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骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕地を骨で聴く

2014-04-16 09:51:06 | 骨で聴く癒しの世界
忠臣蔵で知られる浅野内匠頭の邸跡と芥川龍之介の生誕地は、すぐ隣でほとんど同じ場所といえます。意外と知られていないことですが事実です。

東京の築地界隈で聖路加病院の周囲は、意外な見所が多く、改めて歩いてみると歴史だけでなく周囲の独特の雰囲気を充分に味わうことができます。
今回はそんな築地の片隅にある史跡へ、最先端の米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともにたずねてみました。

聖路加国際病院と河岸地を含む一帯は、赤穂藩主・浅野家の江戸上屋敷があった場所です。その広さは8,900余坪といわれます。
築地川に面していたようですが、現在では埋め立てられてあります。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城内松の廊下で吉良上野介に斬りつけました。その咎で即日、切腹を命ぜられました。
このことで広大な上屋敷は没収されてしまいました。

浅野家の立退きのときの伝説も残っています。
屋敷の後方に多くの船を用意し、重宝什器を始め、家中の財産家具を積み載せました。その際にそれぞれ番号の札を付けて運搬させたといいます。
この合理的な手法により混雑もなくその夜のうちに方付いたという伝説です。

現在では「都旧跡 浅野内匠頭邸跡」の石柱が聖路加看護大学の横にあるだけになっています。その石柱の右側、距離にしてわずか10m少しの場所に芥川龍之介生誕の地の説明板が立っています。



芥川龍之介の生誕地は、赤穂藩主・浅野家の上屋敷があったところと重なっているのです。
実際には浅野家断絶の後に他家の屋敷となっているし、時代もかなり隔たっていますから、直接の関係があるわけではありません。
ちなみに浅野家の後は、が田沼玄蕃頭邸や松平周防守邸だったようです。

実は個人的に最も意外に感じたのが、芥川の生まれた時代、この地が乳牛の牧場だったことです。
芥川龍之介は、明治25年(1892年)生まれですが、父親は新原敏三で、現在の聖路加看護大学がある場所で渋沢栄一経営の牛乳販売業耕牧舎の支配人をしていました。

しかし龍之介はこの地に長くいませんでした。
誕生してわずか8ヶ月後に生母のフクが発狂したからです。
龍之介は本所区小泉町15番地(現在の墨田区両国3-22-11)に住む母方の伯父・芥川道章に引き取られることになりました。

浅野家は上屋敷が没収され、芥川龍之介は生まれてすぐに母の発狂によりこの地を離れたという、それぞれの歴史を残した場所です。

築地市場にも近く、聖路加病院のある地域ですから、多くの人々が行きかう一角です。そんな地にそれぞれの歴史が埋もれていたというのも興味深い気がします。
そんな歴史の空気を感じながら周囲の音声を骨で聞きます。

耳だけではなく骨からも脳へと音声を伝えると‥‥

やはり今では大都会・東京の街の音です。
過去の出来事とは関係なく、一定のリズムで時を刻んでいる周囲には、現在では歴史の音は聞けません。それでもこうしてかつての出来事を考えるのも良いかもしれません。

その際には最先端の骨伝導ヘッドセットをお供にしましょう。
骨伝導音声増幅器「きくちゃん」のお得バージョンも正式に発売されました。
しかも全額返金保証です。

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築地は市場だけではなく、周囲にお勧めポイントがたくさんあります。
ぜひ骨伝導機器とともに散策してみてください。

野山北・六道山公園の里山民家を骨で聴く

2014-04-11 09:11:46 | 骨で聴く癒しの世界
東京の武蔵村山市にある野山北・六道山公園が春を迎えました。
園内の樹木はコナラ、クヌギ、エゴノキなどの落葉樹林が多く、昔からの里山に活気が出てきました。

そんな公園の一家にある里山民家も子供たちとともに、昔を懐かしむ大人も参加して「里山体験」をしています。ここではたくさんの公園ボランティアが活発な活動を行っています。

この公園は、一般的に想像されるものではなく、広大な丘陵地帯そのものが公園になっているため、里山民家がある場所も宮野入谷戸という自然の谷戸に位置しています。

文字通り、かつては里山として自然の中での人々の暮らしが行われてきた場所です。

このエリアに、江戸時代建築の宮鍋作造家住宅をモデルにして当時の民家を忠実に再現・新築した施設があります。オープンは平成12年(2000年)でした。

昔からの民家を移築したのではなく、新築した建物ではありますが、何ともいえない「古き良き」民家を再現しています。これだけでも一見の価値があります。実際にそんな事実を知らなければ、古民家だといわれても分からないかもしれないほどです。

この民家の周囲には生け垣が囲まれています。
その敷地の中には、母屋のほかに蔵や作業小屋、納屋なども再現されています。この配置もかつての里山の暮らしと風景が見事に再現されています。



母屋は茅葺きので、中に入り、囲炉裏ばたに座って寛ぐこともできます。お弁当を食べながら里山の暮らしを偲んだりするのも良いかもしれません。
里山体験の各種のイベントも頻繁に開催されているので、特に小学生のいる家庭では、かなりお勧めスポットといえるでしょう。

そんな里山民家の周囲の音声を耳だけでなく骨からも聞いてみます。
米軍採用の特許技術を使った最先端・骨伝導ヘッドセットからは、癒しの音が脳へと届きます。日本人のDNAに刻まれたどこか懐かしい原風景の音と、世界最先端の技術が一体化しています。

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春を迎えた里山に弁当持参で出かけるには、最適な場所といえるでしょう。

淡島湯温泉を骨で聴く

2014-03-28 09:57:33 | 骨で聴く癒しの世界
東京の渋谷から環七方面へ、玉川通り(国道246号線)と平行している淡島通りから、少し路地に入った先に天然温泉の「淡島湯温泉」があります。

東急バス渋谷駅より「若林折返所」行バスで「淡島」停留所下車か、京王井の頭線の池ノ上駅、東急田園都市線池尻大橋駅から徒歩といった場所です。鉄道の駅からは決して近いとはいえない距離です。

天然温泉の施設とはいうものの、どことなく昭和を感じるような、ごくごく普通の銭湯という雰囲気です。
元々は温泉銭湯ではなかったようですが、天然温泉を掘り当てたことで温泉の名称を使うようになったようです。それまでは「第二淡島湯(第2淡島浴場)」というのが名前だったとのこと。温泉成分分析表で「源泉名 第二淡島湯」となっているのもその名残でしょう。

すぐ近くには北沢川緑道があり、閑静な住宅街をゆるやかに流れる小川があります。確かにこの周囲は高級住宅街で三宿にも近い場所といえます。それでも昔ながらの店舗が随所に見られ、不思議と下町的光景に似た感じも併せ持つロケーションといえます。

肝心の湯は、というと、都内の天然温泉でよく見かける黒湯に相当します。それでもそれほど極端に濃いというわけではありません。
香りはほぼ無臭ですが、若干モール臭のような感じがするのは都内の温泉ならではです。

泉質名という扱いではなく、温泉法による「規定泉」という扱いです。規定に達しているのは「重炭酸ソーダ」と「メタ珪酸」の項目です。
源泉温度は17℃ですから、一般的に言われる「鉱泉」になり、成分総計は818mgだそうです。

同じ世田谷区内の温泉銭湯としては、下高井戸駅から徒歩で行ける「月見湯温泉」に次いでの訪問ですが、実はここはわが家から近いのに行く機会がありませんでした。

     → 月見湯温泉を骨で聴く

身近な温泉に浸かりながら、日常のすぐ隣にある非日常の空間を骨で聴きます。
耳だけではキャッチできない癒しのBGMが骨伝導によって脳まで届くかもしれません。
脳波との関係を考えるのも良いですが、ここは骨伝導によるBGMとともに純粋に温泉を堪能するのがベストかもしれません。

そんな骨伝導機器ですが、増税前の最後のチャンスで大幅割引と全額返金保証のキャンペーンを実施しています。まもなく終了です。

     → 最後のチャンス! 増税前のお得な骨伝導機器

4月からは増税に伴って、様々なものが少しずつ変化してくる予感があります。
年度末の疲れは身近な温泉にでも入って、綺麗に落としたいものです。


雷電爲右エ門を骨で聴く

2014-03-03 11:51:05 | 骨で聴く癒しの世界
外国人力士が活躍する大相撲ですが、史上未曾有の最強力士とされている人物をご存知でしょうか?

記録を見ただけで驚くべき数値が並んでいます。

現役生活21年
江戸本場所在籍36場所中、通算黒星が10
勝率.962 254勝10敗

昨年国民栄誉賞が授与された「昭和の名横綱」大鵬の記録が生涯の勝率.838ですから、9割6分を超えるという記録がいかにすごいか分かります。

その史上未曾有の最強力士が、雷電爲右エ門です。

江戸後期に活躍した信濃出身の相撲取りです。
身長は六尺五寸(1m90cm)、体重は四十五貫(168.7kg)だったといわれています。
現在の力士と比較しても恵まれた体格といえるほどです。

地方巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右衛門にスカウトされ、寛政2年(1790年)に24歳でデビューしました。
あまりにも強すぎたため、張り手、カンヌキが禁じ手とされ、使うことを許されない、という制約を受けたほどです。
いわばハンデを背負わされたわけですが、それでもこの驚異的な成績を残したわけですから、想像を絶する強さだったとしかいいようがありません。

また、最後まで横綱免許は授与されませんでした。しかし、富岡八幡宮の横綱力士碑に「無類力士」として顕彰されていて、横綱と同列に扱われることもあります。

横綱免許を受けなかった理由として、実は諸説があり、真実は謎のままといえます。
例えば、土俵上で対戦相手を殺してしまったためとする説、推薦を辞退したとする説、雷電の抱え主である雲州松平家と吉田司家の主家・熊本細川家の対抗意識による説などです。

そんな雷電爲右エ門の像が出身地の近くにある諏訪大社上社本宮にあります。

     → 諏訪大社上社本宮を骨で聴く

圧倒的な力を持った力士と、驚異的な技術力で米軍に採用された骨伝導製品。
何となく共通するような気がしてしまいます。

     → 米軍の爆音を制御する通信技術に骨伝導!

三遊亭円朝旧居跡を骨で聴く

2014-02-13 11:04:47 | 骨で聴く癒しの世界
新宿区の区立花園公園・小学校一帯は、明治の東京落語界を代表した三遊亭円朝が、明治21年から28年まで住んだ場所で、公園内にある旧居跡の碑は新宿区指定史跡になっています。

新宿御苑北側、この周辺は、かつて長く在籍していた会社の近くであり、現在では取引先会社が何社かある地域です。今回は改めてこの旧居跡を骨で聴きます。

初代三遊亭円朝は天保10年4月1日(1839年5月13日)生まれで、幕末から明治の時代に活躍しました。本名は出淵 次郎吉です。
なんと言っても円朝による新作落語は名作佳作とされる作品が多く、現代まで継承されているものが多数を占めています。落語の歴史でいえば、円朝が江戸時代以来の落語を大成したといわれます。

この新宿での屋敷地は、およそ1000平方メートルもあったといいます。かなりの広さです。
母屋と廊下続きの別棟の離れが、『円通堂』と呼ばれた円朝の居室で、周囲は孟宗竹の深い藪や野菜畑に囲まれ、田園風景が広がっていたようです。

その時代はまだ、現在の光景とは全く異なる寂しい町だったようで、円朝は周囲の喧噪を避けて、あえてこの地を選んだといわれています。

新宿のこの場所で、新宿や戸塚を舞台とする「怪談乳房榎」や「名人長次」などを書き上げました。円熟期を過ごした場所だったのです。

新宿の喧騒も少し薄れた地域ですが、今では円朝の見ていた光景をここで想像することはできませんが、改めて骨伝導を使って落語を聴いてみたくなります。
そのような企画を考えている最中なので、余計にこの碑の前で足を止めました。

ところで、全額返金保証キャンペーンですが、あまりに好評だったため、対象商品を緊急入荷しました。そのため、もう少しだけ延長することができました。ただ後半の勢いがありますから、ご検討中の方はお早めに!

     → 復活! 特許技術の骨伝導製品「全額返金保証」

新宿御苑にお越しの際は、ここまで足を延ばすことをお勧めします。その際は米軍採用の特許技術を駆使した骨伝導ヘッドセットもお忘れなく。

双鶴飛立の図を骨で聴く

2013-12-28 15:19:04 | 骨で聴く癒しの世界
隅田川唯一の歩行者専用橋の桜橋は、両岸の隅田公園を結んでいます。
形状が独特で、平面のX字形の特異な形になっています。

橋の名の由来は、両岸の桜にちなんだもので、桜橋の下だけ護岸を削り、さらに岸を10m程度張り出してテラス式堤防になっています。
台東区と墨田区の姉妹提携事業として1980年に創架が始まり、1985年に完成しました。総工費は28億3000万円だったそうです。

パリのセーヌ川をモデルにしたといわれますが、日本の風習そのものの花見のシーズンには大活躍する橋です。

この桜橋の台東区側に平山郁夫画伯原画による「双鶴飛立の図」彫刻碑があります。
彫刻は細井良雄氏が担当しました。双鶴は上流へ向かって羽ばたいている構図です。

存在感にあふれ、青空を背景にすると何とも静謐な雰囲気と爽快感を齎してくれています。
冬晴れの中、橋の上で冷たい風に吹かれながら、ただ何となく見ていいもいい感じです。

風があっても骨伝導ヘッドセットや指向性のあるマイクを使えば、通話は快適にできます。この場所ではそんな準備も必要かもしれません。
年末年始は米軍採用の特許技術を駆使した骨伝導製品が、大幅割引と全額返金保証キャンペーンを実施していますから、恐るべき性能を誇る製品を試す場所としてもお勧めです。

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年末にきて、かつて1年間だけ住んでいた台東区に来ることができて、何とも懐かしい気持ちを抱きながら、ここまで足をのばしてみました。

世田谷代官屋敷を骨で聴く

2013-12-19 16:12:09 | 骨で聴く癒しの世界
今年のボロ市が終わって、喧騒とは無縁になった世田谷の代官屋敷。
天候も悪いせいで、余計に静寂を保つ空間へ、骨伝導ヘッドセットとともに立ち寄りました。

東京都指定史跡・国重要文化財「世田谷代官屋敷」が正式な呼び名で、ここは、江戸時代に彦根井伊家領世田谷(2,300石余)の代官職を務めていた大場家の屋敷です。江戸時代だけでなく、明治維新の頃まで世襲し、代官役所としても使用されていました。

この大場家ですが、大庭景親の子孫といわれ、室町時代には世田谷吉良氏に仕えていました。吉良氏は足利義氏の流れで、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の系統の西条吉と、東条吉良(大場家の主家)とに分かれました。

天正18年(1590年)に主家が滅亡し、その後は帰農して郷士となったと伝えられていますが、寛永10年(1633年)に、世田谷が彦根藩領となった際に代官に任じられたといわれます。

明治維新まで代官職を継ぎ、領内20の村を支配していました。
実は今でも、敷地内に16代めの子孫の方々が生活しています。

ボロ市通りに面しているのが画像にある大場家表門で、門の右側に付いている小さな武者窓が、かろうじて代官屋敷の表門としての格式を見せています。

この表門の脇が出入り口で、ここから敷地内に入ると、まず樹齢180年の大きな玉樟が迎えてくれます。内脇には以前に「大樹・名木コンクール」に入賞した世田谷区の木・ケヤキもあります。

屋敷内には「世田谷区立郷土資料館」も併設されています。
資料館では世田谷区に関する歴史・民俗資料などを収集・保存し、日々の調査・研究の成果を展示・公開しています。

ボロ市のときには雑踏と喧騒の渦が発生し、もしここで携帯電話で通話をしようにも周囲がうるさくてよく話しができない状況になります。
そんなときには耳を使わない骨伝導ヘッドセットがいかに有効か、如実に分かる舞台となります。全額返金保証の7周年キャンペーン展開中ですから、来年1月のボロ市のときには、骨伝導ヘッドセットをキャンペーンで用意できます。

   → 全額返金保証キャンペーン

しかし今は静寂そのものです。
落ち着いた歴史建造物の中で周囲の音声を骨で聴くのも悪くありません。癒し効果も得られるようです。

月見湯温泉を骨で聴く

2013-12-07 19:02:06 | 骨で聴く癒しの世界
東京の世田谷区で天然温泉といえば、瀬田温泉「山河の湯」や、「THE SPA 成城」などのレジャー志向の強い施設が有名かもしれません。しかし昔ながらの銭湯が、天然温泉を使用している場合もあります。
その代表格が、「そしがや温泉21」かもしれません。

しかし、実はそれ以外にも隠れた名湯が世田谷区内にあります。
しかも厳選掛け流しまであるというのだから驚きです。

それが「月見湯温泉」です。

場所は京王線・東急世田谷線の下高井戸駅から徒歩6分の位置です。住宅街にある昔ながらの銭湯が、実は天然温泉を使用しているのです。

メタケイ酸、フェロ、フェリイオンの天然温泉で、源泉温度が低いため、掛け流しはサウナ横の水風呂として存在しています。
沸かした湯ももちろんありますが、残念ながら湯船は小さく、普通のお湯の浴槽の付けたしのような印象です。

それでもストレス解消にも効果的だといううたい文句は嘘ではなく、狭いながらもリラックスできるのがうれしいです。
男湯にはテラスもあって、夏の湯上りには最適な空間といえます。

骨伝導ヘッドセットとともに身近な温泉に浸かり、現在行われている「7周年キャンペーン」の激務に耐えられるようにしていきました。

骨で聴く.comが開店7周年を迎え、「全額返金保証」を実施する製品が揃いました。使ってみて「聞こえなかったら」、「満足できなかったら」返品できるというものです。使ってみないとなかなか良さが分からない骨伝導製品だけに、画期的なキャンペーンといえます。
さらに割引も実施していますから、この時期を見逃す手はないでしょう。

     → 米軍採用の骨伝導製品が全額返金保証キャンペーン

年末年始に家族が集まる時期、聞こえの悩みを解消する骨伝導製品を使用し、身近な温泉を堪能するのも良いでしょう。


堀之内熊野神社を骨で聴く

2013-10-10 12:26:12 | 骨で聴く癒しの世界
米軍で採用され、世界的な特許技術に裏打ちされた骨伝導スピーカーの製造メーカーがあるテムコジャパンは、東京の杉並区にあります。地下鉄丸の内線の支線の終点・方南町です。
この街はビジネス街ではなく、庶民的な住宅街といえます。

そんな街の周辺には古代からの住居跡があり、遺跡も数多くあります。
遺跡は現代の街に変貌したものもありますが、神社の境内や公園にその名残がある場所もあります。代表的なもので、以前にとりあげたものを列挙すると、、、、

     → 釜寺東遺跡を骨で聴く
     → 方南峰遺跡を骨で聴く

どちらも方南通りや環七から近い位置にあります。
また、方南町かた永福方向へ行った先にある大宮八幡宮では、旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡が発掘されています。

     → 大宮八幡宮を骨で聴く

その大宮八幡宮から善福寺川を渡り、方南町の北側に向かうと杉並区堀ノ内という住所になります。その一角にやはり境内に縄文遺跡があり、西側には後期古墳時代の遺跡のある神社があります。

堀之内熊野神社です。 東京都杉並区堀之内2-6-6 

旧堀之内村の鎮守で、大屋津姫命、五十猛神、抓津姫命の三柱が祀られています。
歴史も古く、社伝によれば文永4年(1267年)に、熊野三山を勧請したのにはじまったといわれます。
室町時代には北条氏綱が江戸を攻略した際に社殿を修築し、江戸時代の寛永11年(1634年)には修繕を加えたと伝えられています。



総欅造りの社殿は精巧かつ豪華なことで有名で、杉並区では随一の評があるほどです。
桧造りの幣殿は大正12年の造営で、旧幣殿は現在の神楽殿に改修しています。
周囲は大型マンションをはじめ、完全な住宅街になっていますが、境内は広く、かなり落ち着いた雰囲気を持つ場所です。

遺跡があることかたも分かるように、古代から人が定着できる環境だったこと、また古墳があることから聖域も併せ持ってきたことが、この神社の独特の雰囲気を醸し出しているのかもしれません。
それほどお勧めできる神社です。

特許技術の骨伝導メーカー・テムコジャパンからも近いことを踏まえて、この雰囲気を耳だけでなく、骨から脳へと伝える骨伝導スピーカーでも聴いてみるのがベストです。

     → 特許技術の骨伝導製品

秋というのに気温が上昇する日々が続いています。
それでも落ち葉が徐々に増えているのも事実です。
そんな秋の堀之内熊野神社の境内に立ち、古代から続く聖なる音声を聞いてみるのも癒し効果が得られるのではないでしょうか。

名水「水眼」を骨で聴く

2013-09-25 11:28:12 | 骨で聴く癒しの世界
時々取り上げる名水を骨で聴くことは、様々な水の音が耳だけでなく骨から脳へと伝わることにより、癒し効果と心の潤いを与えてくれます。

今回は名水「水眼」です。

諏訪大社上社の前宮の御柱脇を流れる清流です。

     ⇒ 諏訪大社上社前宮を骨で聴く

前宮からは直線距離にして約1km程度に水源があり、そこから斜面に沿って一気に下ってきます。
前宮を訪れると、必然的にこの流れを眼にすることになります。その流れが発する音は、せせらぎの音ではありません。やや雄々しい瀬音です。

静寂な諏訪大社上社前宮に響く瀬音は、静謐な空間に一種の神々しさを伴う音を運んでくるようです。
骨伝導機器を使って、この音を骨から脳へと伝えることで、脳波が微妙に変化してくるような感じを覚えます。実に清清しい気分です。

     ⇒ 骨伝導と脳波について

宮地直一著『諏訪史 第二巻前編』の補注にある一文を引用させてもらうと、この水は「昭和四年八月十四日の調査によると水量 毎秒約1.5屯 水温(摂氏)10.7 水素イオン濃度 7.1を示し、水質中性に近く極めて良好である。而してその湧出量も、温度も、恐らく年中不変であろうと考えらるる」となっています。
古いデータをもとにしたものなので、現在では変化していることもありえますが、「年中不変」であることに、諏訪大社が連綿と続く古代からの神秘性も繋がっているような気もします。

諏訪大社というと上社では本宮がどうしても観光スポットになっていますが、前宮にも足を運んで、この水の音を「聴く」ことをお勧めします。

     ⇒ 諏訪大社上社本宮を骨で聴く

諏訪大社は上社しか参拝したことがなかったので、次に下社にも行ってみます。

銭形平次の碑を骨で聴く

2013-09-24 10:32:14 | 骨で聴く癒しの世界
野村胡堂の小説『銭形平次捕物控』は、小説だけでなく、映画やテレビの時代劇でも有名です。ここに登場する銭形平次は、神田明神下に住む岡っ引です。子分が八五郎、通称・ガラッ八で、「投げ銭」を駆使して活躍しています。

捕物帳としては、岡本綺堂『半七捕物帳』と並んで最も有名といえます。

当然ながら平次は小説の中の架空の人物ですが、神田明神の境内に銭形平次の碑が建立されています。まるで実在の人物の扱いで、なかなか興味深いものです。

神田明神は何度か訪れたことがありますが、境内の右手にある銭形平次の碑はよく知らなかったので、改めて境内に足を踏み入れることにしました。もちろん米軍採用で特許技術の骨伝導ヘッドセットと一緒です。

     ⇒ 神田明神を骨で聴く

平次は神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住んでいたという設定です。そのため神田明神界隈が小説の舞台になっていましたから、ここに碑があるのはむしろ自然なことといえます。
昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立しました。
ちなみに隣には子分・がらっ八の小さな碑もあります。

神田明神は高台になっていて、この碑が向いている先は明神下を見守る場所になります。

お祭りや結婚式がなければ喧騒はここまで届くことはなく、静かに見物できる場所といえます。最先端の骨伝導機器もここでは騒音対策ではなく、小説や映画、テレビの世界を思い浮かべ、癒し効果に一役かっている感じです。

     ⇒ 世界最先端の骨伝導機器

架空の世界とはいえ、江戸のヒーローがここで活躍していたのかと想像するのも悪くありません。

ぐんまフラワーパークを骨で聴く

2013-09-10 11:20:13 | 骨で聴く癒しの世界
阿比留文字で印刻された神代文字とともに強烈なパワースポットで知られる赤城神社には、以前に骨伝導ヘッドセットとともに訪れました。

     ⇒ 三夜沢赤城神社を骨で聴く

日本語誕生以前の古代文字に彩られた復古神道の遺物がある聖域ですが、そこから山を降り、赤城山の裾野に広がる癒し空間があるので、今回訪れてみました。

年間を通じて花が咲いている「ぐんまフラワーパーク」です。
総面積18.4ヘクタールという広大な敷地に、フラトピア大花壇(約6000m²)や、温室エリア、庭園エリア、ガーデンエリア、キッズエリアまどがあります。
シンボルになっているのが、高さ18メートルのパークタワーで、ここから前橋市内方面が遠望できます。

年7回も花まつりが行われ、この時期(7/6~10/31)はダリアまつりです。
約400種1500株のダリアが咲き誇っています。夏から秋の暑い盛りに美しい大輪の花を咲かせるダリアは、改めて鑑賞するとそれなりの味わいがあります。

赤城山南側の斜面に広がるフラワーパークは、標高がそれほど高くないので、暑さはまだまだありますが、時より吹く風が何とも心地よく感じます。花の持つ生命力と儚さを感じ、しばし日常から離れた空間を堪能できます。

骨伝導ヘッドセットにより耳だけでなく骨から脳へと伝える音が、この空間をより快適に演出してくれているようです。さすが米軍で採用された特許技術の骨伝導製品です。

      ⇒ 米軍採用・特許技術の骨伝導製品

赤城神社への参拝だけでなく、ここにも立ち寄ることをお勧めできます。四季折々の花々に接するためには、また別の季節に来てみようとも思い、癒された状態で帰路につくのでした。

安房崎灯台を骨で聴く

2013-08-21 12:08:03 | 骨で聴く癒しの世界
昨年の夏に続いて三浦半島から城ヶ島に渡りました。

島の西端、長津呂崎にある城ヶ島灯台は昨年の雨の被害が多い時期に訪れました。今年は正反対の方向、東端に位置する安房崎灯台へと向かいました。やはり雨の被害が多いというニュースに溢れる時期での訪問となりました。

     ⇒ 城ヶ島灯台を骨で聴く

安房埼灯台は白亜円形の小型灯台です。
安房崎という地名も変わっていて、相模湾から浦賀水道、房総半島、つまり安房の国を望む地ということで名づけられたといわれます。ここはまさに風光明媚の地です。

周辺はゴツゴツした岩礁が発達し、夏の時期は磯遊びを楽しむ家族連れで賑わっています。カニや小魚を取ったり、タイドプール(潮溜まり)も多いことから、その中での泳いだえいすることも可能です。

この灯台の歴史は江戸時代の1646年(慶安元)にまで遡ります。
しかし、1676年(延宝6)には、安房崎灯台に代わり、島の西端の長津呂崎に灯明台を移すことになりました。城ヶ島灯台の前身で、1870年(明治3年)に城ヶ島灯台が建設されました。

戦後になり、改めて1962年(昭和37年)に安房崎灯台として設置され、初点灯したという歴史があります。

本当に小さな灯台で、三浦半島ではやはり昨年訪れた観音崎灯台とは比べようがないほどの規模です。それでも存在感はあり、むしろ小さいからこそこの風光明媚な景色に溶け込んでいるのかもしれません。

     ⇒ 観音崎灯台を骨で聴く

この時期は天候が急変することから、海へ行くのは注意が必要となっています。
携帯電話を片手にというのも磯遊びには適していないでしょうから、ハンズフリーで自動着信の骨伝導ヘッドセットHG40SAN-TBTが最適です。
耳もふさがずBluetooth(ブルートゥース)接続なので、余計なコードもありません。

海での情報に携帯電話を利用する際は、骨伝導ヘッドセットはお勧めです。

     ⇒ 耳をふさがないBluetooth接続の骨伝導ヘッドセット

小さな灯台とともに大きな夢を抱きつつ、日常のストレスを軽減できれば最高です。

神田川・善福寺川合流地点を骨で聴く

2013-06-03 09:42:59 | 骨で聴く癒しの世界

 米軍に採用された特許技術の骨伝導機器を製造するメーカー・テムコジャパンは東京の杉並区方南町にあります。あまりこの種の企業がある地域ではなく、典型的な住宅街という立地です。

 地下鉄丸ノ内線は中野坂上から支線が出ていて、その終点が方南町です。環七通りに面していて、地下鉄の駅の上は方南通りになります。この道路を挟んで南北に下りの傾斜があり、降りきった場所にそれぞれ川が流れています。

 北側に善福寺川、南側に神田川です。

 その合流地点へ骨伝導機器とともに向かいました。都会の川なので、それほど迫力があるわけではなく、感動的な出会いがあるわけでもありません。それでも東京を代表する川が合流するので、何となく意味を見出してしまいたくなります。

 神田川と善福寺川の合流地点は、昭和初期から段階的に行われた区画整理事業によって現在の姿になったものです。昭和16年に中野土地区画整理組合、和田堀町第二土地区画整理組合が相次いで発足し、合流地点以降の神田川と善福寺川の改修がなされたことによります。

 改修により神田川の流路が本来のものより左岸段丘寄りになりました。そのため、合流地点が現在の場所になったわけですが、これは本来の位置からすると100メートル近く上流移ったことになります。

 現在では本来の位置と現在の位置との間に、中野富士見町駅から中野車両基地への引き込み線があります。

 そんな都会の川の合流地点に行き、しかも骨伝導の特許保有メーカーのお膝元ということで、耳だけでなく骨からも川の音を聴いてみます。しかし静かな流れに音はほとんどなく、住宅街の日常の音だけが入ってきます。でも、これはこれで悪い感じはしません。

          ⇒ 世界的特許保有の骨伝導製品

 テムコジャパンへ骨伝導体験に来られた方は、ぜひここまで足を伸ばしてみたらいかがでしょうか。

河口慧海終焉の地を骨で聴く

2013-05-15 12:38:37 | 骨で聴く癒しの世界

 僧侶であり探検家でもあった河口慧海は、明治の時代に日本人としては初めてチベットを訪れた稀有な存在でした。

 1897年(明治30年)にシンガポール経由で英領インドカルカッタへ入り、チベット語をマスターしました。その後、1899年(明治32年)、ネパールの首府カトマンズに到着、続いてポカラやムクテナートを経て、徐々にチベットへと進んでいましたが、警備が厳しく国境近くで進めなくなりました。

 その地の村でチベット仏教や修辞学を習得したのち、1900年(明治33年)7月4日、ネパール領トルボ地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を越え、ついにチベットへと入ることができました。

 翌年にはチベットの首府ラサに到達し、セラ寺の大学にチベット人僧として入学を許されることになりました。支那人と偽っての入国でしたが、大学への入学はチベット人と騙ってのものでした。
 
 その後、セライ・アムチー(セラの医者)といわれるような有名人になっていきました。その結果、ついに法王ダライ・ラマ13世に召喚されるようになり、侍従医長から侍従医にも推薦されたようです。
 しかし、河口慧海は仏道修行こそが本分であるとして、この推薦を断っています。

 1902年(明治35年)になると、チベット人でないという疑惑も現れたことから、ラサ脱出を計画し、インドのダージリンまでたどり着くことになりました。

 日本への帰国はおよそ6年ぶりでした。
 この記録こそ、日本人として史上初のチベット紀行となりました。
 
 河口慧海が再びチベットへ行っていたのは1913年(大正2年)~1915年(大正4年)の間でした。このときにチベット語仏典を蒐集することに成功し、民俗関係の資料や植物標本なども収集してきました。
 これらの大量の民俗資料や植物標本は、そのほとんどが東北大学大学院文学研究科によって管理されているそうです。

 帰国後の河口慧海は、1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行しました。これは一大センセーションを巻き起こしたほどでした。また、大正大学の教授にも就任し、チベット語の研究に対しても多大な貢献をしました。

 太平洋戦争が終結を迎える半年前に、脳溢血を起こし、東京世田谷の自宅で死去しました。晩年を過ごし、終焉の地となった世田谷の自宅跡は、現在の住居表示では世田谷区代田2-14になり、「子どもの遊び場」となっています。小さな公園で、その片隅に終焉の地の顕彰碑が設置されています。

 静かな住宅街に立ち、はるか遠いチベットに思いを馳せながら骨伝導ヘッドセットを装着してみます。周囲の音声が耳だけでなく骨からも聞こえてきますが、その音は日常的、あまりに日常的なものです。
 ある意味で河口慧海の偉大さを感じながらチベットへと夢想する「心」に、気道音では届かいない骨伝導が語りかけていることは、現代の日常の一部としての癒しなのかもしれません。

          ⇒ 耳をふさがない骨伝導機器

 終焉の地の顕彰碑は、本当に目立たない場所にあり、住宅街の中でしかも袋小路の先にある遊び場に入り、さらにその奥にまで行かないとたどり着きません。河口慧海がチベットへと入った苦労には遠く及ばないことですが、この牌を見つけつる苦労くらいは共有できたらとおもいます。