仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

真宗の習俗

2009年12月25日 | 浄土真宗とは?
ある年にご門主の組巡教で九州の田川地方へ行った。ご門主と地域住職との座談会の中で、ある住職が日ごろの苦悩を語り始めた。

「私は今の寺へ入寺してより、寺の総代が地域の神社の総代を兼ね、かねてより神社の総代を引いてほしいと願い、小言を伝えていた。ある時総代が総代の総意として“住職も神社の祭りや行事を手伝わないと、わしらも寺の行事を手伝わない”と言われ苦悩している」。そう涙ながらに語られた。

村おこしに祭礼を用いる昨今、よくある話だが、地域の習俗だからといっても、どこかで線引きをしなければならない。現実問題として習俗だからと言っておれない問題がある。それは日本の社会が未成熟ゆえに苦悩かもしれない。

また同じ組巡教で次のようなご門徒からの苦悩を聞いた。その法座は「神と仏」がテーマで話し合いが進んだ。そして年配の総代が手をあげて心中を吐露した。

「私は寺の総代を代々引き受けているが、家には神棚が祭ってある。浄土真宗では神祇不礼で神棚を祭るべきでないと分かっている。でも先祖が大切にして拝んできたものなので神棚を外す決心がつかない」という。その苦渋に満ちた思いを察して、またおろす下さないということを苦悩するその揺れ動く心を聞きながら、私の心の中にふと沸き上がってくる思いがありました。

「私は神棚を下ろそうか悩んだことがない。それは神棚のない家庭に育ったから」と、神棚を下ろすか下ろすまいかと悩む必要のない家庭に育ったとこの有り難さがこみ上げてきました。その後そのこみ上げてきた私の思いをその方にお伝えしました。

「親が祭ってきた神棚を下ろす決心は並大抵のことではないと思います。もしここで踏んばり切ることなできなかったら、あなたの子孫も同じように悩むに違いない。どうでしょうか。こうは考えられないでしょうか。阿弥陀様もあなたの神棚を下ろすという決心がただ事でない重大な決心であることを知っていた。今日という日に、あなたにその一念を発起させるために、こうした座をしつらえ、その話しを持ち出すように仕掛け、その一念を起こすためにこのような催しを仕組まれた。それが今日という日のこのお座です。決断するのは貴方ですが、その決断を生み出すために、仏さまの働きがあった。そうは考えられないでしょうか」とお話ししたことです。

私たちはどうも、良いことを身につけていると、その良いことで他者を裁いてしまう傾向があります。かといって、神棚を下ろすことを否定しているのではありません。神棚を祭らないと言うしきたりが、先の人をして神棚を祭っている現実に疑問を持たせ、先の問いとなったのですからしきたりはしきたりとして重く考えるべきものです。しきたりを単なる形式の問題とせず、大胆にその形式の背後にある悲しみや喜び、また悪しき伝統や習俗を問い直すべきでしょう。

昨日、図書館で借りてきた「信州と民俗信仰」(浦地勢至著)をみると、真宗仏壇や真宗の葬儀、倶会一処と書かれたお墓など、まさにこれらは真宗の習俗だという印象を持ちました。
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