであり、この世は娑婆(耐え忍ぶ世界)であると説いています。この出発点の相違を面白く思いました。

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シビ王のレリーフ

2012年10月25日 | 日記
比叡山や寺院境内というのは、仏さまを感じることのできるテーマパークです。寺院と、このテーマパークという言葉が私の中で結びつき、発想されたのが、西方寺の墓地「かしわ青光苑」を、仏教のテーマパークにしようということです。

ジョータカや仏教の関するレリーフを、石に刻んで設置し、参拝者に楽しんでもらうという計画です。まずその第一弾「シビ王」の物語のレリーフができ、墓地に設置されました。横80センチ、高さ60センチの石(写真)に、シビ王の図柄を彫りこんだものです。石の裏側にステンレス製の板に解説があります。まず10点くらいと考えているのですが、これといった図柄がなく、次のものを思案中です。
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太宰府にて

2012年10月23日 | 日記
昨日の朝一で福岡空港入り、昨日今日と、珍しく、お説教です。ご寺院の日々の活動をお聞きできることは、刺激になります。
月に一日、決まった日に住職が寺に詰めていて、何でも相談できる日があるとのこと。案内には、自由参加です。気軽にどうぞ。仏事、その他で疑問におもうこと、お話しことなどを質問できます。相談もできます。とあります。これは合理的だと思いました。いろんな事情で、住職がふざいがちな、寺院では、住職に遠慮があって、相談しずらい傾向にあります。
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住所表示がない家が増えました

2012年10月22日 | 日記
初めてご依頼のあったご家庭へ出勤しました。ネットの地図でおおよその見当はついていたのですが、3年前、新車であった自動車のカーナビには、表記されません。

電話を持っていればネットで地図検索をして、やすやす到着といったところでしたが、電話は家に忘れてきています。とりあえず検討をつけた場所へ行きました。ところが、新しい家ばかりで、すべてのご家庭に住所表示がありません。

前々から新しい家には住所表示がないので、困っていましたが、今回のように、すべての家に住所表示がないと住所だけで探り当てることは不可能です。ぎりぎりの時間があったので、いったん寺に帰り、地図をコピーして出直しました。

この“住所表示なし”という現象をどう捉えたらいいのか。1つの個性の主張なのかもしれませんが、わがままの一種ではないかと住所表示利用者としては勘ぐります。あるいはネットの地図で調べれば分かるので、地図と実際の住所表示のすみわけが進んだのか、はたまた、いらぬ表示をして、犯罪や迷惑をこうむることを回避する行為なのかもしれません。

昭和の昔、新聞に掲載される死亡記事掲載者の家に、お悔やみと共に「お金を貸していた」と訴えて捕まった人がいたことを耳にしたことがあります。住所表示を表示しないことによって、その種の類に引っかかる予防ともなります。

遠からず、住所表示だけではなく、家の名前も表示しない傾向が進むのではないかと思われます。ますます“安心”は、自分で獲得しなければならない社会となって来ているようです。
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休耕田 茂る外来種

2012年10月21日 | 日記
早朝、日の出前、歩きながら念仏していると、ふと昨日(24.10.20)読んだ読売新聞夕刊の記事が思い出されました。新聞を読んだというよりも、新聞を見たという方が適切です。「休耕田 茂る外来種ー福島の解除準備区域ー」というタイトルに、背丈ほど伸びた外来種のセイタカアワダチソウや雑草をかきわけながら歩く地主らしき人の姿が写ったカラー写真が掲載されていました。

新聞を読んだ部分は最初の10行だけでした。「北米原産で繁殖力の強いセイタカアワダチソウの根は、地中50センチまで伸び、在来種の生育を妨げる…」

念仏を称えながら思われたことは、その新聞記事のことを思い出して「念仏も私の深い深層に根付いているので、雑草(犯罪を犯すといった行為)が生えにくくなっている。自分が普通の人として生活できているのは、念仏が私の上に根付いているからに違いない」という回想でした。そして南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏…。また少し念仏を称えながら歩いていると「いや、現在まではたまたま、そうなっていないだけで、これから先は、どうなるかわからない…」ということが思われました。

そして結論らしきものは、今現実に都合の悪いことが起こっていない原因を念仏の上に味わうのは良いが、それは味わいであって、「念仏は人間の深い深層に根付いているので、雑草(犯罪を犯すといった行為)が生えにくくなる」ということを、方程式化(固定化)してしまうと、そこに闇が生まれる。その闇が、私の上に、驕りや慢心を生み出していくというものです。
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