猛暑日が続く今年の夏、愛車に骨伝導シェルショッカーを装着し、骨伝導サングラスとともに、大舘館の跡地へと向かいました。
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正統的な源氏の血をひく新田政義の次男を祖とする大舘氏は、新田荘大舘郷に居を構えました。大舘二郎(次郎)を名乗りました。
大舘宗氏は新田義貞の鎌倉攻めで、右軍大将として参加しました。しかし宗氏は東勝寺合戦に倒れました。極楽寺が戦死場所だと伝えられています。
嫡系を継いだ大舘氏明は南北朝時代に南朝側につきます。伊予国の守護となりましたが、北朝の細川頼春に破れ自害しました。
氏明の子は義冬で、佐々木道誉により北朝の治部少輔に任官され、足利義満に仕えるようになりました。室町幕府内では、源 義家・義国流足利氏と同族となる新田氏の支族であったという「血筋」も大きく関係していたようです。
これで大舘一族は要職を務めることになり、一族の多くが奉公衆に所属することになりました。
本貫の地である新田荘はというと、父系が足利氏・母系が新田氏という家系の岩松氏が支配することになりましたが、以降もこの系統の大舘氏は新田荘の大舘郷を所領としていたといいます。
骨伝導機器と向かった大舘氏の居館跡は、大舘館跡として城址の中央と思われる所に諏訪神社が祀られています。小さな建物で、この諏訪神社の隣に城址標柱や案内板などがあります。
かつては御堀、御蔵、鍛冶屋、馬場などの地名も残っていたといいますが、現在は周囲は一面の畑地で、耕地整理によって遺構は消失してしまったようです。
地名として「大舘」は残っていますが、城址は畑地と化し、当時を思い浮かべるのは難しいといえます。「城郭体系」の図からは、単郭の居館で、北西側の角がつぶれ、五角形だったようです。
室町幕府滅亡とともに大舘氏も没落しましたが、その血筋は江戸時代にも続きました。幕末の尊王志士には大舘謙三郎という名もありますが、謙三郎の系譜関係は不明だそうで、新田荘の医家で、「新田官軍(新田勤王党)」という草莽の倒幕隊を組織しました。のちに明治の時代には再び新田氏を名乗り、新田男爵家を立てました。
幕府側では最下級幕臣の大舘昇一郎の名があります。本国が上野とあるため、新田大舘氏の系譜であると思われています。
今回、夏の陽射しの中、骨伝導により「骨で聴く」旅として、こんな歴史の一部を「聴く」ことになりました。耳ではなく骨から脳へと伝わる骨伝導の旅も、こんな展開があるということです。
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骨伝導の旅も最近はなぜか「駅」ばかりだったので、歴史も「骨で聴く」ことにしたのでした。
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