パチンコ機の大手メーカー、三共がその公式ファンサイトに掲載している「SANKYOヒストリー」と言うページは資料として有用で、しばしば参照させてもらっています。77年以前の機種については画像が殆どなく、機種の説明が付いているものも少ないですが、それでもそのような機種があったことが記録されているだけでもありがたいことです。
この「SANKYOヒストリー」の1977年に掲載されている「ブレンド」は、ワタシの記憶に強く残る機種です。
三共のファンサイトの「SANKYOヒストリー」より、「ブレンド」のページのスクリーンショット。
しかしウェブページの画像は小さく、ディテールがよくわかりません。どこかに大きな画像はないかとかねがね探していたところ、最近、拙ブログではおなじみのCaitlynの助けで入手できた何冊かのパチンコ業界誌「プレイグラフ」の1978年1月号に、「ブレンド赤坂」の広告が掲載されていました。
パチンコ業界誌「プレイグラフ」1978年1月号の「ブレンド赤坂」の広告から、本体画像の部分。
画像を見比べると、「ブレンド」と「ブレンド赤坂」は異なる機種のようですが、ワタシが実際に見て遊んでいたのは「ブレンド赤坂」の方です。「ブレンド赤坂」は結構あちこちのパチンコ店で見かけましたが、「ブレンド」は見たことがありません。「ブレンド赤坂」は、盤面中央に3リールのスロットマシンが付いており、天穴に球が入るとリールが回り始めます。百発皿の下にはそれぞれにリールに対応した3つのスキルストップボタンが付いており、これによってリールの回転を停め、絵柄の組み合わせによって開くチューリップの数が変わります。
同じく「プレイグラフ」1978年3月号に掲載された「ブレンド赤坂」機種の紹介記事(上下二分割)。
ただ、三共のファンサイトの記述中、「(ブレンドが)インベーダーゲームの大流行によって大きな危機を迎えていた中で誕生した(要約)」とある部分は気になります。
「インベーダーブーム」が発生したのは1978年の終わりに近い時期で、その社会への影響力は「猛烈な超大型台風」並みにすさまじく、客足を奪われた7号業界は「娯楽の王様」の地位から滑り落ちるほどの極めて深刻な被害を被りました。
しかし、「ブレンド」や「ブレンド赤坂」が売り出された時期はそれよりも1年ほど早い1977年です。その頃、ビデオゲーム界では既にブロック崩しや風船割りゲームが流行していたので、パチンコ業界も時代に取り残されないように電子ゲームを採り入れようとする動きがあったとは思います。しかし、その時点のビデオゲームはまだパチンコ業界を脅かす存在ではなかったはずです。
「ブレンド」、及び「ブレンド赤坂」が後に「フィーバー」に姿を変えてインベーダーゲームを凌ぐ大ブームを巻き起こし、インベーダーブームが下火になったことも手伝ってパチンコが再び「娯楽の王様」に返り咲いたのは1980年のことでした。