前回に引き続き「パチンコ・パチスロ産業フェア2002(以下、PPフェア)で公開されていた「パチンコのルーツを探る」と言うパネル展示から、今回は昭和30年代(1955-1964)のパチンコ事情の展示をご紹介します。
日本のいわゆる「高度経済成長期」が始まったのは、一般には1954年とされているので、昭和30年代と言えばその真っただ中です。昭和31年(1956年)には、国民総生産(GNP)が戦前の水準を超えたことから、経済企画庁が作成した経済白書には「もはや戦後ではない」と記述され、これは流行語にもなったそうです。
とは言うものの、一般国民の生活の向上は経済の成長を追いかける形になるので、まだその恩恵が行き届かない地域も多くありました。ワタシが小学校に上がるのは次の10年の世代(昭和40年代)でしたが、その時点でも依然として「出稼ぎ」とか「三ちゃん農業」、あるいは「集団就職」など、都市部と地方の格差をうかがわせる言葉が社会科の教科書に残っていました。また、経済成長の恩恵を早い段階で享受する都市部であっても、一学級約40名の中には電話がない家庭の子弟が数名程度ですが残されているなど、まだまだ発展途上段階と言うべきだと思います。
今回ご紹介する「昭和30年代」とはつまりそういう時代でしたが、パチンコはまだ十分に豊かとは言えない国民にとって「ささやかな娯楽」として人気があったようです。
シマの中の手作業/昭和30年代 補給球を手で行っていた時代の女性従業員の多くは、シマの中で作業した。1シマに最低1名は中に入っていた。
当時は、賞球の補充は人の手で行われており、シマ(背中合わせに設置された一連のパチンコ台)の内側には従業員が入り、賞球を補充したり、賞球が出ないなどの客のクレームに対応していました。「ねえちゃん、出ないよ」と、客がシマの中にいる女性従業員に呼びかけるシーンは、当時のパチンコを象徴する風景としてその後のマンガや映画などでしばしば描かれました。
廃棄台解体作業/昭和30年代 昭和30年前半まで、中古市場に回らない廃棄台は郊外に野積みにされ、解体業者が金属部品を取り除いていた。木枠は当時児童用の机やいすに再製されて、山間地の小学校に寄贈されたりした。
写真のキャプションには「昭和30年前半(55-60年)まで」とありますが、その35-40年後の90年代半ばにも廃棄台の不法投棄が大きな社会問題となっています。今その問題はどうなっているんだろう。それはともかくとして、廃材が机やいすに作り替えられて山間地の小学校に寄贈されたという話も、当時の地域格差をうかがわせます。
おしぼりサービス/昭和30年代 求人難とはいえ、過当競争化だけにサービスは欠かせない。手洗い場の傍らに「おしぼり提供」係もいた。
高度成長に伴い、主要産業の求人は継続的に増加しており、末端の娯楽産業に過ぎないパチンコ店は求人難でしたが、パチンコの需要は高かったようです。
海水浴場にも遊技場/昭和30年代 江の島片瀬海岸に登場した遊技場。入賞率は悪いが、終日を砂浜で過ごす人々には、一時の息抜きができて好評だった。
50年代後半からは一般家庭にも家電製品が普及し始めました。生活を便利にする三つの家電、すなわちテレビ、冷蔵庫、洗濯機は「三種の神器」と称され、一家に一台欲しいものとされました。この、そこそこ人がいる海水浴場の画像からは、戦後の荒廃でその日を生きるのに精いっぱいだった日本人にもようやくレジャーに参加する余裕が生じてきたことが見てとれます。でも、英国や米国などのビーチリゾートにはゲームアーケードが付き物であったことを考えれば、海水浴場にパチンコがあっても不思議ではないのですが、やはり少し奇異な印象は得ます。
賞品球補給装置/昭和30年代 昭和30年代までは遊技場は求人難にあえいでいた。その対応策として機械化が強く求められ、最大課題の賞品球補給システムが考案され登場した。
高度成長で発達しつつあったオートメーション化の波はパチンコにもやってきました。おそらくこの無数のホースの1本1本がそれぞれ異なる台につながり、賞球を送り込んでいたものと思われます。それにしても、途中で玉つまりを起こしたりしなかったものか心配になります。また、玉が流れているホースはかなりの重量になると思われ、詰まったホースを流そうと持ち上げてもなかなか持ち上がらないこともあったのではないかと言う懸念も感じます。
ところで、補充の必要が生じた台につながるホースの始端にどういう仕組みで補充球を流していたのか、どなたかご存じの方はいらっしゃいませんでしょうか。
福祉事業協会/昭和36年 景品の売(注:「買」の誤字)人や暴力団の介入を排除するため、大阪では三店方式と呼ぶシステムを導入。社会福祉事業協会が設立され、公認景品買取所がお目見えした。
三店方式の「三店」とは、パチンコ店、公認景品買取所、それに景品の卸業者の三つの事業者のことです。公認景品買取所は「社会福祉事業協会」が取り仕切り、景品買取所を寡婦などの雇用に利用することで福祉に貢献するという理屈でした。
客が獲得した景品を買人(ばいにん)が買い取って現金化する「景品買い」が始まったのは、「パチンコの歴史(溝上憲文著・1999年・晩聲社刊)」によると、「連発機」が登場した昭和20年代終わりころかららしいです。景品を安く買い取ってよそで高く転売するという法の裏をかいたこの商売にはすぐに暴力団が目を付け、脅しや嫌がらせによって無理やり巻き込んだパチンコ店との間で換金用の景品を還流させるルートを構築するようになりました。
パチンコは換金をしないことでギャンブルではないとしていたはずです。しかし、客が獲得した景品を売却する(現金化する)ことを妨げる理屈はありません。三店方式は、景品の還流ルートから暴力団を排除するための苦肉の策でしたが、現在もなお矛盾を抱えたシステムとして常に議論の対象となってしまっています。
次回、昭和40年代以降(最終回)につづく
【2021/8/30】追加情報アリ!
【号外】「PPフェア2002より昭和のパチンコ(4):昭和30年代」の補完情報
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