アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

中国ドラマ「月に咲く花の如く」

2020-05-21 14:46:47 | 耐震改修の記録
   中国ドラマ「月に咲く花の如く」全72話を見終わりました。ほぼ4か月くらいかけて鑑賞。covid19による自粛要請が決まったころからは、ツタヤレンタルで予約するのはこのドラマだけに限定。おかげで見ている間だけは、いっとき憂さを忘れることができました。

   ドラマの舞台は、清朝末期の地方都市。女性でありながら実業家として成功した実在の人物が主人公です。

   彼女の名前は周えい。養父といっしょに大道芸を披露してはあちこちを転々と渡り歩く生活をしています。養父に売られた豪商沈家から逃げ出した彼女は、かくまってくれた呉家の若主人の命を救うために、彼の妻となります。しかし、幸福な生活が続いたのはわずか。主人は若死にします。彼の不審な死につづいて、義父はあらぬうたがいをかけられて獄死。呉家はほぼすべてを失います。呉家再興のために、周えいは人並み優れた知恵と行動力を発揮します。

   おりしも、清朝は旧勢力と新勢力のあらそいが続き、「変法」つまり革命を唱えるグループの活動も盛ん。ヒロインをずっと愛し続ける男たちが、彼女を守るために挑む戦いが、そのまま清朝の滅亡の一つの要因になったと思われる朝廷の腐敗をただす戦いになっていきます。

   次々に話が生まれて絡み合い、ほぼ飽きずに見られました。でも、最後はちょっとしりすぼみ。残念でした。とりわけ、西太后の描き方が甘い。最近の中国は、歴史上悪人とされていた人もみんな「いいところがあった」という視点で見直すことが進められているそうなので、それでかな。

   制作費の総額は68億円。大金をかけただけあって、街も邸宅もよくできていました。男性女性ともに、商人たちの着ている服がすばらしかった。とくに周えいの服はデザインも素材もおもしろかった。ほんとに当時の衣服のスタイルなのかどうかわかりませんが、清朝前期を舞台にしたドラマ「紅楼夢」の登場人物たちが着ていた衣装とはかなり違い、多分に西洋文化の影響を受けていることが想像されます。

   周えいの商売の方法や考え方には舌を巻きます。華僑が成功したのも当然だな、とおもわせる才能ぶりです。西洋の織機を導入していちはやく大量生産に乗り出したり、遠く中東?に近いほうの地方と証人との取引を始めたりと、情勢の読みと決断力の速さがすごい。

   さて、次は、「ツインピークス」の新しいシリーズ9巻をレンタル予約しました。またちょっとの間、気の晴れる時間を持つことができそうです。
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4年前の耐震改修記録

2011-03-19 18:31:19 | 耐震改修の記録
 東北関東大震災が起きて1週間がたちました。続々と放映される災害の映像は、想像を絶する自然の猛威を、これでもかこれでもかというように私たちに見せ付けました。この間、東海大地震発生の不安もあって、熱に浮かされたような落ち着かない日々を過ごしました。

 そんなおり、4年前に書いたある記録を思い出しました。今住んでいる家を耐震改修した記録です。いつかHPに載せようと思いながら、日々にまぎれて忘れていたものです。

 改築前のこの家は、とんでもないぼろ家でした。解体後明瞭になっていった、手抜き工事の数々。人の命がかかっているとわかっていながらずさんな建築をした業者の感覚をおもうと、いまでも強い憤りを感じます。たまたま機会があって改修に踏み切ることができましたが、もし何の手立てもしていなかったら、とおもうとぞっとします。地震が起きて、このあたりで私の家だけ倒れるという事態になっていたかも知れません。もしそうだとしたら、天災にあったというより人災にあったといえそうです。

 阪神淡路大震災のおり、最も倒壊したのは、昭和40年代・50年代の高度成長期に急造した住宅だったと聞いたことがあります。古くはあっても、伝統的な工法でしっかり建てられた家や、建築基準法が見直された後の家はわりに大丈夫だったというのです。私の家はそのもっとも倒壊率の高い時代の、昭和50年に建てられたものでした。
 
  今回の震災を機に、耐震改修に踏み切ろうとお考えの方も多いとおもいます。その方々に何かの参考になるかもしれないとおもい、当時の記録を若干修正して載せることにいたしました。煩雑な部分も多々ありますが、ご了承ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*耐震強度0.25
 2006年春、豊田市の「無料耐震診断」に申し込んだ。
 6月4日、検査員が訪れる。畳を上げて床の下に入ったり、縁の下に潜ったり、天井裏に上ったりして検査。写真も何枚か撮る。「強度は低いようだ」と、診断員。ただし、あくまで、「非破壊検査」なので、正確なところはわからないという。
 7月、市から検査結果の通知が来る。耐震強度は0.25。「倒壊の可能性が高い」というランクになっている。姉歯建築士の耐震強度偽装が問題になっているが、彼の設計したマンションで、もっとも強度が低いのが0.59だとテレビのニュースで報道していた。その半分も満たない強度だ。唖然とした。低いといってもそこまで低いとはおもわなかった。診断員と共に訪れたMaさんは、「名古屋市の基準だともっと低くなる可能性がある」といった。
 耐震工事をした場合の、豊田市の補助は60万円。8月末までに申し込めば、今年補助が受けられると聞き、急遽、業者に見積もりを依頼。補強工事に踏み切ることにした。

*でっかいぼろ家
 この家は、前の持ち主である私の父が、20年ほど前に手に入れたものだ。でっかいだけでみるからにみすぼらしい家だったが、一階は売主が改修するというので、土地とあわせて入手した。一階は112.62㎡、2階は107.65㎡。南正面と東の壁はモルタル。北と東には汚いトタン板が張ってある。

 家は、もともと大正時代に建てられ、稲武市街地にあったものを、昭和50年に今の場所に移築。5年ほど飲食店を営業していたが廃業。数年間放置してあったものだ。それでも、建築してまだ10年もたってはいなかった。二階は、移築しただけで、中は住めるようになってはいなかったので、父が業者に頼んでリフォームした。家の代金とリフォームの代金を合わせると、けっこうな金額になったが、家の大きさに比べたら安い、と父は判断したらしい。でも、近頃見かける田舎の物件情報と見比べると、この家は決して安い買い物ではなかったことがわかる。
 移住したあと、父が地元の人から聞いたうわさによると、この家は、国道の新経路が検討されていたときに、新しいルートにかかりそうと踏んだ上で建てられたものだという。どんな家であれ居住または営業してさえいれば高い立ち退き料がもらえるというのでできた家だというのだ。だから、はじめから長いこと住むために建てられたいえではなかったことが、後になって推測できたわけだ。
 真相は分からないが、こういううわさがあながちうそではないと思えるほどの、ちゃちな家だったことは確かだ。結局、新経路はそれまでの国道よりもっと向こう側に作られ、この家は経路にかからなかったどころか、新しい国道からはさらに不便な場所になったため、飲食店ははやらず、しかたなく売りに出されたと取りざたされていた。
 引っ越してから、この家を建てた業者に納屋と車庫が一体になっている建物の建築を依頼した。そのおり、工事に来た大工さんが、両親に、「この納屋のほうが母屋よりよっぽど安全に作られている。年を取ったら、こちらを改造して住んだほうがいい」と勧めたという。

*湿気屋敷
 湿気屋敷とは、こちらに来てはじめて聞いた言葉だ。稲武は山が多く、日陰が多い。山を背負っていたり、沢に面していたりする家が多いため、十分な日当たりが望めない。それで、こんな言葉が当たり前に使われるのだろう。
 うちも立派な湿気屋敷だ。南側は道下のがけになっていて、日があたらない。北側の真下は小川が流れている。昼でも暗く、二階の南側だけが昼間の電灯をつけないですむだけだ。台所に、ホームセンターで買った木製ワゴンを置いたところ、数ヶ月もたたずに全体にカビが生えた。流しの引き出しに入れた木のしゃもじやトングはかならずカビだらけになる。家のある場所もいけないのだが、つくりも悪い。飲食店時代土間だったところに、板を張っただけの台所だからだ。

*焼け石に水の修理
 10年前、西側に2DKの24坪ほどの平屋を建て、両親はこの家で生活するようになった。そして3年前、私達がこちらに引っ越すことになったとき、母屋を若干修理した。
 まず、屋根。コンクリート瓦が乗っていたのだが、あまりに古く、雨漏りするのも時間の問題のように思えたので、トタンに変えた。瓦でなくトタンにしたのは、コストが低いこともあったが、軽くしたかったということもある。瓦は5トンもあったそうだ。
 2階は、歩くと大きく揺れる。うちに来る子供たちがおもしろがってどんどんと跳ぶと、振動がすごい。それで、2階の畳の部屋だけ修理することにした。ほかの部屋は板の間なので修理が大変だからだ。ゆれは初めからあり、父が売主に告げると、「この家は2階で昔養蚕をやっていたので、蚕部屋は人の住む家より床に敷く板が少なくしてある。どこの家でもそうだ。だから心配ない」と、わけのわからない答えが返ってきたらしい。でも、人がすむことになってリフォームした時点で、床板を増やすことは可能だったはずなのに、そうしなかった。
 たしかに、床をあげてみると梁が半間ごとに入れてあるだけで、間がかなりあいている。揺れるはずだ。それを倍に増やし、細い梁には木で補強してもらう。さらに、あちこちに柱を立てた。といっても、敷居から鴨居までの高さに立てただけなので、たいした用はなさない。それでもないよりましだとおもって、頼んだ。
 さらに一階の居室の下には炭を入れた。また、細長い台所を広げるために、玄関の土間を半分に仕切り、板で壁を作った。壁があるだけでも耐震になるかもしれないという思いもあった。
 また、やたらに多いガラス窓を少しでも減らしたくて、古いトタンを張り替えるついでに、北側のガラス窓半分を、トタンでおおうことにした。
 このとき、修理に来た人たちが、一階の居室の南側に柱が少なく、しかも鴨居のあるべき場所に何も入っていないようなのにおどろき、かなり手抜きの建築がなされているようだと、言っていた。部屋を仕切る障子の横幅の広いのにも驚いていた。

 この3年前の修理より、さらにさかのぼって、今から10年ほど前、父は一階の床を修理してもらっている。踏むとふわふわし、床が抜けると怖いと思ったからだ。
 このように、あれこれ、この20年近くの間に手をかけはしたが、いずれも対処療法に過ぎず、根本的な修理をしなかった。しかし、知らない間は仕方のないことだ。知ってしまった今となっては、一日も早く改修をしないと、不安はぬぐえない。

*業者の選定
 8月末、豊田市の「耐震改修費等補助制度」の、平成18年度分の締め切りにあわせて、設楽町の小松建設に見積もりと書類作成を依頼する。小松建設は、うちを診断したMiさんが所属する会社。診断の折同行した一級建築士のMaさんが経営者。地元に建設業者がいないわけではないが、建築診断をしてくれたところが安心できるとおもい、依頼した。
 小松建設が出した見積もりは当初の予想よりはるかに多額だった。ほとんどなされていない基礎工事を一からおこなう。土台も作る。壁をすべて壊し、外から筋交いを入れ、部屋の内部のあちこちに耐力壁を設ける。大雑把にいってそれだけの工事だが、とにかく一階はすべて建前のときと同じ状態にいったん戻してから仕事を始めるので、費用はかかるわけだ。壊して建て直したほうが良いのではという知人たちも多かったが、今のように広い家を建てるには二倍以上の費用がかかる。小さな家なら現在すでにあるので、同じような建物を作るのもったいない。使いやすい広い家で、仕事の枠を広げたいという思いもあって、改修に踏み切ることにした。
 9月半ば、豊田市から、申請許可の通知が届き、一階の片づけを始めた。

*補強工事の概要
 補強工事は、一階を中心に行うことにした。基礎と土台を作り、一階をしっかりさせれば、2階は基本的にいじる必要がなくなるというわけだ。耐震補強を部分的にするというだけの修理ではないので、どっちみち、家のしつらえは作り変えなければならない。そのため、ついでにリフォームもすることにした。2階では、いままでどおり、工事中も生活を続けることになった。
 工事の流れは以下のとおり。
 一階の建具、床、壁、天井をすべて取り除き、柱だけにする。ここまでは、解体屋さんの仕事。解体したあとすぐに、大工さんが仮の筋交いをあちこちに建てる。極度に耐震強度が減った建物を、強くするためだ。
 そのあと、曳き家業の人たちが家を持ち上げ、持ち上げている間に、基礎工事を施す。
 基礎が出来たら、家を元通り下げる。
 そして、外壁工事が始まり、外壁に筋交いを入れ、サッシも入れていく。そうして、内装にかかる。
 ついで、隠居所との接続をしなおす。ここまでで、ほぼ4か月かかる予定だ。

*工事の実際

10月12日 
 11日から始まった解体工事は今日で二日目。まずは一階だけ外壁をすべて取り除き、柱だけにして、持ち上げ、基礎工事を行った後、下げて外壁工事が始まる。しょっぱながこの解体だ。主要な柱、梁はほとんど古材が使われている。
 工務店は新城の「泰匠」のNoさん。Noさんに、骨組みだけになりつつある家の前で、どこがどうおかしな建築か尋ねる。以下、彼の話。
  「建物の南側には両端にそれぞれ二本、すこしはなれて二本の計四本の柱がある。横幅が広いのに柱が少ない。もともとはそれぞれ二本目の柱の真ん中に一本ずつ、計六本あったとおもわれる。だが、玄関口を広くするため、柱を上で切った名残がある。柱が減ったため、上部のコンクリートに亀裂が入っている。
 両側に筋交いはいちおう入っている。東側には、古材の太い柱が入れてあるので、こちらは良いが、西側は厚さ3センチほどの薄い板が入れてあるだけで、東側とのバランスが悪い。幅も短い。この厚さの板を使うなら、バッテンの形にしなければ役に立たない。
 断熱材は北側にしか入っていない。南側も東側も入っていない。土壁もないから、かなり寒かったろう。
 南西角の柱は、下のほうが朽ちている。雨が入り込んだためだ。コンクリート壁はたいていこうなる。2階の西側の窓のあたりにも亀裂が入っていて、コーキングが施してあるが、あれは、水が内部に入ったため、手当てしたのだろう。風を受けただけでも振動するので、亀裂は深くなる。それに、地面が基礎よりも高いので、水が入るのは当然。」



10月13日
 解体工事はきのうで終わる。壁も戸もなくなったがらんどうの一階で、あちこちを見て回る。
  南西角の柱は、下から30センチほどの高さのところでついである。それも、ただ、直角に切った木どうしがくっついているだけだ。野村さんの話では、つぐなら、斜めにして、臍穴もあけ、動かないように固定するもの。現状では、横揺れが来たら、簡単に折れてしまうという。よく見ると、ほとんどすべての柱で同じ継ぎ方がしてある。
また、すべての柱は、古材。古いことはかまわないのだが、臍穴があいた柱が使われている。この穴は、昔は、壁土を塗るために使われていた。壁塗りはしていないので、穴はただそのまま開いたまま。柱そのものは現在使われている柱より太いのだそうだが、実際、力がかかっている部分は、穴の周りだけなので、非常に細くなる。その上、柱が載っているのは、それぞれコンクリートブロック、それも普通の大きさのブロックの半分の大きさのものだ。昔の家なら、ツカ石と呼ばれる大きな石の上に柱を載せていた。工法が同じなのに、使っている石はこの半分のブロックなのだ。
コンクリートは割れやすい上に、湿気を持つ。小さなブロックに柱が載り、しかもその柱は20センチくらい上で、ほんとの柱に替わっている。積み木を積んだだけのような建築だ。横から力が加わったら、ぽきんと折れそうなことは、素人でもわかる。
 梁にはちょうなのあとがみえる。大正時代に建てられたものを使ったと聞いたが、使われている材料はそれより古いものかもしれない。でも、古い建材を使用するのは、別に問題はないという。

 梁の数も少ない。4m50センチの長さに対して、30センチの厚さの梁が使われている。
昔は、鴨居に太い木を使い、持たせた。全体に梁が細い。そのせいか、すべての梁に亀裂が走っている。
 さらに、東西の梁は極めて少ない。だから中央でたわんでいる。
 Maさんは、「たわみを修正すると、2階に狂いが生じる。そうすると2階を直さなければならなくなる。だから、たわみはそのままに補強します」という。
 
10月25日(水)
 来週になると聞いていた、曳き家業の人たちがやってくる。家の前に車を入れ、荷台に載せたユンボで、積んでいたレールを何本も降ろす。四人の人たちがもくもくと仕事。ひとつ間違えば、重いレールで怪我をする。慎重だ。レールのほかに、枕木よりすこし大きめの木材を何本もおろした。

 そして、各柱ごとに地面から40センチくらいの高さのところまで枕木様の木材を積み、上にレールを置いて、柱に縛り付けた。長いレールを東西、南北に格子状に置き、しばりつける。
 先に大工さんが取り付けた筋交いは、レールを置く邪魔になるので、いったん、切り取ってしまう。
 朝、10時ころから始めた工事は、午後3時半には終了した。
 次の週、また曳き屋が来て仕事続行。夕方、親方に呼ばれていくと、1センチ上げたとみせられる。なるほど、すべての柱が1センチほど上がっている。家は枕木とレールでたもたれているだけで、実は宙に浮いている状態なのだ。
 この翌日、Noさんたちがやってきて、柱を切る。下に基礎を敷くためだ。ますます宙ぶらりんの状態になる。

11月初旬 
 基礎工事が始まる前に、再度、解体屋が来て、ブロックをはずした。今までの家の周りにブロックが並べられていたからだ。そして、基礎屋さん登場。
 レベルを計りながら、周りを掘る。若い職人さんが、「回りはブロックだけ。柱の下にはブロック一個。あれでよく持っていたものだ。」といった。
11月13日
 雨模様だったが、生コンを入れる。地元の業者が入り、基礎の業者が作った枠内に流し込む。午前中で終わる。


11月24日
 23日に型枠をはずす。早く強度が増すコンクリートを使ったので、早めに型枠をはずすことができるのだそうだ。つづいて、曳き家の人たちが3人やってきて、柱に縛り付けてあった線路のレールを取り外す。1センチだけ持ち上げた柱がきちんとまっすぐ降りるよう注意しながらの仕事。レールはおろしたときと同じようにクレーンでつり、トラックの荷台に載せる。曳き屋の仕事はとび職。地下足袋を履いた職人が中づりになったレールに手をかけてひょいと荷台にのった。その身軽さに驚く。
 Noさんたちもヒノキの建材を持ってやってきた。いよいよ建設だ。柱にシロアリ防除材を塗り、木を寸法どおり切る。すべて土台にするのだそうだ。今までの家は、基礎もなかったけれど、土台もなかった。
 この日も、また、家の不具合を知らされた。3年前に作ったベランダと母屋の間のガラス戸の下の梁が、雨に入られて腐りかけているのだ。それまで腰窓だったところを掃きだし窓に変えたため、つなぎの部分に不始末があったためらしい。同じような不備は、古い家の梁にも見受けられる。「きのこが生える寸前でしたよ」と、Maさんに言われる。

11月末
 この一週間で一気に工事が進む。柱の数は、元の柱の数の3倍以上入れたという。まだ増えるかもしれない。


基礎と土台の間は、すべて1センチほどのすきまが開いている。風通しをよくするためだという。10年前に作った隠居所は、某ハウスメーカーに依頼したものだが、母屋同様、台所の水屋の奥などにおいたものにうっすらカビが着くことがある。「ちゃんと作った家でもカビが生えるのだから、この土地はよっぽど湿気ているのだな」とあきらめていたら、MaさんやNoさんは、「家のつくりによる。隠居所のほうも、風窓が三つほどしか開いていない。それだと、風が回らず、縁の下で滞ることになる。だから、しけるのは仕方ない」という。今度の家は土台の下全面に風が通ることになるので、安心だ。
みるみるうちに筋交いも入る。一方で、基礎工事のうちに入るのだろうが、基礎の枠の内側、土がむき出しになっているところに、砕石を敷く。その上にビニールシートを敷いた。湿気除けだ。その上に、また生コン車が来て、コンクリートを入れた。この一連の作業を施したコンクリートを「防湿コンクリート」というのだそうだ。
12月3日
母屋に敷設したトイレの改修。この家が飲食店だった時代からあったトイレなので、タイル張りで広い。とくに男性用は広々している。トイレに関してはとりたてて危ないともおもわずに使ってきたが、母屋の一階を取り壊して、トイレのずさんなつくりが明らかになる。タイルの下はなんと板張り。そうとはしらず、タイル張りなのであんしんだと思って、ときには水で床を洗うこともあった。縁の下は、ブロックどころか土にじかに木の柱が接しているところもある。腐り始めているところもある。不定形の小さな石に載っている柱もあるにはあるが。おまけに柱の横に渡した木はたてに下りた木の内側に釘で止められているだけ。横木を支える縦の木はない。なかったり腐ったりしているため、トイレを支える柱はたった一本。それも半ば腐っているものだ。
補修としては、周りにブロックを敷き、モルタルで固め、風穴を二箇所開けてもらう。
しかし、奥のほうは弄れない。隠居所とのつなぎの廊下の床を壊さないと修理できないからだ。人間が3人も乗ったら、壊れたかもしれないと言う言葉に、ぞっとする。

12月4日
午後、豊田市の建築相談課の職員二人が、「中間検査」を行うためにやってきた。時間にして15分ほど、Maさんの説明を聞きながら、チェック。「だいぶ丈夫になった。これだけすればいい」と評価したと言う。一箇所だけ、隅の梁が途中で切られていることに着目。鉄骨で補強することになる。


12月5日
今日は2階の窓をはずし、壁を取り除く作業が始まった。解体途中、Maさんに呼ばれて出て行くと、彼は西側の一角の、2階と1階の間の横木を指差した。なんと、かなり腐食が進んでいて、「きのこがはえている」状態だという。南角も同様だ。この部分は、数年前にベランダを作るために手を入れた箇所だ。最初から乾燥していない悪い木を持ってきて使ったのかもしれないとのこと。つくづくいやになる。

12月初旬から末日
 外から筋交いを入れ、南と東西には入っていなかった断熱材をすべての面に入れる。
ボードを張り、外壁のトタンを張る。トタンは「ガルバリウム」という合金で、強いものだそうだ。二重ガラスをすべての窓に入れ、二階の仕事は終了。専門の業者により組まれた鉄骨の足場は、中旬ころはずされ、外から見るとまったく新しい家に生まれ変わった。
 床下のボードが張られ、ついで、天井の下材も張られる。急ピッチで工事は進み、ほぼ家としての形が出来上がる。
 あとは内装や電気工事など、リフォーム関係のみの仕事となる。レベル0.25がレベル1に上がれば倒壊の心配がなくなる、というわけにはいかないが、かなりのレベルアップが出来たことは事実だ。工事の終了まであとひとつきかかるが、耐震補強のための工事はほぼ終了した。
 

総監督の一級建築士を中心に、工務店、基礎工事業、曳き家業、とび職、鉄骨業、板金業、足場組み立て業など、さまざまな専門の職人さんたちの力で、工事はスムーズに進められた。3ヶ月の間、素人の質問に、気持ちよく答えてくださった業者の方々に、心より感謝します。
 
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