オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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プッシャーに関する思いつき話(6):日本のプッシャー

2018年09月30日 20時53分18秒 | 歴史

◆巻きメダルという運営手法
sigmaは、プッシャーのプレイフィールドに、25枚、あるいは50枚のメダルを棒金状に巻いた「巻きメダル」を置き、これを落とすことを目標とさせる営業戦略を、少なくとも70年代半ばには既に行っていました。その「巻きメダル」の包み紙は、金と赤のストライプの地にスロットマシンのシンボルを散りばめたデザインで、かなりのプレミアム感を感じたものでした。

この手法をまねるオペレーターも多くいましたが、たいていは色セロファンに5枚~10枚程度のメダルを包んだ「おひねり」と呼ばれるものをプレイフィールドに数個置くというやりかたで、あまりおトク感はなかったように思います。「シルクハット」というゲームセンターを運営するマタハリーは、sigmaのように棒金状の巻きメダルを置いていましたが、その包み紙は質素だったので、気持ちの盛り上がりに欠けました。

余談ですが、80年代、sigmaは「The Derby MKIII」を購入したオペレーターに対してメダルゲーム場運営のノウハウを指導するというサービスを行っていました。マタハリーがこれを積極的に利用したのか、あるいは徹底的にsigmaを模倣したのかはわかりませんが、まるでsigmaの弟子のように見える時期がありました。

その後、プレイフィールドにメダルを積み上げて円形のタワーを作るオペレーターも現れました。見た目のインパクトは大きいのですが、タワーの作成にはかなりの時間がかかるので、後にタワーを簡単に作れるツールなどと言うものを売りだす関連業者も現れました。セガは、2016年に機械がタワーを自動的に作る「バベルのメダルタワー」というプッシャーを開発し、ヒットしています。

◆国産プッシャーの変遷
初の国産プッシャーは、セガが1974年に発売した「シルバー・フォールズ」になると思います。1983年には「ペニー・オーシャン」を発売していますが、この間に他のプッシャーは見当たりません。ただ一つ、「マジックミラクルハット」というプッシャーが1980年代の前半頃に出しているはずではありますが、残念ながら資料が見当たらず、詳しいことが思い出せません。メダルをプランジャーで発射し、搖動する帽子型のチャッカーに入るとプレイフィールド中央に配された帽子型のメダルプールから大量の(当時のレベルで)メダルがプレイフィールドに払い出されるというものでした。


左からシルバーフォールズ、ペニーオーシャン。

タイトーも、1975年に「ギャラクシー・フォールズ」、1982年に「ミステリー・ホールズ」、1986年に「ドリーミー・フォールズ」と、ポツポツとプッシャーを開発しています。


左からギャラクシー・フォールズ、ミステリー・ホールズ、ドリーミー・フォールズ。

タイトーは他にももう一つか二つのプッシャー作っていたと思うのですが、これも資料がなく、思い出せません。記憶にあるのは、おそらく80年前半~中ごろで、筐体上部の投入口からピンパネルに投入されたメダルはまず階段状のプレイフィールドを落ちていくのですが、場合によってはメダルはそこで滞留し、最下段の本来のプレイフィールドまで落ちないというものです。滞留したメダルは、以降に投入したメダルに押し出されることがあるので、場合によっては1枚投入したメダルで複数のメダルがメインのプレイフィールドに落ちるというところがミソでした。

90年代の初期、セガは「ゴールデン・ウェーブ」と「ウェスタン・ドリーム」を発売しました。左右に動くスタートチャッカーとすごろく形式のジャックポット機能を持つ「ウェスタン・ドリーム」は大ヒットしました。また、後からスタートチャッカ―の動作を利用したオリジナルのジャックポットギミックを作るオペレーターも多くいました。これ以降、日本のメーカーが開発するプッシャーは、「スタートチャッカー」と「(電光ルーレットやビデオスロットなどの)抽選機構」による「ジャックポット機構」が搭載されるのが標準となっていきました。


左より、セガのゴールデン・ウェーブ、ウェスタンドリーム。

1997年、コナミが発売した「ドラゴンパレス」は10席の大型プッシャーで、メダルが左右に動く櫛の歯状のチャッカ―を通るとビデオスロットが始動するという抽選機構を持っていました。ドラゴンパレスにはプログレッシブジャックポットが搭載され、最大で1000枚と言う、従来のプッシャーには例のない大量のメダルがプレイフィールドに払い出されることで、大きな人気を集めました。しかしドラゴンパレスには手持ちのメダルが少ないと十分に遊べないという欠点があり、やがてお金を払ってメダルを借りるプレイヤーは寄り付かず、大量の預けメダルを持っているプレイヤーだけが残るという状況になってきたため、この頃からメダルの値下げを行うロケがぽつぽつと出てくるようになっていきました。


コナミのドラゴンパレス。従来のプッシャーには無い破格のジャックポット機能を持っていた。

ジャックポット機構が一般化しても、プレイフィールドに巻きメダルやおひねりが置かれるオペレーションは相変わらず続けられていましたが、巻きメダルやおひねりの作成と補充は、オペレーターにとっては負担でした。そのため、某メーカーでは、巻きメダルを自動的に補充するプッシャーが提案されたこともあったとのことですが、巻きメダルの運営ポリシーは店舗ごとに異なるので汎用性が低いなどの理由で実現に至ることはありませんでした。

コナミが2001年に発売した10人用大型プッシャー「フォーチュン・オーブ」は、その問題に対するソリューションを搭載していました。すなわち、プレイフィールドに、巻きメダルの代わりにアクリル製のボールを置き、これを落とすと、落としたボールを使った物理的なルーレット抽選を行うというものです。ボールは自動的に機械内に回収され、ボールの補充はビデオスロットの結果によって自動的に行われるシステムは全く画期的で、オペレーターの利便性だけでなく、物理抽選が楽しいゲームとしてプレイヤーにも熱狂的に受け容れられ、爆発的にヒットしました。

「フォーチュン・オーブ」は、「チャッカ―めがけてメダルを投入する」という「ドラゴンパレス」のスタイルを踏襲しており、この2機種が立て続けに大ヒットしたため、その後に開発される大型プッシャーも、類似のゲームシステムを採用するようになっていきました。その結果、日本におけるプッシャーは、コインをチャッカ―に通してビデオスロットを回すことを目的とする、パチンコのセブン機と何ら変わることの無いゲームへと変貌しました

プッシャーを楽しむためには大量のメダルを必要とするようになると、多くのロケーションは客を繋ぎ止めるためにメダルの値下げを始めました。もともと1000円で50枚が相場だったメダルの貸出料金が、はじめのうちこそ1000円で80枚くらいに留まっていましたが、ライバル店舗と差を付けるために、やがて1000円で100枚、120枚、150枚と値下げ競争が始まり、そのうち3千円で1千枚、1万円で1万枚などと言う店まで出てきてしまいました。

メダルの単価が下がっても、メダルを湯水のように投入するプッシャーならばなんとか帳尻は合います。しかし、投入枚数に限界があるスロットマシンやビデオポーカーなど他のジャンルの機械では採算が取れません。その結果、オペレーターはプッシャー以外のゲーム機を買ってくれなくなりました。メーカーも、売れないとわかっている機械は開発できません。この状態がここ10数年ほど続いてきて、今、メダルゲームの新機種は殆どプッシャーか、現金を併用できる4号転用機(パチンコ、パチスロ)ばかりになっています。これは全く危機的な状況と言えます。

これに対するソリューションとして、例えば異なる単価のメダルを使用するなどの方法も理論的には考えられますが、ロケーションにとっては新たな設備投資を要し、負担は避けられません。また、プレイヤーの意識が追い付いてくるものかどうかという不安もあります。

プッシャーは、メダルゲームという市場を確かに発展させましたが、それは同時にカタストロフへの進行を加速させたようにも思います。業界が打てる次の一手は何になるのでしょうか。

(おわり)