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アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

映画「生きていた男」

2022-11-17 18:36:49 | 映画とドラマと本と絵画

  久しぶりに面白い映画を見ました。「生きていた男」。https://movies.yahoo.co.jp/movie/1798/  1958年制作のモノクロ映画です。

  南アフリカでダイアモンド発掘に成功した大富豪の娘がヒロイン。彼女の下に、彼女の兄と名乗る男がある日突然やってきます。しかし兄は交通事故で死んだはず。彼女は警察に届けますが、男の持っているパスポートも身分証明書もすべて本物。さらに、妹であるヒロインの好きな飲み物やともに体験したエピソードなど、まちがなく語ります。

  ヒロインの父である大富豪は、実は自殺しており、彼の持っていたはずの高価なダイヤは行方不明。ヒロイン自身も謎に包まれている部分がおおい。

  モノクロの映像がピシッと決まり、光と影のコントラストが美しい。俳優たちの演技も惹かれる。そして結末は‥・・ 途中でちょっとだけ「もしかしたら、こうなのかな」とちらっと思った通りになりましたが、でもかなり意外な結末が待っています。エンドマークが出てから(と思う)、監督が登場して話す一言に、にやりとしました。

  それにしても、ヒロインに扮するアン・バクスターの腰の細さにおどろく。あそこまでウエストを締め付けたらさぞ苦しかろう、と思いました。

 

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豊田市美術館で「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」を見ました。

2022-09-29 16:13:51 | 映画とドラマと本と絵画

    ひと月前、終了直前の展示会を見に、豊田市美術館に行ってきました。美術館へ行くのは何年ぶりだろう。少なくともパンデミックが始まってからのこの2年半は控えていたので、3年以上ぶり。

   展示品は、家具、建物の写真、什器、衣服、生活すべてにわたるさまざまなもの。

  ミロの絵までありました。

   服は、今着ても何も違和感がなさそうなものが結構ありました。この帽子、気に入った。かぶってみたい。コルセットから解放された女性たちの緩やかな衣装がたくさん展示されていました。緩やかでしかも女性的。化繊もすでにでていた頃かと思いますが、素材の多くは絹やウールでした。

  ポスターの絵柄やロゴデザインは、このころならではの雰囲気です。昭和初年の字体といえばこんな。構図も日本でも同じようなものがたくさんあったと思います。戦争中の様々なプロパガンダのポスターの惹句も、こんな書体で書かれていたのを見た記憶があります。

   陶器のポットです。左のポットがすっきりしていてすてき。もち手は籐製。日本の急須の影響? それとも日本の急須がこちらの影響を受けた?

   この頃~1900年代初頭~に、現代につながるあらゆるデザインの元が出来上がったよう。各国の伝統的な織物の柄を取り入れた壁紙なども散見。和柄としか思えない模様の壁紙があったり、当時の流行の柄を着物に取り入れたりと、先進国のデザイナーたちが、自国の文化にとらわれ、より新しいデザインや意匠をもとめていたのだということを感じさせました。

  面白かったのは、日本の着物の意匠デザインに、カンディンスキーを模した帯だとか、「ナポリの浴槽」と名付けられた柄とかがあふれていたこと。バウハウスができてじきに、バウハウスで勉強した日本人たちが日本で形而工房をつくり、日本の部屋に合わせた椅子のデザインをてがけています。

   奇をてらっただけではないかと思える陶器や椅子もありましたが、今の家で使っても部屋にマッチし、使い勝手も悪くなくておしゃれだろうなとおもわれるものもたくさん。この黄色いセットもそのひとつ。

  膨大な展示品に圧倒され、あれこれ友人たちと作品についておしゃべりしながら見て回ったら、3時間以上たってしまいました。

  100年前の作品群が、ほぼどれも古臭く感じられなかったのは、逆に言うと、あのころ作られたデザインの基礎といったものが根底から覆るということが、この100年、ほぼなかったということなのでしょう。その前のフランスやドイツの王朝期の家具や衣服はいかにも古めかしく、着心地も使い勝手もわるそうですが、この時代、貴族や王族にかわってブルジョアが登場したことによって、市民階級が力を持ち出し、生活に潤いを持たせる調度や什器の洗練に磨きがかかったとおもわれます。

  最近のはやりのスカートに、裾の前側が短めで、後ろ側が長いデザインがありますが、まさにそれと同じデザインのスカートが、展示品の中のスケッチだったか何かで発見しました。新しいデザインではなかった! もう、ほとんどのデザインが、既にこの時代にやりつくされてたんだな、ということを改めて感じた展覧会でした。

  ということは、現代のデザイナーたちは、全く新しいデザインを生み出すことは難しかろうということでもあります。この時代の後、70年後くらいに、パンクまででてきてしまったから、こわす、ということもデザインの一つに組み込まれてしまい、それも飽きられていると思います。そんなこんな、ひさしぶりにあーだこーだとしゃべったり思ったりするのが楽しい展覧会でした。

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映画「黄色い大地」

2022-09-29 14:15:28 | 映画とドラマと本と絵画

  久しぶりにいい映画を見ました。1984年のチェン・カイコー監督の映画。撮影がチャン・イーモウ。彼の初めての撮影作品だそうです。黄色い大地(1984):映画作品情報・あらすじ・評価|MOVIE WALKER PRESS 映画

  ときは1930年代。舞台は、黄色にしか見えない大地が延々とつづく山岳地帯。その地に残る民謡収集を目的に、八路軍の一人の兵士がやってきます。民謡収集の目的は、各地に伝わる民謡に別の歌詞をつけて、共産党のプロパガンダの材料にすることです。

  兵士はこの地で「最も貧しい家」を選んで宿泊します。この家に住むのは、老爺としか見えない40代の男性と14,5歳の娘、知的障害らしい息子の3人。家とも呼べないようなあばら家に住み、食べ物は毎食薄い粟粥だけのよう。何キロもあるいたところにある長江まで水を汲みに行くのですが、それは幼い長女の仕事。父親と息子はカチカチに見える大地を耕し、穀物を蒔く。

  映画の冒頭は村の婚礼シーンで始まります。若い、こどものような花嫁の顔は、緊張と不安で苦しみに満ちているのに対し、中年に見える夫は相好を崩しいやらしく笑う顔が映されています。貧しい村では嫁は働き手で子を産む道具。高い持参金を出してやっと手に入れられます。貧しい家の娘、翠巧は壁に隠れてその様子をこわばった表情で見ています。

  主人公の兵士は、一家の父親に歌を歌うことを請います。でも、父親は無言。彼らの歌う歌は気持ちが乗らないと歌えない。そのことを悟った兵士は根気よく彼らと付き合いますが、やがて別れの時が来ます。

  その前夜、父親は突然即興で歌い出します。自分たちの生活をうたう歌。染み入るような声音です。

  一方、父親と同様かたくなに歌うことを拒んでいた娘も、兵士を見送った帰り、いくつも丘を越えたところから、歌を歌い始めます。その声のすばらしいこと。今でも思い出すと胸が熱くなります。

  歌というのはこういうものだ。歌詞の言葉とメロディが密接につながっていて、無理なく調子が続く。びっくりするような転調や、ことばと音が不自然になっているところはまったくない。

  そういうことをつくづく思った映画でした。別れの後、娘はこの若さで無理やり持参金のために嫁にやられます。そして最後は・・・・・。

  曲だけでもまた聞きたいと思いましたが、たぶん、すばらしいことはすばらしいけれど、きっと、物語があったからこそ、歌の良さが私に伝わったのだろうなと思いました。

  中国での評価は二手に分かれる、とウィキペディアにありました。たぶん、八路軍の扱いが複雑だからではないのかなと思います。いずれにしろ、中国の底の深さ、大きさを改めて感じた秀作でした。

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本「もうひとつの強制連行 謎の農耕勤務隊」

2022-08-28 18:35:39 | 映画とドラマと本と絵画

  フェイスブックともだちの投稿で知ったこの本。自費出版なのに図書館にあったので、借りました。

  「農耕勤務隊」というのは、太平洋戦争の末期、日本の農村に派遣され、農耕に従事した兵隊たちの部隊のことなのですが、実際に兵隊として働いていたのは、当時「半島人」と呼ばれていた朝鮮の人たちが主。それも、強制連行で連れてこられた10代の若者がほとんどなのだそうです。

  この「農耕勤務隊」、戦後の日本ではほとんど知られておらず、謎だらけの存在なのだとか。編者の雨宮剛氏は、国民学校の生徒だったころ、西加茂郡猿投村(現在の豊田市猿投地区)に住んでいて、勤務隊の兵隊たちが木に縛り付けられて死ぬほど殴られるシーンも見ていました。彼らのことが戦後もずっと頭から離れず、大学教授の職を辞してから、当時の同級生たちの証言を集めたのがきっかけになり、全国の農耕勤務隊の実情を調べ、その証言をまとめたのがこの本です。

  勤務隊は、昭和20年の初頭、陸軍に通達が出されて組織されたもの。その前年度末頃から朝鮮半島で勤務隊に入れるための強制連行が開始され、春ころから、順次、日本のあちこちの農村に、規模はさまざまながらこの勤務隊が派遣されたのだそうです。でも、勤務隊のことは敗戦直後にほとんどすべて文書が焼却されたため、詳しいことはわかっておらず、一般にも知られていないのだそうです。

  農耕勤務隊という正式名は、今回初めて知ったのですが、わたしはずいぶん前から「農耕隊」という名前は知っていました。

  なぜかというと、大正12年生まれの父が、まさにこの農耕隊に所属していたからです。

  父は刈谷市出身で旧制中学卒業後、東京の獣医専門学校に入学。おそらく戦況の厳しくなったころ、繰り上げ卒業して入隊したと聞いた気がします。ニュース映像で有名な、昭和18年秋の雨の中の学徒出陣式より何か月か前に学徒兵として徴兵されたらしい。

  徴兵されてすぐ、京都に配属。その後名古屋師団に転属。父の所属する部隊はほとんどが南方に移動命令が来たそうですが、父は免れ、戦争末期、当時の西加茂郡三好村に派遣されました。それが農耕隊です。

  父の軍隊時代の最後の階級は少尉。だから農耕隊の一個小隊の隊長だったのかもしれません。詳しいことはわからないのですが、父は三好村の寺で寝泊まりし、朝鮮の人たちを連れて、「不良土の開墾に従事した」と聞いています。寺には、日本人兵士たちのほか、憲兵隊隊長夫婦も住んでいたそうです。

  戦後になって寺を訪れた父は、寺の娘だった母とその後結婚し、わたしが生まれました。農耕隊の話は、父と母、それぞれから断片的に聞いたことはあるのですが、いったいその朝鮮の人たちはどこに寝泊まりし、どんな暮らしをしていたのか、開墾の目的は何なのか、そもそもなぜ父は南方異動から免れたのか、謎だらけのままでした。

  謎だらけだなと思い始めたのは父が亡くなってから。でも、調べることもなく今日まで過ぎてしまいました。

  その謎を半ば解き明かしてくれたのがこの本。本書によれば、三好村での勤務隊隊員の居住場所は三好中部小学校。「三好町史」(ママ・「三好町誌」が正式名)からの引用です。母の実家の寺から歩いて10分ほどのところにあります。

  そして父や母、三好の友人のいう「不良土」という土地は、その小学校からさらに10~15分ほど行ったあたりにあります。友人の話では、その場所は「弥栄」という地名だそうです。

  

   母からは、寺の奥座敷に憲兵隊夫婦が住んでいて、妻のほうが毎日、寺の厨で自分たちの食べる分のお米を七輪で炊いていて、それが真っ白の米だったと聞きました。食糧難の時代、農村で米作りしている家でもめったに白米など食べられないのに、「あるところにはあるのだな」と、うらやましいやら妬ましいやらの気持ちで横目で見ていたといいます。

  父たちは二間ある玄関座敷で寝泊まり。彼らの食事は兵隊たちが作っていたのでしょう。彼らもたぶん白米を食べていたと思うのですが、母の記憶には残っていませんでした。

  憲兵が、なぜ父の隊と一緒に駐留していたのか謎。両者は関わりがあるのかそれとも別の仕事に従事していたのか気になっていました。本書には、三好の場合と同様に、日本軍兵士とともに憲兵隊が監視役として駐留していたという話も載っているので、農耕隊員たちの逃亡や反抗を防ぐための監視役として派遣されていたのかもしれません。

  農耕隊の目的は二つ。食糧の増産と燃料としての芋類の生産と松の根っこ掘り。松の根は油をとって、燃料に使われていました。しかし、サツマイモでんぷんからとった油では、飛行機はろくに飛ばなかったとの体験談も、本書には載っています。

  本書には、子供たちが見た朝鮮人農耕隊員たちの悲惨な様子がたくさんのっています。おなかをすかせた日本の子供たちですら、びっくりするようなお粗末な弁当の中身。そして彼らは村人との交流は禁止され、口を利くことをとめられていたとか。それでも、空腹に耐えかねた隊員たちが農家にやってきて、食べ物を乞うこともしばしばあったそう。農家の主婦たちは戦地に行っている息子や夫のことを思って同情し、隠れて食べ物を渡していたそうです。でもそれが見つかると朝鮮人は殴る蹴るの暴行を受けるので、憲兵や日本人兵士が探しにやってくるのがわかると、農家の人たちは彼らをかくまい、裏口から逃がしたそうです。

  本書によれば、おおかたの農耕勤務隊を引率する日本人兵士のリーダーは、大体30代以上の中年兵士。子供から見たら父親と同じ世代のオジサンがおおかったそうです。若くないため、外地にいかせるほど頑強でなかったのか、とにかくそういうひとがほとんどだったらしい。私の父は当時22歳くらい。体は丈夫だし、馬の命は人間の命より大事にされたというから、獣医の需要はあったとおもうのですが、内地の閑職のような仕事につかされたのはなぜなのだろうか。

  本書のほとんどは、勤務隊を受け入れた農村の人たちの証言が多いのですが、中に一人だけ、引率する側の元日本兵の証言が乗っていました。彼は父より4歳上。彼は、「(朝鮮兵は二十歳くらいで)日本兵は四〇歳くらいだから、親子みたいな関係であった。中隊長(上司)・・・と相談して私的制裁は絶対やめようということにした。だから私の隊にはリンチはほとんどなかった。私的制裁は上官の考えやそれを肯定する雰囲気をかもしだしたりすると起こるものである」「戦闘行為でなく、農業そのものであり、明るい軍隊であったと思っている」と語っています。直接の当事者がこういう証言をしているのはこれだけ。  

   高学歴を持ち、若くて丈夫というところは父と変わりません。この方も、部隊で一人だけ内地勤務となったそうですので、この内地勤務そのものが結構重要な任務だったのかもしれません。本書には、推測としながら「自分は、この農耕勤務隊は米軍が本土に上陸した際、戦車の通る道に穴を掘って爆発物をもって自爆する要員とするつもりだったのではないか」といった意味のことを書いている人もいます。いわゆる「肉攻」と呼ばれる戦術です。

  信州のある地区では、かなり大規模な開墾がなされたらしく、戦後この地は農地として地域住民に多大の恩恵をもたらしたとのことです。

  ところでわたしは、子供のころ父から朝鮮民謡「トラジ」を教わりました。朝鮮語で、です。しばらく忘れていましたが、今回ユーチューブで見て、すぐに歌えました。つい最近まで、アリランとトラジを混同していましたが、教わったのはトラジだけ。父はアリランは歌えなかったのかどうか、しりません。おそらく、この農耕隊勤務の折、朝鮮の人たちから教わったのでしょう。

   終戦後、父は農耕隊の隊員たちを連れて汽車で下関まで行ったと言っていました。今回、この本で8月24日に起きた帰還船浮島丸の事件~朝鮮人6,7000名を乗せた船が沈没した事件~を知ったのですが、父が送って行ったのはいつのころだったのか、秋といっていたような気もしますが、わかりません。この事件について、父が知っていたかどうかも今となってはわかりません。

  本書によれば、朝鮮の人たちの帰還に関して、軍上層部からの命令はなかったらしく、いつの間にか日本兵だけがいなくなって朝鮮兵は取り残されたところもあったらしい。朝鮮の人達に現地解散の命令が出たものの、どうやって祖国に戻ればいいのかわからなくて、途方に暮れていたという記述もありました。先述した長野に派遣されていた方は、信州の駅から彼らを汽車に乗せ、門司か博多まで行くよう伝えた、と語っています。彼らも、中隊長の判断で帰国を決めたそうです。父が下関まで送って行ったのも、彼の部隊の隊長の独自の判断だったのかもしれません。

  

  父がずっと持っていた軍隊手帳です。1945年2月までの記述で終わっています。後年書いたメモがはさんでありますが、農耕隊については記述なし。「昭和二十年二月二十一日獣医部見習士官を命〇(不明)」で記載は終わっています。その前には、前年の10月から11月にかけて「馬匹案領者トシテ」釜山から南京まで行ったことは記されています。「案領」の意味が分からないので、何をしに中国まで行ったのか不明。「視察に行った」と話していたことがありましたが、なんの視察だったのか聞きそびれました。

  メモ書きには、「将校は手帳なし」とあるので、農耕隊のことは書く必要がなかったのでしょう。ということは、父が三好村の農耕隊勤務に就いたのは、2月25日以降ということだと思います。

  今回ネットで調べていたら、「美味しんぼ」の原作者雁屋哲のブログが出てきました。彼は満州からの引揚者。戦争に関してものすごくよく調べたつもりでいたそうですが、この農耕勤務隊のことは全く知らなかったとのことです。謎の農耕勤務隊 | 雁屋哲の今日もまた (kariyatetsu.com)

   余談ですが、膨大な資料を集めた本書には、農耕隊のことだけでなく、特筆すべき戦争体験ものっています。そのなかで驚いたことの一つにこんなのがありました。

  ある牧場主が牛とともに徴収され、軍属として他の土地で自分の牛を飼い、軍隊に牛乳を提供していました。かなりの供出を命じられ、ずいぶん苦労したそうなのですが、ある時軍隊の基地に牛乳をも届けに行くと、上級の軍人が洗面器に牛乳を満々とたたえ、顔を洗っているのを目撃した、と書いています。書いたのはその牧場主の娘さん。父親から聞いた数少ない戦時中の話だそうです。よほど悔しい思いを抱かれたのでしょう。

  さらに蛇足ですが、「三好町誌」のなかの農耕隊に関する記述を確かめたくて、みよし市図書館に行ってきました。1962年に出た旧版の「三好町誌」には、農耕隊の記述はごくわずかで、本書記載の部分しかなかったのですが、「新編 三好町誌」には、昭和初年ころから始まった不良土開墾事業のことが載っていました。愛知県全域で行われた開墾活動で、食糧増産を見込んで、畑地として不適なため放置されていた土地の開墾が県全体の事業として始まったのです。

   ちなみに、旧版の「町誌」の編集主任を担当したのは、私の祖父。農耕隊を率いる父たちが泊まった寺の住職だったので、なんらかの記述がないかと期待したのですが、1冊だけの簡素な本の上梓にとどめたためか、そこまで踏み込んだ記載はありませんでした。今世紀に入ってから編まれた新編の記載を読んで、やっと少しだけ謎が解けました。

 「四四年には、(中略)宝栄地区で開墾が進められた。この開墾事業は、朝鮮人の兵士からなる陸軍農耕隊により行われ、三好村第一国民学校を寄宿舎として炮録山の開墾を行い、宝栄集落を誕生させた」

  「不良土」は、開墾事業の当該地を指していただけのようです。弥栄と宝栄はすぐちかく。焙録山は宝栄のすぐ隣のあたりのようです。現在のみよし市明知町の一部から三好町東山の東端一帯が広く開墾地として対象になったのではないでしょうか。

  父が亡くなったのは2005年。雨宮氏が農耕勤務隊のことを調べ始めたのがその前後だったらしい。父の生前、もう少し詳しく話を聞いておけば、もしかしたら氏のお仕事の役に立てたかもしれません。

  

  

 

 

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ドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」

2022-08-11 00:25:02 | 映画とドラマと本と絵画

   8月5日は、オーストラリアのカウラ収容所で、1944年のこの日、日本人捕虜が集団で脱走し、230余名が死んだ日です。たまたま命日に、慰霊祭を行ったというニュースが流れ、2008年に日本テレビがこの脱走事件をドラマにしていると知りました。あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった-カウラ捕虜収容所からの大脱走-|日本テレビ (ntv.co.jp)

  わたしは、30年ほど前にオーストラリアと日本の合作ドラマ「カウラ大脱走」をみて、この事件のことを知ったのですが、日本人の大半は知らないままのはず。テレビドラマ「カウラ大脱走」 - アンティマキのいいかげん田舎暮らし (goo.ne.jp) でもちゃんとドラマはできていたのだとわかったので、さっそくつたやレンタルで借りて見てみました。

  ドラマは、この事件で生き残った元兵士の話を元に作ったそうで、山崎努がカウラを訪れるところからドラマは始まります。彼は1944年春にニューブリテン島でとらえられてカウラ収容所に送られ、数か月を過ごします。そこで起きた、恐るべき出来事。それが、死ぬとわかって行った集団脱走です。

  捕虜たちは、思いもよらぬ捕虜への厚遇に戸惑いを覚えながら、豊富な食事にありつき、野球やゲームに興じ、安らかな日々を送ります。でも、彼らは「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の文言を叩き込まれた日本兵。祖国の家族に迷惑をかけるのがつらくて、ほとんどが偽名を使っています。

  ところが、突然、オーストラリア軍の上層部の命令によって、収容人数が増えすぎたため、日本軍の上層部と一般兵を分けて一方を別の収容所に移送することが決定されます。「日本軍の上官と兵隊は一心一帯。切り離されるのは死ねといわれるのと同じ」と反対する人々が登場。捕虜たちは動揺します。

  今回見た日本のドラマでは、脱走を決行するか否かの採決をするとき、兵たちはそれまでの幸せな捕虜生活が突然終わりになるというのに、ほとんど議論もケンカもしないで、絶対成功の見込みのない脱走に賛成します。しごくおとなしい。

   あべさだを扮するごちごちの軍国主義者の軍曹に居丈高に死への突入を強硬に主張されたとはいえ、場所は収容所。軍隊ではないのだから、彼の言いなりになる義務はありません。でも、あくまで兵たちは「戦陣訓」に縛られ、トイレットペーパーに「〇」を書く、という流れになっています。

  「カウラ大脱走」では、脱走を決定するまでの兵たちの動揺や苦悩、やるせなさ、なさけなさ、悔しさがもっと前面に描かれていた気がします。いまでいうところの「同調圧力」に主人公がまけていく姿が描かれていたと思う。主人公の心情がもっと複雑に描かれていて見ごたえがありました。カウラのことを知りたいなら、こちらをお勧めします。

   

   

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映画「モンドヴィーノ」

2022-08-04 11:21:40 | 映画とドラマと本と絵画

  タイトルは、「ワイン業界」といった意味らしい。モンドヴィーノ - Wikipedia

  多国籍企業が世界の経済を席巻する中、ワインもその波にのまれているということを思い知らされた映画です。

  映画は、フランスの小さなワイン農家の映像から始まります。小規模だけれど質のいい葡萄を代々育てて、小さな醸造所で大切に発酵を見守りながら作っているワイン。映画や小説、テレビで見聞きしているおなじみの葡萄園やワイン農家です。

  画面が一転して、登場するのは車に乗った曰くありげな男。車の中でも忙しそうに電話での応対をし続け、あいまに運転手にいろいろ命令しています。彼は、世界中のワイン業界で知られている男性で、カリフォルニアワインともかかわりがあります。

  彼はフランスだったかイタリアだったかの小規模のワイン醸造所に出向き、試飲したのち、何かを加えるよう、その醸造所のスタッフに耳打ちします。監督?が問いただすと、「いや、ちょっとしたものをいれるだけで、いい味になるのでね」と言って、笑うだけ。何を入れろと指示したか、明かしません。怪しい。そこの農園主(貴族らしい。だとしたらイタリアかも)は、「私たちには何もわからないから」と笑いながら親し気にこの男性とおしゃべりしていました。

  ほかにも、カリフォルニアワインの大きなメーカーの社主など、今や世界を動かすワイン業界のボス的存在らしい人たちが登場します。「ワインの味が一律になった」と映画に登場する誰かだったかナレーションが、こう嘆いていました。

  一方大会社の工場が進出するのを、村を挙げて反対した葡萄生産地も紹介。彼らの葡萄づくり、ワインづくりに対する熱意は、昔から変わらないものなのでしょう。先述した貴族の農園主とは大きく異なる態度でした。

   昔、ワインといえばごくたまに明治屋に行って、特別に購入するぜいたく品だったのですが、ある時期から、別に意気込まなくても買える値段のワインが手に入るようになりました。輸入品が安く手に入るようになったからとばかり思っていましたが、それもグローバル化の波に乗ってのものなのでしょうか。

  

 

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絵本「キューピーたちの小さなおはなし」

2022-08-01 13:12:47 | 映画とドラマと本と絵画

  ローズ・オニールという女性のかいたキューピーのお話。キューピーの生みの親である彼女はイラストレーター。若いうちに才能を見出され都会で活躍したのち、30代半ばで両親の住む田舎に移り住んで仕事を続けます。そのころに生まれたのがキューピー。1909年のことです。

  この絵本には、何人ものキューピーが人間にいたずらを仕掛けたり、人間の真似をしたり、貧しい人にプレゼントしたり。とにかくいろんな人間が登場し~ホームレスもでてきます~、人間の社会に小さな波紋を起こします。

  春のこと。花が咲いて鳥のさえずるいい季節なのに、一軒だけまるで冬のような家があります。お化けのでるうわさがあって、そこには誰も引っ越してこないのです。お化けはキューピーたちに愚痴ります。

  「「おばけでいるってのはほんとにゆううつなことなんだけど、みんながわしの存在を信じているからしかたない」キューピーたちがなぐさめようとすると、「いいや、やめておきな。とにかくわしはみんなの予想通りおそろしくなくちゃいけないんだから」といいます。そしてほんとうにおそろしげなかっこうをして見せました。」

  キューピーたちが彼に言いました。「ぼくたちは信じないよ!」。するとおばけは、「ああ、らくになった」と、つぶやいて消えていきました。こうしてこの家は生き返ります。

  「家はすっかりみちがえるようになり、だれでも住みたくなるような明るい家になりました。みなさんのうちもあたたかでありますように」

  わかりやすい簡単な文なのですが、含蓄があります。「みんなが信じるからおばけはいる」という合理的な考えを、アメリカの子供たちは幼いときからさりげなく聞かされるのでしょう。最後の一文がなかなかいい。第12章まであるのですが、いつも最後は作者の一言が添えられています。お母さんが子供に読んできかせたあと、一言いいたくなったといのための一文、という感じです。

  1900年代初頭は「若草物語」の作られたちょっと後のころのようですが、あの小説で描かれるアメリカの中産階級の雰囲気がよく出ています。ほんわかする絵本でした。

  

 

 

 

 

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映画「女神の見えざる手」を見ました。

2022-07-29 15:15:43 | 映画とドラマと本と絵画

  アメリカの銃規制法案に関する裁判劇。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%A5%9E%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%96%E3%82%8B%E6%89%8B

  ヒロインは敏腕のロビイスト。彼女がかかわった案件はほぼ議会を通過します。あるとき、社長から直々に紹介された人物は、銃規制法の緩和を求める政界?の大物でした。議会で銃規制をさらに厳しくせよという趣旨の法案に反対するため、女性の側からの銃規制法緩和の世論?を作れというわけです。

  規制強化に賛成する彼女は、これを拒否します。会社での立場が微妙となってきた彼女に接近してきたのは、別のロビー会社の社長。彼は銃規制法の強化を求める側に立ち、そのためのロビー活動を展開しています。彼は彼女を説得し、自社に鞍替えする約束を取り付けます。

  結局彼女は彼女高く買っていた直属の上司まで敵に回し、同僚たちを連れて退職。規制法強化に一票を投じさせるべくロビー活動を展開します。そのやりとりがすさまじい。議員たちは自身の主張を平気で金や名誉と引き換えにします。彼らの経済状況、趣味嗜好、その他あらゆる手立てをつかって、法案成立をもくろみます。

  凄腕のキャリアウーマンの彼女ですが、友人はおらず、恋人もいません。男娼を買って性欲の処理を果たしています。敵方は彼女にあらゆる妨害工作を仕掛けてきて、とうとう彼女は罠にはまることになります。しかし最後は‥

  展開が早いので、ぼやぼやしていると筋が追えなくなり、何度か見直しました。とにかくおもしろい。脚本がよくできています。

  それにしても、描かれているロビー活動なるもの、ひどいものです。政治の退廃のきわみ。どこまでほんとか知りませんが、この映画に近いことは起きているのだろうなと思います。

 

 

  

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映画「上海ルージュ」を見ました。

2022-07-29 14:30:35 | 映画とドラマと本と絵画

  チャン・イーモウの1995年の作品。映像がいい。隙のない画面がつづきます。一枚一枚がポストカードのしたくなるほど。

  出だしは、たくさんの人ごみの中で、一人の少年が不安げに目だけがきょろきょろ動かすところから。この映像を見ただけで、どっと安心感が押し寄せました。「この映画、身を任せてみていられる」

  語り手の少年は、田舎から上海に出てきて叔父の彼の仕える唐家に連れていかれる。この唐家の建物がすごい。こんな建物、ほんとにあるのだろうか。廊下に置かれた家具はたぶん黒檀。壁はほぼ大理石。セットをつくったのだろうか。とにかくすごい。

  唐家は実は巨大やくざ。少年は唐家の主人の愛人の歌姫のおつきとなりますが、この歌姫がコンリー。ものすごく嫌な奴です。やくざ同士の抗争に巻き込まれ、叔父は死にます。その抗争は映像では描かれず、音と、すりガラス越しに映った影だけで表現。見ているのは少年。扉を開くと廊下に延々と血痕が続いているのですが、人影はなし。この時の少年の不安な気持ちが映像にそのまま描かれています。うまい。

  叔父の犠牲で唐家の主人は命拾いしますが、敵の手が迫るのを恐れて愛人と少年、わずかの手下を連れて小島に逃げます。そこで出会う母と娘。娘の美しさと明るさに少年は快活さを取り戻します。しかし、愛人の軽率な行動により、この母娘に悲劇が。

  脚本がとりたててすばらしいとはおもえませんでしたが、映像には不思議な魅力がありました。日本軍が本格的に介入する直前の上海のつかの間の光と闇。あるいは、監督は、あえて日本の影を排して中国人同士の無意味に思えるような争いを描きたかったのかもしれません。秀作です。

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テレビ番組「学校給食に革命を! ジェイミー・オリバーのスクールディナー」

2022-07-19 20:34:51 | 映画とドラマと本と絵画

  本日夜、たまたまたつけたテレビで見たドキュメンタリーがとても面白い内容だったので、紹介します。学校給食に革命を!人気シェフが子どもたちの食育問題に挑む英国ドキュメンタリー 「ジェイミー・オリヴァーのスクール・ディナー」 7月19日(火)よる7時~BS12 トゥエルビで放送 | BS無料放送ならBS12(トゥエルビ) (twellv.co.jp)

  15年以上前のドキュメンタリーのようですが、当時はイギリスの学校給食は、刑務所より低い経費で賄われていて、給食はまずい、ときまっていたらしい。途中から見たのですが、先に見ていた家人によると、子供たちは野菜嫌い。バイキング形式で好きなものを選ぶようになっているのだそうですが、彼らが選ぶのはフライドポテトにソーセージといったジャンクフードばかり。

  そんな給食を変えようと、人気のレストランを経営しているオーナーシェフが学校給食の調理現場に入り、給食を変えていくドキュメンタリー。私が見始めたのは、彼と古株の調理師長?の年配の女性が大喧嘩するシーンから。彼がこれまでのやり方を無視してことを進めるため、彼女にとっては到底承服しがたい事態になっているのです。

  この二人のやりあいがおもしろい。言いたいことをさらけ出して、皮肉もいやみもちょっとあるけれど、すがすがしいほどあけっぴろげ。彼は校長との三者協議で、古株の女性を彼のレストランに研修?に出すことに成功します。

  翌日彼は心おきなく自分の考える野菜たっぷりのメニュー、添加物を一切使わないメニューを考え、次々に調理します。調理担当者たちは、彼の作るメニューがどれもおいしくてニコニコ顔。はじめ、彼女たちは「味見して」といわれて戸惑います。これまで味見というものをしたことがなかったというのです。しかも驚くべきことに、そもそも食材にはすべて塩が入っているので、改めて調理に塩を使ってはならないと決められていたとか。

  そんな規則?を無視して彼は塩を加え、仕上げます。私が気になったのは、トマトパンの生地にバジルソースとチーズをのせて巻き、切って焼いたパン。出来上がりが見られなくて残念でした。ラザニアあり、グリーンカレーありのおいしそうな料理ばかり。

  でも、子供たちの反応はいまいち。そもそもたくさんの野菜の入っている料理は選んでもらえないのです。その日校長に呼ばれた彼は、経費がかかり過ぎ、と注意を受けます。1品につき一人分80円が上限のところを、高いもので250円もかけてしまいます。

  ここで一回目は終了。あと3回にわたって放映されるそう。次回は来週火曜日夜7時。この彼の挑戦がきっかけになって、イギリスの給食は変わるのだそうです。忘れないで、見ることにしようとおもいます。

 

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