読売新聞の読者欄(21.12.23)に、老年期の夫婦の呼称にかかわる随筆が掲載されていた。
連れ合いの呼び方 この年で考え直す
無職浦辻富雄73 (新潟県上越市)
妻と一緒に友人宅を訪ねる際、行きつけのお菓子屋さんに立ち寄った。さんざん迷った末、「おじいさん、これにしましょう」と妻が私に呼びかけた。
すると、それまで和やかに様子をうかがっていたお店の奥さんが、「おじいさんと呼ぶのはお孫さんの前だけにしてはいかがです。おふたりの時におじいさんと呼んでは失礼ですよ」と笑顔でたしなめてくださった。
私たちの世代は照れくさくて、連れ合いをとても名前で呼ぶことはできなかった。だが、これを機に私も妻を「おばあさん」と呼ぶのは封印することにしよう。良い教えをいただいたことに感謝している。(以上)
読みながら、面白いと思った。一つはお店の奥さんのおせっかい、夫婦の会話から何をおもっておせっかいを進言したのか。
もう1つは、以前、ハワイで開教師をしていた湘南のHさんから、日本と欧米では家族関係の中での呼び名が違うということを聞いた。
日本の場合、家族の中では、「おじいさん」「おばあさん」「おとうさん」「おかあさん」「おにいさん」「おねえさん」と家族全体の関係性の中で呼称する。妻は自分のお母さんではないが、子どもがいると家族間の中での呼び名である「おかあさん」と呼ぶ。極端な場合は、「おかあさん!」と祖母が自分の娘である孫の母を呼ぶ場合もある。欧米では、兄弟でも夫婦間でも名前で呼び合うのが当然だそうだ。
考えてみると、この呼称には日本独特な因習がある。縁のなかで物事を考えていく国民性、また家庭内では「おじいさん」といっても社会では「祖父は」という、内と外を区別する国民性、 面白いのは、擬似家族的な関係を好み、喫茶店のウエートレス譲を「おねえさん」といったり、知らない年長の男性を「おじさん」「おじいさん」と呼んだりもする。
こうした呼称には日本的な、そのことによって保たれてきた何らかの土徳か日本的な意識が根底にあるので、他人に言われたからといって、すぐ変えてしまうには抵抗がある。
以前、新幹線の中の雑誌に宮崎県幸島のニホンザルの芋洗いのサルの紹介があった。
宮崎県幸島のニホンザルの芋洗い、今から四十年近く前、餌づけをはじめて間もない頃、一頭の子どものメスザルがまかれたサツマイモを海水で洗って食べた。イモについた砂をおとし、おまけに塩味までついている。この新しい行動は、子どものメスザルから母ザルに伝わり、群のほとんどの猿がこの行動をとるようになった。サルの世界で新しい文化が生まれたのです。海水づけの発見により、このメスザルは「イモ」と名付けられた。
ところがサルの群れの中で、最後までイモ洗いをやらなかったサルいた。それはボスザル以下、第三位までの長老のオスザルで、群の全員が塩味を楽しむようになってもがんとして認めず、ついに無視して死んでいった。
私はこの記事を読んで、さすがボスザルと思いました。時代に流されず、伝統の中に生き死んでいく。海水づけを発見した「イモ」同様、ボスザルたちの行動にも頼もしさを感じます。
伝統として受け伝えられている文化を、時流に流されず大切にしていく人。また伝統にとらわれず新しい発見にチャレンジしていく人。どちらも大切なことです。
まあ結論は老夫婦が「おばあさん、おじいさん」と呼ぶのもよし、「隆夫さん、ふみ」と呼ぶもよし、ただ短絡的に流されては、老人の風格が墜落する。そう思った。
連れ合いの呼び方 この年で考え直す
無職浦辻富雄73 (新潟県上越市)
妻と一緒に友人宅を訪ねる際、行きつけのお菓子屋さんに立ち寄った。さんざん迷った末、「おじいさん、これにしましょう」と妻が私に呼びかけた。
すると、それまで和やかに様子をうかがっていたお店の奥さんが、「おじいさんと呼ぶのはお孫さんの前だけにしてはいかがです。おふたりの時におじいさんと呼んでは失礼ですよ」と笑顔でたしなめてくださった。
私たちの世代は照れくさくて、連れ合いをとても名前で呼ぶことはできなかった。だが、これを機に私も妻を「おばあさん」と呼ぶのは封印することにしよう。良い教えをいただいたことに感謝している。(以上)
読みながら、面白いと思った。一つはお店の奥さんのおせっかい、夫婦の会話から何をおもっておせっかいを進言したのか。
もう1つは、以前、ハワイで開教師をしていた湘南のHさんから、日本と欧米では家族関係の中での呼び名が違うということを聞いた。
日本の場合、家族の中では、「おじいさん」「おばあさん」「おとうさん」「おかあさん」「おにいさん」「おねえさん」と家族全体の関係性の中で呼称する。妻は自分のお母さんではないが、子どもがいると家族間の中での呼び名である「おかあさん」と呼ぶ。極端な場合は、「おかあさん!」と祖母が自分の娘である孫の母を呼ぶ場合もある。欧米では、兄弟でも夫婦間でも名前で呼び合うのが当然だそうだ。
考えてみると、この呼称には日本独特な因習がある。縁のなかで物事を考えていく国民性、また家庭内では「おじいさん」といっても社会では「祖父は」という、内と外を区別する国民性、 面白いのは、擬似家族的な関係を好み、喫茶店のウエートレス譲を「おねえさん」といったり、知らない年長の男性を「おじさん」「おじいさん」と呼んだりもする。
こうした呼称には日本的な、そのことによって保たれてきた何らかの土徳か日本的な意識が根底にあるので、他人に言われたからといって、すぐ変えてしまうには抵抗がある。
以前、新幹線の中の雑誌に宮崎県幸島のニホンザルの芋洗いのサルの紹介があった。
宮崎県幸島のニホンザルの芋洗い、今から四十年近く前、餌づけをはじめて間もない頃、一頭の子どものメスザルがまかれたサツマイモを海水で洗って食べた。イモについた砂をおとし、おまけに塩味までついている。この新しい行動は、子どものメスザルから母ザルに伝わり、群のほとんどの猿がこの行動をとるようになった。サルの世界で新しい文化が生まれたのです。海水づけの発見により、このメスザルは「イモ」と名付けられた。
ところがサルの群れの中で、最後までイモ洗いをやらなかったサルいた。それはボスザル以下、第三位までの長老のオスザルで、群の全員が塩味を楽しむようになってもがんとして認めず、ついに無視して死んでいった。
私はこの記事を読んで、さすがボスザルと思いました。時代に流されず、伝統の中に生き死んでいく。海水づけを発見した「イモ」同様、ボスザルたちの行動にも頼もしさを感じます。
伝統として受け伝えられている文化を、時流に流されず大切にしていく人。また伝統にとらわれず新しい発見にチャレンジしていく人。どちらも大切なことです。
まあ結論は老夫婦が「おばあさん、おじいさん」と呼ぶのもよし、「隆夫さん、ふみ」と呼ぶもよし、ただ短絡的に流されては、老人の風格が墜落する。そう思った。