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骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

徳船稲荷神社と南高橋を骨で聴く

2015-12-02 13:55:37 | 骨で聴く巡礼旅
東京の中央区新川2丁目、西岸は中央区湊1丁目の間を流れる亀島川にかかる橋が南高橋です。
中央区道第416号線で通称「桜通り」にある橋で、すぐ南側に亀島川水門が隣接しています。名前の由来は単純で、上流側にある高橋の南にあるということだそうです。

橋として貴重である点というのは、全国でも6番目に古い鋼鉄トラス橋である点でしょう。中央区民有形文化財に指定されているほどです。
東京都内でいえば、鋼鉄トラス橋としては、江東区の八幡橋(旧弾正橋)に次ぐ2番目の古さになります。



この南高橋の左岸側、新川2丁目側の橋詰で、新日鐵のビルの入り口の脇に、徳船稲荷神社が鎮座しています。
見るからに新しく、小さな神社です。

もともとは隅田川河畔にあったものを、少し先の中央大橋の架橋工事の際に現在地に移転したといいます。
現在のスタイルになったのは平成3年からのようですが、神社としての歴史はあります。

徳川の時代、現在の中央区新川は、越前松平家の下屋敷が三方堀割に囲われ、広大に構えていました。
その中に小さな稲荷が祀られていたといわれています。その稲荷社の御神体が徳川家の遊船と舳を切って彫られたものと伝えられています。

明暦3年、江戸に大きな事件が起こります。即にいう振袖火事です。
その被害はこの地にも及びましたが、御神体はあわや類焼の寸前難を免れることになりました。
大正11年に至るまで恵比須稲荷に安置され、関東大震災の際にもは再度救出されました。



そして昭和6年、隅田川畔(現在の中央大橋北詰辺り)に社を復活することになり、町の守護神として鎮座しました。
しかし太平洋戦争の被害で全焼してしまいました。
昭和29年には中央大橋架橋工事が行われ、その際に現在地に遷座となりました。

とても小さな神社ですが、南高橋とともに大きな存在感を持っています。
桜通りは極端に交通量が多い道路ではないので、都会の騒音に悩まされることなく、この神社周辺を散策することができます。
騒音対策としての骨伝導ヘッドセットの活用ではなく、周囲の音声を耳だけでなく骨で聴く活用として骨伝導を使うのに適しています。

12月に入り、世間は慌しくなります。
それでも骨で聴く.comは9周年記念キャンペーンを実施しています。この年末にこそ、骨伝導による異世界を垣間見てはいかがでしょうか。送料無料です。

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妙正寺を骨で聴く

2015-11-24 16:28:55 | 骨で聴く巡礼旅
妙正寺は東京都杉並区清水にある日蓮宗の寺院で、山号は法光山です。
環状八号線と早稲田通りに囲まれた住宅街にあります。すぐ北側には妙正寺公園があります。

この公園には妙正寺川の水源にもなっている妙正寺池があります。公園らしい遊具や広場がありますが、何といっても池の存在感が大きく、周辺住民の憩いの場になっています。また、園内で妙正寺川に支流の井草川が合流しているのですが、残念ながら現在は井草川は暗渠です。



妙正寺池は古くから武蔵野台地の湧水池のひとつでした。
妙正寺は1352年にこの池のほとりに建てられました。しかし池や川の名はあとから建立された寺院の名に因んでいます。
ちなみに妙正寺の弁才天はかつては、妙正寺池のほとりにあったものでしたが、付近の宅地化が進んだことで、公園として整備されてきました。

残念なことに妙正寺池の湧水は現在は減少してしまい、池の水は人工的に揚水しているものだそうです。

さて、寺院のほうですが、中山法華経寺第3世・日祐上人が堂を建てたことから誕生しました。
日蓮宗ですから、法華経の守護である天照大神・八幡大神・春日大社など三十番神を勧進し、奉ることになりました。



正保3年(1646年)に社殿を再建し、その3年後、慶安2年(1649年)には徳川3代将軍・徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄りました。
これをきっかけにして、葵の紋幕と朱印地・五石を賜り御朱印寺になったことで、江戸でも有名な寺院の一つになりました。

天保元年(1830年)には本堂が焼失したものの、天保3年(1832年)には再建しています。
大きな改築は昭和に入ってからで、昭和6年(1931年)です。これが現在に至っています。

本堂の裏手には稲荷神社も鎮座しています。



杉並区の閑静な住宅街のせいか、境内は静寂です。
とても気持ちよい空間が広がっている感じがします。決して大きな寺院ではありませんが、適度な規模と清々しい空間に包まれて、日常の中の非日常気分を味わうことができます。



もうすぐ慌しい師走です。
その前に、都会にありながら静寂に包まれた古刹を訪れてみるものも良いのではないでしょうか。

米軍採用・特許技術を誇る「骨で聴く.com」で扱う骨伝導機器も、9周年記念キャンペーンで盛り上がっています。
その裏側で、杉並区、いわば特許技術のお膝元の杉並区の妙正寺を堪能しています。

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芝東照宮を骨で聴く

2015-11-18 15:28:06 | 骨で聴く巡礼旅
日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つが東京タワーの近くにある芝東照宮です。

東京の中心部に位置し、芝公園の一角に鎮座しています。
もともとは増上寺内の社殿だったようです。

東京の港区でパワースポットというと、東京タワーと増上寺が挙げられますが、その二つに囲まれた場所に鎮座する東照宮も知る人ぞ知るスポットだそうです。
ただ場所はそれほど分かりやすい場所ではなく、規模も決して大きくありません。
増上寺から日比谷通りを三田方面へ少し歩いたところにあり、地下鉄の芝公園駅からも近いのですが、どちらかというと古墳後を公園にした芝公園のほうが都会のオアシス的で、どちらかというと東照宮は地味な印象です。

しかし祭神が徳川家康で、東京の前身である江戸を築いたことを考えると、確かにパワーが漲っていても不思議ではないのかもしれません。

慶長6年(1601年)に還暦を迎えた家康は記念に自らの像を刻ませた「寿像」を駿府城に祭祀していましたが、元和2年(1616年)の家康死去に際し、「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言しました。
同年着工、翌元和3年(1617年)竣工した社殿に、家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれるようになりました。これが芝東照宮の起源です。

江戸幕府3代将軍・家光は寛永10年(1633年)に新社殿を造営し、旧社殿は開山堂となりました。社殿として整ってきたのは、寛永18年(1641年)の移転改築のときで、駿府城から移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営されることになりました。これで豪奢な社殿が整ったことになります。

明治時代の神仏分離令は東照宮にも及び、増上寺から切り離されることになりました。これが現在の芝東照宮で、明治6年(1873年)には郷社に列しました。



本殿は大正4年(1915年)に特別保護建造物に指定されました。現在の重要文化財に相当します。
しかし、昭和20年(1945年)の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失してしまいました。

現在の社殿は昭和44年(1969年)に再建されたものです。

オフィス街に隣接するロケーションでありながら、境内の自然は気持ちよい空気に包まれています。参道が駐車場になっているのは都会の神社のご愛嬌として、石段を登った先の右手には樹齢350年を超す神木の大イチョウがあり、なかなかの迫力です。徳川家光が植樹したと伝えられており東京都の天然記念物に指定されています。

やはり都会の神社には騒音と隣り合わせです。
骨伝導ヘッドセットの出番になります。9周年記念も実施していますから、耳を塞がない世界最先端技術の骨伝導ヘッドホンや骨伝導イヤーマイクなど、この機会に手に入れ、都会の聖域で堪能してみるのも良いかもしれません。
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東照宮というと、実は群馬県太田市に鎮座するものが日光より簡素で好きなのですが、改めて芝に参拝すると、ここはここで荘厳な感じがして好きになりました。ちなみに太田市の東照宮は徳川家が源氏の新田氏の一族で、その地元に鎮座しています。


三穂道別稲荷神社を骨で聴く

2015-10-08 11:35:51 | 骨で聴く巡礼旅
三穂道別稲荷神社といっても、おそらく地元でも一部の人しか知らないかもしれません。
それほど小さな神社で、しかも路地裏のような場所に鎮座しています。

都会の下町にひっそりと、目立たない状態で鎮座しているとはいえ、由緒は「御府内寺社備考」に「深川海辺大工町裏町 満穂稲荷社 境内除地四十八坪持添 町並御年貢地五十六坪 当社者慶長元申年(1596年)起立之由」と書かれているほどの古社です。
ただ実際には慶長18年(1613年)や、寛永7年(1630年)の説もあるようです。
「葛西志」には「里人の伝に、古は社地わずかに三坪あり、世に三坪の稲荷といへり」とも書かれています。

鎮座する場所は現在の東京都江東区で、小名木川の南岸になります。江戸時代から埋め立てられた土地であるといわれています。



かつては泉養寺(現在の千葉県市川市国府台)の管理であったようです。泉養寺は、深川の開拓者・深川八郎右衛門一族の菩提寺です。
この当時から社地が三坪だったので、三坪稲荷と呼ばれていたようですが、それが満穂となり、さらに三穂に変化したようです。

さらにこの神社とは別の道別稲荷は、創立が長禄年間(1457年-1459年)と伝えられているようで、昭和40年に隣り合わせにあった道別稲荷を合祀したとのことです。それでこの長い神社名になったわけです。

隣は空き地になっていますが、狭い境内はきれいになっていて、とても気持ちの良い空間です。
路地裏と空き地ときれいで狭い境内、この何ともいえないバランスが三穂道別稲荷神社の魅力です。

こんな空間を骨で聴きます。
耳だけではなく、骨からも周囲の音声を聴くと、下町らしい雰囲気がよく伝わってきます。
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都会の片隅で小さな神社にめぐり合ったとき、そこに世界最先端技術の骨伝導が光ります。

大井蔵王権現神社を骨で聴く

2015-10-06 11:59:22 | 骨で聴く巡礼旅
JR京浜東北線、東急大井町線、りんかい線の大井町駅の繁華街から程近い場所に鎮座する大井蔵王権現神社です。
いつものように世界最先端の骨伝導ヘッドセットとともに参拝に行きました。

荏原七福神の福禄寿が祀られています。

都会らしい小さな神社ですが、親しまれているには由来があります。
江戸時代、江戸の町に火事や疫病が流行っていました。しかしこの地域は災害には無縁でした。
これは、大井村の権現神社の天狗のおかげで無事だったのだということを信じ、人々は天狗に感謝しました。

創建年代は不詳ですが、大井光福寺の縁起によると、鳥羽院の皇胤信光の嫡男・頭中将光政が東国に配流になった際、子息のないことを歎いて蔵王権現に誓願したところ、一子を授かったことから、蔵王権現を創建したとあります。この蔵王権現神社がおそらく相当すると推測されています。

毎年8月下旬の土・日に大井町駅前で行われる大井どんたく祭りで披露される「大井権現太鼓」もこの神社由来です。
天狗伝説と激しい太鼓の音、この組み合わせには骨伝導ヘッドセットがよくあいます。
耳を塞がずに骨で音声を聴く最先端技術を堪能できるだけでなく、騒音の中での通話にも貢献します。

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ちなみに、現在のJR大井工場のあたりは権現台といいましたが、これは蔵王権現が祀られてた権現台に続く場所であったことに由来するそうです。

霊巌寺・松平定信の墓を骨で聴く

2015-09-30 10:59:23 | 骨で聴く巡礼旅
江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫で、寛政の改革で有名な松平定信の墓は、山号は道本山、院号は東海院の霊巌寺にあります。江東区にある浄土宗の寺院です。

霊巌寺の最寄り駅は地下鉄の清澄白河駅です。地名も「白河」ですが、これは松平定信が陸奥白河藩の第3代藩主だったことに由来するのだそうです。




下町らしい商店街の一角にあり、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されています。

江戸時代の創建で、寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人により開山されました。当時は日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島に創建されました。後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなりました。
現在地への移転は、万治元年(1658年)で、徳川幕府の都市改造計画の一環によるものでした。



松平定信の墓は、本堂の横にあります。ひっそりとしていてなかなかの雰囲気が漂います。



やはり松平定信のといえば、寛政の改革です。
松平定信の前任者は田沼意次で、重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治でした。
寛政の改革では、田沼の政策の反動ともいえる厳しい倹約政策を行い、腐敗した役人の賄賂を排除、さらに旗本への学問吟味政策などを行いました。
この改革は一応の成果をあげることに成功しました。



しかし、その厳しさゆえに、老中就任当初から大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄されたほどでした。
批判は幕府内に留まらなかったようで、様々な方面から続出したことで、わずか6年で老中を失脚することになりました。

失脚後は白河藩の藩政に専念し、藩財政を潤わるほどの腕を見せました。

そんな松平定信の墓のある霊巌寺にて、周囲の音声を骨で聴きます。
耳だけでなく骨からも音声を脳へ届けます。

骨伝導の最先端技術科から江戸の改革政策を考えるのも興味深いものです。現代の政治との比較もおもしろいかもしれません。

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金王八幡宮を骨で聴く

2015-09-11 15:13:07 | 骨で聴く巡礼旅
豪雨による被害が関東地方で発生した翌日、久しぶりに太陽が輝きました。

変貌激しい東京の渋谷でも、ここ最近の暗い表情に明るい日差しが包まれました。
渋谷警察署の裏手、六本木通りから少し入った場所に鎮座する金王八幡宮にも、太陽の光が届きました。

いつものように米軍採用・特許技術を誇る骨伝導機器とともに参拝に訪れました。

歴史は古く、堀河天皇の御代で寛治6年(1092年)から鎮座したといいます。
桓武天皇の曽孫・高望王の後裔で秩父別当武基は、平忠常の乱を平定したことで、軍用八旒の旗を賜りました。

武基の子・武綱は、嫡子・重家とともに後三年の役の源義家の軍を従え、大功により名を河崎土佐守基家と賜りました。
信奉する八幡神の加護なりと、武蔵谷盛庄に八幡宮を勧請しました。

重家の代となり、堀河天皇より渋谷の姓を賜りました。
このときの築城こそが、八幡宮を中心にしたもので、渋谷氏は代々この八幡宮を氏族の鎮守と崇めてきました。

名残として、現在でも境内に渋谷城砦の石が保存されています。



渋谷氏は、現在の都内では高級なイメージを持つ地域を領していました。
渋谷から青山、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木などがそうで、代々木までも含んでいました。



渋谷の街は、再開発で工事の音が周囲のビルに響いています。
人の喧騒も激しい街です。

携帯電話を使う場合でも通話相手の声が良く聞こえないこともあります。
まさに米軍で採用された骨伝導ヘッドセットが大いに活かされる街です。そんな街にある金王八幡宮は、貴重な癒し空間といえるかもしれません。

亀戸天神社を骨で聴く

2015-09-08 17:18:56 | 骨で聴く巡礼旅
太宰府天満宮に対し東の宰府として「東宰府天満宮」と呼ばれたり、「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」などとも称された亀戸天神社へ、激しい雨にも関わらず参拝に行きました。骨伝導巡礼として、何とも久しぶりの投稿になりました。

亀戸では弟橘姫の伝説に彩られた亀戸浅間神社(亀戸浅間神社を骨で聴く)や、亀戸水神駅(亀戸水神駅を骨で聴く)で訪れて以来です。



「東宰府天満宮」と呼ばれていただけあって、都内の神社としては格式を感じさせます。
歴史も古く、1661年(寛文元年)に、菅原道真の末裔で太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐が江戸の本所亀戸村に来たとき、この地にあった天神の小祠に天神像を奉祀したのが始まりとされています。その天神像は、道真ゆかりの飛梅で彫ったもので、菅原大鳥居信祐はこれを持って、天神信仰を広めるために諸国を巡り、社殿建立の志を持っていたといわれます。

明暦の大火からの復興開発事業の地として本所の町が定められたことから、4代将軍・徳川家綱はその鎮守神として現在の社地を寄進したこことで、現在の亀戸天神の基盤ができました。





特筆すべきは1662年(寛文2年)に、地形・社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋など、九州の太宰天満宮に倣い造営されたことです。
特に赤い太鼓橋は、男橋・女橋とも圧倒的な存在感で、三世一念の理として人の一生を見事にあらわしているといえます。

雨滴が目の前の光景を邪魔するものの、参拝者の少ない境内は何ともいえない神秘性を醸し出しているようです。
雨が奏でる音もノイズではなく、一定のリズムを刻みながらこの聖なる空間を演習しているようです。

こんなとき、耳だけでなく骨でも聴きます。
折りしも昇殿参拝があったようで、かすかに祝詞も聞こえてきます。

米軍採用・特許技術の最先端・骨伝導音声増幅器もこの空間に溶け込んでいます。 骨で聴く.com

諸口神社を骨で聴く

2015-04-14 10:56:54 | 骨で聴く巡礼旅
西伊豆の旧戸田村。
現在は合併により沼津市になったものの、やはりここは何度も訪れても独特の雰囲気が漂う「戸田村」です。

タカアシガニや深海魚が水揚げされる戸田港を外海から守るように突き出ているのが御浜岬です。
この御浜岬に鎮座するのが諸口神社です。

米軍採用・特許技術を誇る最先端の骨伝導機器とともに参拝に行きました。
耳を使わないことから鼓膜に損傷がある方でも「聞く」ことが出来たり、米軍の爆音下という過酷な騒音でも「聞く」ことが出来る骨伝導機器ですが、こんなのどかな岬に鎮座する神社への参拝にも実は最適な製品です。

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晴れていれば、戸田港から望むと港開口部の正面に富士山が見えます。赤い鳥居と富士山とのコントラストは見事ですが、訪れたのは雨の日で、残念ながら富士山とのコントラストは望めませんでした。

御浜岬の突端部分は森になっていて、その中に諸口神社は鎮座しています。参道から赤い鳥居までは一直線で、その先は海です。この鳥居の位置と、社殿の向きから考えられるのは、表参道は海に向かっているといえます。本来の参拝は海から神社の神域へ入るのかもしれません。

実際には岬の中に車道があり、「造船郷土資料博物館」のすぐ裏手が社殿になっているので、境内の裏側から参拝に向かうことになります。



諸口神社の「諸口」は「もろき」とも呼ぶそうで、「伊豆国神階帳」に「従四位上 もろき姫の明神」とありますから由緒正しい古社といえますが、創祀年代は不詳とのことです。
もろき姫明神ということから、女神であると考えられ、御祭神は弟橘姫命となっていますが、大己貴命説、国玉命説もあるようです。

式内社・國玉命神社の論社といわれますが、延喜式神名帳伊豆国那賀郡には、國玉命神社が二社記載されているため、どちらの國玉命神社であるかは分かっていません。




現在の社殿は昭和28年に改築されたもので、岬の突端に向かって堂々たる存在感を示しています。
こんな神社の境内では海風も少し弱まり、逆に静寂を包み込むような心地よい風を感じ、耳だけでなく骨からの周囲の音を聞くのが一番です。


あづま稲荷神社を骨で聴く

2015-03-25 15:21:41 | 骨で聴く巡礼旅
東京の地下鉄銀座駅すぐ近く、戦後からメインストリートとして発展したあづま通り・三原小路があります。
この通りに火災が続発したといいます。

なぜ、この通りだけに火災が続発するのか?

町内の人たちは不思議に思い、調査をすることになりました。

その結果、この街の一角にお稲荷さんが祀られていたことが判明しました。
もしかしたら失われた稲荷社が火事の原因では?

そこで町内一同相談の上、京都伏見稲荷大明神講中をつくり、あづま稲荷大明神と命名しました。
京都伏見稲荷大社で御霊を頂き氏神様である山王日枝神社に御祈祷を願い、三原小路の方々の御芳志により現在地にあづま稲荷神社が鎮座することになり、盛大にお祀りをしたそうです。

すると、以後は全く火事にあわなくなったといいます。大都会の銀座、しかもその中心地に霊験あらたかな神社があることかが新鮮です。



喧騒の銀座は、外国人観光客もあふれています。
むしろ現在では日本人の姿のほうが少ないくらいかもしれません。

大声で会話する観光客、トラックや営業車の重いディーゼル音などが混ざり、都会の雑踏の喧騒は、耳だけで聞くのに限界があります。
携帯電話の着信があって、相手と通話しようとしても、騒音に邪魔されて相手の声が聞き取れないことがよくあります。

そんなときは、耳を使わずに骨で聴くのが一番です。
そう、骨伝導です。

しかし、骨伝導機器なら何でも良いというのは誤りです。
米軍で爆音の中でも通話を可能にした性能がベストです。特許技術です。

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銀座のあづま稲荷神社には米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットがよく似合います。

亀戸浅間神社を骨で聴く

2015-03-12 15:39:03 | 骨で聴く巡礼旅
日本武尊と弟橘媛の伝説に彩られたパワースポット・走水神社は大好きな神社のひとつですが、その伝説の続きに関連する神社として、亀戸浅間神社は外せません。もちろん湯島の嬬恋神社もありますが、ここは色々な見所もあるのでわざわざ出かけても損しないでしょう。

 → 横須賀・走水神社を骨で聴く
 → 妻恋神社を骨で聴く

日本武尊が、相模から上総へ船で向うときの伝説です。
日本武尊は「こんな小さな海なら、駆けて跳び上がってでも渡れる」と大言壮語して海を渡りましたが、海の中程までくると突然暴風が起こり、日本武尊の船は漂って渡ることが出来なくなってしまいました。
その時、日本武尊に従っていた弟橘媛が「これは、日本武尊のお言葉に怒った海神の仕業だ」と言い、日本武尊の身代わりに自らの身を海に投じたことで暴風はやみました。弟橘媛の行動により、船は無事に上総側の岸に着くことができたという伝説です。

その舞台となったのが横須賀の走水神社です。

この伝説には続きがありました。
現在の東京湾に身を投げた弟橘姫の笄(こうがい)と櫛(くし)が奥湾に漂着したといいます。

笄は現在の江東区亀戸9丁目(旧神社跡)付近に漂着したようです。当時は高貝洲と呼ばれていた地域でした。

この話を聞いた第12代・景行天皇は大層愁いて、ここに笄を埋め、祠を立てて祀ったといいます。
以来、「当時の諸将が苦難の折に、この祠に参り祈願すると何事も必ず聞き届けられたとも伝えられています」



室町時代になると、富士信仰が盛んだったことから、甘露寺元長に勧請し、霊峰富士山の御守護神・木花咲耶比売を戴き、この笄塚の上に浅間社として創立することになりました。



太平洋戦争の東京大空襲も無事に切り抜け、都区内では稀少な木造建築の神社として鎮座しています。



笄塚として残る山は富士塚で、規模はそれほどではないですが、弟橘媛伝説のせいか、荘厳な雰囲気も感じます。
また、富士塚の手前で、参道奥に建てられている鳥居は八幡形鳥居(明神形)です。戦災で火をかぶっているため、黒く焦げたような状態になっているのが歴史を見てきた証人のようで貴重です。



境内の東南(社務所の脇石造鳥居の右脇)には、六ッ目地蔵小屋があります。
神道と仏教という、いかにも日本的な光景です。

こんな神社を骨で聴きます。耳だけでは聞こえない「何か」が骨から脳へと伝わるような感じがします。
走水神社のようなパワー漲る感じではなく、都会のオアシスのような、癒しの音声を感じます。

永代寺を骨で聴く

2014-12-26 10:27:01 | 骨で聴く巡礼旅
東京の門前仲町という地名の由来になっているのは、永代寺の門前ということです。
しかし今では門前仲町といえば、富岡八幡宮と深川不動がメジャーで、永代寺と聴いてすぐに分かる方は少数派といえるかもしれません。
そこで今回は、この永代寺に特許技術を駆使した最先端の骨伝導機器とともに立ち寄ることにしました。

永代寺の開山は、1624年(寛永元年)で、永代島に創建されました。
江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄え、この地域に中心的な寺院という位置づけでした。ところが明治の時代の神仏分離により廃寺となってしまったのです。
この永代寺の跡地は、現在では深川公園や深川不動堂などになっています。それを思うと、かなりの巨大な寺院であったことが想像できます。

興味深いのは廃寺をめぐるミステリーです。
廃寺により寺院は消滅し、建物は全て取り壊されたのですが、永代寺の住職はそのまま富岡八幡宮の宮司になったのです。
これは元来が永代寺住職が八幡宮のオーナー的立場だったことに由来するもので、廃寺の敷地についても、富岡八幡宮が多く引き継いでいることになっています。

永代寺は消滅しても、俗な表現で言えば、「損をしていない」ということになります。
さらに跡地活用で、現在の門前町の元になる再開発をしたことになります。
全国に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐を考えると、不思議な出来事・ミステリーに思えます。
単純に巨大寺院を消すことだけが目的だったとしか思えません。あるいは何かの取引でもあったのかと勘ぐりたくもなります。

では、現在は永代寺は存在しないのか、というと、実はその後、1896年(明治29年)に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたのです。
現在の永代寺は深川不動の手前に位置してひっそりと建っています。

ちなみに吉祥院の境内に、「出開帳」で人気を博した不動尊が、現在の「深川不動尊」です。
この経緯も興味深い感じがします。

現在のわれわれの感覚では、門前仲町といえば深川不動と富岡八幡宮のイメージが強いのですが、その成り立ちには大きな謎が潜んでいるのが興味深いところです。

さて、そんな永代寺ですが年末の慌しい光景とともに骨で聴きます。
耳だけでなく骨からも聴くことで、永代寺の歴史を感じることができす気がします。米軍採用・特許技術の骨伝導スピーカーの活用は、こんな都会の謎めいた寺院を参拝するのに大いに役立ちます。
しかも最先端の骨伝導機器が年末年始の大キャンペーン中というのだから、チェックしないのはそれこど損です。

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来年もまだまだ骨伝導のたびは続きます。

消防地蔵尊を骨で聴く

2014-12-24 12:44:33 | 骨で聴く巡礼旅
東京の銀座に隣接する新富町には、「消防地蔵尊」があります。
ローソンのすぐ横にあるので、何とも違和感を抱く方も多いことでしょうが、江戸時代から火事に敏感だった庶民には実に親しみのある地蔵尊ともいえます。

当然ながらこの地蔵尊の由来には火事が関係します。
1941年(昭和16年)2月13日の深夜に家具製作所から出火し火災は、強風に煽られたことにより7棟、170余坪(567平方メートル)を焼尽くすほどの惨事になりました。犠牲者も3人出ました。中でも痛ましかったのは、火災現場の猛火の中、逃げ遅れた女子従業員を救出に入った少年が含まれている点です。

そして翌年の4月に、火災現場跡地に京橋消防署新富出張所が設立されることになりました。
ここからが都市伝説的な要素が加わります。

この出張所から出勤した消防隊員に負傷者が続発しました。
さらに誰もいないはずの望楼にコツコツと登る音がする、
夜中に少女がさめざめと泣く声が聞こえる、
そんな噂が広まるようになったのです。



そこでついに、昭和28年に有志により、殉難者の鎮魂と地域の安全を祈願する「新富消防地蔵」が建立されたのです。
この消防地蔵尊建立後は、大きな災害もなくなりました。
平成の時代になってから京橋消防署の新富町出張所はなくなりましたが、消防地蔵尊はそのまま存続することになり、現在に至っています。

都会の街角の小さな小さな地蔵尊ですが、そんな由来があるのかと思うと、気づかずに通り過ぎてしまうのは失礼にあたります。
ついでに世界最先端の特許技術を駆使した骨伝導機器を使って、お参りとともに周囲の音声を聞いてみます。
耳だけでなく骨からも聴くことによって、より感慨深い気分を味わうことができます。

火事に気をつけなければならない季節です。
注意しましょう。

そして火の音も、耳だけでなく骨で聴くことをお勧めします。高齢者が一人でいる場合は特にそうです。

折りしも、米軍採用・特許技術の骨伝導製品だけを扱う「骨で聴く.com」が、この年末年始に8周年尾大胆なキャンペーンを実施しています。これはチャンスです。

    → 8周年記念・骨で聴く.com

火事とともに「聞こえ」も考えるいい機会になるでしょう。


伊豆見神社を骨で聴く

2014-10-28 12:10:40 | 骨で聴く巡礼旅
関東三大鳥居の二つ、日光東照宮、鎌倉鶴岡八幡宮は有名ですが、残りの一つはどこかというと、東京都狛江市の住宅街に鎮座する伊豆見神社です。武蔵国では最も古い石の鳥居で、知名度は低いですが、その荘厳な神域を誇ることでお勧めの神社です。
都内の神社としては参道は長く、約150mほどだと思います。これからの季節は落葉を踏みしめながら参拝するのが癒し効果を倍増させてくれそうです。

歴史のある神社で、約1100年前平安時代宇多天皇時「六所宮」として奉斎しました。
天文19年(1550年)に多摩川洪水の際、境内地が陥欠し、天文21年に現在地に遷座しました。
明治元年に伊豆美神社と改称し、明治4年に村社、16年に郷社へ昇格しました。

関東一円の主要神社をまとめて祀り、教科書教材の万葉歌碑を有します。狛江総鎮守で、商売繁盛、病気平癒の御祈祷が盛んに斎行されます。

伊豆美神社の二ノ鳥居は慶安4年(1651年)に石谷貞清が建立したものです。
この石谷貞清はこの地域である和泉の一部を領していた石谷清正の弟で、島原の乱や由比正雪の乱などに手柄があったことで知られます。
江戸町奉行を勤めた旗本でもありました。




小学校に隣接していますが、子供たちの声も、この神域に届くと何か別の奏でられた音声に思えます。
その音声を耳だけでなく骨でも聴きます。骨伝導の利用です。
米軍採用・特許技術の骨伝導により、歴史ある神社のBGMを聴くことで、内なるエネルギーが蘇ってくるようです。

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狛江の伊豆見神社はあなどれません。

銀座・安平神社を骨で聴く

2014-10-17 10:56:31 | 骨で聴く巡礼旅
日本を代表する繁華街である東京の銀座。
その銀座1丁目にハイクオリティの高級分譲マンション「銀座タワー」が聳え立っています。

しかしその裏手・南側に銀座とは思えない空間を持つ安平神社が鎮座しているのは、あまり知られていないかもしれません。
今回はそんな銀座の異空間を形成する安平神社へ、最先端の特許技術を誇る骨伝導ヘッドセットと参拝です。

都会の神社らしく敷地は決して広くなく、5~6m四方という程度でしょうか。コンパクトにまとまった印象があります。
しかし緑に囲まれた境内には、とても綺麗になっていて、銀座のビル街と喧騒から少し外れた場所に、赤い鳥居が緑の木々に映える光景は素直にうれしくなります。

ある雑誌には隠れたパワースポットだとも掲載されたそうで、ここで波動が伝わるという話らしいです。
でも骨伝導ヘッドセットと一緒に参拝にきたからには、波動より骨伝導です。
日本一の繁華街から少し外れた路地裏の静寂は、かすかに残る喧騒をBGMに耳だけでは聞こえない音声を骨伝導で聴きたいものです。

  ※ 米軍採用、最先端の特許技術を誇る骨伝導製品についてはこちら!

さて、この安平神社ですが、明治15年創業の「万安楼」という高級料亭の庭に祀られていたものだそうで、それが銀座タワーの一角に残ったようです。
骨伝導機器とともに訪れてみてください。