オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場(5):ファクトチェック

2022年02月20日 17時23分53秒 | 風営機

「オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場」は、「この物語は実際の出来事を基に創作したフィクションです」と謳っている通り、断片的な事実を都合よくつなぎ合わせて創作したストーリーです。

この泡沫ブログでは無用な懸念かもしれませんが、よもやまさか創作部分が事実として伝承されることのないよう、本シリーズの最後は各エピソードのファクトチェックで締めくくっておきたいと思います。

エピソードの真偽の程度を表す記号の意味は以下の通りです。
◎:事実。
〇:事実だが改変あり。
△:証拠はないが状況から事実と推認しうる。
×:完全な創作。

なお、登場人物の会話は全て創作で、実在するミハイル・コーガン氏とレイモンド・レメヤー氏が、それぞれ広島弁、土佐弁を話していたという事実もありません。

第1幕:ジュークボックスで儲けちゃる
◎タイトーはジュークボックスの前にピーナツベンダーを酒場などに設置して稼いでいた。
×大東貿易が「もはや戦後ではない」と言われてからジュークボックスを始めている。
タイトーがウォッカやピーナツベンダーの扱いを開始した年は昭和28年(1953年)で、ジュークボックスを扱い始めたのは翌昭和29年(1954年)です。経済企画庁が経済白書に「もはや戦後ではない」と記したのはそれより後の昭和31年(1956年)ですから、物語の時系列が事実と異なっています。

◎タイトーが米軍払い下げのジュークボックスを修理してリースしていた。
◎米軍払下げのジュークボックスが払底し生産が覚束なくなった。
〇ジュークボックスで儲けたタイトーは広島、大阪、福岡、に営業所を新設した。
米軍払い下げのジュークボックスの部品を寄せ集めて1台に仕立て上げる「フルーツポンチ」が行われていた件と、のちに払い下げ品が払底して供給に間に合わなくなった件は、タイトーの社史本「遊びづくり四十年のあゆみ」に記載されています。
タイトーのジュークボックスビジネスが当初順調で、広島、大阪、福岡に営業所を作ったことは事実ですが、その具体的な時期はわかっていません。

◎自社製ジュークボックス「J40」は国産部品の品質が悪く、使い物にならなかった。
◎最終的にジュークボックスの国産化は断念し、米国AMI社から輸入した。
タイトーが国産ジュークボックス「ジュークJ40」を開発したのは昭和31年(1956年)ですが、国産部品の不良による故障が多く使い物にならず、結局国産化を断念したこともタイトーの社史本に記載されています。

〇津上製作所がAMIの機械を生産し、タイトーと市場の奪い合いとなった。
〇タイトーが米国シーバーグ社のジュークボックスを扱うようになった。
×タイトーがシーバーグに乗り換えたそのあとに津上製作所がAMI製品を生産した。
タイトーと津上製作所の間で熾烈なシェア争いが繰り広げられたのは事実ですが、津上製作所がAMI社製品のノックダウン生産を始めたのは、実はタイトーがAMI社製ジュークボックスの国内販売権を得たのと同じ年の昭和33年(1958年)です。従って、タイトーがシーバーグに乗り換えた後に津上製作所が後釜としてAMIを作りはじめたとするストーリーは事実と異なります。タイトーの公式ウェブサイトによれば、タイトーが米国シーバーグ社製品を扱うようになったのはAMIの販売権を得た4年後の昭和37年(1962年)とのことです。

第2幕:開発子会社設立とスロットマシン参入
×タイトーはセガに倣ってスロットマシンビジネスに参入した。
タイトーがスロットマシン製造に乗り出した動機は全く不明です。サービスゲームに倣ってスロットマシンビジネスに参入したとするストーリーを裏付ける証拠はありません。

◎「ローヤルクラウン」に「クラウン(CROWN)」のブランド名が付けられた。
〇タイトーが開発・製造を専門とする子会社「パシフィック工業(物語中はパン・パシフィック工業)」を設立した。
ローヤルクラウンにはパシフィック工業製品に付いている「CROWN」のブランド名と三本角の王冠型エンブレムが付いていますが、実在するパシフィック工業が初めてローヤルクラウンを製造したのがいつかはわかっていません。

パシフィック工業の設立年は、タイトーの公式ウェブサイトではオリンピアが風営許可を得る前年の昭和38年(1963年)としています。しかし、パシフィック工業が当初からスキルストップボタン付きのオリンピアを作る目的でセガの機械をコピーしていたとは考えにくく、またタイトーの社史本では「(オリンピアは)1960年ころから準備して」と言っていることから、物語ではパン・パシフィック工業の設立時期を1960年ころとして、ストップボタンが付かないローヤルクラウンを先に作ったことにしています。

△ローヤルクラウンはセガのスターシリーズを無断コピーして作られた。
海外に現存するローヤルクラウンのオーナーの言によると、ローヤルクラウンの中身はスターシリーズ同様ミルズ社製と互換性があり、またローヤルクラウンをセガ製品と誤解、または推測しているケースも見られ、証拠はなくともコピーであること自体は疑いようがありません。ただし、そのコピーがセガの許諾を取った上である可能性を否定する証拠はありません。

×ミハイルがローヤルクラウン試作一号機の筐体デザインを変えさせた。
ローヤルクラウンの筐体デザインがなぜあのようになったのかも含めて、ローヤルクラウン開発現場の描写はすべて創作です。

第3幕:仁義なき戦い(前編)
×タイトーはローヤルクラウンが売れなかったので7号市場を目指した。
第2幕のファクトチェックでも述べたとおり、ローヤルクラウンが作られた時期は不明です。従って、これをオリンピアに流用したとするストーリーは創作です。

〇タイトーが苦労して風俗営業の許可を取得した。
タイトーの社史本には「苦労して風営七号許可を取るや」との記述がありますが、その苦労の内容は伝わっておらず、警察の担当官に買収まがいの饗応もしたとのエピソードは創作です。

◎タイトーがサービスゲームズのオリンピア追随に激怒して他社に抗議した。
〇サービスゲームズ(セガ)がタイトーの尻馬に乗ってきた。
タイトーの社史本では、タイトーがオリンピアに便乗してきた「日本娯楽物産などの他社」に抗議したと述べられています。物語では大東貿易が抗議した先をサービスゲームズとしていますが、当時のサービスゲームズは日本娯楽物産と日本機械製造に分裂していたか、もしくは日本娯楽物産を存続会社として日本機械製造と再統合していたか、あるいは既にセガ・エンタープライゼスを名乗っていた時期です(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(1)まずは過去記事から概説)。

実在のサービスゲームズの母体となる「レメヤー・アンド・スチュワート」は、「レイモンド・レメヤー」と「リチャード・スチュワート」という二人の人物の名前から来ており、後にスチュワートが率いる「日本娯楽物産」とレメヤーが率いる「日本機械製造」に分かれます。物語ではサービスゲームズの社長をレメヤーとしていますが、スチュワートとした方が事実に近かったかもしれません。

◎サービスゲームズが賄賂などの不正でアジア圏の米軍基地に深く食い込んでいた。
セガが日本を含むアジア圏の米軍基地の担当官を賄賂や接待で抱き込んでいたのは事実で、他にも軍事物資に偽装して輸入した物資をダミー会社を通じて民間に横流しするなどの不正行為もしており、そのためセガは米軍から出入り禁止とされたこともありました。(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(2) 4つの「Service Games」)。

△サービスゲームズが英国のディストリビューターと手を組んでいた。
現存するローヤルクラウンに英国の通貨単位でデノミを表示している個体があるため、大東貿易は英国市場も視野に入れていたというストーリーにしています。しかし、セガが英国のディストリビューターと手を組んでいたことは事実ですが、その時期がこれ以前からなのか、それとももっと後になってからの話なのかは分かっていません。

第4幕:仁義なき戦い(後編)
◎セガはミルズから金型と権利を買い取っていた。
セガがミルズからスロットマシンの金型と権利を買っていたことは事実です。これは、1951年に米国で成立したジョンソン法と呼ばれるスロットマシンを規制する法律のため、ミルズが売却したものと思われます(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1)。

◎タイトーとセガで「株式会社オリンピア」を設立した。
×セガがタイトーに株式会社オリンピアの構想を持ち掛けた。
×タイトーとセガのオリンピアの生産能力(タイトー月産80台、セガ300台以上)。
「株式会社オリンピア」ができたこと自体は事実ですが、その経緯は全く不明で、設立年も伝わっていません。セガ側が提案しタイトーが飲んだというストーリーは創作です。物語中のタイトーとサービスゲームズの生産能力も、ストーリーの整合性を保つために適当と思われる数字を設定したもので、事実ではありません。

〇オリンピア機の製造をセガ、販売と運営は主にタイトーが行った。
製造をセガ、販売運営を主にタイトーが受け持つとしたことは、一般には事実であると認識されているようです。しかし、セガもタイトーも、株式会社オリンピアの枠外で積極的に販売していたように見受けられる節もあります。

×セガはローヤルクラウンに対する権利を放棄した。
セガがローヤルクラウンのロイヤリティを放棄したという話は創作です。実際どうであったかは不明です。

タイトーの社史本「遊びづくり四十年のあゆみ」P.63に掲載されているオリンピアのロケーション風景。キャプションには「昭和39年」とあるが、筐体はセガのスターシリーズで、筐体の右上には株式会社オリンピアのエンブレムも見えており、社史本の記載内容にはいろいろと矛盾が感じられる。

第5幕:仁義なき戦い(エピローグ)
×大東貿易とサービスゲームズ双方の思惑はすべて創作。
エピローグでは、タイトーとセガが最終的に株式会社オリンピアで協業したという事実を説明するために、ストーリーをでっちあげました。逆にタイトーの方から協業を持ちかけるというストーリーも考えましたが、ミハイルの抗議など馬耳東風でも良かったはずのサービスゲームズがこれを飲む、説得力を持つ理由が思いつかず、結局こうなりました。

タイトーは「株式会社オリンピア」設立後の1968年に、ローヤルクラウンを含む自社製品の広告を米国の業界誌に掲載していることは確認できています。しかし米国のスロットマシン市場は、払出装置にホッパーを搭載してスロットマシンに革命を起こしたバーリー製のスロットマシンが市場を席巻しており(関連記事:米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(2))、ローヤルクラウンが多少なりとも普及したことを示す事実は、状況証拠すら見当たりません。レメヤーに「あんなもんどうせ売れんき」と言わせているのもそんな状況に基づいています。

****************
「オリンピア・たぶんこうだったんじゃないか劇場」はこれにて完結です。主要登場人物には、キャラクターを立たせる演出の目的で方言をしゃべらさせていますが、ワタシが漫画で学んだそれら方言はネイティブの方々から見ればおそらくかなりでたらめであろうと思われ、気分を害された方々にはお詫び申し上げるとともに、当然ながら方言を揶揄する意図は無いことを申し添えておきたいと思います。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (tom)
2022-02-20 20:58:45
超大作大変読み応えがありました。

本音や建て前なども入り乱れていて面白かったです。

nazoさん、N○K脚本家の素質もお持ちでは?

またの連載を楽しみましています、
返信する
Unknown (nazox2016)
2022-02-20 23:27:01
tomさん、お久しぶりです。お楽しみいただけたと聞いて胸をなでおろしています。
「チコちゃんに叱られる」があればこそ、こんなラノベもどきも作れましたw
史実を交えたフィクションを考えるのは面白いですが、リアリティを残すのは結構難しいものですね。
返信する

コメントを投稿