正式な名称は「神田神社」ですが、一般的に呼称されているのは「神田明神」。
東京の神田だけでなく日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神という神社です。
最先端の骨伝導ヘッドセットとともに参拝に訪れました。
一ノ宮に大己貴命、二ノ宮に少彦名命、そして三ノ宮に平将門命の3柱を祀る神社です。三宮の平将門こそ、この神社の特長を大きく出しているといえます。
平将門といえば、関東一円を手中に収めた最初の人物で、自らを「新皇」と称するほどの人物です。源氏の鎌倉幕府、徳川の江戸幕府に先駆けて関東を拠点とする勢力でした。
承平5年(935年)に平将門の乱で敗死した平将門の首がこの近くに葬られたことから、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けました。さらに嘉元年間に疫病が流行した際には、将門の祟りであるともいわれ、供養が行われるようになりました。
そして、延慶2年(1309年)、この神田明神の相殿神とされるようになったという歴史があります。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれるほどになりました。
明治7年に明治天皇が行幸する際には、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされてしまいました。その結果、平将門が祭神から外されることになりました。
そのときに大洗磯前神社から勧請されたのは二ノ宮の少彦名命です。平将門神霊は境内の摂社に遷されることとなりました。
しかし昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰し、現在の姿となりました。
神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないというタブーも一般的に言われています。
成田山新勝寺は、叛乱を起した平将門を討伐するために、僧・寛朝を空海作といわれる不動明王像とともに成田山新勝寺へ使わせ、鎮圧のため動護摩の儀式を行わせたといわれています。神田明神とは正反対に、新勝寺の参拝は反・将門の意味合いがあるともいわれるからです。
そんな神田明神ですが、圧倒的な存在感を誇り、参拝者の数もかなりの多さです。
都心一等地にふさわしい姿と参拝者を誇るといえます。
それだけ参拝者を集める境内には騒音がつきものです。
骨伝導の威力が発揮される場ともいえます。米軍の爆音の中でも通話ができる特許技術に裏打ちされた製品が、手軽に手に入るのは魅力的です。
参拝とセットで使用すれば、耳を塞がない利点も多く現れます。
⇒ 米軍採用の骨伝導製品
都内の神社では別格扱いなほどメジャーな存在ですが、改めて骨伝導ヘッドセットとともに参拝にでかけることにより、神社の持つパワーと米軍採用の驚異的な骨伝導パワーが見事に融合することがわかります。
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