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骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

浄慶寺を骨で聴く

2016-05-12 15:44:41 | 骨で聴く巡礼旅
川崎市で「あじさい寺」の異名で親しまれている淨慶寺へ、米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともに訪れました。
川崎市麻生区の南西部、町田市との境に近い丘陵部に位置します。

6月から7月にかけての時期であれば、3000株の「紫陽花の名所」としてすごい景観を見せてくれるでしょう。今はまだ紫陽花の季節ではなく、あふれる緑に囲まれた状態です。




元和元年(1615年)の開山の浄土宗寺院で、本尊は阿弥陀如来です。
ここは紫陽花だけでなく、境内で多く目にすることができる羅漢にも注目です。





とにかくユニークな羅漢に囲まれた境内はそれだけで楽しく、微笑ましくもあります。



自然に包まれ、ユニークな羅漢と一緒に骨で聴きます。
携帯電話を手にしいる羅漢もいるので、ぜひ骨伝導ヘッドセットをお勧めしたくなります。
残念ながらヘルメットをかぶった羅漢はいなかったのですが、バイク用インカムと骨伝導ヘッドセットを一緒にお得に購入してみては、いかがですか? 羅漢に声かけたくなるのもこの寺院の雰囲気からです。

米軍採用・特許技術の骨伝導製品へ


太田市・伊勢神社を骨で聴く

2016-05-09 13:29:31 | 骨で聴く巡礼旅
東武伊勢崎線太田駅から南東方向へ行った場所に、小さな伊勢神社が鎮座しています。

鎮守の森もないので、目立たず、ひっそりとした感じです。
鳥居を潜ると、すぐ右側には「乳いちょう」があります。




乳の出ない女性が、乳が出るように願をかける銀杏の老木がそのように呼ばれたり、あるいはそれに関する伝説が残っていたりします。

参道は短いながら真っすぐで、正面い社殿があります。
この伊勢神社には、藤原秀郷の伝説があります。



秀郷が平 将門を討つため、宇都宮の二荒山神社に参詣し戦勝祈願をしました。
その後に上野国(現在の群馬県)に入り、この伊勢神社に立ち寄って参拝しました。
伊勢神社で秀郷が参拝を終えると、空木の弓で、竹の矢を射りました。その矢は何と、はるか遠い武蔵国まで飛んだとといわれています。
このことから、「伊勢神社の弓引き祭り」とし、現在まで続いているそうです。

有名でもない、小さな神社ですが、隠れた伝説が残っているところが魅力的です。

鈴木稲荷・瘡守稲荷・妙力稲荷を骨で聴く

2016-05-08 11:00:05 | 骨で聴く巡礼旅
神奈川県川崎市で、生活道路として初めて開通したトンネルをご存知でしょうか。
小田急線柿生駅の南側で、柿生中学校の建つ高台の下にあった柿生トンネルです。昭和26年(1951年)に開通しましたが、現在は跡地になっていて、完全な切通しの道に変わっています。

トンネルが取り壊されたのは、昭和53年(1978年)で、現在は小さな案内看板だけ立てられています。
このトンネル跡地を示す案内看板の向かい側で、住宅に挟まれた狭い場所にひっそりと鳥居がたっています。



正一位を授けられた稲荷神社で、鈴木稲荷、瘡守稲荷、妙力稲荷と、複数の名を持っています。




狭い参道が一直線に続き、すぐに丘陵の斜面になります。
ここで石段となり、登り切った場所が狭いながら平坦な場所になっています。
この狭い空間に社殿があります。



鈴木稲荷神社の名称になっている「鈴木」とは、この土地に住む「鈴木」姓の人々のことと思われます。
古来より熊野地方の神官職を務め、紀州藤白(現和歌山県海南市)に移り、戦国時代の傭兵部隊「雑賀衆」を組織した一族を子孫に持つといわれています。
神社の名称となった「鈴木」ははmこの地へ移転してい来た子孫たちが故郷や先祖を敬う意味合いで建てたものだといわれます。

また、別名になっている「瘡守」は、皮膚病から身を守るという意味があり、二子玉川の稲荷社でもこの名称がありました。

最後の「妙力」は、日蓮宗でいう妙法の四力という意味で、仏力、法力、信力、行力の四つが合わさることではじめて成仏できるとされているものです。古来から続く神仏混合の名残なのかもしれません。


わざわざ遠くからこの神社へ参拝に来る人はまずいないでしょうが、消えたトンネルの跡地を見守る小さな稲荷神社は、何とも言えない魅力にあふれています。
米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともに、参拝するをお勧めします。

骨伝導ヘッドセットはここまでの高性能で!

妙満山大慶寺を骨で聴く

2016-05-06 11:08:25 | 骨で聴く巡礼旅
ぼたん寺として有名な大慶寺へ、米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともに訪れました。
残念ながら、今年はぼたんの花の見ごろは終わり、藤棚も寂しい状態でしたが、なかなか興味深い寺院でした。

牡丹の咲きほこる時期は4月下旬から5月上旬ですから、まさにタイミングは良い時期でしたが、今年は異様に早く終了してしまいました。最盛期には大型観光バスもやって来るほどらしいですが、花が終わった今、ひっそりとしつつもゴールデンウィークらしく観光客もいました。




真言宗豊山派の寺院で、牡丹の名所である初瀬山に本堂があることから、花の御寺として知られ、「東国花の寺百ヶ寺~群馬2番札所」になっています。150種以上7,000株といわれているそうです。



場所柄、源氏のp新田氏と関係の深い寺院です。

寺伝によると、源義朝の長男・義平は新田義重の娘婿といわれ、鎌倉悪源太と称されましたる。
平治の乱には父に従い平清盛を討とうとしましたが、戦いに敗れ越前に逃れました。

越前で父の死を知り、急きょ京に引き返し清盛の暗殺を企てたものの、捕えられ六条河原で切られました。

永暦元年(1160年)源義平没後、その妻が父新田義重を頼り、世良田郷に住み、後に綿打に移り夫の冥福を祈り菩提を弔うため出家して、妙満尼となり治承4年(1180年)に一庵を結びました。

これが、妙満尼を大慶寺の開基とし山号を妙満山と称したことになります。



その後、南朝の維持に力を尽くした綿打入道爲氏の館が建てられ、明徳5年(1394年)に現在の栃木県足利市にある小俣鶏足寺から明源房空覚上人を招聘して、中興開山第一世として大慶寺を建立しました。

牡丹の花が終わり、藤の花も見ごろを終えていましたが、歴史的にも興味を持つ寺院でした。
こんな場所で骨伝導ヘッドセットを使います。
喧騒が終わった時期には、癒し効果の骨伝導かもしれません。

米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットへ

麻生区・白鳥神社を骨で聴く

2016-05-02 11:15:34 | 骨で聴く巡礼旅
川崎市麻生区白鳥は、地名の由来となった白鳥神社が鎮座しています。
白鳥神社は国内各地にあり、関東地方では13社あるようです。

今回、米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともに訪れた川崎市の白鳥神社は、ある意味でレイラインの出発点といえます。
ここから、埼玉県小川町の白鳥神社、群馬県東村の白鳥神社を結ぶラインです。北北西24度の角度で一直線となっています。

神社にはレイラインが多くありますが、ここは渡り鳥の飛来行路との接点として検証の対象になっているそうです。

さて、川崎市麻生区の白鳥神社ですが、創建年代等は不詳ですが、慶長年間(1596年~1615年)の棟札があったようで、当時の片平村・五力田村の鎮守社だったのは間違いなさそうです。
明治44年に片平村内の六社を合祀し、翌年には五力田村の六所社・諏訪社を合祀しました。



白鳥神社の社名は、日本武尊の魂が大白鳥となって天かけたという故事に依ります。
従って当然ながら祭神は日本武尊です。



鎮守の森には杉の大木もあり、とても落ち着いた空間です。尻手黒川線の道路に沿って鎮座していますが、参道は道路からは斜めの位置関係になり、参道は一直線に伸びています。
城跡のような少し高台の位置に社殿があり、そこだけ切り取られたように平地になっています。

ゴールデンウィークはどこの観光地も込み合います。
こんな鎮守にゆっくりと参拝するのも良いのかもしれれません。
ただその際には骨伝導ヘッドセットをお忘れなく。

米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットへ

鶴ヶ曽根上久伊豆神社を骨で聴く

2016-04-28 10:12:31 | 骨で聴く巡礼旅
埼玉県八潮市は県南東部に位置し、海抜は概ね3メートル前後の平坦な地形の都市です。
東京都と隣接しているためベッドタウンの要素は多いものの、昔ながらののどかな風景も残っています。

そんな八潮市の比較的のどかな場所に鶴ヶ曽根上久伊豆神社は鎮座しています。



すぐ東側を流れるのが中川で、別名を古利根川ともいいます。
この川は寛永年間(1624~1644年)までは利根川の本流でした。この地域は、かつての利根川の自然堤防上に発達した集落でした。
集落の名称が鶴ケ曾根で、至徳4年(1387年)の「大中臣長房譲状」(香取文書)に記述が残っています。「鶴ケ曾根の関」と呼ばれる関所があったようです。
また、この地域には数多くの板碑が現存しています。村落の開発の古さが分かります。

鶴ヶ曽根久伊豆神社は、文禄3年(1594年)の勧請といわれています。
祭神は大己貴命で、のちに鶴ヶ曽根村の鎮守として祭祀され、真言宗薬王寺が別当を務めるようになりました。



明治時代の神仏分離令で独立社となり、村社に指定されました。
当時は境内に松が多く植えられていたようで、明治40年の八條唱歌に「右は久伊豆 松繁み 夏の盛りも暑からず」と歌われるほどだったようです。現在は鎮守の森も少なく、さっぱりとした印象の境内ですが、境内の松の根から、往時の松の大樹を偲ぶことができます。

そんな鶴ヶ曽根上久伊豆神社を骨で聴きます。
何だか懐かしい風景のように感じるのは、日本人の原風景に似た印象を持つからかもしれませんが、さらに周囲の音声を耳だけでなく骨で聴きます。
米軍採用・特許技術の最先端の骨伝導ヘッドセットで、さらに懐かしい音を感じます。
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金神神社を骨で聴く

2016-04-26 11:29:42 | 骨で聴く巡礼旅
何とも金運に恵まれそうな神社の名前の金神神社ですが、知名度が低いため参拝者の数は少ないといえます。
どこに鎮座しているかというと、神奈川県川崎市麻生区で、小田急多摩線の五月台駅と栗平駅の中間地点です。高台の住宅街の外れのような場所です。



境内の下側から見上げると、まるで城跡のような雰囲気で、都内近郊の住宅街というイメージは全くありません。
しかもここへ至る道は、何とも分かりにくいといえます。決して複雑に道路を右折・左折を繰り返すわけではありません。しかし何の表示もなく、急な坂道を登り、住宅に囲まれた場所にいきなり現れる参道は、探そうと思わなければ見つけにくいといえます。



祭神は、天祖参神、金山比古命、金山比女命です。

天祖参神というと福岡県嘉麻市の社に鎮座していますが、天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神のことで、神典の巻首に載られし元始造物の大主神とされていて、なぜここに祀られているのか分かりません。
おそらく由来を調べればある程度は分かるのかもしれませんが、不思議な気分はそのままにしておいても良い気がします。

金山比古命と金山比女命は『古事記』にも登場する神です。

イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物から化生した男神と女神です。金属に関する技工を守護する神とされていますので、社名との関係が見えてきます。



注目すべきは側宮の福寿大黒天です。




大黒様・大国主命ですが、社殿の左側にある側宮に祀られていて、米三俵の上に乗っているのが珍しいといえます。
しかもこれは、江戸時代に青ケヤキの巨木を一木彫したもので、高さ7尺7寸(約2.3メートル)もあります。かなりの迫力があります。
国内随一の大きさと言われていますが、偽りなしの大きさに驚きます。



地元の人を除けば、わざわざ参拝に来る人がどれだけいるか分かりませんが、金運アップの願いだけでなく、この大黒天を見に来るだけでも価値のある神社です。まさに穴場的な神社です。


四面塔稲荷を骨で聴く

2016-04-25 11:45:40 | 骨で聴く巡礼旅
かつて四面の題目塔があったことから「四面塔稲荷」と呼ばれるようになり、交差点の名称にもなっていますが、正式には堤稲荷神社といいます。この神社は練馬区の西大泉に鎮座し、清戸道沿いです。

清戸道とは、江戸時代、江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道です。江戸川橋が起点で、北西へ約20キロ以上も続く道です。



境内は比較的広いものの、鎮守の森を形成しているわけではないので、広場のような印象すらあります。
社殿の棟札を見ると、「元治二年」と書かれているようなので、江戸時代末期の建築物といえそうです。
一間社、流造り、銅板葺きの小祠で、彫刻が随所に施され、よく見るとなかなか見ごたえがあります。

拝殿奥の覆屋内に建てられている本殿は平成9年に「西大泉の稲荷神社本殿」として練馬区有形文化財に登録されました。

実際の創建年代等は不詳で、江戸時代初期頃から祀られていたと伝えられていますから、歴史はある社です。

摂社に御嶽神社がありますが、面白いのはここも単独で道路側に鳥居があり、参道が続いている点です。





摂社と本殿の位置関係や広い境内など、何とも不思議な印書を持ちますが、この周囲を走るドライバーに道路を渡った先のセブンイレブンとともにランドマーク的な意味合いがあるのは事実です。
そんな四面塔稲荷を骨で聴きます。

米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットで古道沿いの音声を聞くと、かすかに古の旋律が聞こえてきそうです。
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溝口神社を骨で聞く

2016-04-22 10:44:56 | 骨で聴く巡礼旅
溝の口駅といえば東急田園都市線の主要駅であり、大井町線の始発駅でもあることから、乗降客も多い川崎市を代表する駅の一つといえるでしょう。駅周辺には商業施設も充実しているので活気がある街です。

そんな溝の口駅からわずかに徒歩5分程度の場所に溝口神社は鎮座しています。
2009年8月にこの街を訪れた際には、JRの武蔵溝ノ口駅しか取り上げませんでしたが、今回は「川崎の祈願所」といわれる溝口神社まで足を運びました。もちろん、いつものように米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットと一緒です。

 → 武蔵溝ノ口駅を骨で聴く

創立年代は不詳ですが、棟札よると、宝永5年(1709年)に武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されているそうなので、古社であることは間違いないでしょう。

江戸時代は神仏習合により、溝口村の鎮守・赤城大明神と称されていました。
赤城大明神といえば、現在の群馬県にある赤城山を信仰の中心として関東一帯に信仰圏を形成してきました。東京では神楽坂に鎮座する神社が有名です。




しかし明治維新後の神仏分離により、溝口村の総鎮守として祀るため、新たに伊勢神宮より御分霊を奉迎したことで、祭神を改めることになりました。この時に溝口神社と改称し、明治6年(1873年)幣帛共進村社に指定されました。

神木も立派で、気持ちの良い境内です。
ただ、都市部に鎮座しているせいか、それほどの広さはありません。参道もきれいに整備されましたが、神社らし神秘的な雰囲気というより、明るい公園のような雰囲気です。これはこれで街に馴染んでいる気がします。



わずか徒歩5分程度とはいえ、駅前の喧騒とは無縁な世界を形成している祈願所は、とにかく明るい雰囲気の神域です。
荘厳さや神秘性ではなく、まさにこの街の鎮守であり、人々の心に寄り添う場所だといえるのかもしれません。
そんな溝口神社を骨で聞きます。
米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットから聞こえるのは、さて、
実際にここで骨伝導体験をして、その音声をお聞きください。

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川崎市高津区・光明寺を骨で聴く

2016-04-21 12:43:46 | 骨で聴く巡礼旅
真宗大谷派の大悲山光明寺は、大山街道沿いにあります。現在は国道246号線がメインの街道になっていますから、この古い街道はまさに生活道路といった雰囲気ですので、街に溶け込んでいる感じの寺院です。

しかし、元から現在地にあったわけではなく、かつては二子村にあり、江戸初期の1669年(寛文9年)に移転したといわれています。
専造坊が元亀2年(1571年)に天台宗寺院から浄土真宗寺院へ改めたという記録もあり、実際の移転の時期も正確には不詳というのが正しいのかもしれません。



川崎市重要歴史記念物が光明寺にはあります。

絹本着色・浄土七高祖連座像 寛文12年(1672年)制作
絹本着色・親鸞聖人像 宝永2年(1705年)制作
絹本着色・聖徳太子像 寛文12十二年(1672年)制作

実物は見られませんでしたが、山門横に掲示されたもので説明がありました。




またここには大貫雪之助の墓があります。
明治20年(1887年)に橘樹郡高津村二子の大貫寅吉の次男として生まれ、第1高等学校在学中に文才を認められました。
の妹カノは後の岡本かの子で、ともに与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新詩社」に参加しました。東京帝国大学英文科在学中には、第2次「新思潮」の創刊にあたり、谷崎潤一郎・和辻哲郎・木村荘太・後藤末雄などと共に同人として活躍した人物です。

しかしその才能は若くして去りました。大学を卒業した年の大正元年(1912年)丹毒の病で急逝しました。

そんな光明寺を骨で聴きます。
耳だけでなく骨からダイレクトに聴覚神経に伝える骨伝導により、周囲の音声を聞きます。
やはり生活の音と、寺院ならではの静寂という名の雑音が伝わってきます。
米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットを使い、境内を出たあとで通信すると、それは世界最先端の騒音対策にもなります。

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豊玉南・富士稲荷神社を骨で聴く

2016-04-19 09:58:59 | 骨で聴く巡礼旅
練馬区の東端近くを南北に貫くのが環状七号線ですが、その南端の交差点から西に少し進んだ場所に児童公園があります。
道路側に公衆トイレもあることから、タクシーが横に停車している姿も多く見かけます。

この児童公園の敷地内に富士稲荷神社が鎮座しています。
鳥居から短い参道があり、社殿は小高い丘の上にあります。

きれいに整備されていて、気持ちの良い空間です。朱色も稲荷神社らしい鮮やかさを感じます。

富士稲荷神社という名称から考えると、おそらく富士塚が関係しているのではと思えてきます。しかし、これだけ小さな社なので、本格的に調べないと分かりません。

児童公園らしく子供たちの声が聞こえます。
保育園新設問題で、子供の声が騒音という話題がありましたが、元気な声が響いているのは何となく元気をもらえそうで、懐かしい気持ちにもなります。確かに静かに生活している人には雑音であり、迷惑な騒音かもしれません。
しかし、子供の元気な声が聞こえない社会というのも恐ろしく思えます。

やはりそんなときは骨伝導でしょう。
耳で聴くことだけでなく、骨からも聞くことを考えたら少しは状況が変わるでしょうか。
骨伝導ヘッドホン、ヘッドセット、骨伝導マイクなど、騒音対策としては抜群の威力を発揮します。
状況が異なるので、同じ威力はないかもしれません。でも、この機会に骨伝導について考えるのも良いのではないでしょうか。

震災により、レスキュー隊、自衛隊などの活躍の場が目立っています。
そういう場面でも耳を塞がない、あるいは騒音の中でも明瞭な通信を可能にする骨伝導の技術が活かされています。
ただし、その性能は米軍採用・特許技術のレベルでないと十分ではないでしょう。
そんな意味で、世界性先端の骨伝導技術を扱う製品は貴重です。→ 米軍採用・特許技術の骨伝導製品へ

八幡山八幡社を骨で聴く

2016-04-18 10:45:20 | 骨で聴く巡礼旅
東京世田谷区には八幡山という地名があります。
地名の由来としてかつて村だった頃に、村内にあった八幡神社が由来といわれていますが、実は定かではないようです。ただ、その八幡神社が今回訪れた八幡社です。



創建年代は不詳で、もと別当寺の東覚院の創建が室町時代とも鎌倉時代ともいわれ、八幡山八幡社も同時期の創建と推定されています。明治時代には村社に列格していました。



昭和47年11月に神殿・社務所、境内諸施設を新築して遷宮奉祝祭を執行しました。
八幡山八幡社は海防守護の神でですが、主神が文化や産業の振興につくされたことから繁栄と和平、つまり厄除開運の御神徳をたれ給う神として一般の崇敬をうけています。




かつては八幡山のこの周辺一帯は、烏山川が流れる緩やかな丘陵地だったようです。そのため、八幡山の近隣からは縄文中期の集落跡や、江戸時代の炭焼窯も発掘されています。八幡山遺跡と呼ばれています。
そういった意味で、古来より人々の生活拠点があり、様々な交流の行われた地域だったことが想像されます。

そんな場世に鎮座する神社ですから、現在の規模は小さいものの精神的な支えを持つ存在だったことだと予想されます。
現在は住宅街の一角になり、街のアクセントになっています。

周囲を骨で聴きます。
耳だけでなく、骨から聴覚神経へと音声を伝えます。骨伝導です。
単なる骨伝導ヘッドホンではなく、米軍採用・特許技術の世界最高レベルの性能のヘッドセットを使えば、何となく古来からの街の息吹が聞こえるような気がしたリします。

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東北寺を骨で聴く

2016-04-15 09:59:25 | 骨で聴く巡礼旅
熊本県を中心とした地域で非常に大きな地震が発生しました。マグニチュードは6.4で、熊本県益城町宮園では震度7を観測しました。その後も大きな余震が続いています。

関東の人間は、すぐに東日本大震災を思い出したはずです。
東日本大震災のときは、東北地方の太平洋側が壊滅的な被害を受けました。そのせいか、地震のニュースの一報が入るとすぐに東北地方のことを思い浮かべてしまうようになりました。

その東北という名称を持つ寺院が東京の広尾にあります。
広尾といえば、東京都内を代表する高級住宅街のひとつです。その一方で、意外にもオフィスビルも多く、天現寺交差点の近くには在日アメリカ海軍の施設、「ニュー山王ホテル」もあります。

そんな広尾の住宅街に東北寺はあります。
臨済宗妙心寺派寺院で、正式には禅河山東北寺です。



至道無難(俗名・相川源左衛門、延宝4年1676年没)が至道庵を営み、寛永6年麻布桜田町に創建したのが最初です。
上杉弾正大弼の室(法名生善院慶巌栄余)が中興開基となり、元禄9年(1696年)に現在地へ移転しました。
この時に寺号を東北寺に改めたといわれます。

東北寺には吉良上野介の正室だった富子の墓があります。
富子は、上杉定勝の四女として生まれ、万治元年(1658年)吉良上野介に嫁ぎました。あの松の廊下の刃傷事件後に、吉良家の屋敷は呉服橋から本所松阪町へ移されましたが、富子は上野介に同道せずに芝白金にある上杉家下屋敷へ移りました。
元禄15年(1702年)の討ち入りで上野介が死去すると、落飾して梅嶺院と号し、その菩提を弔い、2年後、上杉家下屋敷で死去しました。

別に観光要素のある寺院ではありませんが、閑静な住宅街の高台に墓地が広がり、都会の真ん中にありながら妙に一体化した印書を持ちます。




ここで周囲の音声を骨で聴きます。
幹線道路から離れているので喧騒とは無縁です。純粋に周囲の音声を耳だけでなく骨から脳へと伝えます。
米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットで癒し効果が増すようです。

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國領神社を骨で聴く

2016-04-13 12:28:57 | 骨で聴く巡礼旅
御神木の千年乃藤があることから「千年乃藤のお宮」とも呼ばれている國領神社へ、骨伝導ヘッドセットともに参拝です。
残念ながら藤は開花前でしたが、その分、他の参拝者の姿はなく、落ち着いて境内へと入れました。

調布市の甲州街道(国道20号線)に面していながら、これだけ見事な藤があるのも珍しといえます。
この藤の木は、樹齢約4~500年といわれています。
何でも、以前は大きな欅の木にからまり、現在の甲州街道の方まで延びて、藤の花を咲かし実を生らしていたそうです。
しかし落雷のために枯れていまい、代わりに藤の木を保護するために電柱を2本立てました。

藤の棚は昭和47年4月からです。
高さ約4メートル、面積約400平方メートルあり、棚一面に藤の枝が広がっています。



ところで肝心な神社ですが、もともとは、多摩川のほとりに鎮座していた第六天社と神明社の二社を合祀した際に、「國領神社」と総称されるようになった神社です。

第六天社は鎌倉時代の頃から鎮座していたようです。
薬師如来の守護神たる十二神将の中の第6番目に位する第六天神を祀り、薬師寺(現在の常性寺)の管理下にありましたが、寛永17年(1640年)頃に常性寺が移転することになり、第六天社も国領へ遷座しました。
神明社も薬師寺の管理下にあったことから、同じように遷座しました。

明治の神仏分離により、常性寺から分離され、明治4年(1871年)には旧社格で村社に列格しました。



交通量の激しい甲州街道に面しているため、境内は神社らしい荘厳さや静寂はありません。
やはり騒音と隣り合わせの神社には耳だけでなく骨で聴く骨伝導ヘッドセットが最適です。

米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともに訪れるてみてはいかがでしょうか。
藤の花ももうすぐです。
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笹塚観音を骨で聴く

2016-04-06 10:34:26 | 骨で聴く巡礼旅
東京の笹塚は渋谷区に属しますが、新宿から京王線でわずかに1駅、京王新線で3駅という場所にあるせいか、渋谷駅を中心とした商圏ではなく、新宿商圏という印象も持ちます。

そんな笹塚には活気のある商店街があります。
十号通り商店街がその代表例ですが、実はもうひとつ、観音通り商店街があります。
飲食店が多いというイメージがある商店街ですが、この通りの名称である「観音」というのを実は知りませんでした。

周囲に観音に関係する寺院があるわけではないので、不思議だったのですが、実際に商店街を歩いてみると簡単に謎が解けました。

江戸時代からあったという観音像が商店と軒を並べるようにありました。



奇跡のエピソードがあるそうです。

1945年(昭和20年)3月10日は東京大空襲の日でした。
当然のことながら笹塚も被害にあいました。空爆により笹塚の町は焦土と化しました。

悲惨にも焼き尽くされてしまった瓦礫の街でしたが、この観音像はほぼ無傷の状態で発見されたそうです。
生き残った街の人々にとって、絶望の中で見つけた奇跡の観音様、それは「希望」だったのかもしれません。
以来、笹塚観音はこの街を見守り、ここに暮らす人々には「希望」を脈々と繋いできたのかもしれません。

賑やかで活気のある商店街という意味では、十号通り商店街のほうが勝っています。
しかし観音様に守られた商店街には、何か言葉にできないメッセージが包まれた優しい空間のような気がします。
そんな笹塚観音を骨で聴きます。→ 世界最高技術の骨伝導製品

商店街に観音様の慈悲が伝わり、それを耳だけでなく骨でも聴くことで、よりこの街の魅力が伝わってくる感じがします。