仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

世界が自分中心に意味づけられていく

2009年12月26日 | 浄土真宗とは?
一昨日、毎月開催している声明の学習会(講師は私)の忘年会があった。短い時間であったが、参加者の声が聞けてよかった。参加者の声はプライバシーも問題があるので詳しくは書けない。その声を聞いて私が思ったことは書けるので2つ書きます。

1つは20年くらい新宗教に参加していて、ご縁があって浄土真宗を学び始めた方。そのきっかけは「生きるということは、どういうことなのか」(意趣)という疑問が契機になったという。

話がずれるが、たとえばこういう問いを持った人に問いかけられた時、大切なことは問いに対して答えることではなく、その方がその問いを持ったことに感動することです。

私は先のコメントを聞いて「ほーお釈迦さまと同じ疑問を持ったか」と思った。お釈迦さまが王子の時、四門出遊して老病死の現実に出会い、「生きるということはどういうことなのか」という疑問を持った。そのお釈迦様の問いと重なりました。

通常の考え方のパターンは、老にあえばいつまでも若くと考え、病にあえば、健康でありたいと思い、死に際しては死にたくないと執着する。とこらがお釈迦様は違った。苦しみに現実に出会ったとき、この苦しみはどこから来るのかと思索された。

『仏説観無量寿経』で韋提希夫人が釈尊に向かって「なぜ私はこんな苦しみにあわなければならないのですか。なぜ私はこんな子を生んだのですか。なぜお釈迦様はわが子をそそのかしたあの提婆達多は親戚なのですか」と叫んだ。

苦しみを解決する方法ではなく、苦しみそのものが問題となる。苦しみを直視する。これが重要です。その意味でも、先の方が問いを持たれたところに重要な意味があります。

もう1つは、姉妹二人の実家である寺へ、姪の婿が養子に来てくれることとなり、いま真宗の学習をしているという話。入寺してくる方は在家の方だという。その時もお聞きしながら「ほー大変なことが起こったな」と思った。入寺される方が、念仏のご縁に遇う。そのために、そのお寺に姉妹が生まれ、門徒はお寺を整備し、その寺院に関わるすべての人たちが、用意して、いまその方の上に入寺という縁を通して念仏との出遇いがあった。その方と念仏との出遇いが「大変なことが起こった」ことの内容です。

帰りに上野で一杯ひっかけながら、その話を思い出して手帳に、回想したことを失念しないように「世界は自分にとってどのような意味を持っているのか。それがすべて」と書いた。全世界が念仏を中心に意味づけられていく。そのダイナミックな感動が真宗の利益だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする