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骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

薭田神社を骨で聴く

2014-08-19 11:55:22 | 骨で聴く巡礼旅
延喜式にも記載された古社が東京都大田区の鎌田にあります。
薭田神社です。

以前に訪れた蒲田八幡神社(蒲田八幡神社を骨で聴く)からまっすぐに北へ進んだ位置にありますが、それはあくまで地図上での話しです。実際に行くためには、蒲田の街中から住宅街へと右左折を繰り返すことになります。

創建は和銅2年(709年)に行基が当地に留まり天照・八幡・春日の三神体像を造り本殿に安置したことといわれます。蒲田草創の古社で、社域は垂仁天皇の御宇、神地神戸を定められ天神地祇を崇祀さられた地であるともいわれます。

時代が下って鎌倉時代には、日蓮が池上宗仲邸に入ると、村民の要請により三神体像が開眼されたといいます。

社名の「薭田」は蒲田の古字という説、あるいは単に誤字だという説があります。この説が正しければ「蒲田神社」と呼ぶのが正しいのかもしれません。

周囲に寺院はあるものの、完全な住宅街で、とても静かな境内です。また境内は決して広くありません。
二股の道路の中央にある鳥居をくぐり、短い参道を進むと、左手に社務所、正面に社殿があります。由緒正しい古社という雰囲気がない理由として、社殿がコンクリート造の影響もあるかもしれません。拝殿は入母屋造で、拝殿の後方に幣殿と、流造の本殿になっています。

静かな境内にたたずみ、古来から続く神域を感じるのは、この空間にある「気」なのかもしれません。
そこで耳だけでなく骨からも周囲の音声を聞いてみます。
骨伝導の利用です。

米軍採用の特許技術を駆使した骨伝導ヘッドホンにより、蒲田の歴史を見てきた神社の声を聞いてみます。

その結果は  

実際に試して頂くのが良いでしょう。まだ間にあう夏のキャンペーンをチェックして、都内屈指の古社・薭田神社に参拝に出かけましょう!

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栗原氷川神社を骨で聴く

2014-07-22 15:18:19 | 骨で聴く巡礼旅
東武線の西新井駅から環七をこえて住宅街に入った一角に鎮座する栗原氷川神社です。
今回はこの氷川神社へ最先端の骨伝導機器とともに参拝です。

創建年月は不詳ですが再建された記録は残っていて、天正2年(1574年)だといいます。
「上古 武蔵国造・出雲臣は、大宮に祖神氷川社を奉斎す。やがて陸羽街道と見沼荒川の水徳を得て、ここに治水発展の神を奉祀する事 歴々たり」
この地域は栗原村とよばれていましたが、その村の鎮守社だったようです。
天正2年(1574年)以降は八幡神が合祀され、明治5年に村社に指定、大正元年に近在の無格社天祖神社、無格社稲荷神社、無格社神明社を合祀して今の形になりました。

道路に沿って鳥居があり、その先には社務所があります。
直角に右折して二の鳥居です。



その先の左手に手水舎、正面に瓦葺きの入母屋造の拝殿があります。本殿は覆殿の中にあるようです。
90℃の角度で参道が曲がっている神社は怨霊を封じているといわれますが、ここははたしてどうでしょうか?
社務所の位置から考えて道路と交差点の都合のようでもありますが、真実は分かりません。

意外と広い境内で、特筆するようなものは何もありませんが、村の鎮守社だったことから地域の「広場」としての役目も担っているのが分かります。片隅には松や銀杏が茂っています。夏の強い光を避け、静かに参拝するのが似合う神社だといえます。

米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともにそんな栗原氷川神社の周囲の音声を聞きます。
耳だけでなく骨でも聴くことで、何となく心が落ち着くのは、単なる気のせいでしょうか?

世界最先端の骨伝導ヘッドセットを騒音環境だけでなく、神社境内でもぜひお試しください。キャンペーン継続中です。

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かつての村の鎮守社だった神社は、確かに今にも残る「格式」のようなものがあります。
おそらくそれはドイツで小さな村にもあったマルクト広場に共通するものかもしれません。だからこそ、骨伝導の異次元の体験を神社でも体験されるのをお勧めしています。

勝利八幡神社を骨で聴く

2014-07-02 09:59:41 | 骨で聴く巡礼旅
勝利八幡神社の名で知られる東京都世田谷区桜上水にある神社は、必勝祈願・勝運向上に霊験があるということで、特にスポーツ関係者の参拝が多いといいます。

旧上北沢村の鎮守で、創建されたのは1026年(万寿3年)、石清水八幡宮を勧請したことによります。
場所は京王線桜上水駅から南に向かい、七差路を東に向かった先にあります。隣は小さな児童遊園です。
周囲は住宅街と日大グラウンド、日大櫻丘高校、日大文理学部、世田谷区立緑丘中学などがあり、文教地域となっています。

八幡神社といえば源氏の氏神で、世田谷区や杉並区には源氏関連の神社が点在しています。これは鎌倉街道のルートに影響すると思われます。また、世田谷といえば吉良氏で、この祖は河内源氏になります。

こんな背景から想像すると、この勝利八幡神社も源氏の戦勝祈願から戦勝御礼という由来があるのでは、と思ってしまいます。
しかし由来は全く異なります。

日露戦争に徴兵され出征した氏子が無事に帰ってきたことに由来するようです。

この神社で注目すべきは旧本殿です。



世田谷区最古の社殿建築がこの勝利八幡神社の旧本殿なのです。天明8年(1788)の再建といわれ、世田谷区指定有形文化財となっています。
境内は社殿が綺麗に整備されていますが、旧本殿は、拝殿に向かって右側に天祖神社、稲荷神社と並んで建っています。
建物としてもの規模は大きくなく、しかも現在は鞘堂に覆われた状態なので、当時の雰囲気は伝わってきませんが、貴重なものであることは理解できます。

都内でも世田谷区の八幡神社は比較的清涼感を感じる場所が多いのですが、ここもまさにそうだといえます。
学生たちの声が遠くから聞こえそうで、最先端の骨伝導ヘッドセットを使って耳だけでなく骨でも聞きます。

改めて「勝利」を祈願する声まで骨伝導で届いてきそうです。

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すぐ近くに珍しい七差路がありますから、あわせて見ていくとおもしろい場所かもしれません。


目白不動を骨で聴く

2014-06-30 11:51:00 | 骨で聴く巡礼旅
東京都豊島区高田という場所は、都内でも屈指の急な坂道があるエリアです。
神霊山金乗院も急な坂道にある真言宗豊山派の寺院です。実はここ、江戸五色不動のひとつ、目白不動尊を祀っていることで知られています。

自宅近所の目青不動から始まり、目黄、目赤、目黒の各不動尊を回り、最終の目白不動へたどり着けました。すべて世界最先端の骨伝導機器とともに回りました。



目白不動のある金乗院は、開基である僧・永順が本尊である聖観音菩薩を勧進して観音堂を作ったのが始まりであるとされています。永順は1594年(文禄3年)没なので、創建は天正年間と推定されています。

最初の頃は、中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院と称していましたが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となりました。
江戸時代までは近隣の木之花開耶姫社の別当なども務めていました。徳川光圀の手によるものとされる木此花咲耶姫の額がありましたが、太平洋戦争の戦災で焼失してしまいました。

目白不動尊については、元々は金乗院のものではなく、1キロほど離れた関口駒井町(現在の文京区関口)にあった新長谷寺という寺院にあったものでした。

東豊山新長谷寺と書いて「とうぶさんしんちょうこくじ」と読むこの寺院は、やはり同じ宗派の真言宗豊山派でした。
この寺院にあった不動明王像は、唐から帰国した弘法大師・空海が出羽・湯殿山(一説には羽黒山)に行き修行を行っていた際に造られたといわれている像です。

全国に広まる弘法伝説の一種といえますが、貴重な不動明王像といえます。
その貴重な像が武蔵国関口(現在の文京区関口)に住む者の手に渡ったといわれています。しかし、その詳細や年代は全くの不明で、謎のままです。



江戸時代の元和4年(1618年)に奈良・長谷寺の僧・秀算によって中興され、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の命令によって長谷寺の本尊と同じ十一面観音像を造り、本堂などを建立し新長谷寺と命名しました。
寛永年間には、3代将軍・徳川家光により、新長谷寺の本尊である不動明王像に五色不動のひとつとして『目白不動』の名が贈られました。これ以降、この不動明王像は目白不動明王と呼ばれるようになりました。

これは地名にも影響を与え、新長谷寺一帯の高台が目白台と呼ばれるようになったのです。
現在でも目白や目白台の地名が残り、著名人も住む場所になっています。

5代将軍・徳川綱吉や桂昌院の帰依を受けることになり、ますます寺院としては発展することになりました。

しかし、新長谷寺は今に残ることができませんでした。
やはり太平洋戦争の影響です。
戦災で壊滅な被害を受け、1945年(昭和20年)に廃寺になってしまったのです。
そこで本尊の目白不動が金乗院に移されることになったわけです。



大僧正・天海による結界の一つが江戸五色不動霊場だといわれます。
最後に、この目白不動に来れて、骨伝導きくちゃんを使って周囲の音声も含めて骨で聴きました。

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前代未聞の「お買い得」きくちゃん登場で、こんな巡礼旅に最適な提案をどんどんしていきたいと思います。
まずは江戸五色求道霊場は結願です。

笹塚・福徳稲荷神社を骨で聴く

2014-06-26 10:22:39 | 骨で聴く巡礼旅
渋谷区笹塚にある福徳稲荷神社に、最先端の骨伝導ヘッドセットとともに訪れました。
おそらく近所の人しか知らないような神社だと思います。

京王線で新宿から一つ目の駅ですが、甲州街道・環七通り・中野通りに囲まれた地域に住宅が密集しているエリアです。
そんな住宅街の片隅に古い庚申塔があったり、観音通りには笹塚観音があったりします。古くからこの地域での生活に素朴な信仰が根付いているのが分かります。

福徳稲荷神社もそんな素朴な神社です。

笹塚駅から甲州街道を渡り、住宅街の小さな道を歩いていくと、まるで箱庭のような神社の境内が現れます。
ミニチュアなのは鳥居もそうで、頭を下げないとくぐれない高さです。その先の境内も整っているものの、なぜか民家の庭のようです。

稲荷神社なので祭神は豊受姫命ですが、この神社の由来などは分かりません。おそらくこんな形で残されているということは、それなりの歴史を持っていると思いますが、今現在、全くの不明です。

笹塚は、1604年(慶長9年)に大久保長安が甲州街道上に一里塚を設けたのが地名の由来といわれます。また、笹塚交差点付近の窪地には牛裂きの刑場があったとされています。
それより前の時代から伊勢や出雲から移り住んできた人たちが住み着いたともいわれます。

信仰深い人たちの鎮守様として、小さな本殿を持つ素朴な社がいくつか生まれ、その中のひとつがこの福徳稲荷神社なのかもしれません。

小さいし、由来もわからない神社ですが、なぜか気になる不思議な魅力を持っています。
都会のミニチュア化した神社はいくつもありますが、なぜかここは異なる雰囲気を感じます。

米軍採用の特許技術を誇る骨伝導ヘッドセットで、周囲の音声を耳だけでなく骨からも聞くと、余計にその魅力が倍増します。

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ここから特許を保有する骨伝導メーカーの本社まで歩くのも悪くありません。無料体験で本社に来ていただいた高齢の方も、耳は悪いものの、足は丈夫で、この区間を歩いて帰りました。

堀ノ内のお祖師さま(妙法寺)を骨で聴く

2014-06-24 11:19:59 | 骨で聴く巡礼旅
杉並区というよりも東京を代表する寺院のひとつといえる妙法寺は、米軍採用・特許技術の骨伝導機器メーカーの本社から北に少し上がった場所にあります。

堀ノ内のお祖師さまと親しまれ、環七通りを通行していると、参道の門前町が見えます。
この「お祖師さま」ですが、発音としては「おそしさま」ではなく「おそっさま」になります。落語では粗忽者の繰り広げる爆笑噺「堀の内」の舞台として有名です。

環七通りに面して立つのはひげ題目が彫られた宝塔で、この先から門前町になっています。ただし、クルマの場合は逆の一方通行です。



環七から進むと右手に都内では巨大な規模を誇る寺院が見えてきます。
最初に目にするのが仁王門で、都指定有形文化財です。
門内は、江戸幕府4代将軍・徳川家綱が、妙法寺の地頭所・日吉山王社に寄進した金剛力士像が安置されています。

門の左右には、寺名札と日蓮宗「本山」を示す札があります。中本山だったのが、昭和27年に本山に昇格しています。
日蓮宗の場合、日蓮聖人の眠る身延山久遠寺を「祖山」、日蓮聖人一代にかかわる重要な事跡を「霊跡寺院」、宗門の歴史上重要な役割を持った寺院を「由緒寺院」、それ以外を「一般寺院」と称しています。
「本山」という表現の場合、江戸時代からの本末制度による寺格によります。
寺格では、総本山、大本山、本山の3種類に分かれますので、日蓮宗だと、祖山=総本山、霊跡寺院が、大本山7ヶ寺・本山7ヶ寺と別れ、由緒寺院も、本山41ヶ寺・他1ヶ寺となります。
ちなみに一般寺院で本山になっているのが1ヶ寺だけあります。岡山県の最上稲荷山妙教寺です。

妙法寺は本山の由緒寺院に相当します。



仁王門を潜って、最初に目の前に飛び込んでくる荘厳な建物が祖師堂です。ここも都指定有形文化財になっています。
やくよけ祖師・堀ノ内のお祖師さまとして有名な寺院として、まさにここが存在感を示すもっとも大きなお堂です。

ちなみに「江戸十大祖師」に妙法寺は入っていません。
なぜなのか不思議でしたが、おそらく十大祖師が成立したのが元禄以前のことだったといわれていることから、妙法寺が「やくよけ祖師・堀ノ内のお祖師さま」になるより前だったということかもしれません。

元々、この妙法寺は真言宗の尼寺で、日蓮宗に改宗したのは元和年間(1615年 - 1624年)です。
日逕上人が、母親である日圓法尼の菩提のために、山号を日圓法尼に因み日圓山とし、寺号を妙法寺としたといわれます。
碑文谷法華寺の末寺でしたが、元禄11年(1698年)に碑文谷法華寺が不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受けたことから、、改宗を余儀なされたようです。

このときに身延久遠寺の末寺となり、碑文谷法華寺にあった祖師像を譲り受けました。
祖師像は、日蓮聖人の「伊豆御法難」の際、師の無事を念じて弟子の日朗上人が彫ったもので、3年後に戻った日蓮聖人が開眼し魂を入れたものだといわれています。
この日蓮の祖師像が厄除けに利益があると評判になり、江戸時代より多くの人々から信仰を集めてきました。

1926年(大正15年)妙法寺貫首により、東京立正短期大学・東京立正中学校・高等学校を設立しています。杉並区が「立正」色が濃いのもこのときからです。




祖師を右側から回り込むと正面に見えてくるのが本堂(三軌堂)で、祖師堂より小さいものの落ち着いた感じがすばらしい建物です。文政5年建立だそうです。

今度は本堂の左手から祖師堂の裏手に進むと日朝堂が見えてきます。



文政11年造立で、身延山11世・行学院日朝上人の尊像が安置されています。日朝上人は室町時代の高僧ですが、学識の高さと、学問を修めるに当たり眼病を患うほどに精進し、治癒後、眼病に遭った人を救いたいとの大願を立てたといわれます。そのことから学問と眼病に験が高いものとして知られています。


日朝堂の右側には回廊を通り越して、二十三夜を祀っている堂宇があります。



二十三日の夜、月待をすれば願い事が叶うとされる「二十三夜信仰」によるものです。
妙法寺では第18世・日観上人の頃から始まり、毎月23日には縁日も並び賑わいをみせています。

とにかく都内の寺院としては、かなり見所満載で、庶民の素朴な信仰から伝統的な寺院としての形式もあり、参拝者にっては贅沢な感じがします。

世界最先端の技術を誇る骨伝導製品を生み出す、その地に、霊験あらたかな妙法寺が存在感を示していることに感服です。
この霊験と耳を使わない骨伝導スピーカーが杉並区で交差しているのも、何かの縁かもしれません。

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時々、メーカー本社に骨伝導無料体験に遠いから来られる方がいます。
せっかく杉並区に来られたなら、ぜひここにも立ち寄られたらいかがでしょうか。

徳持神社を骨で聴く

2014-06-17 10:12:14 | 骨で聴く巡礼旅
池上本門寺や山内寺院が占めていることで門前町を形成している大田区池上ですが、この地域内にかつての徳持村の鎮守だった神社があります。徳持神社です。

建長年間(1249-55)の創建と伝えられ、もともとは池上7丁目の曹禅寺付近に鎮座していたようです。
創建の地は荏原郡池上村大字徳持だったことから、地域住民の守護神として尊崇されてきました。豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請奉斎、御幡山八幡宮とも称されていました。



ところが池上競馬場の開設に伴い、北側の現在地へと移転しました。池上通りに近い場所です。
明治41年には、徳持上宿に鎮座していた稲荷神社を合祀しました。このときから社名を八幡神社から徳持神社と改称したようです。

例大祭はなかなかの規模で、本祭は2年に1度です。
陰祭に当たる年は、神社神輿が土曜の宵宮だけ渡御し、本祭では日曜日に渡御します。商店街から神社まで提灯が立ち並び、池上の街も本門寺だえkではないことがよく分かります。

そんな徳持神社の境内に立ち、最先端の骨伝ヘッドセットを使ってみます。
耳だけでなく骨からも周囲の音声を聞くことができますが、お祭りの雰囲気は伝わってきません。
それでも都会の神社としては、なかなかの雰囲気を持っているので、気分は良い感じです。

     ⇒ 耳を使わない骨伝導ヘッドセット

都内の小さな旅気分は少なくとも味わえるのは事実でしょう。でも例大祭の日にもう一度来ようとも思います、そのときは雑踏と喧騒に有効な骨伝導ヘッドセットの活躍の場が多いことでしょう。

草加市・女体神社を骨で聴く

2014-06-16 10:17:09 | 骨で聴く巡礼旅
埼玉県草加市柿木町に、北向きに立つ珍しい神社が鎮座しています。
その名も「女体神社」です。
米軍採用の特許技術を駆使した骨伝導ヘッドセットとともに参拝にいきました。

草加市の柿木町という地域は、東武伊勢崎線の草加駅周辺や松原団地駅周辺とは全く異なるエリアで、市の北東部に位置するのどかな田園風景が広がります。すぐ東側に中川が流れ、この自然堤防上に集落が形成されています。
草加せんべいとは別に、東京のベッドタウンとしても発展をしてきた草加市ですが、駅から離れたこの地域は首都圏とは思えないほどの鄙びた風景です。


歴史的には、平安時代末期に源頼義、義家父子が奥州征伐の際にこの地を通ったとの言い伝えがあったり、古刹があったりします。
しかし、草加市で最も自然に恵まれたエリアの一つですが、町内を南北に横断する東埼玉道路が開通し、交通量は増加しました。また隣接する越谷市にJR武蔵野線の越谷レイクタウン駅が完成し、国内最大級のショッピングセンターができたりして、大きな転換期を迎えているといえます。

そんな草加市柿木町の女体神社は、柿木の開祖である豊田氏によって創建されたと伝えられています。
豊田氏は平将門の伯父・平国香を祖とする下総国豊田荘の地頭でしたが、天正3年(1575年)に豊田小四郎治親が多賀谷氏に攻められ、討ち死にしてしまいました。城も陥落し、夫人と遺児は、家臣とともにの地へ移住したといわれます。
筑波の女体神社を信仰していたことから、この地にも勧請したのが由来といわれます。

神社としては珍しく北向きになっているのは、筑波山に向けて建てたからだといわれています。

現在の神社境内には郷土の作家・豊田三郎の文学碑もあります。

有名な場所ではありませんが、何とものんびりとした空間に覆われ、少し時を刻むのをゆっくりしているような感覚を持つこの神社は、かなりのお勧めです。都会に隣接するちょっとした贅沢な旅情気分を味わえます。

静寂の中にもクルマの通行音はありますが、こんな場所では最先端の骨伝導ヘッドセットで、耳だけでなく骨からも周囲の音を聞くのがすばらしいといえます。

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糀谷駅周辺・二つの天祖神社を骨で聴く

2014-06-10 09:55:46 | 骨で聴く巡礼旅
蒲田から羽田空港に向かう京急線で、最初の駅が糀谷駅です。
空港線京急蒲田から大鳥居間の連続立体交差事業により高架駅となりました。線路と交差して伸びる糀谷商店街はテレビドラマやCMの撮影によく使用されたりしますが、基本的に周囲は住宅街です。

この駅を最寄とするのが、神命愛心会の神命大神宮です。創始者・小松神擁による宗教団体で、崇拝対象なのが日本古来の伝統的な神である天照皇大神ですから、伊勢神宮の主祭神になります。一方、天照皇大神を主祭神にする神社を見てみると、全国には天祖神社として広まっていのが分かります。

糀谷駅から徒歩すぐの場所にも二つの天祖神社があります。
今回は二つの天祖神社へ最先端の骨伝導ヘッドセットとともに出かけてきました。



最初に訪れたのが西仲天祖神社です。
羽田神社の兼務社で、祭神は天照皇大神だけでなく豊受姫大神も入っています。創建年代は不詳ですが、村民久左衛門が創建したといわれています。現在では境内の一部が公園と一体化していて、周辺住民の子供たちの遊び場も兼ねているようです。



次にすぐ近くの糀谷神社へ向かいます。
こちらも羽田神社の兼務社で、創建年代が不詳、村民久左衛門が創建したといわれ、祭神も西仲天祖神社と同じです。
ただ糀谷神社の場合、明治維新後には村社に列格しています。また、昭和20年には釈護子稲荷神社を遷座し、境内に祀っています。

どちらの神社も素朴な印象で、地域の鎮守として長く存在してきたという感じがします。

羽田空港へ向かう場合に、いつも素通りしてしまう地域ですが、素朴な天照皇大神信仰の場が形成されていることに貴重な存在感を見出せそうです。
米軍で採用された特許技術を駆使した骨伝導ヘッドセットとともに、こんなのんびりとした神社散策も悪くありません。

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二つの天祖神社を創建した久左衛門が、どんな人物かは分かりませんが、この地を守り、反映させるために天照皇大神と豊受姫大神を勧請したのだとしたら、その結界は今でも続いているのかもしれません。

蒲田八幡神社を骨で聴く

2014-05-28 11:54:19 | 骨で聴く巡礼旅
東京都の「都市計画事業」として2001年2月に事業着手した京急蒲田駅付近連続立体交差事業により、蒲田の街は変貌を遂げたといえるかもしれません。京急線の踏み切りにより、環八通り、第一京浜ともに慢性的な交通混雑で有名な地域でしたが、立体化の効果により緩和されつつあるのが現在の蒲田です。

そんな蒲田の街中に鎮座するのが蒲田八幡神社です。

かなり古い時代から聖なるエリアだったといえるのは、境内に小円墳があったことから、縄文時代にまで遡った原始的な信仰による斎場と神道が融合したと考えられるからです。

現在では京急蒲田駅に近い位置になり、鎮守の森まで形成する街中の神社として、その圧倒的な存在感と親しみやすさを感じさせてくれます。



八幡神社の周辺は中規模のビルが林立したエリアで、JR蒲田駅の周辺とは雰囲気が異なります。
ただ、京急線の連続立体交差事業が始まってからの約10年間で中・高層のマンションが続々と建設されるようんひなり、周囲の景観が少しずつ変化してきました。さらに京急蒲田駅の駅前広場の設置やさらなる再開発が計画されているようで、これからも変貌を遂げていくエリアの中で、太古より続く聖地として鎮座し続けるのかと思います。

JRの蒲田駅と異なり、京急線の場合は羽田空港への乗り換え駅という役割が大きく、そのため駅周辺の散策をあえてする機会はありませんでしたが、街に溶け込んだ八幡神社は途中下車してでもお参りする価値がありました。

最先端の骨伝導ヘッドセットとともに、そんな参拝があっても良いかもしれません。

波除神社を骨で聴く

2014-05-02 09:42:57 | 骨で聴く巡礼旅
年間取扱高4000億円以上を誇る“世界最大の魚市場”が東京の築地市場です。
豊洲へ移転することが決定していて、これを円滑に行うために、市場業者に対し都は、移転時支援策を実施すると発表したのはつい最近のことです。

そんな築地市場ですが、350年くらい前は一帯は海だった場所です。
慶長江戸絵図によれば、現在の日比谷の周辺まで汐入が描かれていました。八重洲は海岸になっていて、船の役所まで描かれています。

その後、埋め立てが進み、徳川幕府4代将軍・家綱が手がけたのが最後の埋め立ての難工事でした。明暦の大火の後です。その場所が築地海面でした。
堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうという話しが残っています。

そんなときの伝説があります。

ある夜、海面に光りを放って漂うものがありました。
人々は不思議に思い、その正体を確かめるべく、船を出して近づいていきました。すると、その正体とは。立派な稲荷大神の御神体だったといいます。

人々は畏れ、社殿を作り、お祀りしました。
するとどうでしょう、その後は、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進んだといいます。そして築地の埋立も完成したというのです。時に萬治2年(1659年)でした。

これが築地市場のすぐ横に鎮座する波除神社の由来です。

現在でも「災難を除き、波を乗り切る」波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚い神社になっています。


獅子殿(厄除天井大獅子)



祭礼「つきじ獅子祭」はこの地域では有名ですが、その名称の元になったのは「厄除天井大獅子」で、江戸末期に焼失後、平成2年に神社の御鎮座330年を記念して納められました。高さ2.4m、幅3.3m、重さ1トンという規模です。

境内ではこの存在感にかなり圧倒されるかもしれません。
また、築地ならではの光景もあります。



すし塚、海老塚、鮟鱇塚、活魚塚、玉子塚、蛤石、魚がし碑などです。
活気ある築地のすぐ隣にこんな神社があるのは、何とも興味深いといえます。

威勢のいい市場の喧騒には骨伝導ヘッドセットを使います。
耳をふさがない状態で骨から「聞く」通信手段は、まさに画期的といえます。しかもそれが米軍で採用された特許技術の骨伝導製品なら、言うこと無しです。
そんな骨伝導製品もまだまだ地味なキャンペーンを実施しています。むしろ7周年のときより地味でねらい目かもしれません。

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海外から旅行客にも人気の築地市場を見守る波除神社ですが、市場の移転をどのように見ているのでしょうか。

皆中稲荷神社を骨で聴く

2014-04-24 11:30:42 | 骨で聴く巡礼旅
東京のコリア・タウンとして知られる新宿の百人町は、内藤清成が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことが地名の由来です。
百人組と呼ばれた鉄砲隊は、江戸の街の警護担当でした。その中でもトップを争うほどの腕前であったといわれています。

そんな鉄砲隊に関係する神社がJR山手線の新大久保駅からJR中央線の大久保駅に向かった先、大久保通り沿いにあります。皆中稲荷神社です。

鉄砲隊の隊士が稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したことが起源だといわれています。皆中は「みなあたる」という意味になり、江戸時代は鉄砲組から信仰を集めていたといわれています。
その後「当たる」ものに利益があるということで、鉄砲隊だけでなく庶民にまで人気を集めてきました。これは現在でも続いていて、「賭けごとの神」として親しまれ、さらには「当選」や「合格」にも繋がるご利益となっています。



宝くじや試験の合格祈願にたくさんの方が参拝する神社ですが、ロケーションとしては商店街から住宅街に入る場所で、風情や情緒という言葉とは無縁です。
境内の入り口は喧騒の大久保通りで、二つのJRの駅の狭間にありますから、クルマだけでなく人の流れも多くあります。
喧騒の人ごみから聞こえてくる会話も、場所柄日本語とは限りません。時間帯によってはむしろ日本語のほうが少ないといえます。海外の留学生も多く往来するエリアです。

「勝運」のパワースポット神社といわれていますが、ここでは喧騒の中で快適に通話の出来る骨伝導ヘッドセットの凄さもよく分かります。米軍の爆音の中でも無線通話を可能にした特許技術の骨伝導スピーカーの威力は、こんな場所でこそ威力が発揮されます。

     → 驚異的技術力の骨伝導製品

都内でも異質な空間が広がる大久保エリアですが、歴史的な意味を持ち、現在まで続くご利益・信仰を持つ神社としては貴重といえます。
宝くじを買って、骨伝導ヘッドセットを装着したら、まずはここへ参拝! これが良いかもしれません。

誕生八幡神社を骨で聴く

2014-04-22 10:02:31 | 骨で聴く巡礼旅
「目黒のさんま祭り」が行われる中心的な場所に誕生八幡神社は鎮座しています。
JR・地下鉄・東急の目黒駅から目黒通りを少し歩いた場所です。目黒とはいっても目黒区ではなく品川区上大崎です。

何とも奇妙な名の八幡神社ですが、この神社の由来を見ると頷けます。
創建は文明年間(1469年~1487年)で、太田道灌が夫人の懐妊にあたって、筑前国(現在の福岡県)の宇美八幡をこの地に勧請したことによります。無事に男の子が生まれ、「誕生八幡」と呼ばれるようになったといいます。そのため安産の守り神とされています。

目黒通り沿いで駅からも近い立地ですから、鎮守の森のような境内はありません。小さな都会の神社ですが、それでも目立つのはイチョウの存在があるからかもしれません。

品川区指定文化財・天然記念物第21・22号に指定されている樹木は、誕生八幡神社の鳥居のところにあります。
昭和45年(1970年)に神社の移転改築で現在地に移植されたものです。残念ながらその際に切り詰められてしまいましたが、それでも移植にも耐え、旺盛な勢いを見せながら目黒通りと神社の聖域を見守っています。




因みに天然記念物第21号は、幹囲3m25cm、樹高14m50cmで、第22号は、幹囲2m71cm、樹高11m50cmという大きさです。樹齢はいずれも推定250~300年といわれています。

また、誕生八幡神社は、階段を登り、社殿の左側にも小さな社殿があります。
この小さな社殿は「重箱稲荷」と呼ばれています。

重箱稲荷という名も何とも奇妙な名です。
もともとは六軒茶屋町(現在の上大崎2丁目)に鎮座していたようですが、明治42年に誕生八幡神社へ移されました。
この「重箱稲荷」の名にも由来があります。

(以下、しながわ観光協会より抜粋・引用)

三代将軍徳川家光がこのあたりへタカ狩りに訪れた時のことです。
「獲物をつかまえるなら今じゃ!」。将軍がそう思ったとき、大空高くタカが放たれました。しかし、どうしたことか、タカは獲物には見向きもせず、はるかかなたに飛んで消えてしまいました。「どこへ行ってしまったのじゃ……?」。将軍も家来の武士たちも、途方にくれてしまいました。タカがいなくなってしまっては、どうにも狩をすることはできません。
がっかりしていたところ、将軍は道ばたにひっそりと建つ小さな稲荷神社を見てハッとひらめきました。持ってきた重箱のお弁当を稲荷社におそなえしようと考えたのです。
「タカよ、戻ってまいれ……」。将軍がいっしょうけんめいお祈りしていると、不思議なことにタカがどこからともなく戻ってきたのです。とても喜んだ将軍は「狩りを続けるぞ!」と帰ってきたタカを連れ、再び出かけて行きました。
この重箱はそのまま社殿にそなえられ、稲荷社の宝として大切に守られました。このことから「重箱稲荷」という名前で呼ばれるようになりました。


この逸話には続きがあって、家光の持っていた重箱は、徳蔵寺に納められていましたが、嘉永3年(1850年)の大火事で徳蔵寺ともども焼失してしまったといいます。

駅から近い商業地に江戸時代のこんな話の残る神社は、都内にはたくさんあります。
クルマが疾走する目黒通りは騒音も激しく、路上での通話には骨伝導ヘッドセットが便利といえます。参拝もできれば耳だけでなく骨からも聞きたいものです。そのためには、骨伝導機器といっても米軍で使われている特許技術を活かした性能でないとお勧めできません。

     → 米軍採用・特許技術の骨伝導機器

喧騒の街の中、ひっそりと鎮座する神社。
この対比こそ骨伝導巡礼の醍醐味ですが、この誕生八幡神社はまさにピッタリでした。

赤坂・日枝神社を骨で聴く

2014-04-21 10:25:52 | 骨で聴く巡礼旅
オリジナルの「リカちゃん」が、「日枝神社の巫女リカちゃん」として、日枝神社、タカラトミー、博品館で共同開発した七五三限定モデルとしてあります。また、「第12回全日本国民的美少女コンテスト」グランプリを受賞した女優・工藤綾乃がこの「リカちゃん」の“広報大使”として就任したこともありました。

そんな異色なことを行った東京・永田町にある日枝神社ですが、旧社格は准勅祭社で東京十社のひとつ、官幣大社にまで昇格した神社です。

創建年代は不詳ですが、文明10年(1478年)に太田道灌が江戸城を築城するに際して、無量寿寺(現在の埼玉県川越市の喜多院・中院)の鎮守・川越日枝神社を勧請したのが始まりといまれています。

徳川家康が江戸に移封されたときには、江戸城内の紅葉山に遷座することになりました。
しかし、慶長9年(1604年)に、秀忠による江戸城改築が行われた際に江戸城外の麹町隼町に遷座されました。

明暦3年(1657年)には大火により社殿を焼失し、万治2年(1659年)に家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあてたことで、現在の場所へと遷座することになりました。
この場所こそ、江戸城の裏鬼門に相当します。

日本の首都を司る国政の中枢が千代田区永田町ですが、現在地の日枝神社はまさに日本の核となる部分の緑多い高台に鎮座していることになります。
実際、国会議事堂にも近く、道路を挟んだ隣には衆議院の議員会館もあるという位置になります。

明治元年(1868年)東京奠都の際に准勅祭社に指定され、明治3年(1871年)に神祇官直下から東京府管轄へ、明治15年(1882年)に官幣中社へ、そして大正元年(1912年)には官幣大社へと昇格していきました。

しかし昭和20年(1945年)の東京大空襲では社殿が焼失してしまい、昭和33年(1958年)に再建されました。

日枝神社というのは、山王信仰に基づいた比叡山麓の日吉神社から勧請を受けた神社の社号で、全国的にそれほどの数があるわけではありません。なぜか東京の縁結びのパワースポットのひとつにもなっているようです。



そんな婚活パワースポットとしての知名度とは裏腹に、2008年(平成20年)6月13日には、赤坂日枝神社内巫女強姦事件が起きたことでも知られています。

日枝神社内で巫女が神職に強姦された事件ですが、この事件の特異なことは、強姦犯は逮捕されることなく、警視庁から東京地方検察庁に書類送検されたことです。警察が強姦犯を逮捕しなかったのは異例なことで、しかも当時の報道から分かることは、東京地方検察庁が起訴に消極的であったことです。そのためか、捜査当局へ圧力がかかったとの見方が一部の報道でありました。

リカちゃん、出世していく社格、縁結パワースポット、強姦事件と、様々な顔を持つ日枝神社ですが、圧倒的な存在感を示していつのは間違いなく、ある意味で「東京の顔」ともいえます。

そんな日枝神社の境内に立ち、耳だけでなく骨からも周囲の音声を聞きます。
最先端の特許技術で、米軍に採用された骨伝導機器を使います。逆にそこまでの性能でなければ、この地で骨伝導ヘッドセットを使う意味がありません。

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首都・東京が機能する真横に鎮座する日枝神社には、骨伝導を通しても何だか分からないパワーがあるように感じられます。

東京大仏を骨で聴く

2014-04-14 09:36:36 | 骨で聴く巡礼旅
青銅製の鋳造大仏では、奈良・鎌倉に次ぐ日本で3番目の大きさを誇る東京大仏は板橋区にあります。

池袋から埼玉県へと延びる東武東上線と、高島平の巨大団地へと向かう都営地下鉄三田線に挟まれた地域です。埼玉県との都県境にも近く、しかも最寄り駅といえる東武東上線下赤塚駅からは徒歩25分、都営三田線西高島平駅からでも徒歩20分という不便な位置です。

そのためか、東京23区内とはいうものの都心独特の喧騒とは無縁で、のどかで落ち着いた雰囲気に包まれたエリアといえます。

この東京大仏のある寺院が乗蓮寺です。
応永年間(1394年-1427年)に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建したと伝えられている寺院です。




江戸時代の初期には板橋区仲宿に移転し、当時は孤雲山慶学院乗蓮寺と称していましたが、後に慶学山乗蓮寺になりました。
天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となりました。
今でも境内入り口の門扉には徳川家の葵のご紋があります。

昭和の時代になり、首都高速道路の建設と国道17号の拡幅工事の関係で、赤塚城二の丸跡に移転することになりました。昭和48年(1973年)です。
この城跡に移転したのが現在の場所で、山号も赤塚山となりkました。

東京大仏が建立されたのは、1977年(昭和52年)です。
関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込めて建立されました。




この東京大仏の製造を担当したのが浅草の仏壇店である翠雲堂でした。
その大きさは、高さが基壇が地上2メートル、蓮台2.3メートル、座高8.2メートルの計12.5メートルというものです。

またこの寺院には、国民栄誉賞を受賞した日本の冒険家・植村直己墓もあります。
1984年にマッキンリーにて消息を絶ち、未だに遺体は発見されていませんが、供養するための墓として境内にあります。

ちなみにですが、「日本三大大仏」とすると、奈良・鎌倉に次ぐものとして、この東京大仏だけなく、岐阜大仏、高岡大仏、兵庫大仏、赤田大仏などが候補に挙がるようですが、これはなぜか「三大~」が好きな日本人特有の感覚として生じた話といえます。

乗蓮寺・東京大仏のあるエリアは武蔵野台地の端に位置し、そのため地図上で見ただけではイメージできないような起伏に富んでいます。都内なので住宅地として整備されてはいますが、緑豊かな閑静な地域で、散策するのも楽しいエリアといえます。

そんな東京大仏を前に、周囲の音声を耳だけでなく骨でも聞いてみます。
米軍採用の特許技術を誇る骨伝導ヘッドセットにより、東京大仏の与えてくれるパワーを骨から脳へと伝えてくれるような気分になります。とても気持ちの良い感覚です。

     → 特許技術の骨伝導パワー

米軍採用の実績のある骨伝導製品でなければ、ここまでの感覚はないでしょう。
小さな旅ですが、旅情あふれる訪問になった場所ですので、ぜひ骨伝導機器とともにお出かけすることをお勧めします。