いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

政治の責任とは。 what a responsibility of politics

2014-12-02 19:55:41 | 日記
 (1)政治の「責任」について考えさせられるやり取りがあった。2日の衆院選公示を控えての昨日の日本記者クラブでの党首討論会で野党から「12年衆院選では脱原発の方向を目指すと説明していた。今回の公約では原発を『重要なベースロード電源』としている」と指摘されたことに安倍首相は「すぐに(原発を)ゼロにするという『無責任』なことは言えない」と発言した。

 原発を「すぐにゼロにする」ことが「無責任」(irresponsibility)なことなのか考えさせられた。かっての自民党長期政権は原発の「安全神話」を勝手につくっておいて狭い地震、火山、豪雨災害国土に54基もの原発をグルリと日本を囲むように林立させて、すみ分け寡占体制の電力原発事業者の経営安定化路線のエネルギー政策を推進してきた。

 (2)政府は電力供給の安定化という呪文を唱えて巨大資本の電力原発事業の寡占独占化を支えて既得権益を享受してきた。安全だと言ってきた福島第一原発で東日本大震災による原発事故を引き起こして、地震、津波安全対策が不十分なことが判明した。

 結果として競合性のない高い電気料金を支払わされてきた国民であったが、福島第一原発事故による電力供給不足を招いて(東日本と西日本の電力変換システムの違いもあって融通できないこともあり)政府は一転電力自由化政策に方針転換をした。

 (3)原発による電力供給システムは、クリーンなエネルギー、環境時代を迎えて有効な手段ではあったが、安全性とともに将来の耐用性、廃炉処理問題の膨大なリスクも背負う「未完成」事業でもあった。

 クリーンなエネルギー、環境時代と災害リスクの比較低い欧米国際社会の原発依存潮流に乗って経済立国の日本も膨大な将来リスクの計画性、覚悟もない中で、原発依存を進めた結果の福島第一原発事故による地域、住民への膨大な被害影響となった。

 (4)原発事故後3年半以上が経過しても帰宅困難地域は残り、被害住民は全国に避難生活を強いられて賠償問題も解決をみせない事態だ。原発事業者による原発事故収束は計画が遅れて技術解決が出来ないでいる。

 原発すべて稼働しない今夏も電力供給不足、不安はなく、国民の中に節電協力意識も浸透している。国民の過半数は原発再稼働に反対しており再生可能エネルギーの代替エネルギー開発への関心も高く、原発をゼロにする社会的背景は備わってきており、政府が政策判断をする責任段階にきている。

 (5)ここで原発をゼロにすることが国民生活にとって「無責任」であるとはとても言えない状況である。
 ここまで来て原発をゼロにすることは、停止、廃炉処理を含めて大変な経済リスクを負うから「安全」を確認して原発稼働することの方がベターだという考えは、「安全神話」の間違った考えのくり返しであまりに唯物主義的で人間社会の安全に責任をとる方法論ではない。

 将来にわたって人間社会に禍根を残すことが「実証」されているものは、たとえ現在有効なものであっても取りやめてあたらしい方法論を開発実現するのが政治判断の「責任」だ。

 (6)危険を隣り合わせのガマンを国民に強いるのではなく、危険を取り除いて今は不都合でも将来の持続可能な(sustainability)方法論のためにガマンを強いるのが政治の「責任」だ。
 そのために間違っても安全(fail safe)の開発、研究、対策を進めるのが政治の責任(responsibility of politics)だ。

 安倍首相の言う「すぐに(原発を)ゼロにするという『無責任』なことは言えない」は独善、独断の野望発言であり、社会的状況、背景を見れば国民に目を向けている(生活安定)ようで国民の意思に反し、一部利益共有者にしか向いていない発言で国民生活に責任を持つ首相のそれではない。
 安倍首相の政治手法に共通する野望、野心政治(scheming politics)の危うさだ。

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