いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

裁判官の質と判決。 quality and decision of the court

2013-03-27 19:39:59 | 日記
 (1)裁判というのはそもそも「人」が「人」を裁く「不条理(unreasonableness)」な世界だが、社会基盤となる社会正義のパラダイム(paradigm)のためには仮に必要悪としてでも存在はしなければ社会は成立しない。

 司法がどれだけその使命、国民の期待に応えられるかがいつも問われている。近年の検察による証拠デッチ上げ、裁判官の不祥事(公序良俗違反)が続くと、スパイラル(spiral)に社会正義のパラダイムにも人が人を裁く不条理の限界も顔を出してくる。

 (2)昨年末の衆院選の1票の格差問題を巡って全国各地で起こされた訴訟裁判では、総じて最高裁判例に基づきその後猶予期間(1年半)を過ぎても国会改革が進まない事態を憂慮、加味して①違憲判決が続いているが、②それでも従来のように「違憲状態」判決もわずかにあり、選挙自体の有効、無効判断になると③違憲とは言えない、④違憲だが11月26日までの猶予(将来効判決)を認める、⑤最高裁判決確定で即、議員失職と裁判官の判断も多岐に分かれている。

 訴訟各地によって1票の格差状態が異なるとはいえ、最高裁判例による合憲許容範囲の「2倍未満」は超えているのがほとんどで、同じレベルの訴訟要件で裁判官(the court 合憲制)の裁量で判決内容がこれほどに異なるのは、社会正義のパラダイムの司法判断としては国民信頼性に欠けるものだ。

 (3)「1票の格差」訴訟は、たとえば証拠採用、被告の供述の取り扱いを巡って判断が分かれる(有罪・無罪)有人裁判と違って、国民が行使する基本的権利の選挙権の効果の平等性、公平性に関する司法判断だから、裁量の余地などないのが通常だ。

 合議制(確率論、統計論に裏打ちされた)とはいえ裁判官の裁量で多岐に判断が分かれるなどとは司法能力、基準、裁量権に問題があることともいえる。
 そのために制度上最終司法判断は唯一、最高裁判決に委ねられているものだが、司法全体の力量、現状(下級審判決の多岐分裂)を見れば、唯一最高裁判所裁判官の判断といえども、やはり人が人を裁く不条理性が支配していることをいやがうえでも認識させられる。

 (4)政府は法曹人口の充実を目指して司法試験制度を見直し、専門学的な法科大学院を設置して合格者3千人を目標に改革を進めてきたが、せいぜい合格者2千人程度に終始して、新司法試験合格率も低迷したままだ。

 全国の法科大学院の質、量に問題も生じてきており、今や整理統合に向けて再編成の方針を示している。今回の政府検討会議では、「裁判や法律相談の件数が予想ほど増えずに、3千人目標は現実性を欠く」(同中間とりまとめ案)として数値目標を設けないとした。

 (5)しかし、冒頭例の同一訴訟裁判での裁判官の判断の多岐分裂現象を考えるならば、検討されるべきなのは数値目標以前の法曹人の社会正義のパラダイム、信頼としての「質(quality)」の維持(教育、修習)が急務なのではないのか。

 また、「裁判や法律相談の件数が予想ほど増えず」と分析しているならば、当時裁判のかけ持ちで裁判官不足を理由に導入された「裁判員裁判」の見直しにも反映されるべきことだ。

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