仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

慚愧の体験には意味がある

2009年12月20日 | 苦しみは成長のとびら
お一人住まいのお年寄り。「隣市に引っ越すのでご遷座のお勤めを」とのことで出勤した。娘さんの家が空き家になっているのでに住むという。娘さんは大学の先生で東京住まい。連合いを失い、夫婦で一緒に住んでいた家へ移住するという。

「娘さんのお連合いは何宗でしたか。」と尋ねると浄土真宗でしたとのこと。それから婿さんの葬儀の時のことを語って下さった。「私も葬儀が終わってから死んだこと知ったのです」という。婿さんが肺がんでやせ細って「病身のこんな姿を人に見せたくないから、だれにも知らせるな」とのことで、ひそかに葬儀式を行ったとのことでした。

その話を聞いて「婿さん、辛かっただろうなー」という思いをもった。肺がんになること、やせ細っていったこと、死んでいくこと、みな受け入れることなく拒否して死につく。その状況を「こんな姿を人には見せたくない」という言葉から想像したからです。

おそらく優秀な人材として会社を担い、バリバリと仕事をこなされてきたのであろう。それが生き甲斐であり生きている証しであり、わが人生そのものだったのでしょう。ところがその同じ価値観が病身の現実を苦しめます。病気と戦うならまだしも、その自分の価値観と格闘して過ごす。ただただ沈黙するしかない。

これは他人ごとではなく僧侶にも責任があります。もっと違った価値観、人生観があることを、知らせる努力を怠ってきた結果でもあります。

以前、寺報(清風)で紹介した平野恵子さん、彼女が残された「こどもたちよ ありがとう」(法蔵舘刊)には、「死をもってあなたたちへの最後の贈り物とします」とあります。今は故人ですがその本には、肝臓がんを患い3人のお子さんとの出会いや仏教との出会いを綴られています。そして3人のお子さんに残す言葉として上記の言葉があるのです。けっして別れを望んでの言葉でありません。悲しみの中で、母の死を通して「終わりのある命を生きていることを母の死からしっかりと受け止めてください」という母の子を思う精一杯の思いやりです。

そのように死を受け入れていく文化がこの日本にはある。なのに…。

だからといって私がひそかに人に連絡せず亡くなられたその方に、面接したからといって、何もできなかったと思う。しかしその場で何もできない慚愧を体験することは意味がある。自分に対してそのことだけは言っておこう。
コメント
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