アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

本「もうひとつの強制連行 謎の農耕勤務隊」

2022-08-28 18:35:39 | 映画とドラマと本と絵画

  フェイスブックともだちの投稿で知ったこの本。自費出版なのに図書館にあったので、借りました。

  「農耕勤務隊」というのは、太平洋戦争の末期、日本の農村に派遣され、農耕に従事した兵隊たちの部隊のことなのですが、実際に兵隊として働いていたのは、当時「半島人」と呼ばれていた朝鮮の人たちが主。それも、強制連行で連れてこられた10代の若者がほとんどなのだそうです。

  この「農耕勤務隊」、戦後の日本ではほとんど知られておらず、謎だらけの存在なのだとか。編者の雨宮剛氏は、国民学校の生徒だったころ、西加茂郡猿投村(現在の豊田市猿投地区)に住んでいて、勤務隊の兵隊たちが木に縛り付けられて死ぬほど殴られるシーンも見ていました。彼らのことが戦後もずっと頭から離れず、大学教授の職を辞してから、当時の同級生たちの証言を集めたのがきっかけになり、全国の農耕勤務隊の実情を調べ、その証言をまとめたのがこの本です。

  勤務隊は、昭和20年の初頭、陸軍に通達が出されて組織されたもの。その前年度末頃から朝鮮半島で勤務隊に入れるための強制連行が開始され、春ころから、順次、日本のあちこちの農村に、規模はさまざまながらこの勤務隊が派遣されたのだそうです。でも、勤務隊のことは敗戦直後にほとんどすべて文書が焼却されたため、詳しいことはわかっておらず、一般にも知られていないのだそうです。

  農耕勤務隊という正式名は、今回初めて知ったのですが、わたしはずいぶん前から「農耕隊」という名前は知っていました。

  なぜかというと、大正12年生まれの父が、まさにこの農耕隊に所属していたからです。

  父は刈谷市出身で旧制中学卒業後、東京の獣医専門学校に入学。おそらく戦況の厳しくなったころ、繰り上げ卒業して入隊したと聞いた気がします。ニュース映像で有名な、昭和18年秋の雨の中の学徒出陣式より何か月か前に学徒兵として徴兵されたらしい。

  徴兵されてすぐ、京都に配属。その後名古屋師団に転属。父の所属する部隊はほとんどが南方に移動命令が来たそうですが、父は免れ、戦争末期、当時の西加茂郡三好村に派遣されました。それが農耕隊です。

  父の軍隊時代の最後の階級は少尉。だから農耕隊の一個小隊の隊長だったのかもしれません。詳しいことはわからないのですが、父は三好村の寺で寝泊まりし、朝鮮の人たちを連れて、「不良土の開墾に従事した」と聞いています。寺には、日本人兵士たちのほか、憲兵隊隊長夫婦も住んでいたそうです。

  戦後になって寺を訪れた父は、寺の娘だった母とその後結婚し、わたしが生まれました。農耕隊の話は、父と母、それぞれから断片的に聞いたことはあるのですが、いったいその朝鮮の人たちはどこに寝泊まりし、どんな暮らしをしていたのか、開墾の目的は何なのか、そもそもなぜ父は南方異動から免れたのか、謎だらけのままでした。

  謎だらけだなと思い始めたのは父が亡くなってから。でも、調べることもなく今日まで過ぎてしまいました。

  その謎を半ば解き明かしてくれたのがこの本。本書によれば、三好村での勤務隊隊員の居住場所は三好中部小学校。「三好町史」(ママ・「三好町誌」が正式名)からの引用です。母の実家の寺から歩いて10分ほどのところにあります。

  そして父や母、三好の友人のいう「不良土」という土地は、その小学校からさらに10~15分ほど行ったあたりにあります。友人の話では、その場所は「弥栄」という地名だそうです。

  

   母からは、寺の奥座敷に憲兵隊夫婦が住んでいて、妻のほうが毎日、寺の厨で自分たちの食べる分のお米を七輪で炊いていて、それが真っ白の米だったと聞きました。食糧難の時代、農村で米作りしている家でもめったに白米など食べられないのに、「あるところにはあるのだな」と、うらやましいやら妬ましいやらの気持ちで横目で見ていたといいます。

  父たちは二間ある玄関座敷で寝泊まり。彼らの食事は兵隊たちが作っていたのでしょう。彼らもたぶん白米を食べていたと思うのですが、母の記憶には残っていませんでした。

  そもそも一般人を監視する役の憲兵が、なぜ軍隊と一緒に駐留していたのかも謎。両者は関わりがあるのかそれとも別の仕事に従事していたのか気になっていました。本書には、三好の場合と同様に、日本軍兵士とともに憲兵隊が監視役として駐留していたという話も載っているので、農耕隊員たちの逃亡や反抗を防ぐための監視役として派遣されていたのかもしれません。

  農耕隊の目的は二つ。食糧の増産と燃料としての芋類の生産と松の根っこ掘り。松の根は油をとって、燃料に使われていました。しかし、サツマイモでんぷんからとった油では、飛行機はろくに飛ばなかったとの体験談も、本書には載っています。

  本書には、子供たちが見た朝鮮人農耕隊員たちの悲惨な様子がたくさんのっています。おなかをすかせた日本の子供たちですら、びっくりするようなお粗末な弁当の中身。そして彼らは村人との交流は禁止され、口を利くことをとめられていたとか。それでも、空腹に耐えかねた隊員たちが農家にやってきて、食べ物を乞うこともしばしばあったそう。農家の主婦たちは戦地に行っている息子や夫のことを思って同情し、隠れて食べ物を渡していたそうです。でもそれが見つかると朝鮮人は殴る蹴るの暴行を受けるので、憲兵や日本人兵士が探しにやってくるのがわかると、農家の人たちは彼らをかくまい、裏口から逃がしたそうです。

  本書によれば、おおかたの農耕勤務隊を引率する日本人兵士のリーダーは、大体30代以上の中年兵士。子供から見たら父親と同じ世代のオジサンがおおかったそうです。若くないため、外地にいかせるほど頑強でなかったのか、とにかくそういうひとがほとんどだったらしい。私の父は当時22歳くらい。体は丈夫だし、馬の命は人間の命より大事にされたというから、獣医の需要はあったとおもうのですが、内地の閑職のような仕事につかされたのはなぜなのだろうか。

  本書のほとんどは、勤務隊を受け入れた農村の人たちの証言が多いのですが、中に一人だけ、引率する側の元日本兵の証言が乗っていました。彼は父より4歳上。彼は、「(朝鮮兵は二十歳くらいで)日本兵は四〇歳くらいだから、親子みたいな関係であった。中隊長(上司)・・・と相談して私的制裁は絶対やめようということにした。だから私の隊にはリンチはほとんどなかった。私的制裁は上官の考えやそれを肯定する雰囲気をかもしだしたりすると起こるものである」「戦闘行為でなく、農業そのものであり、明るい軍隊であったと思っている」と語っています。直接の当事者がこういう証言をしているのはこれだけ。  

   高学歴を持ち、若くて丈夫というところは父と変わりません。この方も、部隊で一人だけ内地勤務となったそうですので、この内地勤務そのものが結構重要な任務だったのかもしれません。本書には、推測としながら「自分は、この農耕勤務隊は米軍が本土に上陸した際、戦車の通る道に穴を掘って爆発物をもって自爆する要員とするつもりだったのではないか」といった意味のことを書いている人もいます。いわゆる「肉攻」と呼ばれる戦術です。

  信州のある地区では、かなり大規模な開墾がなされたらしく、戦後この地は農地として地域住民に多大の恩恵をもたらしたとのことです。

  ところでわたしは、子供のころ父から朝鮮民謡「トラジ」を教わりました。朝鮮語で、です。しばらく忘れていましたが、今回ユーチューブで見て、すぐに歌えました。つい最近まで、アリランとトラジを混同していましたが、教わったのはトラジだけ。父はアリランは歌えなかったのかどうか、しりません。おそらく、この農耕隊勤務の折、朝鮮の人たちから教わったのでしょう。

   終戦後、父は農耕隊の隊員たちを連れて汽車で下関まで行ったと言っていました。今回、この本で8月24日に起きた帰還船浮島丸の事件~朝鮮人6,7000名を乗せた船が沈没した事件~を知ったのですが、父が送って行ったのはいつのころだったのか、秋といっていたような気もしますが、わかりません。この事件について、父が知っていたかどうかも今となってはわかりません。

  本書によれば、朝鮮の人たちの帰還に関して、軍上層部からの命令はなかったらしく、いつの間にか日本兵だけがいなくなって朝鮮兵は取り残されたところもあったらしい。朝鮮の人達に現地解散の命令が出たものの、どうやって祖国に戻ればいいのかわからなくて、途方に暮れていたという記述もありました。先述した長野に派遣されていた方は、信州の駅から彼らを汽車に乗せ、門司か博多まで行くよう伝えた、と語っています。彼らも、中隊長の判断で帰国を決めたそうです。父が下関まで送って行ったのも、彼の部隊の隊長の独自の判断だったのかもしれません。

  

  父がずっと持っていた軍隊手帳です。1945年2月までの記述で終わっています。後年書いたメモがはさんでありますが、農耕隊については記述なし。「昭和二十年二月二十一日獣医部見習士官を命〇(不明)」で記載は終わっています。その前には、前年の10月から11月にかけて「馬匹案領者トシテ」釜山から南京まで行ったことは記されています。「案領」の意味が分からないので、何をしに中国まで行ったのか不明。「視察に行った」と話していたことがありましたが、なんの視察だったのか聞きそびれました。

  メモ書きには、「将校は手帳なし」とあるので、農耕隊のことは書く必要がなかったのでしょう。ということは、父が三好村の農耕隊勤務に就いたのは、2月25日以降ということだと思います。

  今回ネットで調べていたら、「美味しんぼ」の原作者雁屋哲のブログが出てきました。彼は満州からの引揚者。戦争に関してものすごくよく調べたつもりでいたそうですが、この農耕勤務隊のことは全く知らなかったとのことです。謎の農耕勤務隊 | 雁屋哲の今日もまた (kariyatetsu.com)

   余談ですが、膨大な資料を集めた本書には、農耕隊のことだけでなく、特筆すべき戦争体験ものっています。そのなかで驚いたことの一つにこんなのがありました。

  ある牧場主が牛とともに徴収され、軍属として他の土地で自分の牛を飼い、軍隊に牛乳を提供していました。かなりの供出を命じられ、ずいぶん苦労したそうなのですが、ある時軍隊の基地に牛乳をも届けに行くと、上級の軍人が洗面器に牛乳を満々とたたえ、顔を洗っているのを目撃した、と書いています。書いたのはその牧場主の娘さん。父親から聞いた数少ない戦時中の話だそうです。よほど悔しい思いを抱かれたのでしょう。

  さらに蛇足ですが、「三好町誌」のなかの農耕隊に関する記述を確かめたくて、みよし市図書館に行ってきました。1962年に出た旧版の「三好町誌」には、農耕隊の記述はごくわずかで、本書記載の部分しかなかったのですが、「新編 三好町誌」には、昭和初年ころから始まった不良土開墾事業のことが載っていました。愛知県全域で行われた開墾活動で、食糧増産を見込んで、畑地として不適なため放置されていた土地の開墾が県全体の事業として始まったのです。

   ちなみに、旧版の「町誌」の編集主任を担当したのは、私の祖父。農耕隊を率いる父たちが泊まった寺の住職だったので、なんらかの記述がないかと期待したのですが、1冊だけの簡素な本の上梓にとどめたためか、そこまで踏み込んだ記載はありませんでした。今世紀に入ってから編まれた新編の記載を読んで、やっと少しだけ謎が解けました。

 「四四年には、(中略)宝栄地区で開墾が進められた。この開墾事業は、朝鮮人の兵士からなる陸軍農耕隊により行われ、三好村第一国民学校を寄宿舎として炮録山の開墾を行い、宝栄集落を誕生させた」

  「不良土」は、開墾事業の当該地を指していただけのようです。弥栄と宝栄はすぐちかく。焙録山は宝栄のすぐ隣のあたりのようです。現在のみよし市明知町の一部から三好町東山の東端一帯が広く開墾地として対象になったのではないでしょうか。

  父が亡くなったのは2005年。雨宮氏が農耕勤務隊のことを調べ始めたのがその前後だったらしい。父の生前、もう少し詳しく話を聞いておけば、もしかしたら氏のお仕事の役に立てたかもしれません。

  

  

 

 

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あしたは、下山の常楽寺オーガニックご縁市に出店します。

2022-08-20 23:54:56 | アンティマキの焼き菓子とパン
  またまたブログでの告知が遅くなりました。
  あした、豊田市下山地区の常楽寺で開かれる、オーガニックご縁市に出店します。
   こちらが常楽寺。静かな山里のお寺です。こちらの境内と広間でマルシェが開かれます。
   4月に続いて二回目。室内でのテーマは、今回「布と染と糸」なので、染め製品もお持ちすることにしました。スカーフ各種、絹手袋、オーガニックコットンのアームウォーマーなどを準備しました。着物の半襟になりそうな絹地の端切れも格安で頒布いたします。
   パンは、カンパーニュと夏のシュトレン。
   甘夏のシロップ漬けをたっぷり入れました。スコーンは、米粉とオートミール粉とバナナで作りました。
   穀物クッキーは5種。米粉の味噌味ビスコッティ、レーズンとドライシードのたっぷり入ったザクザククッキー、三川農園の無農薬栽培のタマネギを使ったクラッカーも焼きました。
 
   マルシェは下山の4人の女性たちが企画運営しています。コンセプト、出店者は次の通りです。
***
身体に優しい
心に優しい
環境に優しい
人に優しい
をコンセプトに
人と人との繋がりや輪がうまれたり、拡がっていければいいなと思って企画しました。
これから生きていく、暮らしていく上で大切な何かヒントをつまめる、繋がれる市でありたと思っています。
今回出店くださる方は商品もステキですが人として魅力的で、色々な知恵を持たれている方々です。
どうぞご縁を繋げにきてください✨
常楽寺オーガニックご縁市 
日時 8月21日(日)
    10時から15時
場所 
曹洞宗 常楽寺
豊田市野原町中野46
出店者さま
@auntie_maki
焼き菓子とパンなど
草木染め製品
#満ちる屋 さん
@michiruya0308
フード&ドリンク
@tinchantei
かき氷&手作りドリンク
#studio725  さん
@studio_725
ヴィーガン弁当(Yoga予約+α)
@kinofarm_shimoyama
有機野菜・移住定住
#cotorite さん
@cotorite66
小豆カイロ
お肌を締めつけない肌着(お好みの生地&サイズでオーダー)
マグネシウムを使ったエシカルグッズなど
#巣衣〈sugoromo〉さん
@sugoromo_mihoko
装身具
@remindsdye
灰汁発酵建ての藍染の服、小物、糸
マクラメアクセサリー
クリスタル
ガラ紡機の動態展示
綿繰り体験
和紡績
古絵本(活動資金になります) 
@asahinomorimw
みんなの保健室なんでも相談&救護
asuka 
@wada_asuka
ダーニング(机を囲んで一緒にちくちく)
#amatoti さん
@amatoti888
ヨニエッグなど
暦の本
布ナプキン
こどものおパンツ
 猫と子は扉をしめない(PM本堂)
@neko_to_ko_wa_tobirawoshimenai
#四季YOGA(AM本堂)
ami oshima
@a.yoga.natural
室内のご縁テーマは
「布と染と糸」
です
ご縁市イベントスケジュール
10:30~ 11:45
四季YOGA 
講師 ami Oshima
@a.yoga.natural
13:30~
絵本読み楽団
猫と子は扉をしめない
外ではお寺のお山と川で遊べる
「ご縁プレーパーク」をひらきます。
お問い合わせは
@soutouzen_jourakuji
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7月のどんぐり工房草木染め~インド藍染め

2022-08-14 17:16:09 | 草木染め

  先月のどんぐり工房草木染め講習会は、毎年に夏に必ず行うインド藍染め講座でした

   今年は、7月の頭に市街地の空飛ぶ羊と暮らしの学校でも開き、本藍とは違うけれど、青色の魅力をたっぷり楽しんでいただきました。

   青だから映える模様付け。こちらは洗濯ばさみでつけました。

    こちらはおはじき(右)と、簡単な縫い絞り。

    サロンの大きな布も染めていただけました。右は小さなお子さんをお持ちのお母さん作。まだら染めのブラウスもうまくいきました。まだら染めは、なかなかうまくいかないことが多いのです。

    今週末の20日土曜日にも、インド藍染め講座を開きます。夏休み後半のお楽しみに、ぜひともインド藍染め講座をお選びください。詳しくは、どんぐり工房のHPをご覧ください。

 

 

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稲武地区月ケ平のオオキツネノカミソリを見てきました。

2022-08-14 16:56:28 | 小さな旅

   数日前、稲武地区の大栗山にあるオオキツネノカミソリ群生地に行ってきました。ずっと前から見たい見たいと思いながら、なかなか開花期にちょうどうまく訪れることができないまま、何年もたちました。

   今回はたまたま山歩きを予定していた日が運よく開花時期に間に合い、数年越しの願いが叶いました。群生地は、県道沿いに車を止めて山に入り、およそ600mほどで登ったところにあります。沢筋の苔むす岩々も風情があります。写真上の赤い実は、ウワミズザクラ。きれいなオレンジ色です。

   同行した友人の子供が見つけたエビガライチゴの実。この実はイチゴのうちのひとつぶ。大きなイチゴのようです。見たかった。

   よく見かける苔ですが、名前を知らない。草は、チャルメル草の一種だそうです。

   アブラチャン。

  シロモジ。クロモジはいい匂いだけれど、シロモジは強すぎて芳香とはいえない。ほぼ誰もが同じように感じるのがおもしろい。

 うちにもある洋種ヤマゴボウですが、やけに生育がいい。近くに水があるせいか、日陰だからなのか、立派過ぎて別の草に思えました。

   こちらも稲武のたいていの山同様、スギヒノキの人工林となっています。でも、間伐がさほどされているようでないのに、暗くはないのは、オオキツネノカミソリ群生地の保護のために、人々が行き来しやすいよう手入れしたおかげかもしれません。

   これはアワブキ? 燃やすと泡が出るからこの名前がついたそうです。

  オタカラコウという葉の大きな植物。うちの裏の林にもあります。こちらに来た頃は、この草とフキの区別がつきませんでした。

   いい写真が撮れなくて残念なのですが、小さな谷川はきれいで、こもれびが心地よく、群生地までの山道はときどき急坂はありますが、おおむねなんとか私の足でもたどり着けました。

   山歩きしていると、しばしば見かける岩や切り株を一面に覆う苔やシダ植物。見ていて飽きない風景です。そこに一株何かの苗が育っているのを見ると、さらに愛しい。

   マツカゼソウ。可憐な白い花が咲いています。葉っぱもかわいい。

   シダなのですが、これは覚えやすいシダです。裏表どちらもほぼ同じように見えるのです。だから名前は、両面シダ。

   コクサギだそうですが、この植物、クサギとは無関係だそう。

  でも、臭いことは臭い。変わっているのは、葉のつき方。ふつうは、対生か互生。葉が茎に対して向かい合っているか、互い違いになっているか、なのですが、こちらは、右右、左左・・・と二枚ずつ同じ側についています。そして茎をよく見ると、ぐるぐるっと回っています。なんなんだろう。コクサギ型序列というのだそうです。

   こちらも白い花。

   群生地に近づきました。想像以上に広い場所です。

   このあたり一帯は、木地師たちが住みつき、木を伐っては道具を作っていたそう。オオキツネノカミソリは、彼らが薬草として使うために栽培していたということです。ケヤキは村人が神社建立のために苗を植えたものだとありますが、このケヤキも生地の材料として大事なものだったのでしょう。

   木地師の集落や住居跡はまったくありませんが、炭焼き窯のあとはあります。このあたり一帯、あちこちにみられるのだそうです。木地師集団とは別に炭焼きを専業とする集団がいたのか、それとも村人たちが副業で携わっていた仕事の場所だったのかは不明です。

   オオキツネノカミソリは彼岸花と同じ科で、春は緑の葉があるのですが、花が咲くころは葉がなくなっています。おしべが花弁より長いのがオオキツネノカミソリで、短いのがキツネノカミソリなのだそうです。

   オオキツネノカミソリの群生地にはケヤキが。周囲は針葉樹で囲まれているのに、こちらは広葉樹地帯になっています。上の方に黄緑色の葉が見えます。新緑の時のようにきれい。

  群生地は、ぐるっと一周できるように整備されています。

   例年は盆過ぎが見頃だそうですが、今年は一週間ほど早め。まだほとんどつぼみばかりの群落もありましたが、ほぼだいたいピークをちょっとだけ過ぎている感じでした。でも、夢のように続くオレンジ色の群れは、見ていて飽きない。

   草アジサイというのだそうです。確かにアジサイっぽい。

   こちらはカエデだそう。カエデといえば「カエルデ」から来た名前といわれるくらいだから、みんな水かきのようなものでつながっている形の葉だとおもっていたら、こんなのもあるのだそうです。名前はミツバカエデ。言われてみれば、たしかに葉っぱは3枚ずつになっています。3枚一組でミツバカエデ。

   あまり記憶が定かではないのですが、こちらに越してきたばかりのころ、地元の人に誘われて、「オオキツネノカミソリを守る会」に参加したことがあります。種取りに行ったのだと思う。その当時は、今ほど群落が広くなかった気がします。地元の人たちの努力で、ここまで自生地を広げたのではないかと思います。

   多分、100年以上前の人たちが植えた薬草が、こうして後代の私たちの目を楽しませてくれているのだなとおもうと、なんだか感無量です。白っぽい肌のケヤキとオレンジ色のオオキツネノカミソリ。美しい夏の日の思い出になりそうです。

 

 

 

   

 

  

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ハッピーマウンテンに行ってきました。

2022-08-13 18:11:35 | 小さな旅

  1年半前に一度訪れたことのあるハッピーマウンテン。幸山明良さんが切り開いた山に牛を放ち、育てている山です。昨年再訪の計画をたてたのですが、パンデミックのため断念。先月やっとかないました。

   以前は、幸山さんが開墾した山に牛は放たれていましたが、いまは、山のふもとに囲いをつくり、一か所に居住(?)。山の放牧場はただいま、牧草を育てている最中だそうで、いずれはまた前のように山のあちこちの草を食べながら行き来できるようにするのだそうです。

   1年半前より頭数は増え、現在雌6頭に雄が一頭になりました。雄はまだ少年。もうじき青年になり生殖可能になるのだそうです。

   牛とともに彼が飼育しているのはチャボをはじめとする鶏。牛にとってはなくてはならない存在です。

  牛にたかる無数のアブ。そのアブを好んで食べるのが鶏。背中を襲うアブをたたいて鶏にやると大喜びします。この日一緒に行った子供たちは、じきにアブたたきに熟達し、鶏に餌をたくさん供給できました。

   牧場内にしかけた罠にかかったり、近隣で仕留めたりした害獣の肉のうち人間の食べない部分も、鶏の大好物。細かく切って与えます。

   以前もさせてもらったカウカドリング。手のひらを握るか広げるかして最初に牛の鼻先にもって行き、匂いを嗅いでもらう。彼女は私のからだを嗅ぎまわり、しばらくすると、そのまま私の膝に顔をうずめました。「もう友達になりました」と幸山さん。牛の腹から背に向かってなでてやると喜ぶというので、あちこちを撫でさすりました。私が慣れたせいか、前よりリラックスして身を預けることができました。牛の鼓動が聞こえます。気持ちいい。

   のんびり育った牛はゆったりと人間を受け入れてくれるのだな、と思っていたら、そうとは限らないこともごくたまにあるとか。「人間が先輩風を吹かせているといやがります」と、幸山さん。居丈高だったり乱暴だったりすると、牛は敏感に分かるのでしょう。匂いも関係しそう。整髪料や合成洗剤、柔軟剤、化粧品の匂いの強い人も、嫌がられるかもしれないなと思いました。

   私が寄りかかっている牝牛の名前はリツ。昨年牧場内の崖で滑り落ちて重症を負い、再起が危ぶまれましたが、幸山さんの看病で一か月後に立ち直り、その後、ひとつきかかってリハビリ完了。背中には重症を負ったときの傷が今も残っています。

   唯一一頭だけいる雄は、ひときわ活発。雄は気が荒く、人間の手では御しがたいので、いま大抵の酪農家は牡牛を飼わずに人工授精で子牛を出産させています。

   でも、幸山さんがおっしゃるには、牡牛がいるかいないかでは、牛の集団行動にはっきり差が出るのだとか。牝牛と子牛だけだとクマが襲いに来るそうですが、一頭でも雄がいると、敬遠するのだそうです。場内の移動は順番が決まっていて、その順番があることで秩序が守られ、いざというときの助けになるのだそう。「一頭だけだとパニックになる。牛は群れでないと生きられない動物なのです」

   幸山さんはただいま、一頭だけいる少年牛を、心優しくたくましい牡牛に育てることに力を入れています。

   牧場内は、3年前開拓を始めたときは一面の笹原でした。その笹原を牛が食べ、場内は徐々に本来の多様性を取り戻しはじめました。

   大きな葉にびっくり。桐の葉です。毒草のタケニグサもあちこちに。大きくておどろきました。牛糞のおかげか、土地が肥えているのでしょう。

   前にはなかったゲル。なかでコンサートや小さな集会のできる広さがあります。

   寝泊まりもできます。

   マウンテンツアーは、牛を含めたこの山の自然を見て触って匂いを嗅いで楽しむ会。この日のツアーの最初は、キノコ栽培している湿り気のある場所から始まりました。途中の道には、牛たちが好んで食べている笹が。まだまだあちこちに群生しています。

   幸山さんに勧められて、笹の先っぽの芽を出したばかりの葉を食べました。柔らかくて甘い。いけます。整腸作用があって、これを食べると便の切れが良いのだそう。野雪隠のおり、笹ならその辺にあることが多いから手ごろな拭き紙になりそうです。ただし柔らかい葉に限りますが。いいことを聞きました。

    案内されたのは、苔が育つにふさわしい場所。よく見ると異なる種類の苔がいろいろ育っています。

   こちらに来て無類の苔好きとなった幸山さんは、苔テラリウムのワークショップも開いています。

   こちらは、ハッピーマウンテンの周辺にある散策路。作られたばかりらしい立派な桟道が、歩きやすくて格好よくて、楽でした。

   ソヨゴです。近くにアブラチャンもあったのですが、写真を撮り忘れました。ソヨゴは昨年ある染色家の方法で手順を踏んで染めたらいい色が出ましたが、アブラチャンも染め材料になりあmす。以前一度だけ染めことがあるのですが、アルカリ抽出できれいな茶色っぽいピンクが出ました。薬効もあるようで、今度どこかで見つけたらハーブウォーターにしてみたいと思っています。

   トラノオも咲いていました。

   乾燥した牛糞。前に来た時も驚きましたが、全く匂いがない。食べるものがいいとこんなに匂いが違うのかと感動しました。こちらはだいぶ土と馴染んだ糞のようです。 

   問題のある飼料を一切食べていない牛糞は、肥料としては貴重品。

   冬場、このあたりは他の草が全部枯れても笹だけは豊富。だから、牛の主要の食べ物は固い笹です。その笹を分解できる胃袋が反芻によってつくられ、何億ものバクテリアが住み着きます。そしてそれがたんぱく質に合成され、植物だけ食べているにもかかわらず、立派な筋肉を作るのだそうです。

    ハッピーマウンテンの頂上。前方は南信州の山々です。ところどころカラマツが。この日、下界は相当な暑さだったと記憶していますが、こちらは別天地。

   ここで昼食を取りました。

   差し上げた黒パンを、いつも身に着けている鉈で切る幸山さん。ワイルド!

    2か所に設置されたブランコ。ブランコなんて久しぶりに乗ったので、漕ぐ、という行為をあえてしなくてはちゃんと揺れないことをすっかり忘れて、ただぶらぶら揺れていました。それでも、十分楽しかった。写真は友人。

    枯れかけたカラ松も。でも、下から幾本も枝が伸びてきています。針葉樹でこういう光景は珍しいように思います。

   崖にあった木。切ったら、年輪に偏りができていることがわかりました。手前は年輪の幅が広く、向こう側は狭い。土のある方は太り、少ないほうはやせ気味? こうして、木は倒れないよう、バランスをとって立っていたのだなとわかります。

   昨夜通ったシカの足跡らしい。

   ウリハダカエデというのだそうです。蛇のような柄にぎょっとしましたが、名前を聞いて得心。確かにシマウリそっくりです。

   昨年だったかに、土砂災害に見舞われた林道。こういうところは、道を作るために水みちを無理に寸断したために災害に見舞われるのでしょう。自然に流れるようにしておけば、壊れるということもなかったのではないかと思います。

  この土石流が発生したため、下の沢筋に意外なことが起こりました。粘土質の基岩という石が現れたのです。幸山さんにとっては、怪我の功名というか、うれしい出来事です。

   粘土質のこの石、いわゆる「クレイ」にちかいものらしい。幸山さんは、このところ石鹸も歯磨き剤も使わないで、この石を使っています。石をちょっと水に浸けてこすると、黄色いクリーム状になります。手に塗ると、心なしかすべすべするような。彼はこの石で土器を作るワークショップも開催しています。機会があれば、参加してみたい。

   地元の中学生たちが作ったツリーデッキ。地元の子供たちは、山の近くにいながら山で遊んだことはほぼなかったはず。それがハッピーマウンテンの誕生によって、山を近しく感じられるようになったのではないかとおもいます。

   前に来た時にはなかったこうした人工物が、森のところどころにあります。ひとの手の入った自然の森は、安らぎを覚えます。

   今は子供の牛たちが近い将来母牛になったら、母乳を分けてもらって、乳しぼりやバターづくり、生クリームづくりなどのWSができたら、たのしそう。ふもとには石窯も作ったそうなので、搾りたての牛乳を飲みながら、焼き立てのパンに出来立てのバターを塗って食べたら、もういうことなし。1年半前に訪れたときよりさらに、これからが楽しみのお山になりました。

   ハッピーマウンテンでは、随時、放牧場内の見学やワークショップを開いています。詳しくはホームページをご覧の上、幸山さんにお問い合わせください。(長野県根羽村の山地酪農「ハッピーマウンテン(Happy Mountain)」 (happy-mountain.life)

 

 

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ドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」

2022-08-11 00:25:02 | 映画とドラマと本と絵画

   8月5日は、オーストラリアのカウラ収容所で、1944年のこの日、日本人捕虜が集団で脱走し、230余名が死んだ日です。たまたま命日に、慰霊祭を行ったというニュースが流れ、2008年に日本テレビがこの脱走事件をドラマにしていると知りました。あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった-カウラ捕虜収容所からの大脱走-|日本テレビ (ntv.co.jp)

  わたしは、30年ほど前にオーストラリアと日本の合作ドラマ「カウラ大脱走」をみて、この事件のことを知ったのですが、日本人の大半は知らないままのはず。テレビドラマ「カウラ大脱走」 - アンティマキのいいかげん田舎暮らし (goo.ne.jp) でもちゃんとドラマはできていたのだとわかったので、さっそくつたやレンタルで借りて見てみました。

  ドラマは、この事件で生き残った元兵士の話を元に作ったそうで、山崎努がカウラを訪れるところからドラマは始まります。彼は1944年春にニューブリテン島でとらえられてカウラ収容所に送られ、数か月を過ごします。そこで起きた、恐るべき出来事。それが、死ぬとわかって行った集団脱走です。

  捕虜たちは、思いもよらぬ捕虜への厚遇に戸惑いを覚えながら、豊富な食事にありつき、野球やゲームに興じ、安らかな日々を送ります。でも、彼らは「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の文言を叩き込まれた日本兵。祖国の家族に迷惑をかけるのがつらくて、ほとんどが偽名を使っています。

  ところが、突然、オーストラリア軍の上層部の命令によって、収容人数が増えすぎたため、日本軍の上層部と一般兵を分けて一方を別の収容所に移送することが決定されます。「日本軍の上官と兵隊は一心一帯。切り離されるのは死ねといわれるのと同じ」と反対する人々が登場。捕虜たちは動揺します。

  今回見た日本のドラマでは、脱走を決行するか否かの採決をするとき、兵たちはそれまでの幸せな捕虜生活が突然終わりになるというのに、ほとんど議論もケンカもしないで、絶対成功の見込みのない脱走に賛成します。しごくおとなしい。

   あべさだを扮するごちごちの軍国主義者の軍曹に居丈高に死への突入を強硬に主張されたとはいえ、場所は収容所。軍隊ではないのだから、彼の言いなりになる義務はありません。でも、あくまで兵たちは「戦陣訓」に縛られ、トイレットペーパーに「〇」を書く、という流れになっています。

  「カウラ大脱走」では、脱走を決定するまでの兵たちの動揺や苦悩、やるせなさ、なさけなさ、悔しさがもっと前面に描かれていた気がします。いまでいうところの「同調圧力」に主人公がまけていく姿が描かれていたと思う。主人公の心情がもっと複雑に描かれていて見ごたえがありました。カウラのことを知りたいなら、こちらをお勧めします。

   

   

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映画「モンドヴィーノ」

2022-08-04 11:21:40 | 映画とドラマと本と絵画

  タイトルは、「ワイン業界」といった意味らしい。モンドヴィーノ - Wikipedia

  多国籍企業が世界の経済を席巻する中、ワインもその波にのまれているということを思い知らされた映画です。

  映画は、フランスの小さなワイン農家の映像から始まります。小規模だけれど質のいい葡萄を代々育てて、小さな醸造所で大切に発酵を見守りながら作っているワイン。映画や小説、テレビで見聞きしているおなじみの葡萄園やワイン農家です。

  画面が一転して、登場するのは車に乗った曰くありげな男。車の中でも忙しそうに電話での応対をし続け、あいまに運転手にいろいろ命令しています。彼は、世界中のワイン業界で知られている男性で、カリフォルニアワインともかかわりがあります。

  彼はフランスだったかイタリアだったかの小規模のワイン醸造所に出向き、試飲したのち、何かを加えるよう、その醸造所のスタッフに耳打ちします。監督?が問いただすと、「いや、ちょっとしたものをいれるだけで、いい味になるのでね」と言って、笑うだけ。何を入れろと指示したか、明かしません。怪しい。そこの農園主(貴族らしい。だとしたらイタリアかも)は、「私たちには何もわからないから」と笑いながら親し気にこの男性とおしゃべりしていました。

  ほかにも、カリフォルニアワインの大きなメーカーの社主など、今や世界を動かすワイン業界のボス的存在らしい人たちが登場します。「ワインの味が一律になった」と映画に登場する誰かだったかナレーションが、こう嘆いていました。

  一方大会社の工場が進出するのを、村を挙げて反対した葡萄生産地も紹介。彼らの葡萄づくり、ワインづくりに対する熱意は、昔から変わらないものなのでしょう。先述した貴族の農園主とは大きく異なる態度でした。

   昔、ワインといえばごくたまに明治屋に行って、特別に購入するぜいたく品だったのですが、ある時期から、別に意気込まなくても買える値段のワインが手に入るようになりました。輸入品が安く手に入るようになったからとばかり思っていましたが、それもグローバル化の波に乗ってのものなのでしょうか。

  

 

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ガキ大将養成講座さくら村で生藍いろいろ活用講座を開きました。

2022-08-03 23:21:02 | 草木染め

   2週間前のことですが、旭地区のガキ大将養成講座の拠点さくら村で、生の藍の葉を使っていろいろ活用する講座を開きました。

   藍の畑はさくら村のすぐ近く。養成講座のスタッフの一人が借りている畑で青々と茂っています。

   当日朝、40名以上の親子が畑に集合。頃合いに育った藍を根元から刈りました。

   大変な量です。私は、さくら村で講座の準備に入っていたため、子供たちが刈り入れする様子は見られませんでしたが、写真で見ると、みんな率先して作業にいそしんでいます。

    下の写真の右手前から二人目が元気な藍を育ててくださった野中佳美さん。

   さくら村での草木染め講習は今年で三回目。森の中の染めの仕事は心地いい。下の写真の左端が、ガキ大将養成講座を主宰する安藤征夫さんです。

   最初は絹の布の藍染め。藍の生葉は、絹でないと基本的には染まりにくいので、今回はスカーフかハンカチを各自選んでいただきました。

   模様付けを終えたら、葉だけを枝からむしり取ります。この作業が結構大変。

   布の10倍の藍の葉と布の6~7%の塩を袋にいれてもみもみ開始。

   青緑色の汁が出てきたら、布を入れます。そしてさらにもみもみを続行。

   満遍なく汁が布に行きわたったら、完成です。

   木々にかけたロープに吊るした染め布。この光景が好きです。

  生葉染めは何度も行っていますが、今回は、特に色がいい。さわやかなブルーがたくさん生まれました。藍の生育がとてもよかったこと、一番元気な時に刈り入れできたこと、そして刈った葉を新鮮な状態に保ちながら作業を進めることができたこと。この3点がうまくいったため、これまでで一番といっていいほど冴えた青い色が出たのではないかと思います。

   昼食をはさんで午後からは、まず石鹸づくり。生葉染め同様、枝から葉をむしり取り、葉を集めます。

  水を少し入れてまたもみもみ。

   みんなでもみもみ。

   手も染まります。爪が最も濃く染まるのはなぜだろう。

   この汁を濾して葉のエキスをつくり、石鹸素地に混ぜます。そしてこねこね。

   きれいな水色のような黄緑色のような色の石鹸ができました。

   このあと、作業は化粧水づくりに入りました。野中さんが乾燥しておいてくださった葉でハーブティーを作り、冷めたらグリセリンを混ぜて瓶に入れるだけ。グリセリンの必要量を間違えて計算したので足りなくなったため、ハーブティーだけをお持ち帰りいただいた方も。ハーブティーを顔につけるだけでも立派な化粧水になります。

  以上でこの日の講座は終了。藍の生葉染めスカーフ、藍の石鹸、藍化粧水がお土産。作業がたくさんありましたが、楽しんでいただけたようです。こちらの講座は、いつも子供たちが元気で生き生きしていて仕事にも遊びにも熱心で、見ていて楽しい。この日もたくさん働いてくれました。おかあさんたちもニコニコ。染めだけでない講座は初めてのことでちょっと心配でしたが、杞憂でした。

  藍は、この後、真夏の日を受けてまた生長するはず。大きくなった藍で、また何か講座ができそうです。楽しみ。なお、写真はすべて、ガキ大将養成講座に当日参加してくださった方たちがお撮りになったものを、つかわせていただきました。ありがとうございます。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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絵本「キューピーたちの小さなおはなし」

2022-08-01 13:12:47 | 映画とドラマと本と絵画

  ローズ・オニールという女性のかいたキューピーのお話。キューピーの生みの親である彼女はイラストレーター。若いうちに才能を見出され都会で活躍したのち、30代半ばで両親の住む田舎に移り住んで仕事を続けます。そのころに生まれたのがキューピー。1909年のことです。

  この絵本には、何人ものキューピーが人間にいたずらを仕掛けたり、人間の真似をしたり、貧しい人にプレゼントしたり。とにかくいろんな人間が登場し~ホームレスもでてきます~、人間の社会に小さな波紋を起こします。

  春のこと。花が咲いて鳥のさえずるいい季節なのに、一軒だけまるで冬のような家があります。お化けのでるうわさがあって、そこには誰も引っ越してこないのです。お化けはキューピーたちに愚痴ります。

  「「おばけでいるってのはほんとにゆううつなことなんだけど、みんながわしの存在を信じているからしかたない」キューピーたちがなぐさめようとすると、「いいや、やめておきな。とにかくわしはみんなの予想通りおそろしくなくちゃいけないんだから」といいます。そしてほんとうにおそろしげなかっこうをして見せました。」

  キューピーたちが彼に言いました。「ぼくたちは信じないよ!」。するとおばけは、「ああ、らくになった」と、つぶやいて消えていきました。こうしてこの家は生き返ります。

  「家はすっかりみちがえるようになり、だれでも住みたくなるような明るい家になりました。みなさんのうちもあたたかでありますように」

  わかりやすい簡単な文なのですが、含蓄があります。「みんなが信じるからおばけはいる」という合理的な考えを、アメリカの子供たちは幼いときからさりげなく聞かされるのでしょう。最後の一文がなかなかいい。第12章まであるのですが、いつも最後は作者の一言が添えられています。お母さんが子供に読んできかせたあと、一言いいたくなったといのための一文、という感じです。

  1900年代初頭は「若草物語」の作られたちょっと後のころのようですが、あの小説で描かれるアメリカの中産階級の雰囲気がよく出ています。ほんわかする絵本でした。

  

 

 

 

 

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