仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

朝一番の称名念仏

2009年12月01日 | 浄土真宗とは?
早朝のウオーキングが、闇に包まれた深夜の徘徊状態となり、布団の中でサボろうかという思いがよぎる。4時半にセットしていた目覚ましも5時にして、5時のニュースを聞いてから出発して、夜明けに帰宅している。平生、念仏は出るにまかせている。ウオーキング中、念仏を称えないことはないが、いつぞやは布団の中で念仏を称えていたが、1時間ほど歩いて帰宅して玄関に座ったとき「南無阿弥陀仏」とでて、「ああ今日は念仏称えていなかったか」と気づいた。

歩きだしてすくに「南無阿弥陀仏」と称える時もあれば、5分くらい歩いているとき「南無阿弥陀仏」と出ることもある。念仏は出るにまかせているが、いつも朝一番の称名をして思うことは、「南無阿弥陀仏」と称えた時、「今まで称えていなかったか」と気づくことです。この称えていなかったことへの気づきは非常に重要です。

「今まで称えていなかったか」と意識したとき、称名していない時も阿弥陀如来の恵みの中にあったことに思いが及びます。その意味では称名は、称えている時も称えていない時も、いつも弥陀の恵みの中にあることへ気づくときでもあります。阿弥陀如来は、気づいたときだけ私のそばにいらっしゃるのではなく、気づくと気づかないとに関わらず、私と離れることなくご一緒して下さっています。日常生活の中で、阿弥陀如来の存在に気づかないで暮らしている時間がほとんどです。そしてこの命が終わる時も、弥陀の存在を意識しないで終わっていく確率の方が高い。どんな死に方をするのか分からないのですから。

でも阿弥陀如来は、私の気づきを、浄土に生まれる因とはされていないので安心です。それは逆に言うと、私の意識というのは、私の自由意思によって、なんでも思えるのではない、その私の人間性をすべて認めていこうとされるのが阿弥陀如来のお心です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする