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骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

瀬田玉川神社を骨で聴く

2016-01-24 14:18:36 | 骨で聴く巡礼旅
二子玉川という場所は、東京都世田谷区の南西に位置しています。
北側が緩やかな丘陵になっていて、南側は多摩川です。基本的に住宅地ではありますが、世田谷区では珍しい大型商業施設を中心として、街が賑わっている特殊な場所ともいえます。

最近では駅の東側を中心に再開発が進められ、二子玉川ライズショッピングセンターが開業したり、楽天の本社移転があったり、再開発はまだまだ進行中です。

元々この街は、江戸時代には多摩川の渡し船(「二子の渡し」)により栄えた場所で、後に世田谷随一の歓楽街、東京有数の行楽地へと変貌していったという歴史を持っています。

そんな二子多摩川の繁華街から丘陵に沿って登った地に、瀬田玉川神社は鎮座しています。





瀬田と玉川という二つの地名がついていますが、これはこの地が明治22年に付近の7つの村と合併して誕生した玉川村の大字となりましたが、昭和7年の世田谷区成立の際に玉川町と分離し、玉川瀬田町となったことからも分かります。ちなみにその後、町域変更を重ね、昭和46年に瀬田、玉川と二つの住居表示に変わりました。

この瀬田玉川神社は、永禄年中(1558〜1570年)に、当時の村の下屋敷に創建されたといわれます。
寛永3年(1626年)に長崎四郎左衛門嘉国が寄進して現在地に移転しました。

国分寺崖線上の丘陵地帯で、比較的高い場所にあることから、長らく御嶽神社と呼ばれていたそうです。
明治7年(1874年)には村社となりました。しかし明治39年(1906年)の勅令の神社合祀に基づいて、明治41年(1908年)、八幡社、熊野社、大神宮(天祖社)、六所宮などを合祀することになりました。

玉川神社と呼ばれるようになりましたが、後に瀬田玉川両地区の氏神様となり、瀬田玉川神社と呼ばれるようになりました。
大正3年(1914年)に社殿は改築され、大正12年(1923年)の関東大震災の被害で補修されました。




境内は決して広いわけではありませんが、村の鎮守だった貫禄のようなものを感じます。
今では周囲に建物が多くあり、高い位置にあっても景色が一望できるとは限りませんが、山に登ってきた気分も味わえます。

冬の澄んだ空気を吸い込み、周囲の音声を耳だけでなく骨でも聴きます。
世界最先端の米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドホンから、変貌する二子玉川の街を見守っている鎮守のい声が聞こえてくるようです。

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ちなみに楽天の本社移転前、品川の本社には何度かお邪魔させて頂きましたが、この二子玉川のほうが似合っていると感じるのはなぜでしょうか。IT系の無機質から、ショッピングの雰囲気に変わったからかもしれません。
単なる個人の感想ですが、、、、

満行寺を骨で聴く

2016-01-23 14:20:36 | 骨で聴く巡礼旅
在原業平や准后道興の歌に詠まれ、30余りの社、300の坊社など七堂伽藍を備えていたといわれる満行寺は、かつては十二天村にあり、いつのころか現在の場所へ移転したことで、周辺を野寺村と称するようになったといわれます。
現在の埼玉県新座市野寺の地名の由来となった寺院です。



在原業平の歌

「武蔵野の 野寺の鐘の声聞けば 遠近人ぞ 道いそぐらん」

この歌に登場する野寺にある鐘こそ、満行寺の鐘で、実は伝説に彩られたものでした。

文字で残っている伝説としては、「日本伝説叢書・北武蔵の巻」にあります。

ある村人が、とても大きなむかごのできた芋づるを見つけ、さぞかし大きなヤマノイモだろうと掘ってみると意外と小さいものでした。
村人は、そんな筈はない、もっと大きい筈だと思い、さらにに掘っていきました。
すると驚いたことに、古鐘が出てきました。
この古鐘は、満行寺の前に建っていた野寺の和尚が、兵火によって失われるのを恐れて池の中に埋めた野寺の鐘だったのです。
この野寺の鐘を沈めた 所は「鐘ヶ淵」と言われるようになりました。

ちなみに鐘ヶ淵があったとされる場所は現在、野寺園と言う釣堀になっています。

「鐘ヶ淵」にちなむ伝説はまだあります。
昔、満行寺の鐘を盗んで村民を脅かそうとした男がいました。
ところが、楼上から鐘をおろしたところで旅人が来たため、男はとっさに池の中に隠れてしまい、その拍子に鐘を紛失してしまいました。
次の日、鐘がなくなっていることに気付いた寺の小僧たちが、慌てて鐘を探しましたが結局見つかりませんでした。
その事件があってから、鐘が隠されていると言われる寺の近くの池を「鐘ヶ淵」と呼ぶようになったとい伝説です。

弁慶の出てくる伝説もあります。
弁慶が野寺の鐘を京の都に持っていこうと試みました。
しかし、さすがの弁慶でも重かったため、引きずって持って行かざるをえませんでした。
そのため、京に着いた時には、鐘の突起がなくなっていたという伝説です。



この鐘については、「新編武蔵風土記稿」にも以下のような記述もあります。

「是も鐘の名所なりといふ、此鐘いにしへ國のみだれによりて、土のそこにうづみけるとなん、其ままほりいださざりければ、おとに聞野寺を問へば跡ふりて、こたふる鐘もなき夕哉」




観光地ではありませんが、これだけ伝説に包まれた寺院であれば、わざわざ訪れてみるのも良いのではないでしょうか。
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ちなみに満行寺の向かい側が武野神社です。
 → 武野神社を骨で聴く



武野神社を骨で聴く

2016-01-21 16:51:29 | 骨で聴く巡礼旅
埼玉県新座市野寺という場所は、東京都の西東京市に隣接しています。
新座市の中心部より都内にある西武池袋線の駅との繋がりが多く、生活圏としては都内という印象です。
しかしそんな新座市野寺ですが、八幡山と呼ばれる丘陵の山上に祀られた神社が、なかなか荘厳な雰囲気を持っています。

丘陵の崖下に旧別当満行寺があり、かつては、『風土記稿』によると「その比は七堂伽藍甍をつらね、鎮守正八幡宮又白山権現・稲荷・富士浅間辨天以下三十余座の末社及び三百所の坊中僧侶充満して、念誦の聲断ざりしとぞ」と記しているほどの規模でした。

八幡山の麓から湧き出る清水があり、この水のおかげで周囲一帯の耕地が潤されたことが想像されます。
そんなことから耕地の安泰を願って水源のあるこの山上に祀られたと推測されています。

残念ながら訪れたときは残雪の影響で確認できなかたのですが、落差10mくらいの崖地の下に湧水の池があるようです。
池から出た清水は、環状に弁天堂を取り囲み水の女神を守っています。



江戸時代初期の「正保の絵図」にも、八幡社参道下の湧き水とそこに祀られる辨天社が掲載されています。

さて、この武野神社ですが、比較的新しく明治41年に、栗原村の浅間社、石神村の氷川社など近郷の五社を、野寺村の八幡社と合祀して新たに建立された神社です。



江戸時代の絵図に掲載されているのに、なぜ明治に建立か、といえば、もともとこの地は、古くは誉田別命を祭神とする八幡社の社地でした。従って八幡社は鎮座いしていたことになります。
ただこの創建年代は不詳で、江戸幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』では、社殿の修復を平安時代の康平6年(1063年)におこなったと記されていますから、かなりの古い歴史があるのは間違いないでしょう。





境内には男坂と女坂もあり、斜面に鎮座する神社らしい雰囲気が漂っています。

社伝によると、永承6年(1051年)に起った前九年の役に、八幡太郎義家は父の頼義に従って阿部氏の反乱を鎮めるために奥州に向かった際、その途中でここへ立ち寄って戦勝を祈願したとあります。
源氏の八幡信仰と関係して、関東ではよくある伝説です。
八幡太郎義家は祈願したあと、社殿を再建して北向きとしたといいます。




寛永15年(1638年)にも社殿を再建しています。このときに名主の村田善左衛門が銅板の棟札を寄進したといいます。
宝暦8年(1758年)には地頭の小野佐渡守が社殿の造営を行ったといいます。



井の頭通りから北上する道路が、このすぐ近くまで開通しました。
新宿線と池袋線の二つの西武線をトンネルで潜り、三鷹方面から新座方面に向かうのには、開通前とは比較にならないほど時間短縮できるようになった道路です。

その一方で、これだけの歴史と雰囲気を持った神社が続いているのが何ともうれしくなります。
骨で聴きます。

米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドホンを使って、周囲の音声を耳だけでなく骨からも聞きます。
癒し効果です。

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神明氷川神社を骨で聴く

2016-01-15 11:44:22 | 骨で聴く巡礼旅
米軍採用・特許技術を誇る骨伝導専門メーカーのテムコジャパンは杉並区にあります。
その本社ビルの前を東西に延びる通りが方南通りです。この通りを東に進むと中野区に入り、中野通りの交差点を超えた先、左手に少し住宅街に入った場所に、神明氷川神社が鎮座しています。

この地域は昔、雑色村といいましたが、以前に訪れた多田神社と共にこの地の鎮守社でした。

  → 中野・多田神社を骨で聴く

この神明氷川神社は、文明元年(1468年)太田道灌が江戸城鎮護のため武蔵大宮氷川神社より勧請したといいます。
毎年祭日には、太田家より玉串を捧げられていたといいます。



境内には伊藤金左衛門像があります。
昭和34年の樽谷清太郎勤作だそうですが、一般には知名度はないでしょう。何でも府議会議員などを歴任した中野の名士だそうです。



また、百度石もあります。
一般にお百度参りとは、願いを叶えてもらおうとする仏さまや神さまに、100回お参りして祈願することをいいます。
通常は、参道の入口から本堂までの間を往復しますが、この百度石があればそこを基点として本堂までを往復することになります。



ここは小学校と隣接していて、下校時間に訪れると子供たちの声がよく聞こえます。
世界最先端の骨伝導技術を誇る本社の延長線のような場所に鎮座していますから、ここは敬意を表して子供たちの声も含めて骨で聴きます。
耳だけでなく骨から脳に伝わる感覚が、この神社の何ともいえない落ち着いた感じを演出します。

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練馬大鳥神社を骨で聴く

2016-01-14 11:10:15 | 骨で聴く巡礼旅
練馬では酉の市で賑わう大鳥神社ですが、小さな街中の神社とは思えないほど、新年も初詣の人が多く訪れます。

広徳寺や東神社に続いて練馬への訪問です。

実はこの大鳥神社が鎮座している場所は、東神社のすぐ隣に位置します。
(→ 東神社を骨で聴く

社伝による伝説があります。
正保2年(1645年)、中荒井村に三羽の鶴が飛来し、村人は瑞祥なりと歓喜して保護しました。
しかし、開村の旧家森田文庵の邸内で死んでしまいます。そこで村人は鶴は霊鳥なので小祠を造りその霊を祀ることにしました。
これがのちに社殿を建立することになり、その際に和泉国堺の一の宮・大鳥神社の分神を勧請し、合祀しました。
これが練馬の大鳥神社の起源であるといわれています。

近隣の人々の崇敬が篤く、現在でも11月の酉の市は大変賑わっています。




境内は狭く、商店街の一角にある場所柄、それほどの雰囲気は漂っていません。
ただ注目すべきものがあります。
石造の薬師如来の小祠です。

舟形光背浮彫の座像で、「安永5年6月16日、矢嶋源八造」の陰刻があります。
もともとこの石薬師如来は、現在の豊玉北5-23の往来に面した場所にあったようです。方角と距離でいえば、南へ約500mになります。したがって、直接この大鳥神社とは関係ないといえます。ただ不思議なのは、いつ頃この境内に移って来たかは不明だというのです。

薬師如来信仰は古くからあり、万病を治癒し、延命を願うものです。特に目の病に効があるといわれ、大鳥神社の境内でも香華が絶えません。

そんな大鳥神社の米軍採用・特許技術の骨伝導音声増幅器を持ち込みました。
装着して感じるのは、集音マイクの方向から聞こえるかすかな喧噪です。指向性があるため、補聴器のように周囲すべての音声をひろいません。練馬駅に近いことから、雑踏もあり、その生活感はこの神域の活力を感じます。
むしろ骨伝導機器でいえば、携帯電話などで騒音の中でも聞こえる、あるいは雑音を発信しない骨伝導ヘッドセットや、骨伝導イヤホンマイクのほうがお似合いの場所といえます。

そんな世界最先端の骨伝導機器ですが、いよいよ9周年記念キャンペーンも大詰めです。
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円満山広徳寺を骨で聴く

2016-01-13 12:47:39 | 骨で聴く巡礼旅
東京の練馬区桜台の住宅街にありながら、そこだけ異質な空気を漂わせている寺院があります。
広徳寺です。

臨済宗大徳寺派で、箱根湯本早雲寺の子院として建立されました。
元亀、天正の時代、(1570年-1592年)だといわれています。場所は現在の神奈川県小田原市でした。
天正18年(1590年)、徳川家康に招かれ、神田昌平橋の内に建立された際、広徳寺と称するようになりました。
寛永12年(1635年)、下谷へ移転し、江戸時代には「ビックリ下谷の広徳寺…」といわれるほどの隆盛を誇りました。塔頭15院を擁すほどの巨大寺院でしたが、明治維新後に衰退していきます。
関東大震災後には、区画整理の関係で現在の練馬区桜台に移転をはじめ、昭和53年に完全に移転が完了しました。
移転前の下谷には、徳雲院、宋雲院の2院が現存しています。




開山は北条氏政の子である岩槻城主・太田氏房が明叟和尚を小田原に招いたことによるもので、小田原城が落城したとき(1590年)に焼失したと伝えられています。




現在の境内は都内にあるとは思えないほどの雰囲気を持っています。
石神井川に沿った高台に位置し、まるで山奥のような雰囲気もあります。ナラやケヤキ、松の樹木のほか、竹林に見事に茂っています。
禅寺としてまさに最適な環境で、静寂そのものの環境です。



本堂の裏には広徳寺共葬墓地があります。
剣法の指南役として有名な柳生宗矩、三厳(十兵衛)父子の墓、徳川将軍家の茶道指南役で庭園築造にも事蹟のあった小堀遠州の墓の墓をはじめ、会津藩主・松平氏、柏原藩・織田氏、阿波藩・蜂須賀氏らの旧大名の墓石もあります。

その他にも、文禄・慶長の役で活躍した立花宗茂、江戸時代の詩人・菊池五山、菊池秋峯、大内熊耳などの墓所もあります。



禅の修行場でもあるからでしょうか、広徳寺境内は参詣謝絶となっています。

そんな広徳寺を骨で聴きます。
米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットを使い、禅の修行場の静寂を耳だけでなく骨からも聞きます。
都会の住宅街で異質な空間を堪能できます。

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東神社を骨で聴く

2016-01-12 11:53:50 | 骨で聴く巡礼旅
1912年(大正元年)に設立した神社なので、歴史があるわけではありませんが、知る人ぞ知る神社です。
教派神道の一派である神道枎桑教に属する神社で、名称が東神社です。
「冨士講」を「冨士一山教会」に統合し、1882年(明治15年)に教派名を「神道枎桑教」と命名して誕生しました。

練馬の街中に鎮座しています。
1912年、皇居の北西(戌亥)の方位にあたる現在の東京の練馬にある豊玉の地に、天津神の天照大御神と、国津神の八大龍神を奉戴し鎮座したといいます。




町の鎮守様というわけではなく、街中にあるからといってよく目にする神社ではありません。
日本古来の神道が本来的に受け継いできた鎮魂のお伝えを実践していくのが目的で、東神社のページから引用させていただくと、「『言霊』と『中今』と『鎮魂』をキーワードに、人間が自ら心を開放し、魂を調え発揮する方法として、古来より伝承されてきた鎮魂作法と神道の本来のあり方を、志ある方にお伝えしています」とのことです。

何といってもここではお水取りです。
特に金融関係に不思議な霊験があると有名でなのです。

境内の中央に『開運出世金融祈願』の石塔があります。この石塔は東西南北の方向によって文字が刻まれています。この塔の頭部から天明神水が流れています。この水は飲料も出来るようです。

とにかく不思議な雰囲気です。

祭神は天照大御神と八大龍神です。
八大龍神とは霊峰富士山を本宮として鎮座する、「神仏両道」に通じる守護神で、仏法の法華経では八大龍王とも称し、釈尊の眷属として無限なる力を発揮する守護神だそうです。



練馬の喧噪から少し離れ、異世界を体感できるのは間違いありません。
いつものように世界最先端技術がつまった骨伝導機器でこの異空間を骨で聴きました。

下北沢ルルドの泉を骨で聴く

2016-01-06 14:47:10 | 骨で聴く巡礼旅
世田谷区の下北沢で意外な穴場ともいうべき聖地へと向かいました。
下北沢カトリック教会にあるルルドの泉です。

場所はスズナリ劇場の裏側に位置します。
ところでスズナリ劇場といえば、小劇場演劇専用の劇場で、本多一夫の意志により、自宅近くのアパート「すずなり荘」の2階部分を改築することで、自身が主催する俳優養成所「本多スタジオ」の稽古場として誕生しました。本多劇場グループ系列で最初の劇場になります。
現在、下北沢が「演劇の街」とも呼ばれていますが、その起源となったのが、この歴史的なスズナリ劇場です。

そんな劇場のまさに裏手にカトリック教会はあります。
道路側から見ると、どこにでもある教会のようですが、坂を上り、裏庭に出るとそこは別世界です。





1858年2月11日、フランスのルルド村の少女・ベルナデッタ・スビルー(ベルナデット・当時14歳)が郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、聖母マリアが出現しました。
ベルナデッタは目の前に現れた若い婦人聖母とは思っていませんでしたが、この出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始めるようになりました。

聖母はベルナデットに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言いました。
近くに水が無かったため、近くの川へ行こうとしたとことろ、聖母が洞窟の岩の下の方へ行くように指差しました。
そこは泥水が少し湧いている場所でしたが、次第にそれは清水になって飲めるようになりました。これがルルドの泉の始まりです。のちにその泉の水は病を癒やすと評判になっていきました。




下北沢のカトリック教会には、このフランスのルルドの泉を再現したような場所があります。
喧噪の下北沢の街中に隣接する場所です。ここに足を踏み入れるだけで異空間にさまよい込んだ気分になります。
何ともいえない荘厳さです。



再現されたルルドの泉ですが、実は洞窟に泉はありません。
それでも下北沢に突然現れたこの空間は、わざわざ見に行くだけの価値があります。

今回も骨伝導巡礼として、音声増幅器のきくちゃんと骨伝導ヘッドホンをお供にしました。この不思議な空間を骨で聴きます。
集音マイクでとらえる音声は街のものです。それもごくかすかです。
しかし、耳だけでなく骨から聞こえる音声には、なぜか聖母の声が届いてきそうな気分にもなります。

米軍採用・特許技術の骨伝導機器の威力をルルドの泉で感じます。
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少林山達磨寺を骨で聴く

2016-01-04 11:56:51 | 骨で聴く巡礼旅
「鉄のモニュメント」(1910年)、「ガラスの家」(1914年)などの作品で世界的評価を受けた表現主義の建築家・都市計画家ブルーノ・タウトのデスマスクが眠る少林山達磨寺。

世間一般では七草大祭だるま市で知られ、テレビの中継もこのときに集中する寺院です。
しかし、ブルーノ・タウトの逸話や、その歴史など、実はかなり興味深い場所でもあります。
新年最初の骨で聴く巡礼旅は、この少林山達磨寺からスタートします。

ブルーノ・タウトといえば、桂離宮を世界に広めた最初の建築家としても知られ、当初は京都、次に仙台で日本での仕事をしていましたが、井上房一郎の招きにより、高崎市に移りました。
この期間が約2年間で、達磨寺境内の洗心亭で過ごしていました。ここでは、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かした作品を発表したり、東京・銀座の工芸品の店「ミラテス」で販売を始めたりしました。日本橋の丸善本店と大阪大丸では「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」の開催もありました。

しかし本来の建築家としての仕事では、日本国内ではあまり恵まれませんでした。
1936年、トルコからイスタンブール芸術アカデミー建築科教授、兼政府最高建築技術顧問としての招聘があり、建築の仕事が出来るということで日本を離れることになりました。

送別会の挨拶でタウトはこう言ったといわれます。

「私はもはや健康ではない、再び日本に帰ることはできないだろう。日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山に埋めさせて頂きたい」

イスタンブールでは日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍しましたが、1938年、気管支喘息のため死去しました。タウトの遺体はエディルネ門墓地に葬られましたが、タウトの遺志を果たすため、翌年9月15日にデスマスクを少林山に納めました。



タウトが滞在していた洗心亭には碑があります。

「Ich libe die Japnische Kultur」

さて、この達磨寺ですが、かつては前橋藩酒井公の領地でした。その時代には観音を祀る草葺きの小さなお堂があっただけでした。
十一面観世音菩薩像で、行基の作といわれ、厄除け・安産・子授けなどに御利益があるとされていました。そのため、小さなお堂だけしかないにも関わらず、参拝者が絶えなかったようです。

延宝年間(1673―1680年)、このお堂の前を流れる碓井川が氾濫し、大洪水となりました。
水が引けたある夜、村人が川の中に何やら怪しく光る物を見つけ、不思議に思った村人達は夜が明けるのを待って調べてみました。

すると、奇異な形の黒光りする大きな古木であることが分かり、引き上げてみると、お香のような良い香りまでしました。
これを霊木として観音堂に奉納しておきました。

延宝8年(1680年)の春、この地に一了という老行者がやってきました。
村人がここに来た訳を尋ねると、一了は不思議な夢の話をしました。

それによると、ある時、達磨大師が夢枕に立たれて言われたそうです。

「一了よ、鼻高の聖地に霊木があるから、坐禅をしているこの私の姿を彫りなさい」

鼻高というのは、当時の村の名前です。
一了はこの夢のお告げの通りにここへ来たというので、村人はすぐにあの霊木だと気がつきました。すぐに観音堂に案内しました。
一了は感激し、沐浴して身を清め、信心を凝らして、ひと彫りするごとに五体投地の拝礼を三度する、一刀三礼という最高の彫り方で四尺ほどもある達磨大師の坐禅像を彫り上げました。

完成した達磨像を観音像と並べて安置しようとしましたが大きすぎて納まりませんでした。
そんな時、碓氷川に朽ちて大きな穴の開いた大木が流れついたので、村人達はまた観音堂に運びました。
一了は達磨大師の厨子に丁度良いのではないかと思い、入れてみると不思議にもぴったりと納まりました。

村人達は

達磨大師が鼻高に現れた! 

と噂をするようになりました。
そのため、達磨座像の噂は、たちまち近郊近在に知れわたりました。

「活然大師(達磨大師)出現の霊地」

といわれるようになり、村の人達が「少林山」と呼ぶようになったそうです。

当時の前橋藩では第5代藩主・酒井雅楽頭忠拳でしたが、たまたま領地巡見の際にこの霊勝を知り、少林山の達磨像に参拝し、ついにここに寺を建てることを発願しました。
厩橋城(前橋城)から見て裏鬼門の方位に位置していることから、まさに絶好の場所でした。

しかし、幕府の方針で新しく寺院を建立することは厳しい規制がありました。
そこで酒井雅楽頭忠拳は、宗教政策を進めていた徳川光圀、いわゆる水戸黄門に進言することにしました。
その結果、水戸の天徳寺(後の祇園寺)で曹洞宗寿昌派を興した中国からの渡来僧・心越興儔禅師を少林山に迎え、禅の道場を開くことにしました。

ところがそう簡単には実現できませんでした。
元禄7年、心越禅師は病に倒れ、翌8年に遷化されてしまいました。
そこで、元禄10年に心越禅師の法嗣で高弟の誉れ高い天湫和尚を向かえ、「少林山達磨精舎」と名付けました。名目上は、寺院ではなく、禅の道場として開創したのです。

そのため草創の頃は「少林山達磨寺」という名称は使えず「少林山達磨精舎」「少林山達磨禅窟」「少林山達磨禅刹」などと称していました。

中国曹洞宗の流れの道場として建てられた関係で、今でも日本的寺院という雰囲気ではなく、中国的な雰囲気が保たれています。

享保16年(1731年)長年の念願であった寺院に昇格することができました。
今でもありそうな裏技で、それが実現できたのです。
そのからくりとは、現在の高崎市箕郷町富岡にある長純寺の末寺・鳳台院の伽藍が川の氾濫で倒壊し、境内地も押し流されてなくなってしまいました。このときに水戸の祇園寺の進言で、その名義を譲り受けるようにしたのです。
この離れ業により少林山鳳台院達磨寺となりましたが、のちに現在の少林山達磨寺となりました。
宗教法人が売買される現代と共通するような逸話といえるかもしれませんが、達磨寺の場合は、そのおかげで名実ともに寺院となれたことは歴史的に意味のあることといえます。



達磨寺の境内で最も古いのが観音堂です。
開創のころは黄檗鉄眼版の一切蔵経を納めた「無尽法蔵」という名称の経蔵で、寛政4年(1792年)に大改修が行われ、開山・心越禅師が中国より奉持された尊星板梓と北辰鎮宅霊符尊をお祀りする霊符堂となりました。
古びた感じがなかなかの雰囲気を出しています。

この達磨寺は黄檗宗です。
インゲン豆でおなじみの隠元禅師によって開かれ、本山は黄檗山万福寺です。全国に450ヶ寺の末寺があるといわれますが、同じ禅宗でも臨済宗や曹洞宗と異なり、あまり馴染みがないかもしれません。

そんな達磨寺を骨で聴きます。
初詣客で賑わう境内で、中国風の銅鑼の音が響きます。
耳だけでなく骨からも脳に伝えることで、この寺院の歴史やブルーノ・タウトのことも考えてみるのも良い気がします。

また高齢者の参拝には安全性も含めて骨伝導音声増幅器のきくちゃんの活用もおすすめです。
人込みの中でスマホで通話するなら、耳に入れるだけの簡単装着・骨伝導イヤーマイクEM21もおすすめです。

少林山達磨寺、ぜひ骨伝導機器とともに訪れてください。

武蔵野稲荷神社を骨で聴く

2015-12-25 14:27:22 | 骨で聴く巡礼旅
一般に怨霊は直進するため、怨霊を祀った神社は封じるために参道を直角にまげたりします。

西武池袋線江古田駅のすぐ近く、線路に隣接した武蔵野稲荷神社は、駅から向かうと鳥居を潜ってから直角に二度曲がります。
参道に入口のあるマンションに沿って、左に90度、次に駐車場に面すると右に90度曲がります。








参道は落葉樹が茂り、都会でも季節感たっぷりです。
本殿、拝殿、随神門は一直線に結ばれ、ここから先は完全に異世界に入った気分にさせられます。小さいながら、なかなか見事に荘厳さがでています。
摂社も右手に並び、その先に西武池袋線が走っているとは信じられないほど、洗練された空間になっています。



創建年代は不詳です。
現在、本殿の建っている小高い塚は、瓢箪塚あるいは割塚とも言われていました。

この塚ですが、文明9年(1477年)に江古田・沼袋の戦で太田道灌によって滅ぼされた豊島軍の死者を葬った豊島氏の塚という伝説があります。真偽のほどは不明ですが、かなり古い塚であるのは確かです。

この塚の守り神として稲荷が祀られたと考えられています。この塚には白狐が十数匹も棲んでいたので白狐塚ともいわれ、ある時死んだ子狐を埋めて供養し幼児がよく育つようにと祈ったのが子守塚だといわれます。

もし豊島軍の死者を葬った塚であれば、太田道灌側からすれば怨霊になりうる要素もあります。
それで丁寧に参道を二度も直角に曲げたとすれば、この戦はもしかしたらかなり卑怯な手を使ったとも想像できます。

もちろん、この参道は現在の整備された状態のもので、しかも西武線がすぐ横を走るロケーションから考えると、本来の参道の位置と異なっている可能性もあります。練馬区の古い資料を探せば、あるいはそれが事実ということになるかもしれません。

ちなみに、千川通り側にも鳥居があります。



こちら側は駐車場への入口のすぐ横に鳥居があり、かなり立派です。

この武蔵野稲荷神社は明治、大正、昭和と、商家、歌舞伎役者、馬主、事業家等の信仰を集めてきました。
大学の多いこの街で、現在でも参拝者が多く訪れます。

交通量の多い千川通り、西武池袋線、そんな喧噪の中でそこだけ異世界を形成している武蔵野稲荷神社は、やはり騒音対策と癒しを両立できる骨伝導製品が似あいます。
米軍の爆音の中でも通話を可能にした骨伝導ヘッドセット、耳に入れるだけで周囲の雑音を入れずに通信できる骨伝導イヤーマイク、耳の遠くなったにも拘わらず補聴器を嫌がる高齢者に最適な骨伝導音声増幅器きくちゃん、すべてが集約できる場所です。

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個人的にはこの武蔵野稲荷神社には30年以上前から思い出があります。
この「骨で聴く異世界」も9年ですが、今まで取り上げなかったことが不思議です。




新富稲荷神社を骨で聴く

2015-12-24 12:21:27 | 骨で聴く巡礼旅
ビルの谷間にある朱色の鳥居をくぐると、すぐに目にする文字は「奉納 坂東三津五郎」の小さな神社に参拝にいきました。
新富稲荷神社です。

場所は東京メトロ有楽町線の新富町駅から築地橋を渡り、新富座跡の先になります。京橋税務署の裏側になり、鉄砲州神社の子社といわれています。当初は赤丸稲荷として伝えられるているそうです。




銀座のすぐ隣に位置する場所で、税務署や中央区役所などが近くに立ち並んでいるせいか、現在では想像できませんが、明治維新後、この一帯には築地新島原遊郭が作られていました。
新富稲荷神社は遊郭の中万字楼前にあったため、中万字稲荷と称されていたようです。しかし、遊郭が廃止された後は神社も存在感をなくし、明治8年に新富町に守田座を移転する際に、17代・守田勘弥が再建したようです。しかし明治16年に焼失し、団十郎左団次の主唱で再築されたという歴史があります。

とても小さな都会の神社です。



存在感がないようでいて、何故か目立つのは、鮮やかな朱色の鳥居や社だけでなく、この神社の歩んできた歴史も関係しているのかもしれません。
鳥居から短い参道は直角に右に曲がる構造になっています。大怨霊を祀る神社は参道が折れ曲がっているといいますが、ここの場合は、おそらく小さな都会の土地の関係ではないでしょうか。それとも知られざる怨霊秘話があるのでしょうか、分かりません。

こんな都会のエアポケットのような場所に鎮座する新富稲荷神社を骨で聴きます。
喧騒とセットになった都会の神社では、やはり耳だけでなく骨でも聞く骨伝導ヘッドセットとの相性が抜群です。
歴史好きの高齢者なら、安全性確保のために骨伝導音声増幅器を使うのも良いでしょう。

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下北沢・踏切地蔵を骨で聴く

2015-12-23 13:27:08 | 骨で聴く巡礼旅
京王電鉄の井の頭線と、小田急電鉄の小田原線が乗り入れ、両事業者の共同使用駅である下北沢駅は、新宿へも渋谷へも1本でアクセスできることから都内の私鉄の駅では屈指の乗降客の規模を誇ります。
しかし駅名の「下北沢」は、行政地名としては現在、存在していません。駅の所在地は東京都世田谷区北沢になりますが、かつてはこの周辺は下北沢村と呼ばれていました。

この下北沢駅を小田急線で西に向かうと世田谷代田駅になります。小田急でもこの区間は駅間が短いのですが、世田谷代田駅までの区間で以前は踏切がありました。一番交通量が多かったのは、おそらく鎌倉道の踏切かと思いますが、その手前、下北沢駅よりにも踏切がありました。下北沢2号踏切でした。

現在のこの区間は小田急線が地下になっているため、踏切はありません。
この踏切跡地の南西のところに、地蔵尊が祀られています。

をまもり地蔵といい、別名は踏切地蔵です。

小田急の開通後の昭和11年、踏切で亡くなった子供たちなどの慰霊のために建立されたものだそうです。
確かにここが踏切だった頃を思うと、下北沢の繁華街から閑静な鎌倉道側の住宅街に抜ける道路で、しかも斜めに横切るような見通しの悪さがありました。しかも小田急線はロマンスカーをはじめ、多くの電車がここを通り過ぎていきました。代々木上原で地下鉄千代田線と別れますが、この区間は上り方面の電車はすべて通過していたわけです。

現在は踏切もなく、線路跡地の工事現場の横に建っています。
今は新たな街に生まれ変わろうとする下北沢の工事現場の安全を願っているかのようです。

ここの踏切で起こった悲しい事件を人びとは後世に伝えようとして、「一万五千余名ノ賛同ヲ得」た地蔵尊ですが、同じような地蔵尊は学芸大学駅近くにもあります。
碑文谷公園の南端で、現在では東急東横線が高架で走っていますが、ここも以前は踏切で、多くの子どもがなくなり、地蔵尊を建立したようです。

目黒では高架化により、下北沢では地下化により、何だか置き去りにされてしまったような印象もあるかもしれませんが、踏切という危険と隣り合わせのものが日常生活に入り込んでいた事実を決して忘れてはいけません。

まだソ連だった時代、ゴルバチョフ書記長だった時代、シベリア鉄道で旅したことがあります。
そのとき、広大な「何もない世界」を貫いていた場所を疾走していたとき、とんでもない田舎道が立体交差しているのを見て驚いたことがあります。社会主義国家だったソビエト連邦のシベリアでも、踏切を回避していたのを目にしたのです。
当時は西武池袋線も新宿線も環状八号線は渡るのは踏切でした。

この差は何だとろう? 素朴な疑問でした。

そんな疑問をもったまま、改めて下北沢の踏切地蔵を骨で聴きます。
周囲の音声を耳だけでなく、骨伝導でも聞きます。

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送料無料や全額返金保証などもあります。
踏切の音を骨伝導で聴きましょう! 

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骨伝導巡礼では有名・無名は問わず、様々な場所へ訪れていきます。
今回のような場所でも、骨伝導と旅することが価値あることだと思っています。



深川神明宮を骨で聴く

2015-12-22 14:22:09 | 骨で聴く巡礼旅
東京で「深川」といえば、深川丼(深川めし)が名物として知られます。
アサリ、ハマグリ、アオヤギなどの貝類とネギなどの野菜などを煮込んだ汁物を米飯に掛けたものや、炊き込んだものになります。もともとはアサリではなく、江戸の深川近辺で大量にとれたバカガイ(アオヤギ)を用いたのが起源にようです。
現在のようにアサリを使うようになったのは明治・大正頃だといわれます。

さて、その深川ですがこの地名の由来は人名からきています。
慶長元年(1596年)、徳川家康がこの地域を巡視した際、深川八郎右衛門を呼びよせ地名を尋ねました。

「まだ住む人も少なく地名もない」

と応えそうです。
そこで家康は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じたという伝承があります。

以来、深川の地は江戸の繁栄とともに賑やかな町となりました。地名の由来となった深川氏はこの地を開拓し、その功績により代々深川二十七ヶ町の名主を務めました。
その深川氏は宝暦7年(1757年)に7代で断絶してしまいました。墓所は菩提寺の泉養寺で、現在の千葉県市川市国府台です。

まだ「地名もない」といわれていた時代、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州だっといいます。
深川八郎右衛門が一族を引き連れてこの地に移り住んだことで、この土地の開拓に着手しました。
また八郎右衛門は信仰心から、屋敷のうちに小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の分霊を祀りました。開拓民の幸せと、深川の地の発展を祈念したといいます。

この屋敷内の小さな祠こそ、現在の深川神明宮の起源です。
深川の地が発展していき、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮と称せられるようになりました。地域の人たちから多くの崇敬を集めるようになっていきました。

現在は交通至便な場所に鎮座していることになります。
都営新宿線・大江戸線「森下駅」で下車して徒歩2分、東京メトロ「清澄白河駅」からも徒歩5分という便利な場所です。

境内は広いわけではなく、都会の神社という雰囲気ではありますが、深川を代表する神社だけのことはあって、清々しい空気に包まれている感じがします。ただし周囲は静寂というわけにはいかず、都会の喧騒のすぐ隣といった雰囲気です。

やはりそんな都会の神社には骨伝導ヘッドセットが似合います。
高齢者の参拝者であれば、集音マイクとともに使える音声増幅器の「きくちゃん」、バイクで参拝に訪れる方にはヘルメットを骨伝導スピーカーに変えるBUHEL、スマホでユーザであれば骨伝導イヤーマイクEM21などがお勧めです。

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初詣に限らず、由緒ある神社には気が向いたときに出かけたいものです。
その土地に眠るエネルギーを浴び、癒し効果が発揮されるような気がします。特に深川はその開拓のパワーが漲っているような感じがします。



中瀬天祖神社を骨で聴く

2015-12-14 17:24:20 | 骨で聴く巡礼旅
奇妙な石の御神体で、知る人ぞ知る霊験あらたかな中瀬天祖神社。
耳に装着するだけでマイクになる! 世界初の技術を応用したスマホ用骨伝導イヤーマイクEM21とともに参拝に行きました。

東京の杉並区にある妙正寺池の北西に鎮座しています。

 → 妙正寺を骨で聴く

妙正池公園の北出口を出ると周囲は閑静な住宅街です。北側から斜めになっている街路に入り、道なりに左へカーブすると神戸坂とよばれる急坂があります。その坂を登りつめた所の左手にわずかですが木々が生い茂る場所が見えてきます。そこが中瀬天祖神社です。

都会の住宅街にある小さな神社です。
境内には質素な本殿と、すぐ右側に赤い稲荷社が建っています。



この神社を稀有な存在にしているのは、冒頭に記した「奇妙な石の御神体」です。
伝説が残っています。

ある時、所沢か田無あたりの百姓が江戸からの帰り道、手車が空車だと引きずらいので重しの石を2,3個積んで、神戸坂にさしかかりました。このとき、急に激しい腹痛を起し動けなくなってしまいました。
近所の人が妙正寺に担ぎ込み 和尚に祈祷してもらったところ腹痛は治りました。和尚がふと手車に乗せてある 男根状の石を見て、

「これは不思議な石だ。この地に安置されたいために腹 痛を起させたに違いない」

と言い、の石を十羅刹堂に納めることにしました。
それから 何十年か後、青梅から江戸へ炭を運んでいた馬方が神戸坂に差しかかった時、 道端の男根状の石を見つけ、たいした荷物にはならないと思い持ち帰ろうと馬に背に乗せて鞍に結びつけました。すると半丁(約50m)も行かないう ちに急に馬が動かなくなりました。

馬方が馬を見たところびっしょり汗をかいて 苦しそうに息を弾ませていました。馬方は驚いて、

「これはただの石ではない、 触らぬ神に祟りなし」

といって、元の場所に戻したところ、馬はたちまち元気に歩き出すことができました。
村で一番物知りと言われる組頭の四郎右衛門さんが、この霊石を元通り祠へ納め、

「わしが若い頃に拝んだ時より、生気が満ち満ちていて 大分大きくなっているようだ、この石と十羅刹様を拝めば陰陽がかね備わっ て子宝が授かる」

と皆に話しました。その後、世継ぎの神様として霊験あらたかだと評判になったという伝説です。

もともとこの天祖神社には、十羅刹堂という堂宇があり、俗に”じゅうらせつ 様”と呼ばれていたといいます。
十羅刹とは元は人を食う悪鬼であったが、後に 法華経を守る守護神となった十人の羅刹女のことです。ここには男根状の 不思議な石が御神体として祀られているのは、この伝説によるものだそうです。

子宝の神として信仰され、明治維新の神仏分離令により仏である十羅刹は妙正寺へ遷され、霊石は大日霊女貴神(天照大神の別の尊称)の御神体として神殿に納められ、 社名も現在の中瀬天祖神社に改められたという話です。

すぐ北側には早稲田通りが東西に走っている場所です。
目立つほどの規模もなく、何の変哲もない鎮守様のようですが、なんとも興味深い伝説に彩られているので、わざわざ参拝に行く価値は十分にあります。

ここでスマホに骨伝導イヤーマイクを装着して、仕事の電話を。
霊験あらたかな聖地と奇妙な石に包まれ、次の商談がうまくいくことを確信しました(?)

スマホ装着の骨伝導イヤーマイク・イヤホンは、骨で聴く.com 9周年記念キャンペーンで現在送料無料です!
奇妙な石とともに、ぜひ年内に手に入れましょう!

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天沼八幡神社を骨で聴く

2015-12-10 11:13:14 | 骨で聴く巡礼旅
JR中央線、総武線(緩行線)、地下鉄東西線、地下鉄丸の内線の荻窪駅北口から青梅街道を渡り、「天沼八幡通り」に入ると整然とした商店街になります。 商店街アーチや街灯はしっかりありますが、店舗数は多くありません。それでも人通りはかなりあります。
商店街というより地域の通行路といった印象を持ちます。

荻窪駅から徒歩で、約6分程度で、「天沼八幡通り」の先に鎮座する天沼八幡神社に到着します。
この通りはいわば参道のような役割を担っているといえます。

天沼八幡神社はの創建は天正年間(1573-1591年)といわれます。この地の「鎮守さま」として親しまれてきました。

創建した時代は徳川家康が江戸に幕府を開く頃です。
源氏を初めとした武勇の守護神として八幡神は各地で信仰されいますが、当時の天沼村にも同じような理由で勧請されたのかもしれません。

新編武蔵風土記稿(1828年)によると、この天沼村は江戸麹町山王権現(現在の赤坂日枝神社)の社領だったようです。
そのせいか、境内末社に日枝神社があり、おそらく天沼村が山王権現の社領であったことを示しているのではないかと思われます。

位置的に幕府の裏鬼門を鎮守していることから、徳川家の繁栄と安泰を祈願した神社だったようで、社領からの年貢もかなり優遇されていたようです。

現在の荻窪駅周辺ではあまり想像できないかもしれませんが、この周囲は低地のため、大雨が降ると辺り一面が水浸しとなる場所でした。しかし、この八幡神社はそんな心配のない高台に鎮座しています。これはわざわざ選んだ場所ということだと思われます。



現在の本殿は昭和52年に鉄筋コンクリート造りとし造営されたものです。
境内そのものそれほど広くありませんが、それが逆に本殿の存在感を示しているようです。

青梅街道沿いには、荻窪から先、環八を越えると荻窪八幡が鎮座し、さらにその先の早稲田通りと交差する場所には井草八幡というい巨大な神社が鎮座しています。青梅街道そのものを軍事的な意味で守護しているような印象を持ちます。

今回はクルマが疾走する青梅街道から入ったことで、騒音より生活の奏でる音声に包まれた神社を骨で聴きます。
耳だけでなく骨の振動が脳に伝えることで年末の慌しさから一瞬、解放された気分になります。

折りしも骨で聴く.comが9周年記念キャンペーンを実施しています。この機会に骨伝導のパワーを使って、日常空間に隣接する聖地に音声を聴くのはいかがでしょうか。

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